七話 わずかな変化
中史時はどうして中史時なんだろう。それは中史刻と中史赤鴇が子に中史時と名付けたからだ。ではなぜ中史刻は中史刻なんだろう。それは中史忠時(祖父)が子に中史刻と名付けたからだ。ではなぜ以下略。それは数十代飛んで鎌倉時代の中史光時が子に以下略。では以下略。それは神代に初代中史・月乎比支志志於命が以下略。以下略。月読命以下略。伊邪那岐命以下略。
無限後退。永遠に続く命題。終わりのない論法。それは無。
「うーん、完全にトリップしてるね。ヤクキメてもこうはならないよ」
無であるということ。
それは宇宙の真理なのかもしれない。
そのことに俺は気づくことができた。
つまり俺は無である。
だとしたら、俺は宇宙なのかもしれない。
「顔が死んでるな。蘆屋、頼めるか」
高きから低きへと。
連綿と紡がれてきた無数の粒子。
真なる空間。無なる時。中史時。
この星も中史時。あの星も中史時。世界が俺であふれている。なんという地獄絵図だ。いや、地獄も絵図も俺なのだからその表現は間違っている。なんという中史時だ。
「……任された」
そう、俺は――私は中史時なのだ。日本の長い歴史と共に生きてきた古い氏ぞ――――――ゴキュッ。
バキバキバキッ。
ドゴッ。
ギギィ~――。
……。
ん?
あれ。なんか急に視界が暗くなったぞ。真なる存在である我の視界を覆う深き闇が……それに呼吸がしづらくて息が苦しい。ふむ。もっと言えば、心臓部に圧迫されたような痛みが――――痛み? いた、いや痛い、痛い痛くて刺すような熱いぃあああああああああああああああああ――――
「――――――――っは⁉」
「お、跳ね上がった」
「陸に打ち上げられた魚か」
世界が明るくなる。網膜が光を取り戻すと、そこは教室だった。
視界に映っているのは見知った友人たち。
「あ……あれ」
どうしてだか、俺は教室の後ろで横たわっていた。
起き上がろうとするも、体に力が入らない。
「……アズマ」
「なに?」
「今は何年の何月だ」
「タイムスリップした人じゃん」
混乱してつい意味のない質問をしてしまった。
思い出す。今は四月九日木曜日だ。
この間まで異世界で勇者をやっていて、二日前に帰ってきた。
そしてここは芦原高校。今日は朝から学校で授業を受けていて、そこに転校生の空波るりが――――
「――――ぐはっ」
そこまで回顧して、胸が締め付けられたような思いになる。
「へぇ、そういう反応するんだ」
「あのトキがな。珍しいこともあるものだ」
物珍し気な目で、ニタニタ気持ち悪い笑みを浮かべる悪友が二人。
「なんだよ……」
「なんだもなにも、分かってるよね。さっきの空波さんとのやり取りだよ」
「僕と月見里さんに挟まれていたのに、気づいていなかったのだろう?」
う……確かに。そういえば俺の両隣、ミズと輝夜じゃん。二人の前であのやり取りしてたのかよ、俺。
「トキと空波さん二人だけの世界、って感じだったね」
「面白いからしばらく眺めていたら、突然空波さんが教室から退出した。その後、お前は死んだような無表情で微動だにしなかったのでね」
言われて思い出す。そうだ……あのあとすぐにルリが出てって、あいつが言った言葉の意味を考えてたんだ。そしたら脳が焼き切れた。
「話しかけても応答がなかったから、襲に肉体言語での対話を頼んだんだよ」
なるほど。それで首から下の感覚がないのか。
「《稀月》」
廊下に一般生徒がいないことを確認してから、治癒魔術を自身に掛ける。
地に足がついた(物理)。
「……便利な魔術。……弾痕も治せる?」
「外傷にはあんまり効果はないな。治せるけど、俺のは遅い」
「……ふうん」
だからって蘆屋、アズマにむやみに風穴開けていいことにはならないからな。気をつけろよ。
「……それで、本当にどうしたんだトキ。動揺……というのは違うが、呆けていたぞ」
「別に大したことじゃない。お前らも聞いてただろ、俺はどうやら幼馴染と再会したらしい」
「らしい……って、そっか。……記憶ないんだっけ」
アズマが周囲に注意を払いつつ、声のトーンを落として訊いてくる。
俺が記憶喪失であることは、こいつらには話してある。別に口止めするように言ったわけではないが、なんとなく人に聞かせちゃいけないと判断して、気を利かせてくれたんだな。
「聞かない方がいい?」
「いやだから何も覚えてないんだって。複雑な事情もなにも、話せるようなことは何もないんだよ」
こっちもルリの意味深な言葉に混乱している最中なので、そう言い返すと……
「……? なんだトキ。冗談のつもりだったが、本当に動揺してるのか?」
とかなんとか、俺の雑な対応を訝しんだミズが訊いてくる。
どうやら今の俺の対応は、ミズから見て不自然なものだったらしい。
「は? 動揺……? してるわけないだろそんなの。だいたいこっちはルリのこと何も知らないんだから、好きとか嫌いとか以前の問題だろ。会ったばっかの奴にちょっとそれっぽいこと言われて動揺するほど俺も子供じゃないんだよ、そもそも昔の話だろ、あれだ、幼馴染キャラにありがちな『大人になったら結婚しよう』ってやつだろアレ。アレが許されるのはエロゲの中だけなんだから、それに俺が動揺するわけないんだぞ」
「説得力」
やれやれ、とアズマは肩をすくめながら自席に戻っていった。丁度始業のチャイムが鳴ったので、ミズと蘆屋も俺の席から離れていく。ミズは隣の席だけど。
するとタイミングを見計らっていたかのように、ルリが教室に戻ってくる。
彼女は俺を見つけると、えへへ、と笑ってこっちに手を振ってきた。ので、俺もなんとなく振り返す。
……空波るり。自称幼馴染。俺の記憶を持っているかもしれない人物。
そんな彼女が――なぜ、今。このタイミングで芦校に転校してきたのだろう。
なにか事情があったのか。あったんだろう。じゃなきゃもっと早く俺に会いに――否、俺が記憶喪失になったところで、俺の傍から離れる理由がない。
俺が四年間のことをきれいさっぱり忘れた瞬間、そこにルリはいなかった。
ならばやはり、ルリは……俺の記憶を知っているだけではなく、俺が記憶を失った理由そのものと関係している可能性が高い。
「…………」
そこまで考えて、俺は……
俺は……自らの記憶を取り戻したいんだろうか。などと、今更すぎる自問をする。
参考として、思い浮かべるのは輝夜。
あいつは当初、自身の記憶を欲していた。それが自分が存在しているということの証明になるから。自らの拠り所を、記憶に見出そうとしていたから。だからあんなに悲痛な表情を浮かべて、宙へと手を伸ばしたのだ。
今はその欲望が『月見里輝夜』という名前を手に入れたことで、満たされているというだけで。
なら、俺は?
俺は現状、何不自由ない人生を送れている。あの記憶がなくて困ったことなんてないし、必死になって記憶を取り戻そうとしたことなんて……それは、あったが。あったが、すでに踏ん切りのついたことだ。消えた中史時、昔の記憶。それらとすべて決別して未来を生きるのだと、俺はある時、心に決めた。
つまるところあの記憶は、俺にとってはもう『過去』のことなのだ。
その記憶が今、皮肉なまでに具体的な像を結んで、俺の前に現れた。おそらくは昔と変わらないのだろう調子で俺に声をかけ、俺に向けて笑った。
どうしてこんなにも悩んでいるのか、分からない。
変に小難しく考えずに、『俺には美少女幼馴染がいたのかヒャッホーイ! 昔のこととかよく分かんねぇけどまたよろしくなルリ!』とバカ丸出しではしゃぐことができたら、どんなにいいか。
今は少しいろいろと、間が悪いんだ。
過去とは折り合いをつけたつもりだ、今の俺には、今の俺の生活がある。
やらなければならないことも、たくさんある。高校生として、魔術師として、中史として。
直近では、そう。隣に座る輝夜の面倒を見る必要が――――
「………………トキ」
その、輝夜が……なんか、捨てられた子犬みたいな目でこっちを見ていた。ぼーっとなにを考えているのか分からない表情で、俺の名前をぽつりと呟いた。
……なに? こいつのそんな顔初めて見たんだけど。輝夜なんて大体悲しんでるか笑ってるかの怪人二面相だったんだぞ。なんでそんな、しゅんってしてるの。
「…………」
そういえばこいつ、さっきの会話で一言も喋らなかったな。その場にはいたのに。完全に霊圧が消えてた。
「……なんだよ」
「………………ぁ、え? なに? どうしたの?」
呼びかけてみると、パッと表情を変えた輝夜が、首を傾げた。
いや、『なに?』じゃなくて。むしろこっちがなんなのか聞いたんだが……輝夜はほんとうにどうして声をかけられたのか分からないらしい。いつもの純真無垢な瞳で、俺をじっと見つめているだけだ。
さっきの表情は……無自覚だったのか? なんか俺の名前まで呼んでたけど。
なんか用があって呼んだんじゃないのか。
(うっ…………)
お、そしてそこそこ長い時間美少女と見つめ合ってたことで……女性恐怖症の御魂が反応したらしい。吐き気が込み上げてきた。女嫌いを克服したかと思ったが、やっぱりルリが特別だったんだな。ゲロゲロ。




