押してけ猪武者
大陸北の冬の国、その辺境の田舎町に、リッタという頭の陽気な女がいた。
御年二十を数える彼女は、近隣地域の常識からいえば、立派な行き遅れに分類される。
雪国ならではの透き通るような白い肌、ミルクティー色の腰まで届くストレートの髪、空のように澄んだ水色の瞳はおっとりとタレ目がちで、容姿だけを見れば町の中でも上から片手で数えられる程度には整っているのだが、それを持ってして越えられない壁が彼女にはあった。
「はぁー、恋がしたーい」
行きつけの喫茶店でハーブティーを啜りながらリッタが愚痴を零せば、ようやくつわりを終えた頃合いの妊婦かつ彼女の親友のトルマが呆れ顔で口を開く。
「あのさぁ、アンタ、顔は悪くないんだからさ。
後はその手段を選ばない性格と特殊な好みを何とかしたら、恋人なんてすぐ出来るんじゃないの?」
そう、リッタは少々一般の範疇から外れた、尖った感性の持ち主だったのだ。
「ちょっとぉ、身も蓋もないこと言わないでよ。
ソコ何とかなっちゃったら、もう私じゃないでしょソレー」
「じゃあ、諦めな」
「結論が早すぎる!」
辛辣なようだが、同じような話をもう何年と聞かされ続けてきたトルマ女史であるからして、返答に身が入らずとも仕方のないことだった。
どんなに真剣にアドバイスをくれてやったところで、何一つとして改善された過去もなければ、いくら親友の間柄とはいえ、おざなりな態度にもなるだろう。
「何よおお、自分はさっさと結婚したからって、薄情者ぉ」
それを理解しているのか否か、リッタは子供のように自らの手足をバタつかせながら、トルマへ抗議の声を上げる。
「私はアンタみたいな変な趣味も性格もしてないからね」
「えー、言うほど変じゃないでしょ」
「知らぬは本人ばかりなり、と」
「ウソだーっ」
二十歳の大台を超えてすら全く落ち着く様子のないリッタを前に、彼女の未来を憂うトルマは肩を下げ、深く深くため息を吐き出すのだった。
そんなやり取りから、数日が経過した午後。
リッタは、バスケット片手に、町で唯一の出入り口である大門の内側のすぐ横、防壁に沿って延びる細道に一人、何をするでもなく突っ立っていた。
付近には、長らく同盟関係にある隣国へと続く街道があり、雪の深まる季節を除けば、そこそこ人の行き交う土地となっている。
ここスノウルの町も、多くは旅の休憩所として、その恩恵に与っていた。
断続的に人が流れる大門を妙に鋭く眺めていたリッタだったが、ふと、ある者を目に留めた瞬間、彼女はバスケットの中へ手を入れながら、満面の笑みを浮かべ駆け寄って行く。
「旅の御方」
「む?」
声をかけられ反応したのは、この北国には珍しいイノシシ獣人の男だ。
遠くは海を越えた東の大陸の民と思われる、笠や着物、草履といった特徴的な衣装を身に付けている。
焦げ茶の荒々しい毛皮、ぎっちりと筋肉を内包していそうな分厚い皮下脂肪に覆われた厳つい巨体、口元から伸びる牙は太く、笠から覗く瞳は鋭利な光を放っている。
いかにも戦人といった雰囲気を醸し出すその男へ、リッタは臆することなく接していった。
「ようこそ、スノウルの町へ。
こちらは、特産品のコイリンゴです。
小ぶりですが、蜜がギュッとつまって甘味が強いのが特徴となっております。
ただいま、無料でお配りしておりますので、どうぞ、ご賞味ください」
「あぁ、なるほど。かたじけない」
話の内容から彼女の行動の意図を理解して、イノシシ獣人は警戒のオーラを緩め、差し出された果実を受け取る。
そのまま、一先ずといった体で懐の内に収めて、彼はリッタに小さく会釈をしてから大通りを進み、やがて雑踏の中へと消えていった。
「リッタ」
男の背を追いかけたまま、いつまでも通りに視線を向け続ける女の耳に、聞きなれた友の声が響く。
「トルマ」
リッタが振り返れば、妊婦のトルマが己の腹を擦りながら怪訝な面持ちで歩き寄って来た。
「見てたよ、今の。
誰? リッタの知り合い?」
「ううん、知らない旅の人」
「は?」
彼女の答えに、親友の顔が更に歪む。
「もしかして、アンタまだあの『町の出入口で待ち伏せして好みの男が来たら仕事のフリして自腹で買ったリンゴ渡してキッカケ作りにしよう作戦』とかいうの続けてたの?
危ないから止めなって言ったじゃん」
ここで衝撃の事実発覚。
リッタは、町を訪れる旅行者等に愛想を振りまき宣伝活動を職務として行っている若い娘、いわゆるキャンギャル的な存在になりきって、外からやって来る男たちを値踏みし、これはという者に唾をつけていたのだ。
常識的な感性の持ち主であれば、たとえ思いついても絶対に実行しないであろう策である。
それを、二十歳も越えた行き遅れが堂々とやってのけるのだから、まぁ、同郷の独身男性たちがこの女を敬遠するのも当然と言えた。
ちなみに、彼女本来の生業は、伝統刺繍細工師といって、少々特殊な技能が必要とされる立場にあり、こんなアレな頭の持ち主だが、町でも有数の職人であったりする。
勤務時間の決まっていない自由業であるので、こうして多くの者が働いているような日中でも好きに出歩くことが可能なのだった。
「すぐそこに守衛さんもいるんだから大丈夫だよ」
「そんなの分かんないでしょ!
アンタ、殴られたり斬られたりしてからじゃ遅いんだからね!?」
友人の身を案じて憤るトルマだが、相変わらずというべきか、リッタはそれを軽く流して、マイペースに口を動かし始める。
「ダイジョーブ、ダイジョーブ。
ねぇ、それよりさ。一目惚れってホントにあるんだね。
さっきの素敵な男の人のこと考えるだけで、私、こう、胸がキューっとして……」
「はぁぁ!?
それって、あのどう見てもカタギじゃなさそうなイノシシ獣人のこと!?
趣味が悪すぎる!」
頬を赤らめ、両手を組んで熱い吐息を零すリッタ。
トルマは彼女と正反対に、この危機感のない友をどうしてやったものかと苦悩し、頭を抱えていた。
非常に胎教によろしくない状況である。
「えー。妙に傷の多いトコとか反り上がった雄々しい牙とか超格好良いじゃん」
「同意を求めないでよ、絶対頷かないから」
「ああーん、あの太く逞しい腕に力強く抱きしめられたぁい」
「いや、流石にアレはちょっと太すぎて、むしろ、潰されそうで怖いっていうか。
それに、毛皮とかゴサゴサだし肌に痛そうじゃない?」
「何よぅ、漢らしくっていいじゃん。
サラフワ毛皮のシュッとしたピューマ獣人と結婚したトルマには分かんないよっ」
無粋な反論をしてくる友人に、さしものリッタも不満そうに唇を突き出し顔を背けた。
そんな独身女の服の袖を軽く引っ張りながら、既婚者は己の疑問をぶつけていく。
「ねぇ、何で敢えてイノシシよ?」
どうせ本気で怒っているわけでもなく、ちょっと拗ねるポーズをしてみせているだけだと知っているから、トルマも尋ねるに気兼ねはなかった。
「ガタイがいいって条件なら、もっとクマとか一般的な種族だっているでしょ」
「いや、デカけりゃいいってもんじゃないし」
途端、逸らしていた首をグルリと戻して、リッタは真顔で語り出す。
「クマ系の人たちはこう、普段ノンビリしたタイプが多くて違うっていうか。
毛も妙にモッサリしすぎだし。
あと顔がどっちかというとカワイイ系で趣味じゃない」
捲し立てる彼女は、とっくに成人の身ながら、歯に衣を着せるという処世術を会得していないらしい。
「カワイイ系とか……そんな風に言うのアンタくらいよ。
だからって、あんな、やたら目つき悪い異国の男じゃなくても」
「ちょっとぉ、悪いんじゃなくて鋭いって言ってっ。
ていうか、アレが痺れるんじゃない。
常時戦場みたいな、こう、無骨で荒々しい感じが素敵なのっ」
「ええー……?」
「それに、ちょっとだけ聞けた声もまた渋くってさー。
んあーっ、思い出したら改めてドキドキしてきたーっ。
あの逞しい雄に不器用に重く愛されたぁーーいっ!」
公衆の面前で、天に向かい恥ずかしい雄たけびを上げる行き遅れ女。
「まったく……アンタってヤツは、つける薬もないんだから」
呆れが過ぎたらしいトルマは、頭痛を堪えるように額に手を置き、奇行種との意思疎通の難しさを嘆いていた。
そうした昔からの人妻の苦労などどこ吹く風で、空高くから地上の親友に視線を戻したリッタは、あっけらかんと、こんなことを言い放つ。
「てか、トルマは心配しすぎ。
本当に大丈夫なんだって。
一般の感覚からしたら、確かに見た目はちょっと怖い系かもしれないけど、絶対良い人だから。
私には分かるの」
「いやいやいや、あんな一瞬のやり取りで人間の何が分かるってのよ」
唐突に電波系ストーカーか勘違い拗らせ系夢女子のような語りを繰り出す独身女へ、さすがにドン引きしたような表情でトルマが否定のセリフを返した。
「いくつか理論的根拠も上げられるけど、半分以上は勘かなぁ」
「勘てアンタね」
白けた半目で腰に手を置く妊婦に対し、リッタはヘラヘラと締まりのない笑みを浮かべて彼女の腕を軽く叩く。
「んもー。
トルマだって、そんな典型的イジメっ子みたいなキツめの顔してる上に、口調も強くて誤解されがちだけど、実際はすっごく優しくて良い子だったじゃない。
こうして、必死に注意してくれたりさ……ね?
私の勘って当たるんだから」
「なっ、う、うるさいなっ。私のことはいいのよっ」
「ゲホフッ!」
急激に顔面を真っ赤に染め上げたトルマが、親友の背に力強い平手を浴びせた。
その昔、幼い町娘たちの集団の中、言葉の真意を悪し様にばかり解釈され、孤立しそうだった彼女を救ってみせたのが、当時すでに変な子として有名であったリッタだったのだ。
表面上はともかく、内心では友への感謝を、トルマは忘れたことがない。
「もうっ、ホントにしょうがないんだから。
そこまで言うなら、アンタの好きにしたらいいんじゃないのっ」
過去の出来事を思い出し居た堪れなくなったのか、そう告げるなり、彼女はツンとそっぽを向く。
そのまま体ごと反転させて、トルマは足早にリッタの前から去っていった。
何とも分かりやすい、ツンデレ気質の人妻だった。
彼女を見送った後、再び独りとなったリッタは、最初に待機していた細道へと移動して防壁に寄りかかり、腕を組む。
そして、いかに一目惚れしたイノシシ獣人と好い仲になるか、じっくりと思考を巡らせ始めた。
もし、彼が明日にもまた旅立つ身であるのなら、この哀れな行き遅れが想いを成就させる機会は、あまりにも少ない。
ただし、大型獣人の宿泊可能な施設は限られているので、偶然の再会を演出するのは難しくないだろうと、そうリッタは踏んでいた。
最終的に、やはり一発大勝負に出るしか、という結論に至った独身女は、いつになく真剣な表情で拳を握る。
そして、その勝負の結末がどう転がっても良いようにと、彼女はあらゆる準備を済ませるために、駆け足で自宅へと戻って行った。
翌日、早朝。
自らの刺繍細工を贔屓筋に届ける傍ら調査し判明した、件の男が身を寄せた宿の、その出入り口が見える路地に潜んで、豆パン片手に張り込みをするリッタ。
今から片想いの相手に告白をしようとしている女性にしては、ありえない怪しさである。
稀に通りかかる巡回中の町の警備兵たちから、厳しい目を向けられることもあったが、正体に気が付けば、またコイツかというウンザリした顔をして、誰もが無言で立ち去っていった。
やがて、すっかりパンも食べ終わり、意地汚く塩気のついた指を舐めていた頃、ようやく目的のイノシシ獣人が両開きの重厚な扉を押して姿を現す。
先日の門前での装いと比較すれば明らかに荷が少なく、今すぐ出立ということはなさそうだと安堵しながらも、リッタは人目も少ない今の内に全てを済ませてしまおうと、彼の眼前に躍り出た。
「もし、そこな御方!」
その一瞬、男は自身の腰に帯びた刀に手をやりかけたが、声の主が武芸の武の字も感じられぬ無害そうな女であると看破して、僅かに警戒の気配を残しながらも姿勢を正す。
「拙者に何か……ん、よく見れば、昨日のリンゴの女人?」
「ふぁっ、はいっ!
私、この町で裁縫師として勤めておりますリッタと申しますっ」
自分のことを覚えていてくれたのだと恋する乙女らしく心をときめかせながら、リッタはあわよくば彼の情報を引き出せないかという小賢しい思考で自己紹介を始める。
すると、彼女の目論見通り、男は小さく首を傾げながらも、丁寧に名乗りを返してきた。
「ふむ。
拙者は、トウゴの国にて中級武士の位を賜りし大牙の血族が末裔、チョヘイと申す者に御座る」
「チョヘイさん」
「さて、互いの身の上が明らかとなったところで、用向きを伺ってもよろしいか?」
早々と本題を促され、今しがた知り得た事実を喜ぶ間もなく、リッタは緊張からゴクリと喉を鳴らした。
事前にあれこれと想定し覚悟を決めていたつもりの彼女でも、いざ告白となれば、やはり恥ずかしくなってしまうものらしい。
深呼吸をして両拳を強く握り、高くにある厳つい獣頭をじっと見据えて、独身女はついにソレを音にする。
「えと、あー、あの、私、一目見た時からチョヘイさんのこと……っすぅ、好きにっ、なって、しまいまして」
「んっ?」
さすがに想定外の言葉であったらしく、イノシシの黒い目が見開かれた。
「それで、その、良ければ、私と、けっ……けけ、結婚を前提にご両親に挨拶させてつかぁさぁいっ!」
叫ぶと同時に勢いよく頭を下げるリッタ。
十秒程、場に沈黙が訪れた後、困惑交じりに落とされた男の呟きが彼女の耳に届いてきた。
「…………随分と、一足飛びの申し入れに御座いまするな」
「えっ、あ、えああああっ!?」
言われて、ようやく独身女は自らのセリフの誤りに気付き、慌てて弁解を始める。
「待っ、違っ、間違いっ、間違えましたぁ!
交際っ、交際を申し込みたくっ!」
真っ赤になって、顔と両手とを左右に振る女へ、イノシシ獣人は着物の合わせ目から懐に腕を入れ、己の豊満な胸元をポリポリ掻きながら、平淡に告げる。
「拙者、大した金子は持ち得ぬが」
「きっ……いえあの、詐欺でも美人局でもないですよっ!?」
「さりとて、リッタ殿の如き手弱女に好意を向けられる要素が他に何も」
「そんなことない!
チョヘイさんは優しくて漢らしくて色気があって、とにかく、すごくカッコイイです!
だからっ、私、ほ、本気で、チョヘイさんのこと……っ!」
今にも涙が零れ落ちそうな潤む瞳に見上げられ、さしもの朴念仁も、これ以上彼女の恋心を疑ってかかることは出来なかった。
武骨なイノシシ獣人は、気を取り直すように一つ咳払いをしてから、己なりの誠意を込めて、真剣な眼差しでリッタへ語る。
「然様とあらば……御心、ありがたく頂戴仕る」
「それって!」
「あいや、しかしながら、拙者、末だ修行中の、未熟な半人前の身ゆえ……女人にうつつを抜かす暇はあり申さぬのです」
「えっ」
「愚直であることしか能のなき猪武者に御座りますれば、二兎を追う過ちは犯せませぬ」
ほんのり期待させてからの、無慈悲なる突き放し。
その効果は覿面で、大いにショックを受けたらしい独身女は、陸に揚げられた魚の如く、目を皿のように丸くした状態で、吐く息もなく唇を上下させていた。
いかにも憐れなその姿を前に、ジクリと胸に罪悪感を覚えたイノシシ獣人は、慰めのつもりか、更に決定的な言葉を重ねていく。
「その、女子供からは怖れ厭われるが常の身ゆえ、リッタ殿のお気持ちは真に喜ばしく御座った。
なれど、大牙に連なる男に、半端は許されぬのです。
格別の情けを無碍にするようで心苦しいが、この武者修行の旅にしたところで終わりもいつと知れず、であれば、如何な者の申し出とて受け入れは……」
「分かり、ました」
震える声に介入されて、チョヘイは続くセリフを飲み込んだ。
勇気を振り絞り想いを告げてくれた乙女を、容赦もなく傷付けてしまった後ろめたさからか、イノシシの厚い瞼が緩やかに伏せられる。
「リッタ殿、申し訳……」
「私、これからそのチョヘイさんの旅に勝手について行くことにします」
「うん?」
咄嗟に女の話が理解できず、キョトンと目を瞬かせてしまうチョヘイ。
「は? ええ?
すまぬ、い、今、何と?」
戸惑うばかりの男へ、リッタは強く熱く燃える眼差しを向けて、実に堂々たる態度で電波な宣言をし始めた。
「いつかチョヘイさんが修行を終えた暁には、その場で妻と娶っていただけるように、私、どこまでも着いて行きますから」
「つ? んんん?!??」
「もちろん、旅の邪魔をするつもりは……チョヘイさんにご迷惑をおかけするつもりはありません。
私が、勝手に、一人で、貴方の後を追っていくだけです」
「いやいやいや、え?」
「もう決めました」
粘着ストーカー誕生の瞬間である。
いまだかつて、ここまでトンチキな結末に着地する初恋物語があっただろうか。
陽光降り注ぐ爽やかな朝の静寂の中、互いに正反対の表情で見つめ合う一組の男女。
「……………………………………プギィ」
怒涛かつ破天荒な展開にチョヘイは最早言葉もなく、哀愁ある鳴き声を僅かに漏らすのみであった。
「というわけで、私、花嫁修業の旅に出るから」
「朝一訪ねて来て何かと思ったら、いきなり過ぎるわ、この猪突猛進バカ」
すでに出発準備万端なリッタに、トルマから、ごもっともなツッコミが入る。
告白からそのまま即嫁入りというお花畑な想定もしていた彼女であるからして、荷を整えるのにそう時間は掛からなかったようだ。
「もしかしたら、もう帰って来ないかもしれないけど、その時はきっと幸せにやってるから心配しないで。
産まれてくる赤ちゃんの顔、見てあげられなくてゴメンね」
「はぁーっ、もう。
アンタ昔っから言い出したら聞かないからなぁ」
付き合いの長さゆえか、トルマの割り切りは驚くほど早かった。
今現在も宿の室内で混乱真っ最中にある某イノシシとは、大いに異なる慣れ具合である。
「……せめて、手紙くらいは送ってくれるんでしょうね?」
「うん。旅の間で新たに発見したチョヘイさんの素敵なところ沢山書いて逐一報告するから」
「いらんわ、そんなもん」
やると言ったら本当にやってのけるのがリッタという女なので、間髪容れずにぶった斬った人妻の返答は正しい。
「無茶は程々にしなさいよ。
あと、勝手に死んだりなんかしたら許さないんだから」
「うん、ありがと。
じゃーね、トルマ。元気でね」
そう言うと、頭の能天気な女は至極あっさりと背を向けて、十年来の親友の前から去って行った。
こうして、恋心ひとつを胸に故郷を旅立った二十歳の行き遅れ伝統刺繍細工師リッタ。
充実したストーカー生活の末、めでたくも、彼女が旦那となった件のイノシシ獣人と、三つ子のウリ坊を連れ、新婚旅行と称して再びトルマの元を訪れたのは、それから約七年の月日が経った頃合いであったという。
おわり
~おまけのストーカー珍道中~
●初期
「リッタ殿。その様な、つかず離れずの位置取りは危のう御座らんか。
うら若き女性が一人と見られれば、いかな無頼の輩を呼び寄せるか……」
「ひぃぃ、わざわざ心配して引き返して来てくれたチョヘイさん優しすぎて尊い薄い手紙が厚くなっちゃうぅぅ。
いえ、そうじゃなくて、あの、ご心配なくです。
気配を最大限薄くする加護縫いを施した外套を身に着けておりますのでっ」
「……あぁ、道理で。
武芸者でもない女人相手に、拙者が毎度ああも簡単に不覚を取るとは疑問に思っておったが。
そうか、これ程までに高等な付与が可能な人間が……世界とは広きものよな」
「コレ、私のお手製なので、チョヘイさんも欲しい効果のものがあったら言ってください。
すぐに縫い上げて、献上させていただきますのでっ」
「なんと、リッタ殿の作であったか!
人は見掛けによらぬとは言うが……ううむ、己の未熟を痛感いたす」
●中期
「怪しいイノシシめ! お前がこの殺害事件の犯人だろう!」
「いや、拙者は……」
「待ってください! 彼は犯人ではありません!」
「誰だっ」
「リッタ殿!?」
「私はこのチョヘイさんのおっかけをしております、裁縫師のリッタと申します」
「おっかけ?」
「まずは、これをご覧ください。
彼の行動は微に入り細に入り、私がこうして逐一書き留めておりまして」
「プギっ!?」
「えっ、こわ」
「これを参考に住人に聞き込みをしていただけば、この辺りに珍しい種族のことですので、無実の証言はすぐに得られると思います」
「むむっ、いいだろう。この紙一式は借り受けるぞ」
「はい、大丈夫です。
それはあくまで予備のようなもので、チョヘイさんのことは全てこの頭に記憶しておりますので」
「えっ、こわ」
「り、リッタ殿。
なぜ、拙者が宿で就寝中の際の様子まで事細かに記載できておるのだ」
「それは乙女の秘密です」
「イノシシ殿、この女は野放しでよろしいのか。
被害届を出されるなら、すぐにでも対応させていただくが」
「あぁ、いえ、その……これで色々と助けられておるもので」
「……存外、苦労しておられるのだな」
●後期
「チョヘイさん、どうされました?」
「リッタ殿。彼の日の申し出は、今も有効で御座ろうか」
「え?」
「大牙の男として求められる強さを、拙者、ようやく得られたように思うのです。
そこで、どうか、婚姻を前提に我が祖国へ共に参っていただけぬものかと」
「あっ、え、私……いいんですか……?」
「ここまで献身的に尽くされ恩を受けて、今更、知らぬ存ぜぬは通りますまい」
「えっ、いえ、そんなっ!
だって、全部、その、私が勝手に好きでやったことで、恩に着せようとかそんなつもりじゃなくてっ。
そもそも、迷惑の方が、絶対、いっぱいかけてるしっ、それに、年齢だってもう随分と……だから、義務感とかなら……」
「あぁ、ご安心召されよ。義務などと、そうした事実は御座らぬ。
この長い旅の道中、拙者、すっかりリッタ殿なしに生きられぬ体にされてしまいましてな?」
「ひえっ、かっ、体!?」
「隣にリッタ殿のおらぬ生活など、もはや考えられぬのです。
誑かした責任を取り、拙者の妻として嫁いで来てくだされ」
「タブラカタブラトツギーノ!?」
「リッタ殿、お慕い申しております」
「ッアーーーー!
そんな色っぽい囁きはいけないぃぃぃからの抱擁もらめぇぇぇぇぇ!
ふぁぁああん、チョヘイさんいっぱいちゅきぃぃぃぃぃ!」