二十一話 るりと初デート ~失われた記憶~
ガタン、ゴトン――
冥府と現世の狭間を走っているはずなのに、なぜかそんな音が響く幽霊列車に揺られながら……
(さっきの臨海公園での俺は……普通じゃなかった)
移動中の俺は、左腕にるりのぬくもりを感じながらも、先程の自身の異変について考えを巡らせていた。
落ち着いて、事態を客観的に見れば、自ずと答えは出てくるはずだ。
先程の俺の異変を受けて、ルリは明らかに嬉しがるような態度を見せていた。
つまりそれは……ルリが求めていた反応、ということになる。確証はないが、それに近いものであることには違いないだろう。
では、ルリの求めている俺の反応とは何か。そんなものは一つしか思い浮かばない。
在りし日の、なかしときくんごさい。記憶を失う前の俺だ。
ということは、先程の俺の行動が、偶然あの頃の俺のしそうな行動と一致したのか?
(偶然……では、ないだろうな)
ある日突然あの頃の記憶が、ということなら偶然で片付けられるかもしれないが……ススキが原と境臨海公園は、どちらも俺とルリにとって特別な意味合いを持つ場所だ。
実際にその場所に、過去の再現をするようにルリと共に訪れたことで、昔の記憶を思い出したという可能性は十分に考えられる。
ならば俺は、ルリと共に過ごしていることで、徐々に記憶を取り戻しつつある、ということなのだろうか……?
個人的には、俺の記憶はなんらかの魔術的な要因によって失くしたものだと思っていたから、これは驚きだ。
それも……ルリが過去に起こったことについて教えてくれれば済む話なのだが、教えてくれないのだからしょうがない。
だから今はただ、このデートを楽しもう。
ルリ曰く、次で最後。
過去の思い出の地を巡る突発的に発生した今日のデートは、佳境に差し掛かっていた。
☽
そうして着いた場所に、足を踏み入れた時、俺は戦慄にも近い驚きを覚えた。
ここは……この場所は――
「月科区の端にある広い水郷公園。地元なんだから、当然知ってるよね?」
ルリの説明に、おかしな点はない。ここは月科区の公園で、俺にとってもとても馴染み深い場所……であったはずの場所。
――ここには、来ることはなかった。記憶を失って以来、どうしてもこの公園には行きたいとは思えなかったから。自然と心と足が別の方向を向いて、この場所から目を背け続けていた――
「ここは……どんな場所なんだ。俺たちにとって……」
思い出すのは、俺がルリの記憶を失った直後だと思われる、灰色の景色。
――なぜいらいらするのか分からない。なぜこんなにも悲しいのか分からない。だけれど、何か大事なものを失ってしまった――それだけは分かる。それだから、僕の胸の中はこんなにも苦しい気持ちでいっぱいなんだ――
そんな気持ちで訪れた、最初の場所。だってここは――
「ここで、よく遊んだんだよ。トキがどこまで覚えてて、どこまで忘れてるのか分からないけど…… ボクたちは岩手で会ってから、すぐにこっちに来たでしょ? 月科にいた時、トキと待ち合せたり、一緒に遊んでたりしたのが、ここなんだよ」
――僕とルリだけの、秘密の場所だから――
――僕たちだけの、特別な場所だから――
溢れ出す気持ちに従ってルリの後ろを歩き、そこへ向かう。
雑木林と低木により巧みに隠された、秘密の小道。
月日が流れ、背丈が伸びた俺の視界から見るその道は昔にも益して窮屈に思える。
しばらく歩くと、視界が開けた。
「……ただいま」
小さな声で、ルリが呟いた。
若く青い草が生えた草原に、喨喨たるせせらぎの音を俺の耳まで運んでくる小川。鱗粉を光らせて宙を舞うアゲハに、色とりどりの花々。
この場所だけが、時間が止まったように変わっていなかった。
「そうだ……あの椅子は」
「椅子? ……そういえば、キャンプ用の折り畳み式のチェアを買って、ここに置いておいたね。あれのこと?」
「ああ。……やっぱり、あの青いのはルリのか」
軽い調子で頷くルリに、拍子抜けしてしまう。
昔の俺、あれを前にして感情がジェットコースター並みに乱高下してたのに……。
「……? その言い方、もしかしてトキ、ボクと離れ離れになってから、ここに来たことがあるの?」
「……一回だけな」
「そうなんだ」
ルリは何でもない風に返事して、その場に仰向けで寝ころんだ。
「うおっ――」
で、その際に俺の腕を引っ張ってたものだから……俺もルリと一緒になって、原っぱのベッドに横臥してしまった。
暖かな春の日差しが、俺とルリを照らす。
「…………」
「…………」
野原に心地よい静寂が満ちる。
ルリが頭を横に向けて、俺に笑いかけてくる。
そして、右腕をこちらに伸ばしてきて……その小さく白いやわらかな手で、俺の手を、しっかりと握った。
「大きくなったね」
ルリが、俺の手の感触を確かめるように撫でつつ、そうつぶやく。
「昔はボクと、そんなに変わらなかったのに。すっかり追い越されちゃった」
いかにも幼馴染らしいセリフを吐いて、ルリは……
「……知りたいって言ったよね。トキ」
決心したように、俺に問うてくる。
何を、などとわざわざ聞くことはない。当然、7年前のことだ。
「ああ。それと……中史の魔術のことも、な」
「同じことだよ」
と、ルリは言って……
右眼から首筋にかけて、黄金に輝く月の紋様を浮かび上がらせる。
改めて、見間違いでないことが分かる……中史だけが使える魔術、《月痕》。
「ふふ。トキ、この事も忘れちゃったんだ」
ルリの《月痕》が、ひときわ強く輝くと――
「こ、これは…………!?」
驚いたことに……黄金の光に共鳴するように、俺の御魂がひとりでに魔術を行使し始める。
《月痕》だ。
ルリと同じように、俺の右眼から首筋までの間にも、紺碧色に染められた《月痕》の紋様ができあがった。
「お揃いだね」
などと、微笑むルリが……
俺との間に空いていた微妙な距離を詰めるように、こちらにごろんと転がってきた。
そして手だけでなく……脚や胸まで、全身を俺に密着させてきて――っ!
「ル、ルリっ……!?」
ルリの顔が、すぐ近くまで迫ってきた。肌にルリの甘い吐息がかかっているのが分かってしまう。
しかも……胸にぎゅっと押し付けられるような、この感触は……! 服の上からじゃ、ないも同然だったから油断してたが……確かに、あった――! ひかえめに女の子を主張する柔らかさが、ゼロ距離になったことによって伝わってくる。
「トキ……ボクの眼を見て」
ルリは、そんな俺の動揺を知ってか知らずか……そんなことを言ってくる。
「眼……?」
言われた通り、ルリの黄金に光る右眼に視線をやると……
ルリは、ぐいっ、と俺にさらに顔を近づけてくる。
「お、おい……っ」
一瞬、キスでもされるのかと思ったが……違った。
いや、これも広義ではキスに入るのかもしれない……
すり、すり……。
ルリがその温かく餅みたいにやわらかな頬を、俺の頬にこすりつけてくる。
まばゆい光を発する二つの魔眼が……ぴったりと重なった。
黄金の右眼と、紺碧の右眼での、キスだ。
「……!」
その刹那、人体を形作る魔力である、『直霊』――異世界では外体魂などと呼ばれていた部分の魔力が、激しく荒ぶりはじめた……!
「落ち着いて、トキ」
俺にとって最も安心できる声音で、そう言われて……俺は取り乱すことなくルリの話に耳を傾けることができた。
「《月痕》は……こうすることで、他人に分け与えることができる。トキが教えてくれたことだよ?」
紺碧の瞳に映る、黄金の瞳――
黄金の眼に映る、紺碧の眼――
二つが混ざり合い、その間には――確かに大量の魔力が行きかっている。
――と、ルリが俺の眼から顔を離していった。
「ボクの《月痕》は、7年前にトキから分け与えてもらった力」
「俺が、ルリに中史の魔術を与えたってことか……でも、なんでだ」
《月痕》は、数ある中史の魔術の中でも秘術の一つに数えられる、強力なものだ。武士の台頭により争いの絶えない世となった鎌倉時代においては、門外不出――《月痕》を使う場合、それを見た者は必ず殺せとすら言われてきた魔術だ。
それをいったいどんな事情があって、いくら恋人だったとはいえ、中史ではないルリに与えたんだ――?
「そうする必要があったから」
「必要……」
「うん。トキは、『中史』の家に生まれたから……昔から、命を狙われて生きてきたよね。日常的に魔術の飛び交う世界で、ずっと」
「ああ……中史氏は、古来から血の気の多い魔術師を束ね、纏め上げる役目を負ってたからな。当然反発も生まれて、中史を恨むようになる魔術師の家も多い」
そう……中史は魔術師として、倭国大乱の時代から延々とその魔力を以て、天照大御神の子孫――天子に仕え、日本を支えてきた一族だ。
だが、それが何の関係が……
「ボクも……同じだったんだよ」
「え……?」
「中史と同じように……て言うと、ちょっと大げさだけど。ある集団から、なぜか空波家は狙われてた」
「ある集団?」
「それは今でも、よく分からない。けど、狙われてるのは確かだった。だからボクは、自分で自分の身を守る必要があった。そのためにトキは、ボクに《月痕》の力をくれたんだよ」
「ちょ、ちょっと待て……」
矢継ぎ早に告げられる言葉に、理解が追い付かない。しかしルリは俺の制止も聞かずに、その語りをやめない。
「それで、ボクも《月痕》が使えるようになって――魔術師達を追い払うのは、だいぶ楽になったんだ。まあ、扱いが難しかったから、強敵相手だと使う隙を与えてくれなかったんだけどね」
そして――
「でも――それでもある日、ボクはミスをした。ボクの命を狙う魔術師相手に不覚を取って、殺されそうになった」
突然告げられた事実に、俺は絶句する。
「そこで、トキが庇ってくれた――ボクの代わりに攻撃を受けた」
過去に起こった悲劇、その真実をルリは口にする。
「ボクを庇ったトキは、頭に強い衝撃を受けた。いっぱい血を流して、意識不明の重体――魔術師はなんとか追い払えたけど、トキはそのまま入院」
それは、家族からも聞かされたことのない話だった。
「意識を取り戻して、病院で目を覚ましたトキは――ボクのことを、全部忘れてた」
俺はすぐにはその話が信じられずに、ただ呆然と広い空を見上げていた。
「…………」
俺は何を言えばいいのか……何と声を掛けていいのか分からず、押し黙ってしまう。
気づけばすっかり日は暮れて、空は茜色に染まっている。
二羽のカラスが、カーカーと鳴きながらお互い寄り添うようにして空を翔けている。
頭の中に、比翼の鳥という言葉が過っては消えた。
その後、ルリはずっと黙って空を見上げていた。
俺は俺で、どうすることもできず――困り果てているうちに、とうとう完全に日が落ちてしまった。
どこか釈然としない、暗澹たる気持ちを抱えたまま――俺とルリは、その野原を去った。
とき「大事な人、忘れたくない人、忘れちゃダメな人」




