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八話    喪失

 ――いつからそうしていたのか分からない。けど、気づいたら僕は一人だった。


 肌にまとわりつくような蒸し暑さと、じーじーとうるさい蝉時雨が僕の思考の邪魔をする。

 アスファルトの上を働き蟻が列をなして進行している。

 どこまでいくのだろう。そんな疑問は、照りつける日差しの眩しさの中に消えた。体から残りカスが絞り出されたように、頬を伝った汗が地面にシミを作っていく。


 残酷なまでに広々とした空が僕を見下ろしていた。


 雲なんて一つもない。どこまでも続く空。遥かな天を仰いで、思う。ああ――それに比べて、僕はなんてちっぽけなのか……と。

 ――――……

 

「あああああっ!」


 急に心の中を搔き回されたような感覚に襲われて、思わず走り出す。


 展開される景色は、見慣れた住宅地。馴染みある通学路。僕の住む町、月科区を走る。


 ただ走る。なにかに追われているわけではない。誰かと足の速さを競っているわけでもない。

 多分、行先はどこでもよかった。この疾走は移動の手段ではないからだ。

 ただむしゃくしゃする気持ちなんとかしたくて、ただ体の中を暴れ回る感情を抑えつけたくて、ひたすら走った。


 着いたのは公園だった。背丈の高い草が生い茂る水郷公園。僕  がよく来る、お気に入りの場所。


 僕のスタミナは無尽蔵だ。全力で走って底をついた体力は、もう回復した。

 何も考えずとも、足は自然とあの場所に向く。


 僕   しか知らない、秘密の野原。

 むわっとした草いきれに顔をしかめながらも、雑木林の中に隠された通路をゆく。


 しばらく進むと視界が開けた。

 一面が緑で囲まれた自然の庭。色とりどりの花々が咲き誇り、その周辺をアゲハ蝶が翅を羽ばたかせて飛んでいる。耳を澄ませば、川のせせらぎに交じって、遠くからかすかにアブラゼミの鳴き声が聞こえるのが、今はむしろ心地いい。


 何か嫌なことがあった時は、ここに来る。


 ごろんと仰向けに寝転がる。自然、僕の目には洋々と広がる海がまたもや映る。

 あの海を泳ぎたいと思って手を伸ばすけど、全然届かない。ぐっと力を入れても、何も変わらない。


「……」


 蝉の音が止んだ。


 ……おかしい。

 こんなに素晴らしい景色を見ているのに。こんなに晴れ晴れとした空に、身をゆだねてるというのに。


 ……僕の心を、正体不明の喪失感が襲う。

 憩いの場であるべきはずの風景が、僕に胸を裂くような痛みを与える。

 

 心当たりは、何もなかった。ただただ、悲しかった。



 ――――僕はなにか、なくしものをしたんだろうか?



 ふと沸いた疑問に、僕は謎の引っ掛かりを覚えた。

 いけない。この感覚を、忘れちゃいけない。

 僕の頭の片隅で弱弱しく声を上げるこの違和感を、無視しちゃいけない。これはそんななにかの、一かけらだ。


 ずっと、ずっと覚えていなきゃいけないものだ――。


「……そうだ」


 おもむろな動作で起き上がって、僕が懐から取り出したのは一冊の文庫本だった。

 どうしても気分が晴れないし、本でも読もう。これは元々そういう時のために持ってきていたものだ。


 ここには、僕   しか立ち入らない。だから、キャンプなんかで使う折り畳み式の椅子――アウトドアチェアを、茂みの影に隠してある。


 僕はそれを引っ張り出してくるために、がさがさと茂みをかき分けた。


「――……ぇ」


 凄まじい逆風が吹きつけた。……そんな錯覚がした。

 夏だというのに、全身に鳥肌が立った。


 分からない……何か分からない、だけれどもとてもとても強い気持ちが、心の内から込み上げてくる。


 そこに置いてあったのは、二つのアウトドアチェア。二つ寄り添い合うように、青と、緑のが一つずつ放置されていた。

 緑のは僕のだ。いつも使っていて、見覚えもちゃんとある。


 じゃあ……青いのは? 誰のだろう。僕のじゃない。

 そもそもこの場には僕   しか――僕   だけが……?


 ほんとに?

 いや違う。これは否定しなくちゃならない、峻拒しなくちゃいけない。

 だってそうだ。これは僕のじゃなくて、この椅子を使ってるのは……使ってるのは――


「…………あぇ?」


 視界がぼやけて揺れた。それで、自分は泣いているのだと分かった。

 寸前まで出かけたものが、何か強い力によって堰き止められる。

 何重にも巻かれた縄が僕の心を縛り付ける。

 どうしようもなくて、全身から力が抜けてしまう。精神がすり減るようなやるせなさが僕を貫いた。


「ち……ちがう」


 ごしごしと目をぬぐうけど、涙は止まってはくれない。

 なんで。男なのに、泣くなんてみっともない。今すぐ泣き止まなきゃいけない、のに……

 ツンと痛くなった鼻をすすって、拳を握りしめる。


 この椅子は、だって……だから、この場所は、僕たちだけの秘密の庭だったから……


「僕たち……僕、たち、だ。なのに!」


 言葉にするのに、消えていく。糸がほつれるように曖昧な感覚が、溶けていく。

 一生懸命掬っても、すぐ指の隙間からこぼれてなくなってしまう。

 固い紐で束ねても、次の瞬間にはバラバラに飛んでいってしまう。


 それは確かにあったはずなのに。ずっとここにいたはずなのに。


 手繰り寄せても、手繰り寄せても。

 彼女が微笑むことはない。


 なんで……僕がなにをしたんだ。普通に暮らして、パパとママと、月科で……あれ? 


 ………………。


 あれ。


 …………。


 そうだ。


 ……。

 

 家族三人、平和で幸せな日々。


 ――なにも、おかしなことはないんじゃないか?

 

 思ったのは一瞬だった。

 

「……っ⁉︎」


 視界が真っ赤に染まる。それは怒りだったかもしれない。あるいは悲しみだったかもしれない。

 思わずその場でのたうち回ってしまいたくなるほどの、激しい罪悪感に苛まれた。


 心にぽっかり空いた穴を埋めるように、自らを責め立てる数々の罵倒が浮かんでは沈む。名前も分からないような負の感情が溢れて、どうにかなりそうだった。


「…………だけ……は。……これ、だけは」


 覚束ない足取りと、震える両手で、青のアウトドアチェアを掴む。


「――――ぁ」


 僕が影を抱きしめると、それは力を入れた瞬間に霞となって、どこかへ消えてなくなってしまった。ギリギリのところで繋ぎとめていたものが解き放たれていく。もう大分影との距離ができてしまった気がした。


 するとどうだろう。さっきまでの激情が嘘のように、僕の心は平穏を取り戻していく。


 覚えていた違和感は、取り除かれた。

 何に懊悩していたのか、分からない。


 辺りを見回すけど、ついに不審な点は見つけることができなかった。


 懐に抱えられた青の椅子は、もはやただの椅子にしか思えない。


 森の涼しい風が吹き抜ける。それに合わせて、僕は深呼吸をした。

 とりあえずこれは持って帰ろう。あって困るものではない。


 再び鳴き出したアブラゼミの声を背に、僕はこの日、この庭を去った。

 なんとなく、もうここには来たくないと思った。再びここに来るとしたら、その時はきっと――――


 そうして僕の中から、影は姿をくらました。

 もうどこを探しても、見つかることはないだろう。

 それは失くしてしまった、彼方の記憶――

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