二十九話 中史の始祖
☾中史 時☽
やがて魔術はただの魔力に戻り、アクアラクナに再び静寂が訪れた。
焼け焦げて黒くなったクラインは、どうやら気絶しているようだ。
「トキっ! 召喚士さん……じゃなくて、メフィ!」「勇者様!」
クラインが動かなくなったことを確認した二人が、こちらに駆け寄ってくる。
「大丈夫だった?」
「ああ。俺もメフィも無事だ」
輝夜とセルキーが安堵の表情を浮かべるのを見てから、メフィに訊ねる。
「メフィ……今の魔術は」
最高潮に高まった魔力をすべて使って放たれた、メフィの魔術。
上級魔法でないことは確かだ。
「お前、あんなの使えたのか?」
「い、いえ……自分でも、驚いてます。どうしてか分かりませんが、今なら使える、って思ったんです」
メフィ自身、あの魔術に困惑しているようで、胸に手を当てて心当たりを探している風だ。
「ミッドナイト卿は……」
「しばらく起きないだろうな」
「そうですか……よかっ――」
そこまで言って、メフィの身体から、急に力が抜けたようになる。
顔から地面に倒れそうになったところを抱き止め、その御魂に目を向ける。
「魔力が空っぽだ。あの魔術で、全部使い切ったんだな」
「そう……みたいです……」
「おとなしくしてれば、魔力も戻る。今は寝てろ」
保健室の時同様、メフィにそう促すが……
「いえ……そんなわけにはいきません……。だって勇者様、これから元の世界に帰るんですよね……? お別れの時に私だけ寝ているなんて、そんなの嫌です……!」
全身を酷い倦怠感と疲労感に襲われているだろうメフィは、しかし気力だけでその場に立って見せた。
そう言ってくれるのは、素直に嬉しいけどな。
「なら、やっぱり寝てろ。……どの道、俺は当分元の世界には帰れなさそうだ」
「え?」
俺はセルキーに目を向ける。
彼女は申し訳なさそうに俯き、その表情には影が差していた。
「ごめんなさい……」
謝罪する彼女の……その後方。
部屋の外には、いつのまにかにクラインとの戦闘の野次馬に来た人魚達が、ざっと三十人。
一部始終を見ていた彼女達からは、わずかに警戒の色が表れている。
その警戒心の矛先は……女王たるセルキーを殺害しようとしたクライン、ではなく。いや……半分はそうなんだが……
もっと広範囲に、人間。警戒の対象には、俺やメフィ、輝夜も含まれている。
事情を知らない人魚達にとっては、クラインも俺らも、等しく「人間」でしかないのだ。
そして、元々奴隷売買の件で、人魚の人類へのイメージは悪いという前提がある。
つまり今の彼女達には、俺らはアクアラクナに厄介ごとを持ち込んできた部外者としか映っていない、ということだ。
「恩返しをするって言ったのに……結局、何もできません……」
「そんなに落ち込むなよ。セルキーは悪くない」
こんな状況で、アクアラクナの女王であるセルキーが俺たちに加担するような行為――例えば俺を元の世界に帰す、なんてことをしたら……今度はセルキーへの信用が落ちる番だ。
国民の目がある今、セルキーは何もすることが――俺を元の世界に帰すことが、できない。
「そういうことだから、メフィ。俺はもうしばらく、この世界に留まることになりそうだよ」
「そう……ですか」
そんな事情を知ったメフィは……嬉しいような悲しいような、何とも言えない表情をする。
「輝夜もいいか?」
「うん! 私も、メフィともっと遊びたいわ!」
輝夜がそう答える、が……
(…………な……)
俺の意識は、まったく別のところに惹きつけられていた。
(な……なんだ……!)
空気……水流……違う。
魔力だ。
場の魔力が、おかしいぞ……! まるで台風でも起こったかのように、荒れ狂って……
(これは……まさか……ッ!)
「だからセルキーさん、私とトキが帰れないからって、そんなに落ち込まな――」
――『その心配はない』
突如、アクアラクナの湖底に声が響き渡った。
「なにっ⁉」
輝夜が驚き、声を上げる。
俺たちは、キョロキョロと辺りを見回すが……野次馬の人魚の他には、誰もいない。
「だ、誰ですか……?」「人魚さんたち、じゃないですよね……?」
……ドクン……!
(この声……)
混乱する、三人をよそに……
今の声、俺の聞き間違いじゃなければ――と、俺の頭の中には、ある人物の像が浮かび上がる。
(しかも……)
その予想を裏付けるように、辺り一帯から感じられる魔力は。
この強大な魔力は……間違いない。
もっとも、この魔力はこの場では俺しか感じ取ることができていないだろう。
だがそれは、魔力量が少ないから、ではない。
その逆だ。
魔力が大きすぎて……並みの人間には、そこにあることを認識することすらできないんだ。
それほどまでに莫大な魔力が、湖中に広まっている。
――『迎えに来た』
再びどこからか声が響く。
「……っ⁉」
……ドクン、ドクンドクンドクン……!
その声に共鳴するように、その音に共振するように、俺の御魂が激しく暴れ回り、魔力の流れが大きく乱れる。
「……トキ?」
俺の異変に気が付いた輝夜が、心配そうな顔を向ける。
「……大丈夫だ。それより」
「ど、どこにいるんですか? 用があるなら、姿を見せてください!」
メフィが杖を構えて、周囲を警戒する。
『ここ』
「「「⁉」」」
間近から発された声に、俺を除いた三人が一斉に身を引いた。
瞬間――いや、瞬きの時間すら要さぬうちに、そいつは虚空から現れた。
実体が姿を現した途端、その身から放出された夥しい量の魔力が、アクアラクナを覆いつくす。
指先から零れ落ちる魔力だけで、世界水晶の御魂すら霞ませるそいつは……
宇宙をあまねく吸い込んだような、ところどころ銀が混じった紺色のハーフアップ。どこを見ているのかわからない、望月のごとき金色の瞳。
能面のような無表情に、超然的な魔力を纏った御魂。
藍色のシルクの領巾(羽衣のようなものだ)を靡かせ、腹部を露出した友禅染の改造着物に身長130cmほどの身を包んだ……幼女。
『トキ、迎えに来た』
俺の名前を呼び……
「お前、なんで……」
『此方が後胤の身を案ずるは、おかしなこと?』
俺のことを、後胤――子孫、と。そう呼ぶこいつは――
「……ツクヨミ」
――月読命。
日本神話に登場する、月と夜を司る女神であり――中史氏の、祖神。俺の――中史時の、始祖にあたる神様だった。
「勇者様……誰ですか? この子」
俺の反応から、ツクヨミと俺に面識があると見たか、メフィが問い質す。
「説明するのは面倒くさいけど……俺の、ご先祖様だよ。ツクヨミだ」
『然りや。此方は、月読命。トキの先つ祖』
舌足らずであどけない、けれども抑揚のない声音で淡々と言葉を発するツクヨミ。
「人間とは思えない魔力を秘めてるけど……神様なのね?」
魔力を込めた眼を向けて、輝夜が呟く。
この場に現れたことで、輝夜にもツクヨミの魔力が感じ取れるようになったようだ。
『うん。トキは、此方の後胤――』
石膏のような無表情のまま、無垢な短い返事をしたツクヨミは……
『トキ……!』
「お、おい……」
空中をふわふわと浮きながら、こちらに寄ってきて……ぽふ。俺の腹に顔をうずめて、まるで本当の幼児のように甘えてくる。
『ちゃんと会えてよかった』
わたあめのような声質と、読み上げBOTのような抑揚のない声音で。
難しい話はどうでもいい、と。
シリアスな雰囲気は嫌だ、と。
そう言わんばかり甘えぶりだ。もしかしたらこいつは、神でもなんでもないただの女児かもしれない。
「えっと……とりあえず、味方ってことでいいんですよね。いきなりこの場所に現れたのも、不意打ち狙いとかではなく」
未だクライン戦の余韻が残っているらしいメフィが、確認するように俺に訊ねる。
「ああ。……急にここに出てきたタネは、見たままだ。瞬間移動」
神の有する御魂は、人のそれとはそもそもの性質が異なり、その神にしか扱えない大魔術――『神術』というものが存在する。
ツクヨミの瞬間移動も、その神術の一つ。
離れた時空間を魔力で無理やりつなぎ合わせ、自らの御魂を転移させるという力業だ。
日本の神であるはずのツクヨミが流離世界にいるのも、その時空間転移の神術を使ったためだろう。
「迎えに来たって言ったな、ツクヨミ。それは、俺をこの世界から、元の世界に帰すって意味で受け取っていいのか?」
なぜ、俺がこの世界にいることを知っていた? なぜ、この場所が分かった? なぜ、このタイミングで来た?
考えれば謎は尽きないが、別に警戒するような相手でもないので、落ち着いてまずは「迎えに来た」発言の真意を確かめる。
『うん。帰ろ、トキ。刻も待ってる』
中史刻。俺の父さんだ。
息子に自分と同じ読みの名前を付けている事実から察してくれると助かるが、頭がおかしい。
……が、まあそんなことはどうでもいいので、置いておいて。
「せめてクラインの対処は、しておきたいんだが……」
泡を吹いて倒れているクラインに視線を飛ばす。
このボロ雑巾を信頼できる公的権力に引き渡してからではないと、メフィもセレスティア国民も安心できないだろう。
「それは、僕たちに任せてくれ」
背後から声がかかる。
振り向くと、そこに立っていたのは黒髪黒目の冒険者……アレックスだ。ロクサネもいる。
「アレックス。……なんでここにいるんだ?」
「君の始祖と名乗る女神様に、ここに来るように頼まれたんだ」
「ツクヨミに?」
隣でふわふわ浮いている幼神を見ると、コクン。頷いて、説明を始める。
『トキのこと、ずっと見てた。今この時空間には、此の者が必要だと判断した』
見てくれは『少女』時代の輝夜以上に幼女なツクヨミだが、中身は三千年以上の時を過ごしているしっかり者だ。
クラインを国まで連れ帰る人員が必要なことに、俺の動向を観察していたツクヨミは気づき、俺と面識のあるアレックス達を呼び出したと言ったところだろう。
「ここまで案内してくれてありがとう。助かったよ」
「はぁい。私としては、あなたにずっとここにいてほしいなぁ、なんて思うんだけど……」「そうそうっ、いっそのこと、この国に永住しない? 身の回りのお世話、私たちがなんでもしてあげるよ?」
「い、いや……それは少し困る……」
畔からここまでアレックスを案内したんだろう二人の人魚が、そんな甘い誘惑をする。
人魚っていうのは、本来はああいう性格が一般的である種族なんだろうな。セルキーがたまたま、あがり症だっただけで。
「もう、もう……人魚なんかに鼻の下伸ばして……アレックスのばかばか……! 私が未来の婚約者なのに……!」
そして、その光景を面白くなさそうに眺めているロクサネ。
アレックス、全然気づいてないっぽいけど。横に好感度MAXの美少女がいますよ、鈍感系主人公さん。
「あそこで倒れているクラインの身柄を、セレスティアまで連行すればいいんだな。……一応確認しておくが、殺してないよな?」
胡乱気な目を向けられ、ついムッとなって言い返す。
「気絶してるだけだ。俺は殺人はしない主義なんだよ」
「主義以前に法律だろう」
「……そうだな」
まったく一言もなかった。普段倫理観の狂った魔術師とつるんでるせいで、俺までおかしくなってたみたいだ。今後はあいつらとの付き合い方も考えなきゃだな。
「クラインのことは、僕とロクサネに任せてくれ」
言って、勇ましい微笑を湛えるアレックス。
本当に勇者っぽいなこいつ……ちょっと自信なくすぞ?
『……だからトキ。帰ろ』
アレックスの自信のほどを確認した俺は、帰還を急かすツクヨミに視線を戻す。
クラインの対処にアレックス達が当たってくれることとなった今、いよいよ俺が流離世界に残る理由がなくなってしまった。
いや、「しまった」という表現はおかしいか。元々俺は、元の世界に帰る気だったんだから。
「…………」
……気づかぬ間に、流離世界にも愛着が沸いていた、ということか?
帰還後のことを思うと……確かにちょっと、惜しい気持ちはあるかもな。
「……ああ。ただし条件がある。俺を見てたなら、分かってると思うが……」
『輝夜も共に』
俺の言葉を先回りして、じっと輝夜に無機質な視線を向けるツクヨミ。
「……ええと、なに?」
その視線を不審がった輝夜が訊ねる。
『なんでもない』
というツクヨミの返事に、輝夜は特に気にした風もなく「そう?」と納得した。
『とにかく。トキ』
「そんな詰め寄らなくても、帰るよ」
俺はツクヨミの言葉に了承の意を示してから、流離世界への「惜しい気持ち」の大部分を占める少女へと体を向けた。
「……勇者様」
メフィが、寂し気な目線をこちらに送ってくる。
さっきは帰れないと言ったが……ツクヨミが来た今、状況は180度変わってくる。
メフィとはここで、一時お別れということになりそうだ。
「……こういう時、なんて言えばいいのか分かりません。これまでの私には、お別れどころか、出会いすらありませんでしたから」
あはは、と乾いた笑いを浮かべるメフィ。
「これからは、そんなこともなくなるだろ。今のお前は確かに天才で、偉大な召喚士なんだからな」
「……っ、はい……!」
「もう一度言うが……よく頑張ったな、メフィ」
「はいっ、はい――ありがとうございます、勇者様!」
俺の言葉を、肯定した……肯定できるようになったメフィ。
今回の件で少しでも自信をつけてくれたのなら、それほど喜ばしいことはないので、精一杯褒めてやる。褒められるの好きだって、会ったばかりの頃言ってたし。
「勇者様には、感謝してもし切れません。この場で伝える感謝の千倍、私はあなたに感謝しています」
大げさだ……と思うが、口に出すのは無粋というものだろう。
その言葉をしっかり受け止めて、代わりに別れの挨拶を口にする。
「……じゃあな、メフィ」
「はい、また」
短い言葉を交わして、俺はメフィに背を向ける。
そして、ツクヨミにGOサインを送った。
『始める』
すると……
ズズズズズ……と空間が揺れる音が鳴り響き、辺りに、魔力が集い始める。
金碧の粒子がツクヨミの周囲に漂い、彼女の腰まであるハーフアップや領巾が水中に靡く。
その魔力だけで微細な衝撃が発生し、周辺を泳いでいた小魚達が困惑したように散っていく。
集まった魔力は、ツクヨミの右眼へ吸収されていき――
金色だった瞳が、次第にくすんでいく。三つも数えないうちに、それは見事な赤銅色へと変色した。
ツクヨミが、自身の御魂を使って神術を操る時のみに起こる変化だ。
赤銅色の瞳からは、本能が震え上がるほどの桁外れな魔力が感じられる。
その魔力を使って、ツクヨミが、宙に魔術式を構築し――
「――《月渡》」
《斬辻励起風》のそれをゆうに凌駕する衝撃波が巻き起こり、ツクヨミの右眼がかつてない輝きを発する。
衝撃波に飛ばされないよう重心を低くし、それに耐えていると――
「…………」
眩しさも衝撃も気にする様子がない、メフィ。
彼女が、何か言いたげに俺を見つめている。
「あ……ゆ……っ!」
ぐっと、俺を呼ぶのを我慢するそぶりを見せたのも、一瞬。
感情のダムが決壊したメフィは叫ぶ。
「今から言うことは全部、聞き流してくださいっ! 全部全部、私のわがままですっ!」
頬を涙で濡らしたまま、そう前置きし……
「――行かないでくださいっ、勇者様!」
隠していた本音を、吐き出し始める。
「離れたくありませんよ! せっかく後ろめたい事情がなくなって、名前も呼んでもらえて……なのに……!」
その披瀝はたどたどしく、要領を得ない。
しかし、メフィの気持ちが、いっとう強く感じられる言葉でもあった。
「ずっと一緒にいたいですよ! 私には、あなたしかいないって、やっと確信できたんです! これまで嘘だったことも、指示でやらされていたことも、全部この日のためだったんだって、私は……!」
その気持ちに俺は、慎重に言葉を選びながら、正面から答えていく。
「必ず、また来るよ。今度は、メフィに会うために」
そう……必ず、だ。
中史が必ずと言ったら、それは運命すら捻じ曲げて実現してみせるという決意の表れ。
決して違えることのない、中史の言霊だ。
「……絶対、ですよ!」
「ああ」
「絶対、絶対ですからね……っ⁉」
確認に確認を重ね、涙に潤んだ緋色の瞳を輝かせる。
「メフィスは、勇者様を」
やがて《月渡》の光が、視界をすべて奪うほど大きくなり……
「ずっとこの世界で、待ってますから――――」
――俺は、流離世界を去った。




