十三話 わずかな変化
輝夜と共に帰路に着くのはこれでもう三度目だ。つまり輝夜がこの世界にきて四日目……と考えて、すぐにその思考をどこか果てに追いやる。
そうやって、当たり前の日々であるはずのワンシーンを切り取って何日目だとか数えるのは、輝夜がこの世界にいることを殊更に不思議なことだと言っているようじゃないか。
流離世界で輝夜は言った。自分を、俺の世界に連れていけ、と。
ならば俺はその願いを叶えなければいけない。この世界に来てどうするのか……それを輝夜がなかなか言い出さないのも、きっと最近の違和感、つまり輝夜が輝夜としてこの世界に溶け込もうとしている証左なのだ。
だから俺はただ輝夜と帰路に着いた、と言っておく。
『ただいま』
偶然ハモって、それを面白がった輝夜が微笑みながら洗面台へと向かっていった。
リビングのソファでは、母さんが眠っていた。気持ちよさそうに……というよりかはどこかぐったりした様子で……そう、血の気が抜けたような顔をしている。
「…………ん……」
人の気配を感じてか、母さんが身じろぎする。
起こしても悪いかと思い踵を返したが、
「おかえり、トキ」
少し遅かったようだ。
「ふあ、あぁー……」
大きなあくびをしながらごしごしと目を擦る様子は冗談抜きで女児にしか見えない。父さんは間違いなくロリコンなんだろう。その血が俺に受け継がれていないことを祈るばかりである。
「何してたの」
「ん? 料理!」
見れば、目を擦っているその小さな指先には何枚かの絆創膏が張られている。
「……もしかして寝てたのって」
「多分、貧血? なんか指切りすぎて、気持ち悪くなっちゃったからソファで休んでたのよ」
母さんもめげない人である。
父さん曰く、学生時代からずっとこうして料理の練習をしているんだとか。
数年前、トーストで食パンを焼くのに成功していた母さんを見て父さんが大号泣していて、少し引いた。
「父さんは今日も遅いよな。夕飯はまた俺が作るよ」
「ん、お願い。いつか私も、料理できるようになるから、それまでね」
「コゲばっかり食べて癌になりたくはないから、やっぱり俺がつくるよ」
「親に対する口の利き方じゃないと思うわ!」
怒り心頭の母さんは拗ねるように、再びソファに身を横たえて寝てしまった。そういうところが親としてイマイチ尊敬しきれないところなんだよなぁ……。
☽
「わ、分かったわ! ①が斑状組織で、②が等粒状組織よ!」
「違う。逆だ」
「な、なんで……?」
「写真とつくりの色をよく見てみろよ。火山岩はマグマが地表近くで急速に冷やされてできたものだから、深成岩に比べて色が薄――」
「あーあー分からないわ! そんなのどっちだって同じよ! それよりも古文、古文をやるわ!」
輝夜には飛鳥時代の記憶が備わっているので、上古の古文知識が一通り頭に入っている。
「ズルしようとするな。古典よりも、慣れるのに一番時間がかかる英語をやろう」
「あのわけわからない文字見てると、なんだか眠くなってくるのよ……」
「まずはアルファベットを覚えような」
「うー……」
食後。日課になりつつある輝夜の勉強会だ。
この世界で暮らしていくにあたり、日本語は話せるとはいえ異世界人である輝夜にはいろいろと常識や一般教養が不足している。いや、不足なんて表現は生ぬるい。皆無だ。
だから毎日こうして、まずは簡単な四則演算やらを教えているわけだが……
「バカじゃないんだけどな……」
輝夜はなんでも吞み込みが早い。最初は小学生レベルのテキストを何冊か買って解かせたら、そもそも覚えていないとどうにもならない暗記科目を除けば好成績だった。ので、これは中学レベルに上げても早すぎることはないと判断し、今、こうして解かせている。
だが、一般常識がないというのは予想以上にハンデだった。
例えば今、輝夜がうんうん頭を悩ませていた中学理科の問題だって、この世界で生まれ十数年間生きてきた人間なら、経験則からなんとなく解けるようなものなのだ。それが輝夜にはない。
輝夜をこの世界の住人にしたはいいものの、今後についてはノープランと言っていい。これから大学に進むのか、どうするのか。どちらにせよ、せめて義務教育の範囲は履修していないと現代社会で生きていくのはなかなかにキツいものがある。
最悪の場合、中史が保護するという手もあるんだが……それはなるべく避けたい。輝夜には、中史とは縁のない未来を掴んでほしいから。
「わ、わぁっつゆあねーむ」
「中史トキ……じゃなくて、お前はこれからどうしたい? この先もずっとこうしてるわけには――」
……いかない、と言おうとしたところで、『お風呂が沸きました』と台所から声がした。
「……風呂沸いたぞ、輝夜」
「トキ、先に入っていいわ。私はもう少し、勉強してる」
なんだかんだ真面目な奴だ。
☽
入浴後、脱衣所にてバスタオルで濡れた髪を拭いていると、現代人の癖として持ってきていたスマホの通知音が鳴った。なおも髪を拭きながら、目線だけスマホの画面にやって……その手が止まった。
相手の名前は『るり』。昨日の昼にLINEを交換した、ルリからだった。
その名前を見た途端、全身の毛がぶわっと逆立つような感覚にとらわれた。帰宅して一時忘れていた熱い思いが再び込み上げ、俺から冷静さを奪っていく。
あるいはそれは、恋と呼べる感情なのかもしれない。
そう錯覚してしまうまでに、俺の御魂は奮い立っている。
きっとこれもすべて……幼馴染、だから。
外側は底冷えするような凍えを訴えているのに、いざそこに手を突っ込んでみたら、内側はぐつぐつと音を立てる熱いマグマで煮え滾っている。恐怖心と安心感が同居した、不思議な場所。
俺は、この感情を知っている。なぜだかそう思った。
メッセージの内容はこうだった。
『明日は9:00に如月駅! 遅れないでね。
今日までのボクの行動が、ただの好意の押し付けだったのは、ちゃんと分かってるつもりだよ。
だから明日は、トキに、もう一回ボクのことを好きになってもらうから! 楽しみにしてて!』
感情が振り切れて、思わずスマホを投げ出しそうになった。
濡れた髪は時間が経って冷たくなっているはずなのに、頭がどうにも熱くなってしかたがない。
やけになって、普段以上に力任せにごしごしとバスタオルで髪を拭く。
初めて抱く感情なら、もっと戸惑っていた。むしろ、そうであってほしかった。
多分これは、小さい頃に一度味わって、通り過ぎた気持ちだから……すんなりと俺の心に定着して、馴染んで、すぐに溶け込んでしまう。
「――……トキ? ねえ、トキ」
苛立ちにも似たどうにもならない昂ぶり。
もうとっくに髪は乾いているのに、俺はいつまでもバスタオルを動かし続けている。
こうしていないと、代わりに大声を上げてしまいそうだったから。
「ねえ……トキ? 次、私が――」
ドライヤーで乾かすもの億劫で、すぐに部屋に戻って寝てしまいたい。
明日は遅刻するわけにはいかない。
「え、ちょっとトキ、止まって、前――」
俺は頭にかぶせたバスタオルもそのままに、脱衣所を後に――
「ん――うぉぁっ⁉」
「きゃっ⁉」
なにかとぶつかった。……何かというか、人。いつの間にか目の前に現れていた、輝夜と。
脱衣所の狭い空間でもつれ合った俺と輝夜は――そのままそこに転倒してしまったらしい。
なんとか手をついて、輝夜をつぶしてしまうようなことはなかったが……
俺は今、輝夜に覆いかぶさったような態勢になっている。
「わ、悪い。ちょっと考え事してたんだ。痛むところはないか?」
「………………………………」
そうして覗き込んだ、輝夜の顔が……間近にあって、ついドキリとしてしまう。
長いまつげと、黒曜石の瞳の中で、なにかキラキラと光る星のようなものが瞬いている。それが部屋の照明だということに気づくまで、数秒を要したほどだ。
パンツ一丁で美少女に覆い被さるという大変マズイ絵面なので、急いで立ち上がろうと足に力を入れる。
「すぐにどくから」
「………………………………」
「…………輝夜?」
不審に思って、声をかける。
先程から、輝夜だけ時間が止まったように動かない。
「………………………………っ」
ただ驚いた顔で、俺を見ている。
まるで輝夜の時間だけが、静止しているようだ。
「おい、輝夜? どうした。やっぱり、どこか打ったか」
「…………っ……な」
「ん?」
「………………なんでもないっ…………なんでもないから……っ」
そう言って、輝夜は――なぜかりんご飴のように真っ赤に染められた顔を、ぷいっと俺から、背けてしまった。
メインヒロインのハズが妙にキャラの薄かった輝夜に、ついに変化が――?




