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第1章、第8話【賽は投げられた】







 「おーす」

 「おー」


 緩い返事を返しながら、野牧誠一は仲間内に合流する。

 今日は一コマ目から葵小桃先生の楽しい楽しい歴史の時間だ。如何に彼といえど、出席せざるを得ない。

 メンバーはいつもどおり。

 野牧誠一を抜けば、相沢祐樹、安藤啓介、網川流牙……そして。


 「……黎夜の姿がないな?」

 「うん、それがね……僕にも良くわからないんだけど」

 「レイヤのやつ、学園までは来ていたのに突然消えたんだぜ。これは玉隠しだと思うんだ!」

 「あー、流牙。一応言うけど、神隠しな?」


 ふむ、と誠一は仲間の会話を聞きながら首をかしげる。

 学園前で啓介たちと逢っていながら、まだここには来ていない。つまるところ、行方不明と。

 普通ならサボタージュと考えるのが妥当だが、今まで休んだこともない黎夜がそんなことをするとは思えない。


 問題があるとすれば、ここ最近の彼の異常な行動。

 通り魔に付け狙われている、と彼は言っていたことを誠一は思い出す。

 噂の連続殺人鬼とは違うらしい。

 祐樹や啓介も同じことを考えていたのか、口を濁しながらも話しかけてくる。


 「……最近、黎夜が変だよね。逢えばいつも通りなんだけど……こう、なんていうかな」

 「んー、無断外泊に学園サボタージュ……優等生が数日で不良に変わってしまったみてえだな」


 誠一は無言を貫く。

 祐樹にしてみれば、警察に嘘の証言までさせられた身だ。

 少しでも愚痴を言わないと消化できないのだろう。残念そうに、祐樹は溜息をついていた。


 「その直前、どんな話してた?」

 「うん? おう、黎夜の妹の病気の具合はどうだ、ってな」

 「病気……?」

 「ああ、朝練に来てなかったから」


 そうか、とだけ誠一は返す。

 顎に手を当てて、思考モードに入る。こうなると中々、現実世界に戻ってこないのが彼だ。

 祐樹と啓介も、いつものこととして受け止め、黎夜の行方について話し合う。


 「……ま、実際に何があったかは分からねえけどよ」


 静観を決め込んでいた流牙が口を開く。


 「とりあえず、オレたちにできることをしようぜ」

 「あー、できること、ね」

 「……できること、かぁ」


 やがて現れたのは歴史担当の講師、葵小桃先生。

 彼女は小学生並みの身長でタタター、と小走りに走りながら教卓につく。

 一人、一人と名前を呼んで出席を取っていく。


 「……どうする?」

 「選択肢はみっつだね。無視するか、代返するか、正直に事情を先生に話すか」

 「あー、無視が楽なんだけどな……代返しても、先生に当てられたらバレるだろうよ……」


 そうこう話しているうちに、順番が迫ってくる。

 無涯黎夜の名前を呼んだ時点で、小桃先生はあれー? と間延びした声で首をかしげた。

 もう、時間はないようだ。


 「あれ、あれれー? 無涯くんはどうしましたかー?」

 「……さあ、最終回答と行こうじゃねえか」


 1、ブレーメンのように機転の利く我らは、黎夜の存在を知らないことにする。

 2、ミケランジェロの彫刻のように立派な我らは、勇気を振り絞って代返してやる。

 3、ピカソのように無駄に長い名前を持たない我らは、正直に黎夜はサボりましたと告白する。


 「自分たちは―――――そのすべての選択肢を拒絶するっ!!」

 「……具体的には?」

 「決まってるだろ、ケースケ……ここはなぁ、男らしく第三の選択肢を選ぶところなんだよ、オレたちはなぁっ!!」

 「えー、第三の選択肢ってサボりました、と告白する、だろうが。ここは第四の選択って言うんだよ」

 「……え、えーとですねー、盛り上がっているところ悪いんですがー、無涯くんはどうしたか、そろそろ教えてほしいのですがー」


 誠一の目が名案を思いついたかのように輝く。

 それは祐樹も同様だ。どうやら、二人には秘策があるらしい。

 二人は頷く。

 そうして二人ともが片手を挙げ、そしてとある人物の肩を叩いた。


 「「任せた」」

 「いやいやいや、ちょっと待ってくださいよっ!?」

 「お、ケースケが秘策を用意していたのか。さすがだな、ケースケ」

 「何も考え付いてないから!?」


 ギャー、ギャー、いつも通りの日常を彼らは謳歌する。

 その中に足りないのは、一人。

 無涯黎夜の姿はなかった。それが、ただ唯一の事実にして真実だった。



 「ちなみに、ピカソの本名はパブロ……悪い、なんだっけ?」


 パブロ・ディエーゴ・ホセー・フランシスコ・デ・パウラ・ホアン・ネポムセーノ・マリーア・デ・ロス

 レメディオス・クリスピーン・クリスピアーノ・デ・ラ・サンティシマ・トリニダード・ルイス・イ・ピカソである。




     ◇     ◇     ◇     ◇



 「………………」


 俺は学園から離れて商店街の奥、路地裏に来ていた。

 ここならもしかしたら、という僅かの希望がある。

 あるいは俺を監視しているだろう、どちらかが接触してくれるかも知れない。そんな、一縷の望みに賭けていた。


 「……………………」


 俺が莫迦だった。

 自分の決断の代償は自分にだけ返ってくる、などと何故思ってしまったのか。

 安易な決断に後悔するしかない。

 悔しくて、腹立たしくて涙が出てきた。闇雲にコンクリートを殴るが、自分の手から鮮血が噴出すだけだった。


 そうだ、舞夏は言っていた。

 ペンダントを巡る争いだ。もちろん、どんな手を使ってでも手に入れるはずだ。

 なら、人質なんて映画や漫画の中でもやっている常套手段じゃないか。


 「……どうして……その可能性に気づかなかった……!」


 もう一度、コンクリートを殴りつける。

 肉が千切れるような音も、神経組織から伝わる激痛も、今の俺には届かない。

 カイム・セレェスの顔を思い出す。

 あんな奴のところに妹を預けておく、その事実に……背筋が凍えるほどの恐怖感すら抱く。


 ただ、無事でいてくれ。

 頼むから取り返しのつかないようなことにならないでくれ。


 そうして、願って。

 願って、願って、願って……願って願って願って願って願って!

 もう一度、腹立たしさに鉄の壁を殴りつけた。


 「俺には……願うしか、できないのかよ……!?」


 それが、悔しい。

 何よりも、口惜しい。

 どんなことよりも、悲しかった。


 「護るって約束したんだ……!」


 母さんと約束した。妹を、両親の代わりに護ることを。

 体も心も救って、強く生きることを誓ったのだ。


 「これまで、護ってきたんだっ……!!」


 これまで、約束を果たしてきた。

 八年以上の月日を賭けて、護ろうとしてきたのだ。


 「なのに……なのにっ!!」


 なのに土壇場で俺は護れなかった。

 大切な家族を……人殺しすら肯定するような男によって、奪われていた。

 そのまま、自分の愚かさを呪うように頭を振り上げた。

 コンクリートに、自分の血で汚れている鉄の壁に頭をぶつけてしまおうと。



 「やめておけ。交渉前に自傷行為は体に悪いよ?」



 そうしてしまおうと、思ったところで声がかかる。

 忘れもしない、忘れるはずがない男の声色。

 振り向いた先、初めて奴と出逢った路地裏の入り口……そこに、カイム・セレェスが屹立していた。




     ◇     ◇     ◇     ◇




 時刻は同じ頃。

 こちらでも、苛立たしげに机を叩く存在があった。


 「やって……くれましたね、カイム・セレェス」


 赤髪の少女の日頃の冷静さを失うほどに、怒りをあらわにしていた。

 何が、『お互いに健闘しよう』だろうか。

 よくも、そこまでの外道をもってして『交渉』などと吐いて捨てたものだ、と舞夏の眉があがる。


 連絡があったのは、たった今。

 舞夏の携帯のメールに受信された、短い一文に全ては書かれていた。

 無涯黎夜の妹が誘拐された、と。

 これがカイム・セレェスが『交渉』の名の下に勝負を挑んできた理由だ。


 「何が、交渉ですか……これは、脅迫でしょう……!」


 これがカイムの言う『正々堂々』なのだろうか。

 彼は言っていた。目的のためには手段を選ばない、そんな精神が自分たちにはない、と。

 確かにそれは認める。その甘さは認めよう。

 だが、それでも……こうしてまで手に入れることが正しいとは、思えない。絶対に思えない。


 「……負け、ですか」


 静かに舞夏は受け入れた。

 黎夜に選択の余地はない。妹の命を見捨てることは決してしないから。

 だから、勝負はついてしまった。

 気づいたときには既にどうしようもないところに事態が進む、という予感は……限りなく正しかったのだ。


 やがて、黎夜から連絡が来るだろう。

 事情を説明されるかどうかは分からないが、それでも断りの電話が返ってくる。


 「でも、それもいいかも知れません」


 確かに組織同士の戦いは舞夏たちの負けだ。

 だが、黎夜はこれ以上踏み込んでこない。裏の世界に足を踏み入れることなく、表の世界にいられる。

 ペンダントを失うだけだ。あれは大切なものだが、妹と引き換えなら躊躇いもせずに渡すだろう。

 だから、これで彼はもう巻き込まれない。


 「それが終幕……ええ、大いに結構です」


 負け惜しみにも近い独白。

 もう、ここに留まる理由もない。ホテルは引き払うことにしよう。

 舞夏は白無垢のワンピースを脱ぎ始めると、様々なことを考えながらバスルームへと入っていく。


 そう、大勢は決したのだ。



     ◇     ◇     ◇     ◇



 「カイム・セレェスッ……!」

 「慌てるな。無視しても良かったものを、わざわざ姿を現してやったんだ。ここで襲われては私の立つ瀬がない」


 踏み込みかけた足を、俺はギリギリで止めた。

 そうだ、目的を間違えてはいけない。ここでやることは、こいつをぶちのめすことじゃない。

 聞くことがある。だから、待っていた。


 「……沙耶は、無事なんだろうな?」

 「さあね。私は彼女に逢っていないから、なんとも言えないよ」

 「惚けるなっ!!」


 差出人の名前はカイム・セレェスだった。

 なら、沙耶をさらったのも間違いなくこいつだ。そうとしか考えられない。

 今の俺に余裕があるはずがない。噛み付くように、カイムの目を視線だけで殺せるぐらいに睨み付ける。


 「……ふん。とりあえず教えておいてやるが、彼女を拉致したのは私ではない」

 「お前じゃない……だと?」

 「そうだ。指示したのは私だが、君の妹を直にさらったのは……天凪だよ」


 その言葉で、呼吸が停止するかと思った。

 天凪……葉月。

 あいつが、沙耶をさらったと言いたいのか? そんな、莫迦なことがあるはずがない。

 それにこいつは言った。指示をしたのは自分だ、と。


 「つまり……実行犯は葉月、主犯はお前ってことでいいんだな……?」

 「そうなるね。だから彼女の安否について、私は関与していない。アレは葉月が預かっているからね」

 「………………」

 「安心したか? そうだ、天凪なら彼女の安全は保障されているようなものだろう? 彼女は女で、人も殺せない」


 信じていい、のだろうか。

 カイムの言葉は安易に信じてはいけない、けど。

 それでも、その言葉を信じたい。そんな仮初の安心を手に入れたい自分がいた。


 だけど、簡単に信じてはいけない、と冷静な自分が訴えていた。

 そんな俺の疑惑を敏感に察知したのか、カイムはタバコを取り出しながら言う。


 「君の妹に手を出すことで、君に抵抗する理由を与えるなど愚の骨頂」

 「……それ、にしても……たまに外国人か、と疑いたくなるな。日本語がうまいじゃないか……」

 「それはどうも。余裕がなくて話をそらすのは結構だが、意味合いは分かったかな?」


 要するに沙耶を危険な目にあわせる、という行動はカイムたちにとっても避けたいのだ。

 奴らの目的はあくまでペンダント……『霊核』の回収にある。

 それが完遂されるのであれば、一般人に危害を加える必要はないということ。


 「もちろん君が抵抗するなら、とは考えたが……よもや、するはずがないだろう?」

 「………………」

 「実力差は歴然。妹を庇いながら私たちと殺し合うなど……できるはずもないよ」


 さて、とカイムはタバコを吹かしながら一息。


 「こちらの条件だ。私たちは君の妹に決して危害は加えない。

  さらわれた記憶すら、ないようにしておこう。それで元通り……明日からは君の妹は日常に帰れるよ。

  その代わり、月ヶ瀬舞夏のほうには断りの連絡を入れておけ。

  彼女の性格を考えると、割り込むことはしないはずだが……君の口から断りを入れておけば、完璧だ」


 俺は、無言のままだった。

 それすらも肯定と受け取ったのか、カイムは金色の髪を黒衣のフードに隠しながら去っていく。

 一言、呟くように言霊を紡ぎながら。


 「『告げる、豊玉発句集より抜粋』―――――【知れば迷ひ 知らねば迷う 法の道】」


 それは、あのときの言葉に酷似した言葉。

 若干違うのは川柳の部分だろうか。そんなことを思って、顔を上げたとき。



 もう、カイム・セレェスの姿は消え失せていた。




     ◇     ◇     ◇     ◇



 午後からは学園に通うことにした。

 四コマ目は他の仲間たちもいない、専門の経済学になっている。

 別に経済学とかに興味があるわけではなく、ただ単位を取りやすいという簡単な理由ではあるのだが。


 「………………」

 「あー、無涯くん、発見ですねー」


 学園の門のところで幼い声がひとつ。

 それが自分を呼び止めるためのもの、と気づくまでに時間がかかった。


 「……聞いているんですかー、無涯くん!」

 「小桃、先生……?」

 「はいー。まったく、呼んでいるのに無視なんてー、考え事もほどほどにするんですよー?」


 先生には悪いが、相手をしている余裕はない。

 曖昧に笑うだけで、俺はすぐに講義へと行こうとする。だが、その後姿を小桃先生は呼び止めた。


 「経済学は休講ですよー、先生が風邪でお休みなんですー」

 「……そう、ですか」


 なら、帰ろう。

 八時までにやらなければいけないことがある。

 妹を迎えにいかなければならない。


 「……妹さんの容態はどうなのですかー? 安藤くんから聞いたのですー」

 「…………大丈夫です、明日には登校できますよ」

 「そうですかー。無涯くんたち兄妹は学校をお休みすることがないので、心配しちゃいましたー」


 でもでも、と先生は続ける。


 「……よく分からないですけど、一人で抱え込んではダメですよー?」

 「…………それは」

 「補習はなしにしてあげますねー、その代わり、明日は笑顔で登校してくださいよー」


 パタパタパタ、先生が小さな足で走り出していく。

 そんなに、分かりやすい顔をしていたのだろうか。……そうかもしれない、と溜息をついた。

 俺自身、この決断が正しいかどうかなんて分からない。

 むしろ、間違っていると思っているのだ。だからこそ……俺は、この土壇場に来て迷っている。


 「感謝しろよ、啓介に。うまい具合に言い訳を思いついてくれたんだからな」

 「……誠一」

 「おーす、黎夜。神隠しじゃなくて安心したぞ」


 からから、と背後から誠一が肩を叩く。

 祐樹と啓介は今頃、別の講義に出ているはずだ。そしてそれは、誠一も同じだ。

 つまるところ、またサボっているということだな。


 「お前、単位が危ないぞ……?」

 「んーーー、何とかなろうよ、多分。まあ、そいつは置いておくとして、だ」


 そっちに置いておいて、というジェスチャー。

 そして、その目が細められる。少しばかり真面目な話ですよー、と眼鏡の向こう側の瞳が語っている。


 「全員からの伝言を伝えに来たぞ。本当はメールで伝えるつもりだったが、出逢ったからにはしょうがない」

 「……伝言?」

 「そら、さっきの講義中に書いてみた全員の言葉だ。……プリントの裏なのは、突っ込むなよ?」



 相沢祐樹

 『何に悩んでいるのかは知らんが、まあ面倒ならやりたいことをしろよ。まー、頑張れ』

 安藤啓介

 『事情が話せないにしても、頑張れよ、としか言えないね。少しなら手伝えるから』

 網川流牙

 『気合見せろよー! 燃え上がれ、燃え上がれ! そして燃え尽きるぐらい頑張れよー!』



 「以上、この前の罰ゲームの内容を変更して、お届けしました」

 「……なんだ、これ?」

 「例の罰ゲーム。結局はお流れになったから、免除してほしい奴は我らが友、無涯黎夜くんにエールを送ろう、と」


 それは、日常を示す応援の言葉だった。

 プリントの裏……って、このプリントの持ち主は俺じゃねえか。今日の史学のプリントの裏に書き込んだな。

 まったく、莫迦みたいだ。

 いまどき、こんなことは小学生でもやらないぞ。


 「で、お前さんはどうするつもりだ?」

 「……何がだよ?」

 「あまり、愉快じゃないことが起きたんだろ? そいつは今日、学校に来ない妹さんにも直結している」

 「っ!?」


 なんで、それをこいつが知っている?

 いや、あくまで断片的な話だが……ここまで見事に当てられると、むしろ不審しか沸いてこない。

 誠一は口元を歪めて笑う。

 んっふっふ……そんな、古臭いような笑みを浮かべて、誠一は言う。


 「知らないのかい? 自分は人の心が読めるんだぜー?」

 「…………そうか」


 安心した。

 こいつはいつも通りの変人、野牧誠一だった。


 「おい、全力で信じてないな!? 小説家の洞察力を舐めんな!」

 「お前が小説家なのも始めて知ったが……俺が脚本家なら、ここでギャグ要因たるお前は登場させねえ」

 「……自分は、ギャグ要因だったのか……」


 がくり、と倒れる誠一を見て、肩の力が抜ける。

 なんだ、こんな簡単なことだった。

 正しいか、間違っているかじゃない。要するに俺は……こいつらとバカをやる日常に返ってくるだけだ。

 そのために、やらなければならないことをすればいい。


 「はっ、たったそれだけのこと、か」

 「…………おい。自己完結してないで、自分を全力でフォローしろよ」

 「全力で断る」


 なにをーっ! と腕を振り回す男をあしらいながら、溜息をつく。

 まだ迷っているのは確かだ。

 だが、そうしていること自体が莫迦莫迦しいのかもしれない……と、そう思えた。



     ◇     ◇     ◇     ◇



 「…………ただいま」

 「お帰り、黎夜。今日は……早いんじゃの?」


 時刻は午後の六時。交渉の時間まで……あと、二時間。

 家に戻るとじっちゃんが素振りをしていた。

 細い枯れ木のような腕から、風を切る音が生み出される様子を見ると、自分の祖父は化け物だと思い知らされる。

 仮に、仮にだが……カイムと戦わせたら、どうなるかなぁ、と莫迦なことを考えた。


 ここはじっちゃんに相談するべきかも知れない、とは思った。

 だけど、出来ない。それはじっちゃんまでを巻き込むことを意味する。沙耶と同じように、巻き込む。


 「ふむ……」

 「……何さ?」


 じっちゃんは目を細めて、俺を凝視する。

 どうも今日は俺の心が周りの人に読まれてばかりなので、見透かされてる気分になってしまう。

 齢七十にもなろうとする老兵は、静かに俺を見据える。

 その目に目をそらして、俺は……少しだけ、問いかけてみる。これからしようと思うことを。


 「じっちゃん……この、ペンダントを手放すって言ったら、どう思う?」

 「好きにするがええ」

 「…………は?」


 即答。

 思わず拍子抜けしてしまうほどの、一言。

 呆然としてしまう中、じっちゃんは呆れ顔でとつとつと語りだす。


 「いいかの、黎夜。お前は強くなった、大きくなった。子供のように……何かに縋る必要はないほどに、な。

  お前がずっと踏ん張ってきたことは、わしが良く知っとる。

  じゃからの、もう十分じゃろ? ペンダントが無くなっても……お前は無涯黎夜のまま、歩き続けられる。

  なら、ペンダントを手放すと言っても反対などせんよ。

  お前はペンダントを通して学んできたことだけを持っておればよい。大切だと、思えることを……の?」


 ほっほっほ、とじっちゃんは好々爺のように笑う。

 素振りをしていた竹刀を、不意に放り投げられた。じっちゃんご用達の……同じ、鉄板仕様の竹刀だ。

 思わず慌てながら受け取ると、ずっしりと重みを感じた。


 「無涯家は名も無き剣豪の家系での。

  戦や立会いで名を上げるよりも、自分のやりたいことのために剣を抜いたと伝えられておる。

  当時、食っていくためにも仕官しなければならんのに……莫迦な一族じゃの。

  じゃが、それ故に無涯の名の下に行われる戦いには『決意』と『覚悟』がある。

  仕官すら捨てた我が家の先祖は、自身の正義を貫くために剣を振るった。

  この時代になってまで教えることは……力の使い方を間違えぬことのみよ。

  何のために力を手に入れたか、何のために長年研鑽しておったか……それを決して忘れぬことこそ、無涯の教え。

  初心、忘れるべからず。幾重にも混ざる正義の中でも、自身の正義を貫くことよ」


 そうして一時、じっちゃんは黄昏に染まる空を見上げた。

 そこに何を幻視したのか、俺には分からない。

 じっちゃんは寂しそうに笑う。ほっほっほ、と……表舞台から姿を消すことを決意した老兵のように。


 「少し、説教くさかったかの?」

 「いや……十分だよ」


 そう、十分だ。

 こんなことも自分で決められなかったのか。

 まだまだ、子供だと思ってしまう。


 (そうだよ……葉月にも言ったじゃねえか。そのときに、これを手放す覚悟は出来てたはずじゃないか)


 俺は決める。

 連絡しなければ、舞夏に。

 そうして、午後八時に学園へと行き……沙耶を取り戻しにいく。そうだ、それでいい。


 全てが終わったときには、首にかけているペンダントはない。

 それでもいい。ようやく……ようやく、母さんとのことに踏ん切りがついた。


 (いつまでも……依存して、昔に浸ってちゃいけねえんだ。今の、この日常に帰ってくるんだから)


 そうでなければ、母さんも心配する。

 いつまでも頼ってはいけない。もう俺は、親離れをするべきだ。



 (それで、いいよな……母さん?)



 ふと、誰かが微笑んだ。そんな、気配がした。


 「ふむ……」


 じっちゃんはそんな俺の様子を見て、もう一度目を細めた。

 そうして一言、日常としての言葉だけを口にする。


 「……沙耶の帰りが遅いの。まだ、部活か」

 「そうだな。じっちゃん……俺、ちょいと学園に迎えに行ってくるよ」

 「…………うむ。それではわしは、ゆるりと待っておるよ」


 道場へと入っていくじっちゃんの後姿を見送る。

 偶然だとは思うが、俺の手にはじっちゃんの竹刀が握られていて……まだまだ、敵わないことを実感した。

 夕暮れに染まる空を見上げた。

 あの太陽が完全に沈み、また朝日として顔を出すときには……俺たちは、日常に帰れているのだろうか?


 竹刀を一度、振るってみる。

 左肩は完治していない。誰にも彼にも隠しているが、俺の左腕は使えないと考えていい。

 だから、右手の力だけで。左手は添えるだけ。


 「ま……使わないで済むのが一番なんだけどなぁ……」


 ぽつり、と口の中で呟いた。

 誰にも拾われない言葉ですら、風に乗って飛んでいく。

 首にかけられたペンダント……『霊核』という名の宝石が目的の品物だ。


 「…………さて、と」


 携帯電話にコールする。

 もちろん、相手は月ヶ瀬舞夏……恐らくこの通話は最初で最後となるだろう。

 コール音が三回、きっかり鳴ってから反応がある。


 「はい、月ヶ瀬舞夏です」

 「もしもし……黎夜だ」


 交渉の時間まで、二時間を切っていた。



     ◇     ◇     ◇     ◇



 時刻は八時。

 交渉の時間、指定場所は夜の学園……グラウンドだった。

 新東雲学園のグラウンドは広い。外周を走れば四百メートル以上は走れるほどに。

 黎夜はそこに立っていた。


 「………………」

 「ようこそ、無涯黎夜」


 そして、交渉の相手もそこに立っていた。

 カイム・セレェス。数日前から黎夜に付きまとい、殺そうとまでした不倶戴天の敵。

 その隣には天凪葉月と、気を失って彼女に抱えられた沙耶がいた。


 「……………………」

 「葉月……」

 「否。何も言わないでください、無涯の黎夜……罵倒なら、甘んじて受けます」


 無涯の黎夜、と彼女は呼ぶ。

 それは決別の言葉に他ならない。そのことは……お互いに分かっていたことだった。

 葉月の表情は暗いまま、俯いていて見えない。

 決して黎夜と目を合わせようとしない。それはまるで……合わせる顔がない、と言っているようだった。


 「……さて、それじゃあ手短に済ませよう。そのほうがお互いのために良いだろう?」


 黎夜は、カイムを睨み付ける。

 そうだ、こいつが元凶なのだ。だからこそ黎夜はその顔を忘れない。その憎たらしい笑みを刻み付ける。

 カイム・セレェスには罪悪感を感じている様子すらない。

 当然だ。目的のために手段を選ばないのだから……どんなことにでも、手を染める裏の住人なのだから。


 「では、ペンダントをこちらに渡してもらおう」

 「沙耶が先だ。こっちに、渡してもらうぜ」

 「……立場が分かっていないのかな? もう一度言うよ、ペンダントを最初にこちらに渡すんだ」


 互いの視線が重なり合う。

 険悪な雰囲気、一触即発……だが、黎夜はここだけは譲らない。

 沙耶の無事を確かめなければ、取引には応じられない。


 「……カイム。少女を先に渡しましょう」

 「天凪、情にほだされるのはよせ。それは君の悪い癖だね、クレープを買い忘れたことをまだ根に持っているのかい?」

 「否。重ねて否。これはあくまで『交渉』なのでしょう? ならば、その意思は私に指揮権がある、という取り決めがあります」


 む、とカイムは少しだけ詰まる。

 確かにこの件がカイムの仕組んだことであろうとも『交渉』としての枠で捉えるなら、葉月のほうに決定権がある。

 自分は『戦闘』においての決定権を譲ってもらっているのだから、ここは許容しなければならない。


 「それに、向こうが約束を破ろうとしても無駄です。少女を抱えたまま、私たちから逃れる術などありません」

 「……そうだね。分かった、言うとおりにしよう」


 カイムが承諾し、葉月が黎夜に向かって歩き出す。

 その腕には沙耶が抱えられている。夜目ではあるが、見たところ不審な点はない。

 カイムと会話している間も、葉月は俯いたままだ。それはもちろん、こっちに近づいてくるときも。


 「……クロロホルムで眠らせてあるだけです。しばらくは意識が昏倒としますが、後遺症の心配はないかと」

 「沙耶は何も知らないんだな? 俺たちのことも、霊核やら裏の世界やら、お前らのことも」


 是、と葉月は肯定する。

 なるほど、確かに取引の内容通りだ。こうすることで、沙耶は日常に帰れる。

 見た感じ、着衣に乱れがあるわけでもないし、怪我をしている様子もない。それが分かった瞬間、心の底から安堵した。


 「じゃあ、次はそちらの番だ。天凪にペンダントを渡してくれ」


 カイムが段取りを決めていく。

 黎夜を一度、目を閉じると首の後ろに両手を伸ばす。

 かちり、と音がひとつ。

 そうして葉月に差し出されたのは、青い宝石の取り付けられたペンダントだった。


 「……これで、いいんだな?」

 「是。……できれば、こういう形にしたくなかった、と……私は言い訳します」

 「それは、こちらも同じなんだけどな」


 これにて、交渉は成立した。

 カイムは高らかに交渉は無事に成立したことを宣言した。


 「いやいや、ご苦労様、お疲れ様。これで私たちの仕事もとりあえずは終わった、というわけだ」

 「……じゃあ、こいつは連れて帰らせてもらうからな。じっちゃんが、うちの料理当番を待ってるんだ」

 「ああ、そうするといい。そこのところは手配しておくよ」


 ふと、カイムはそんなおかしなことを口にした。

 手配、とカイムは言う。

 今更、カイムたちに何かを任せることなど、なにひとつもないはずだ。それなのに『手配』とは何を指すのだろうか?


 「……どういう意味だ?」

 「おやおや。まさか、意味が分からないのかい? 君の大切な妹は、我々が責任を持って家に送り届けてやろう、と言っている」

 「んなこと、誰が頼むか。心の底からお断りだ」


 腹立たしげに沙耶を抱えて、黎夜は踵を返そうとする。

 カイムはその様子を見て、困ったように呻く。

 そうして、放たれた一言は……黎夜を凍りつかせるのに、十分なほどのものだった。



 「だって、君はここで死ぬんだよ? 誰が彼女を無事に送り届けると言うのかな?」



 はた、と……後ろに一歩進もうとした足が止まった。


 「……は?」


 意味が分からない。

 何故、自分が死ぬ必要があるのだろう、と。

 交渉は正しく成立しているはず、と思うと冷や汗が流れた。


 「……どういうことだよ、それ……交渉とやらは、口実か?」

 「人聞きの悪いことを言わないでほしい。私は確かに君と交渉したよ、ペンダントの代わりに……『君の妹は無事に帰す』、と」


 くくくくく、とくぐもった笑い声が夜の闇に木霊する。


 「君の……いや、お前の命を保障した覚えは一切ないんだよ、無涯黎夜」

 「くそったれがっ……最初から、その心積もりかっ!!」


 叫ぶと同時に、もう一方からも声が上がった。

 それは葉月のものだった。

 いつもでは考えられないほどの、叫び声で……出逢って間もない黎夜ですら、驚いた。


 「カイムッ……本当に……本当にもう、どうしようもないですかっ!?」

 「どうしようもないよ。これは……明確なルールの問題だ」


 いいかい? そんな、駄々をこねる子供に言い聞かせるような声色。

 カイムは己の武器であるサーベルを腰から引き抜きながら、くくくく、っと不気味な笑みで語る。


 「これは『交渉』ではなく『戦闘』だよ? 裏世界のルールを護る、極めて重大なルールの問題だ。

  彼は表の住人にしては、知りすぎてしまった。

  『旅団』、『アスガルド』、『霊核』、『魔術』……様々なものを見聞きしてしまったんだ。

  このいずれでも、表の世界に知られては世界の天秤が崩れ去ってしまう。

  故に私たちの世界の法律に従い、知られてしまった一般人の記憶を消す……ないし、存在を消さねばならない」


 カイムは敢えて語らないので、黎夜は知らない。

 記憶を消すには、それなりの準備と人材が必要になる。黎夜のように……色々なものを見てしまった身としては、特に。

 だからこそ、カイムは彼を殺害する、と宣告した。

 それは裏の世界においては当然の義務と見なされ、そこに交渉などが入り込む余地などないのだ。


 「故に戦闘を開始する。いいかい、天凪……これは『戦闘』だ。その権利については、私に指揮権がある」

 「っ……それは……だからっ……」

 「もっと、冷酷になれ。理想と現実に挟まれて苦悩するのは、君なんだからな」


 そうして、カイムはサーベルを黎夜に突きつける。

 その距離は十メートルほどだが、カイムがその気になれば一息で詰められる程度の距離でしかない。


 「………………」


 黎夜は葉月と同じく俯いている。

 ようやく、葉月が顔を上げた。その瞳は涙で濡れていて……悔しさで、唇を噛んでいた。

 きっと黎夜が学園に訪れたときから、そんな顔をしていたのだろう。ずっと……嘆く一歩手前で、耐えていた。


 ごめんなさい、と彼女は言っていた。

 この結末を知っていたからだ。知っていたのに……それを教えることは出来なかった。

 それは、彼女が忌むべき『生ある者の命を諦める』と同意だったからこそ。


 「なに、心配はするな。君が消えても世界は正しく廻り続ける。

  学生が行方不明、通り魔に狙われたことがあって警察に相談、ニュースは騒がしくお茶の間を賑わせる。

  しかし、気にするな。こういう形で人が行方不明になることは『よくあること』だ。

  五年、十年と時間が流れる間に忘れられていく。

  他人からはもちろん、家族からも忘れられ……無涯黎夜という存在は過去となることを受け入れられる」


 家族のことは時間が解決してくれる。

 だから案ずることはない。安心して消えてくれ、とカイムは言う。

 なんて不条理、と葉月は思った。

 なんて理不尽なんだ、と噛み締めた唇から血が流れるのも構わず、俯いていた。


 無涯黎夜はただ巻き込まれただけの一般人だ。

 月ヶ瀬舞夏やカイム・セレェスに一方的に知識や経験を押し付けられ、それが理由で死んでくれと言う。

 それは結末としてはあまりにも最悪の話だった。


 「そうかよ」


 黎夜は、深い溜息をついて言う。

 本当に残念そうな声色で語る。

 カイムはその態度を不審に思った。もっと、取り乱すものだと予測していたから。

 そうして、その口元は絶望に引きつっているわけではなく……獰猛そうな獣のような笑みであることに気づいた。



 「だ、そうだ……舞夏。どうやら、悪い予想が当たっちまったみたいだな」

 「ええ……確かに、喜んでいいのか悲しんでいいのか、迷うところですね」



 ギョッと、カイムの肩が震える。

 最初はあの時みたいに、ハッタリかと思った。

 だが、それは間違いだと否応なく気づかされる。

 沙耶を抱えた黎夜の背後、白いワンピースに赤髪……優雅に佇む少女がそこにいた。


 「……どういう、ことだ?」

 「お前のやったことと同じだよ、カイム」


 説明する気は無い。簡単に答える。

 それに、そんなことはどうでもいい。

 そうだ……黎夜にとって、そんな些末事は本当に心の底からどうでもいい。


 「沙耶がさらわれたのも、葉月が自分の正義のままに動けないのも、舞夏がこうして現れたのも」


 一言、息を吸い込んで。


 「全部、お前のせいだろ。カイム・セレェス」


 人質という手段を選び、沙耶をさらうように指示したのは、カイムだ。

 葉月がこんなにも悲しそうな顔をして、唇から血が滲むほどに噛み締める理由もカイムが元凶だ。

 そうして、舞夏が最終的に現れたのも……カイムが言葉の裏を舐めるようなことを言ったから。



 「結論、要するに……テメェさえ打っ潰してしまえば、それで解決って話だよっ!!」



 そうして、黎夜は竹刀を取り出す。

 沙耶はそっと、地面に寝かせてやることにした。


 月は半月、星空は輝き校庭を照らす中。

 無涯黎夜、月ヶ瀬舞夏、カイム・セレェス、天凪葉月。

 四名がそれぞれの立場で激突するまで、それほどの時間はかからないだろう。


 「カイム・セレェス……テメェの思うとおりに算段を進めようってんなら」


 この男を許しておけないという『決意』と、そのために真っ向からぶつかり合うことへの『覚悟』。

 故に黎夜が握る竹刀に力が入る。

 世界の理屈がどうとか、知ったことではない。そんなことは、本当に心の底からどうでもいい。

 ただ妹に、また家族を失う痛みを与えろと言い放った、カイムだけは許せない。


 彼の背後には妹が、護るべき家族がいる。

 これより一歩も敵は通さない、と黎夜はその瞳で語りながら、夜の学園に響く声で宣言する。




 「その思い上がり、無涯の名の下に斬り捨てるっ!!」



 決戦の合図はない。

 ただ、青年の怒号を基にして、月下の戦いが始まった。




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