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第1章、第7話【物語の歯車は動き出した】







 「……………………」

 「……………………」


 前略、母さんへ。

 私は今、自分の部屋で女の子と二人きりで、正座で向き合っています。

 少女は可愛らしい悲鳴が恥ずかしかったのか、顔を赤らめながら恨めしげに睨み付けてきます。

 こんな状況でそんなに見つめられると、自分が悪いような印象を受けてしまうのですが、自分にも弁護の余地はあると言いたい。


 誰か、教えてください。

 どうして俺はこんな状況になっているのでしょうか?


 「…………」

 「えーと……」


 とにかく、まずはこの空気を何とかしたい。

 こんな風に上目遣いで見られるとヤバいって言うか、すごく気まずいっていうか。

 こんなことになったのも、全てはきっと沙耶のせいだ。



 ちなみに数分前の俺の部屋のVTRがこちら。




     ◇     ◇     ◇     ◇




 「うおおおぉぉぉああああああああああああっ!!!!!」

 「ひゃああああっ!!?」


 無涯邸に響き渡る悲鳴。

 誰よりもそれを察知したのは、誰あろう我が妹である無涯沙耶だった。

 ダダダダダダダ、廊下を疾走してくる音と共に……そいつは現れた。


 「お兄ちゃぁぁあああああんっ!!!」

 「沙耶っ!」


 助かった、と思った。

 状況が理解できない以上、この異常を沙耶に説明してもらおうと思ったのだ。

 そうして希望の星へと振り向いた。

 瞬間、ゴツリッ!! と、壮絶な衝撃で、俺はベッドの向こう側に吹っ飛ばされた。


 「今、女の人が悲鳴をあげたよねっ!? まさか、人の道をはずしたんじゃあ!?」

 「絶望した! 俺の悲鳴のほうはスルーされていることに絶望したっ!!」

 「だ、大丈夫ですか!? お兄ちゃんに変なことされたんじゃっ……わ、私、なんてお詫びしたらっ……!!」

 「さらにスルー(無視)が炸裂かよっ!?」


 殴られた頬を押さえる。

 真っ赤に腫れてるところを見ると、かなり本気だ。

 どうやら……一日、無断外泊した時点で、俺の妹からの好感度パラメータは下がっているらしい。


 「だって、お兄ちゃんが無断外泊したり、女の子は入れろって言ったり!」

 「だいたい、どうしてそうなる!? 昨日は祐樹のところに泊まってたって言ったぞ!」

 「嘘だっ!! 昨日、祐樹さんの家に泊まったのは啓介さんのほうでしょ!? 知ってるんだから!」


 ……そうなのか。

 まあ、考えてみれば沙耶が俺の行方を心配する場合、あいつらに連絡が行くのは当然だしな。

 沙耶が泣きながら警察署内に付いてきたのは、そういう事情かよ。


 「どうせ、この前の赤髪の綺麗な女の人の家にでも行ってたんでしょー!?」

 「はっはっは。………………そんなわけ、ないじゃございませんですのことよ?」

 「うわぁ、すごい棒読み口調だー!」


 うん、大正解。

 すごいな、沙耶。頭脳明晰じゃないか。

 俺は妹の成長が嬉しくて涙が出る……決して、信用を失って悲しいわけじゃないんだからな。本当だぞ、畜生。


 「……あの」

 「すまない。俺が言うのも間違ってるが……うちのバカ(妹)を止めてください」

 「…………是。た、確かに……このままでは、話が進みません」


 一歩、少女が前に出る。

 コホン、と堰をひとつして、狂戦士と化した我が妹へと立ち向かう。

 その背中を、美しいと思った。

 きっと、瞳に宿る意志は固いものだろう。出来れば、もっと違う場面で使ってほしかった。


 「……落ち着いてください、私は何もされていません」

 「えっ、えっ、えっと……本当に……?」

 「是。私の衣服に乱れはありません。また、性的な嫌がらせを受けた記憶もありません」


 ああ、いつの間にか俺は女の子を押し倒すかも知れない『お祭野郎』になってる気がする。

 だけど、少女は俺を庇ってくれる。それが妙に嬉しい。


 (もっとも……恥をかかされた、という意味では別ですが)


 聞こえてる。呟きが口に出てるって。

 幸い、沙耶にはその言葉が聞こえなかったようだ。少しずつ、冷静さを取り戻していくのが分かる。

 それに追い討ちをかけるように、少女は語る。


 「……彼は、闇雲に女性を押し倒す不埒漢なのですか? そうなると、認識を改める必要が」

 「天地天命、神に誓おう。―――違うわっ!!」

 「是。……というわけなので、ご心配には及びません。貴方の兄は誠実な人だと……私は信じています」


 そうと言われれば、沙耶にも返す言葉がない。

 ぼー、と流水のような言葉の羅列に呆然として……そして、感心したように呟いた。


 「……お兄ちゃん、この人ってすごいね」

 「俺はお前の妄想力がすごいと思うよ」


 とにかく、助かった。

 こうして惨劇がひとつ回避され、俺は心の底から安堵の溜息をつくのだった。


 「……申し訳ありませんが、彼と内密の話があります。退席していただけませんか?」

 「あ……はい。お邪魔しました、お騒がせしてすいません」


 まったくだ、と呟く俺の言葉は妹の耳に入らない。

 最後に一言、沙耶は出て行く直前に。


 「……それでは、ごゆっくり。それにしても大きな悲鳴だったねー」


 そんな、爆弾を落としていくのだった。

 少女が自分の上げた悲鳴を実感し、顔を赤く染めて俺を睨み付けるのは数秒後。

 沙耶、何の恨みがあるんだ、俺に。




     ◇     ◇     ◇     ◇




 「…………」

 「……」


 で、今に至る。

 このままお見合いみたいに向き合っているのも良くない。

 と、いうわけでアクション開始だ。


 「……名前、知らないな」

 「天凪、葉月と言います」

 「そっか……俺は」

 「否、存じています。無涯の黎夜……私の仲間から、お話を窺っています」


 事務的な返答。

 まるで侍従とか秘書のような機械的な喋りかただ。

 見れば、赤面していた顔はもうない。無表情に無感情に、俺を見つめ続けている。


 「仲間……それって」


 舞夏のことか、と聞こうとしたところで携帯にコール音。

 着信の相手は『野牧誠一』となっている。

 ここは無視するべきなのだが、今日の件を考えると誠一にも行方不明の報が届いているはずだ。


 「……えーと」

 「出ても構いませんよ。私は、気にしません」

 「悪い、すぐに済むよ」


 葉月から少し離れたところまで行って、耳に携帯を当てる。


 『黎夜か?』

 「ああ、誠一。俺の話は聞いていたかな?」

 『ああ、聴いた聴いた。祐樹に口裏合わせた奴だろ、啓介経由でな』


 若干、心配するニュアンスの声色だったので確認を取ってみる。

 向こうでひとつ、息を吐くような雰囲気。

 そこまで心配してくれたのかー、と少しだけ感動していると……凄んだ声が返ってきた。


 『要するに、自分との模擬戦の約束も忘れて遊び呆けていた、でファイナルアンサー?』

 「……あ」

 『あ、じゃないだろうっ!?』


 しまった、模擬戦のことすっかり忘れてた。

 案の定、向こう側からは怒鳴り声が聞こえる。……喧しいので、携帯を耳から話して受け流す。

 すまない、誠一。俺にも色々あったんだ……説教も、今は勘弁してくれ、切実に。


 『……ったく。まあ、いいや……じゃあ、本当になんでもないんだな?』

 「ああ、一応無事だぞ。詳しくは明日にでも話す」

 『やれやれ、やれやれ。そうしてくれ、じゃあな』


 ぷつり、と通話が終了する。

 振り返ると、葉月は正座したまま瞑想していて、俺を待ってくれている。

 通話が終わったことに気づくと、瞳を開いて俺の次の言葉を待つ。


 「すまなかったな」

 「否、気にすることはありません。昨日はご迷惑をお掛けしましたから」

 「ああ、いや……うん? 昨日?」


 舞夏なら今日別れたばかりだ。昨日、迷惑をかけられた覚えもない。

 迷惑をかけた、というフレーズには特に違和感だ。

 そもそも、舞夏の仲間とは誰が言ったのだろうか……違う、俺が勝手に決め付けただけだ。


 昨日、迷惑をかけられた相手は一人だけ。

 舞夏と敵対している通り魔、改め……組織の殺し屋らしい、カイム・セレェスという男。


 「葉月は、何者だ?」


 改めて、意味のない質問をした。

 葉月にもその真意が汲み取れたのだろう、少しだけ表情を曇らせると言う。



 「私の所属する組織の名は『アスガルド』……相棒の名を、カイム・セレェスと言います」




     ◇     ◇     ◇     ◇




 「……はい。はい……そうですか。それは本当に良かった……では、ご養生を」


 ぷつり、舞夏は連絡を終えて、前を見据える。

 そこにはタバコを吹かして舞夏の反応を待つ、カイム・セレェスの姿がある。

 場所は住宅街、一般道。

 夜の闇にも蛍光灯の光で照らされ、とても裏の世界の住民同士の会合の場所に相応しいとは思えない。


 「……確認は取れたかい?」

 「ええ。無涯邸に待機させていた部下の容態を聞きました。……どういうことですか?」

 「聞いての通りさ、他意はないよ」


 部下は四名、いずれも腕や足を折られて戦闘不能になっている。

 組織ご用達の学園都市唯一の病院で、入院に手続きを行っているところだ。

 だが、それだけだ。

 誰も死んでいない。組織同士の抗争で……彼らはただ、動けなくなっただけ。


 「貴方がたも、私たちも……人殺しの道を肯定する組織。そのはずだ、と記憶していますが……?」

 「ああ、概ねそれで間違いないだろうね」

 「それが……何故? 私の部下たちを生かしたところで、そちらに利があるとは思えません」

 「そうだね。少なくとも私なら……敵と定めた人間に容赦はしない。襲撃者が私なら、君の部下の命はなかった」


 淡々と、カイムは自身の罪悪を笑う。

 そして、その口を真一文字に結んで真面目な顔を作った。


 「だが、彼女は違う。彼女は『クロノア』として活躍しているがね……人は一人も殺したことがないんだよ」

 「……それは、何故」

 「何故、と聴くのは可笑しいだろう? 本来、殺人は肯定されてはいけないはずだ。誰も殺していない、というのは当然だがね」

 「それは、詭弁でしょう」


 もちろん、それは表の世界の住人の話。

 舞夏もカイムも、そして舞夏も裏の世界の住人だ。

 裏の世界に入ってしまったなら、むしろ罪を犯さない人間のほうが難しい。必ず、その道に入ったものは業を背負う。

 それは己の理想のために。

 手を汚してでも叶えたい願いがあるからこそ、裏の世界に足を踏み入れるのだから。


 「種明かしをするとね、君と同じようなものだよ、月ヶ瀬舞夏」

 「……私と?」

 「そう。……妙に何かにこだわりを持つ。目的のために手段は選ばない、そんな精神が君たちにはない」


 それが共通点かな、とカイム・セレェスは口元を歪める。

 彼にはその考えが理解できないんだろう。裏の世界に浸りきった存在と、そうでないものの違いがそこにある。


 「『霊核』が欲しいなら、さっさと奪うべきだ。特に君にはそのチャンスがたくさんあった」

 「………………」

 「そして、彼女も同じさ。任務のために『霊核』を求める。だけど、持ち主に強要はさせない」


 それは唯一の不満なのか、カイムは短くなったタバコを地面に捨て、踏みつける。

 舞夏は腕を組みながら、カイムの話に耳を傾ける。

 その話が本当なら、恐らく黎夜に危険はない、はずだ。この男の言葉が……本当に真実ならば。


 信用、できるはずがない。

 それでも舞夏は話を聞き続ける。一笑に付さず、その内容を吟味して決めていく。


 「……本来、あの『霊核』の回収任務は天凪に一任されていた」

 「貴方は、それに反発してここに来たんですね?」

 「ああ、不満だったね。天凪に任せれば、最低でも一週間は掛かる……私なら、1500秒もあれば十分だ」


 そのはずだったのだが、と忌々しげに頭を掻いた。

 額に残る傷と包帯が、その自信を打ち砕いてくれた。それについて、カイムは自分の浅慮さを反省するしかない。

 言うなれば強硬派のカイムと、穏健派の葉月。

 この二人が相棒としてやっていけることが信じられないが、それでも上手くいっているのだから仕方がない。


 「…………」

 「そう睨まないでくれ。まだ、私は正々堂々としたほうだよ?」

 「……とても、信じられませんが」


 確かにカイムの動きも、最悪とまではいかない。

 後ろから不意打ちし、ペンダントを奪って逃走する……これだけなら、そこらの不良だって出来る。

 カイムはそんなチンピラのようなことはしていない。

 そこを考えると、十分にカイムにも人としての良心に近いものがあるのかも知れない、と舞夏は思った。


 「つまり、貴方たちは……」

 「そう。あくまで君たちに邪魔されないよう、交渉という形に持っていくことにした。平和的だろう?」

 「それは、まあ……」


 確かに舞夏に異論はない。

 黎夜も含めた誰もが危険ではないし、交渉という手札ならば舞夏のほうに十分勝算がある。

 そこで妥協すべきだ。それが一番の安全策のはず。


 「その使者として、天凪は無涯黎夜に交渉を持ちかけている」

 「つまり、私がそこに乱入すれば……」

 「そう、必然的に組織同士の争いとなるね。無涯邸で『霊核』を解放すれば……どれだけ被害が出るだろう?」


 なるほど、そういうことなら無涯邸に乗り込むのは断念しなければならない。

 それにカイムとは殺し合いを前提とした関係ではあるが、無理をして戦う必要などない。

 舞夏はそう、自分を納得させることにした。

 

 ただ、違和感は消えてなくならない。

 どう考えても相手が不利だ。交渉という、自分たちに都合の悪い土俵に上がるのはどういうことだろう。

 黎夜を救った舞夏たちと、黎夜を殺そうとしたカイムたち。

 どう考えても、勝敗は明らかだと言うのに。


 「…………!」


 プルルルル、と携帯のコール音は舞夏のもの。

 カイムは肩をすくめると、闇にまぎれるように消えていく。黒衣が周囲の黒と同化している。

 唯一、目立つ金髪がまだ存在を証明しているだけだ。

 それは、もうそろそろ帰るという意思表示だろう。用があるなら、さっさと済ませてくれ、と。


 「では、失礼します……もしもし。旅団、第四部隊長、月ヶ瀬舞夏です」


 相手からの電話は短かった。

 一度だけ、舞夏は頷くと通話を終了する。それは電話というより、通信機での会話のようだった。


 「……報告がありました。無涯邸、黎夜さんは無事のようですね」

 「おやおや……これだけ言っても、まだ信用されてなかったのか」

 「当然でしょう? 私たちの関係は、決して信じあうものではない……それを、貴方はご存知のはず」


 だからこそ、舞夏は思う。

 この話には裏がある。舞夏のそれは確信に近い。

 気づいたときには自分の手の届かないところに事態が進んでいる、そんな予感がある。


 「それでは、ごきげんよう、カイム・セレェス」

 「ああ、それではさようなら、月ヶ瀬舞夏。お互いに健闘しようじゃないか」


 彼らしくない台詞と共に、金色の髪も消失する。

 立ち去るカイムを見送ることもせず、舞夏は黎夜の家ではなく、自分の居住するホテルへと歩いていく。

 一度感じた違和感は戻らない。

 少し、調べてみる必要があるだろうか、と……舞夏は顎に手を当てながら帰宅していった。




     ◇     ◇     ◇     ◇




 「私の所属する組織の名は『アスガルド』……相棒の名を、カイム・セレェスと言います」


 その言葉で、無涯黎夜の心が凍った。

 驚いた表情のまま、黎夜は停止する。身体は……いつでも、動ける体勢を整えた。

 葉月に動く様子はない。真っ直ぐ、黎夜の瞳だけを見つめている。


 「……つまり、お前」

 「是。カイムの仲間です。彼は現在、月ヶ瀬舞夏と接触中でしょうか……」


 黎夜の中で警戒心が生まれるのも当然だ。

 彼にとってカイムに限らず、カイムの所属している組織が悪であるという法則が成り立っていた。

 それは襲われた者なら当然思い描くだろう、必然の想定。

 葉月は思う。その警戒を解くのは並大抵のことではないのだろう、と。


 「警戒しないでほしい、とは思います。カイムならともかく、私に貴方たちを如何こうする気はありません」

 「……まあ、それは沙耶が来たときの対応で、分かってるつもりなんだが……」

 「そうですね。……ですから、警戒したままで結構です。どうか、私の話を聞いてください」


 葉月は黒いポニーテールを弄りながら、とつとつと語りだす。

 本来、自分たちもまた交渉という形を持ちかけようとしていたこと。

 それを強硬派であるカイムが強引に話を進めようとしたこと。

 ひとつひとつを、丁寧に。要点を分かりやすく説明しながら、葉月は訴える。


 「私たちとて、無駄に争いたくはありません。そんなことを望むのは支配欲に溺れた上層部のみ」

 「だが、お前も舞夏も、その上層部の言いなりになって、殺し合うんだろう?」

 「是。そこについては言い訳も出来ません。……ですが、言及はやめてください。私たちにも、事情があります」


 そう言われては、黎夜に言えることは何もない。

 人殺しを肯定してまでの事情、それに踏み込めるほど無涯黎夜は愚かではない。

 愚かではないのだが、やっぱり胸が軋むように痛みを感じるのは莫迦だから、だろうか。


 「それで、お前たちは『霊核』を集めて戦力を増やすのが目的なんだろう?」

 「…………是。その話を知っているなら、話は早いですね」


 葉月の目は真剣だ。

 全力でこちらにぶつかってくるように、真正面から堂々と交渉してくる。


 「ペンダントを私たちに譲ってください。お互いのために、お願いします」


 その目を見て、黎夜は思う。

 彼女の瞳は舞夏と同じ、憂いに満ちている。

 葉月もまた人の命を尊べる人間だ。

 裏の世界にいてなお、カイムのように光を失うことなく輝き続けるような、格好良い奴なんだ、と。


 「……お互いのため、というのは脅しか?」

 「不本意ながら……是、というべきでしょうか。貴方は……やり過ぎました」

 「やり、過ぎた……?」


 無表情のはずなのに、やはり悲しそうな雰囲気を黎夜は覚えた。

 葉月は躊躇いがちに語る。

 それは自分たちの始末すら付けられない、そんなことを謝罪するような言葉。


 「カイムは容赦がありません。そのカイムに、貴方は目を付けられた」


 カイム・セレェスのことを黎夜は思い出した。

 額に一撃をいれ、一時的にでも優勢を保ったあのときの……カイムの絶大な殺意を。


 「彼がどんな行動をとるか、私にも分かりません。……しかし、良い予感はしませんね」

 「そっちが止めてくれる、なんてことも出来ないのか?」

 「是。忘れないでください。私もまた『アスガルド』の一員……お互いの行動に首を挟まないことが、ルールです」


 そうでなければ、カイムはこの交渉の最中にでも襲ってくる。

 だから、ちゃんと役割を決めるしかないのだ。

 説得役の葉月が行動している間は、彼も強攻策に出ない。強攻役のカイムが打って出るとき、葉月は止めない。


 こうしたルールを互いに守るからこその、絶妙な相棒関係。

 だからこそ、葉月は成功させなければならない。

 黎夜からペンダントを譲渡してもらい、カイムが黎夜を襲う理由を無くさなければならない。

 そうでなければ、今度こそ青年は殺されてしまうから。


 「ですから、お願いします。譲ってください」


 だから、葉月は訴える。

 ここで成功させなければ、それを理由にカイムが動くから。


 「……どうして、そこまで心配してくれるんだ?」


 その心が黎夜には分からなかった。

 舞夏は分かる。彼女は巻き込んでしまったことへの罪滅ぼしのつもりで、親身になってくれている。


 だが、天凪葉月は違う。

 無涯黎夜とは何の関係もないし、情も憐憫も感じられるほどお互いのことを知らない。

 それなのに、どうしてここまで必死になるのか分からなかった。

 葉月は息をひとつ呑んで、そしてゆっくりと口を開く。


 「これが、私の理想だからです」


 その言葉は、妙にはっきりと黎夜の耳に届いた。

 理想? と、反復して鸚鵡返しに尋ねると、葉月は頷いた。深く、ゆっくりと大きく頷いた。


 「私は、誰にも傷ついてほしくはないんです。本当に、それだけなんです」


 だから、力を手に入れた。

 葉月は昔を思い返すように、遠い目を一瞬だけ黎夜に見せた。


 どうにもならないことがあったのだ。

 未熟な葉月にはどうしても救えない命があったのだ。

 それは昔も、今も同じ。

 それでも、諦めない。無様でも愚かでも、馬鹿げていても……決して、諦められない願い。


 「仲間は当然、一般人にも……敵にも、本当は傷付いてほしくないんです」


 救えない命というのは、つまるところ死んでいく者のこと。

 倒れていく味方も、巻き込まれる一般人も……そして、敵対しているはずの人間ですら、葉月は助けたかった。

 その願いを、ある人は人格破綻者の夢想だと言った。

 まったくその通りだ、と葉月は肯定して見せた。だって……それが不可能なことは、葉月自身もよく分かっているのだから。


 「間違っていますか……? 私の願いは、間違っているんですか……?」

 「それ、は……」

 「消えていく命を、仕方がないって肯定することが……正しいんですか……?」


 黎夜には答えられない。

 今までの人生を安寧に過ごしてきた黎夜には、迂闊な返事なんて出来ない。

 葉月は感情を抑え、深呼吸をひとつする。

 そうすることで、彼女は切り替えてきた。表の世界を捨てきれない顔と、裏の世界に徹する顔を。


 「失礼しました……ですが、これで分かったと思います」

 「…………」

 「これが、最後です。無涯の黎夜……ペンダントを、私たちに譲ってください」


 もちろん、舞夏が提示する条件以上のことを約束する、と付け加えて。

 黎夜は考えた。じっくりと、その言葉を全てを吟味した。

 そうして、数分の沈黙。

 重々しく、黎夜は口を開く。首を……横に、振りながら。


 「最初に、交渉を持ちかけてきたのが葉月なら……変わったのかも知れない」


 本当に心の底からそう思う。

 舞夏の優しさに触れず、葉月の優しさに最初に出会っていれば、結果は違っていた気がする。

 だけど、ここで葉月に決断を求められて……ようやく、気づいたのだ。


 ここでは渡せない、と。

 そう思ってしまったとき、その事実がストンと心の中に落ちて解けていった。

 悩んだのはきっと、決意のための時間稼ぎ。

 舞夏に渡す以外に……黎夜の中で、選択肢を用意することができなかった。


 「でも、多分俺は……今日、もう決めていたんだと思う」


 渡すなら、舞夏に。

 常に護ってくれて、対等に平等に接してくれた彼女が悲しむ顔は見たくなかったから。

 それが、間違っているのか正しいのかも黎夜には分からない。

 だから自分のために、願いのために説得を続ける彼女に……ごめん、と。ありがとう、と伝えた。


 「これは、舞夏に渡したいって。俺はきっと、そう思ってるんだよ」

 「………………」


 葉月は、静かに瞳を伏せた。

 だが、動揺した動作はそれだけ。本当に、それだけだった。


 「……そう、ですか。……残念です、無涯の黎夜」

 「その、無涯の黎夜ってやめて欲しい、んだが……ちょっと仰々しい感じが」

 「是……では、黎夜と。ですが、この会話も恐らく無為になります」


 葉月は正座していた足を崩し、そして立ち上がる。

 黒くて長い髪が尾を引いた。

 話は終わったのだから、きっと葉月もここに長居する気はないのだろう。それが、黎夜にも分かった。


 「…………それでは」

 「ああ、ゴメンな」


 葉月を見送ろうとするが、手で制される。

 見送りは必要ありません、とその瞳が悲しげに揺れていた。

 ドアの前に立ち、一度だけ黎夜のほうに振り返る。


 最後に一言。

 天凪葉月は、本当に寂しそうな声で。



 「…………………………ごめん、なさい」



 そんな、意味深な言葉を口にして、部屋から出て行った。


 「……なんで、向こうが謝るんだ……?」


 むしろ、葉月の説得を一身上の都合で断った自分が何度も謝るべきだ。

 彼女の気遣いは純粋に嬉しかった。

 黎夜は舞夏や葉月のような、そんな人たちが好きだった。

 強い意志を持って、人を思いやれるような奴が大好きだった。


 「……まあ、いいや」


 とにかく、葉月のおかげで決まった。

 明日にでも、舞夏と連絡を取ろう。今日はもう遅すぎる。後はゆっくり、ベッドに身を委ねるだけだ。

 飛び込んだ瞬間、すぐに眠気が襲い掛かってきた。

 本当に疲れていたからだろう……だが、それも恐らく明日には終わる。


 だが。


 眠りに落ちていく黎夜は知らなかった。

 自分のこのときの選択は、この先の彼を確実に裏の世界へと引き込むことになることを。

 それは、近い将来の話。

 物語を綴る者は歯車を廻し続ける。それは、開演を告げる鐘の音。




     ◇     ◇     ◇     ◇




 翌日、いつもどおりの朝だった。


 妹に喧しく起こされ、作ってもらった朝食を平らげて……朝練に向かう沙耶を見送る。

 じっちゃんと軽く話し合い、笑いあいながら……時間が来たので、学校に行く。

 違うといえば登校途中で啓介と出逢い、一緒に雑談をしながら登校することにした、という一点だけだ。


 「……と、いうわけでな。残念ながら逃げられた」

 「マジで? それにしても、黎夜も無茶するなぁ。そんなの警察に任せとけばいいのに」

 「いやぁ、やられっぱなしは性に合わないんだよ」


 かりそめの真実を啓介に話して聞かせる。

 以前、襲われた通り魔と戦い、気絶させたが逃げられてしまった、と。

 追いかけていったのだが、結局見失ってしまい……しょうがないから、と帰ることにした。


 ただ、ここで警察には祐樹の家に泊まりに行った、と証言した。そんな約束をした、と。

 その一点だけはアレンジが必要なので、昔の旧友と数年ぶりの再会をした、という設定で話しておく。

 その旧友の泊まっているホテルへと行き、そのまま泊まりで昔を語り合った……ということで。


 (そりゃ、仲間内でも嘘は嫌なんだが……いくらなんでも、なあ?)


 ぼく、魔法使いみたいな女の子に逢いました。

 その人に看病されて、その女の子のベッドでずっと眠っていましたよ、ははははは。


 ……そんな説明、絶対にできねえ。


 「……へえー、まあほどほどに」

 「全力で信じてねえみたいな台詞だな、おい」

 「いやいや、そんなことはないですよ……っと、流牙発見」


 新東雲学園の校門を抜け、拳法部の道場を横切ると流牙が立っていた。

 良い汗を流した後らしく、一息ついて休憩しているところだろうか。

 ……あ、一生懸命ピーナッツを目に入れようとしてる。その姿に、思わず涙を禁じえない。


 「……啓介、あいつは頑張ってるぞ……」

 「そうだね……流牙は多分、全人類の希望か何かだよ」


 もちろん、莫迦という意味でだ。


 きっと、流牙以上に律儀で純粋な奴はそうはいない。

 この、一生懸命罰ゲームと戦おうとする勇気に感動した。悪魔、誠一にも見せてやりたい。

 ただ、目でピーナッツを噛む練習というのは、奇抜すぎる上に命がけだと思うんだ。


 「ん……おうっ、おはよう! レイヤにケースケ!」

 「おーす」

 「おはよー」


 緩い挨拶を交わす。

 ピーナッツは流牙が俺たちの存在に気づいた瞬間、口の中に放り込んでいた。

 心の中で『食うのかっ!?』と突っ込みそうになったが、武士の情けで見逃すことにした。


 「昨日はどうしたんだ? なにやら、煩かったぜ?」

 「うん、黎夜が昔の人とホテルに泊まって色々してたら、家に連絡するのを忘れて妹さんが暴れたんだよ」

 「啓介。それは冗談で言っているんだよな? 誤解を招くようなこと言うんじゃねえっ!!」


 まるで元カノでもホテルに連れ込んだかのような説明に聞こえる。

 そんな俺は疑心暗鬼になりすぎているだけか?

 声を荒げる俺の反応をひとしきり笑うと、流牙が思い出したかのようにポン、と手を打った。


 「おう、レイヤ。お前の妹って言えば……容態はどうなんだよ?」

 「あん? そりゃあ、何の話だ?」


 突如、投げやりに問いかけられた言葉が理解できない。

 沙耶の体調が悪い、なんて聴いていない。

 朝はあんなに元気だったのだ。昨晩のテンションを引き継いでいるように……なのに、どういう?



 「なーに言ってんだ。お前の妹、朝練に来てないぜ?」



 は?

 来てない?

 朝練に行くって笑って走っていったあいつが?


 どうして?

 根は真面目なあいつがサボるとは思えない。

 なら、どうして……

 どうして、どうして、どうして!? 沙耶は学園に姿を見せていない!?


 「オレはてっきり、病気かと思ったんだけどな? 怪我ならこっちに報告が来るだろうから」

 「黎夜、妹さんって風邪引いたんだ? 昨晩、心配かけすぎたんじゃないのかな、って僕は思うんだけど」


 二人の声がよく、聞こえない。

 意味が分からない。

 なんで、沙耶は朝練に出ていないのか……背中から嫌な汗が出た。心臓が鳴り響いて痛い。


 啓介と流牙を先に行かせて、俺は呆然と立ち尽くしていた。

 頭が混乱している。

 震える指で携帯にかけてみるが、何分待っても応答がない。無事を、確認できない。


 「……っ……あっ」


 俺の背中を、見知らぬ男が叩いた。

 特徴のない男だ。……いや、わざと特徴がないように偽装しているらしい。

 男は俺に手紙を押し付ける。

 任務が終わったと言わんばかりに、男は姿を消した。素早く……学園そのものから退却するように。


 「手紙……」


 乱暴に中身を確認した。

 まさか、まさか、まさか……そんな思いで絶望が胃の中を蹂躙していく。

 勘違いであって欲しい、と思うその願いは……無常にも、完膚なきまでに打ち砕かれた。




 『月並みな台詞だが、君の妹は預かった。

  無事に帰して欲しければ、こちらの目的のものを譲渡してもらう。

  今晩、午後八時。

  この学園で取引を行おう。お互いのためになる交渉を――――カイム・セレェス』



 

 【…………………………ごめん、なさい】



 そんな言葉を、呆然と思い出していた。











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