第1章、第6話【錯綜する意志】
「…………あー、恥かいた気がする」
俺は頭を掻きながら、我が家へと帰るために歩いている。
思い出すのはさっきまでの俺の醜態、というか、なんと言うか……ああ、悪かったよ。女の子のベッドに動揺しましたよ。
でも、健康な青少年としては当然の反応であるというか。
確かに女の子の部屋に入る、なんてシチュエーションは今までなかったわけで。ああ、妹は別にして。
いかんいかん、と思考をシャットアウト。これ以上は墓穴を掘るようなものでいけない。
「……それにしても」
随分な話に巻き込まれてしまったもんだ。
いや、もうとっくに巻き込まれていたんだったか。ようやく今日、そのことを自覚しただけだ。
英雄の力を蘇らせる『霊核』の話。
現に通り魔も『霊核』の使い手だったか。俺が敗れたあの力は英雄の力を上乗せした結果だった。
どんな英雄かは分からない。
ただ構えが少しばかり特徴的だったのは覚えている。それについては、また今度考えよう。
『いいですか、黎夜さん。この話も含めて……昨日のことは他言無用ですよ』
舞夏の別れ際の言葉を思い出す。
曰く、表の世界に裏の世界の話を流してはいけない、というルール(法律)が存在する。
表の世界は裏の力を借りずとも機能している。
たとえいじめや戦争や犯罪などで万全とは言えなくても、表の世界というものは歯車を活用して回る車輪だ。
そこに『霊核』を巡った争いや、組織同士の殺し合いなどが入る余地はない。
『私は黎夜さんを信頼して、この話をしました。もしもこれが表沙汰になったなら……黎夜さんは殺されるでしょう』
怖い話だが、つまりはそういうことだろう。
表の世界に知らせてはいけないことを知らせれば……これ以上、情報が漏れる前に口を封じる。
今まで俺の常識が正しく機能していたのは、裏の世界の住人がそのルールを徹底してきた実績の上にある。
『まあ、たとえ表の世界に『裏の情報』が入ったとしても、そう簡単に浸透することもありませんよ。
政府の上層部の人間にも、裏世界の住人が混ざっているからです。
彼らが情報を揉み消すでしょう。新聞報道に留まりません……例えばマリオネット(洗脳魔術)を行使したり、などですね』
そうして情報を揉み消すと同時に、情報の出所を潰す。
表の世界と裏の世界はこうやって共存していった。
ならば、今の俺は表と裏の両面を見た中途半端な存在、ということになる。いや、限りなく表に近いけど。
俺はこうして帰宅している。
だが、今は監視下にあると言っても過言ない。
舞夏たちの望みもペンダントだ。それを手に入れるまで俺に付きまとうつもりらしいから。
「………………」
舞夏は改めて俺に交渉を持ちかけてきた。
俺は力なく首を振り、彼女を困らせることしか出来なかった。
『……考えさせてくれ。情けないけどさ、これを支えにして生きてきたんだ』
『分かりました。では、私の連絡先を知らせておきます……時間はあまり与えられません、どうか』
お互いの携帯電話の番号を交換する。
本当にギリギリなんだろう。連絡が来なければ、二日後に決断を訊きに来ますね、と舞夏は念を押した。
分かっている。
言われなくても、そんな時間がないことは分かっている。
携帯電話は光っていた。
見れば着信が十件を突破していた。全部、妹からだ。そういえば一日帰らなかったことになるのか。
まあ、その辺については誤魔化すしかないだろう。
「…………『霊核』、か」
別れ際、本当に最後の最後。
舞夏は俺の背中に警告した。情報を外に漏らすことを、ではない。
このペンダントを。『霊核』を決してその身に宿さないように、と念を押して。
『決して宿してはいけません。何があっても、です。
もしも宿せば、貴方は二度と戻れない。立派な裏の世界の住人として認証されてしまいます。
命を狙われるでしょう。これは自分だけではありませんよ。
裏の住人は……貴方を始末、または仲間に引き入れるために親しい人間を利用するでしょう』
だから絶対に霊核を宿して、その力でカイムを倒そうなんて考えは持たないように、と。
そうなればカイムなどよりも厄介な奴らに狙われることになるだろうから。
くれぐれも、それは心に留めておいてください、と舞夏は言った。
俺にしてもゴメンだ。
カイム一人ですら、こうして左肩を貫かれるぐらいだ。
これでもっとヤバい奴が来るというのなら、『霊核』の力に頼りたくなんてない。
「はあ……もう、夜か」
せっかくの貴重な日曜日を無駄にしてしまった。
おかげで学園を休むまでには至らなかったが、休日を失ってしまったのは微妙に痛い。
はあ、と溜息をひとつ。春の季節、桜の花は散ってしまった並木道を歩いていく。
我が家が見えた。
結論から言うと騒々しかった。
詳細を説明するとパトカーが二台ほど留まってて、我が妹が半泣きで刑事さんに突っかかっていた。
「…………………………あれ?」
そういえば、あれからどうなったんだっけ?
カイムを捕まえたって刑事さんに連絡した後、俺は舞夏に保護という形で連れて行かれた。
刑事さんたちから見れば、路地裏に誰もいない状況で不審に思っていただろう。
そして夜が明け、俺はまだ帰っていないことに家族が気づく。
警察に当然、連絡するだろう。そして噂話になっている『連続殺人鬼』……そして俺がカイムに絡まれていたこと。
俺にも連絡が取れず、そうして警察のほうに話が行けば……こう考えるかも知れない。
即ち、俺は連続殺人鬼を捕らえようとし、そして行方不明となった。もしかしたら、犠牲者の一人になったかも知れない、と。
「や、やばい……」
すぐさま携帯電話をプッシュする。
この状況で掛ける相手は家でも妹でもない。何しろ真実は話せないからだ。もっとも信じてくれる話ではないが。
連絡先は……相沢祐樹。アパートで一人暮らしをしているあいつが望ましい。
プルルルル、間抜けなコール音が三度。
『おー、どうした黎夜。こんな時間に』
「頼む、俺を助けてくれ」
『……な、なんだ、どうした?』
とりあえず俺は口裏を合わせてもらうために、作戦会議に移行した。
少し遠目には刑事さんに噛み付きかねないほど、烈火に怒る沙耶の姿がある。
このままでは刑事さんが危ない。それと、妹を公務執行妨害なんて軽犯罪で前科持ちにさせてはいけない、兄として。
俺は祐樹に三度吹き込ませ、そして妹へと連絡した。
結局、事態が収拾したのは三時間後。
ある意味、今までの人生の中で一番激震的な休日だったことは言うまでもなかった。
◇ ◇ ◇ ◇
「…………ふう」
ホテルで月ヶ瀬舞夏は溜息をついた。
数時間前に黎夜が帰宅していったのを見送った後、仲間に連絡。
彼が帰り道に襲われないように、部下に監視役を頼んだ。異常があれば連絡が入り、すぐに駆けつけるようになっている。
舞夏は改めて一人で紅茶を嗜みながら、昨晩のことを思う。
本来、舞夏の任務は『霊核』の回収だ。
義理として黎夜の安全を確保した後は、本当ならペンダントを回収して任務完了となる予定だった。
ホテルも引き上げ、支配人に多額の口止め料を渡して、自分がここに滞在していた情報を消してしまえばいい。
このまま帰してしまうほうが、黎夜にとって危険だった。
だからこのまま奪ってしまうほうが黎夜のためかも知れない、と。舞夏はそう考えていた。
【うっ……ぐっ……】
だけど、ベッドに寝かせて。
黎夜の首元からペンダントを外したとき、黎夜は呻き声を上げた。
何かを求めるように、手をゆらゆらと揺らしていた。まるで幼子が母親を捜し求めるように。
そして、それは真実だった。黎夜は呼んでいた、夢の中で叫んでいた。
【母さん……】
黎夜は泣いていた。
涙を流しながら、ずっと。何度も母親を呼んでいた。
【強くなる、よ……】
そして約束をしていた。
夢の中にいる母親に向かって……いや、それを通してペンダントへと手を向けて。
舞夏の中で、このペンダントが母親のものだと結びついたのは不思議でもなかった。
【待って……母さん。お願いだから……待って……】
不安げに震える手を、思わず舞夏は掴んでいた。
これから大切な物を奪おうとしている女が、青年の涙を止めるために。それは偽善だと知っていた。
だけど、このまま去ることは出来なかった。
青年はまだ苦しんでいるのだ。ずっと苦しんで……まだ、夢の中でそれを誓い続けているのだ。
―――――大丈夫ですよ。……安心して、眠りなさい。
優しく、そっと手を握る。
眠ったまま涙を流す黎夜の頭を撫でた。
そんな偽善的な行動で安心してくれたのか、少しだけ黎夜は安らかな寝顔になっていた。
―――――ずるい人ですね、黎夜さんは。
その様子に気づいたとき、舞夏はもうペンダントを奪えなかった。
そんなことは、もう出来なくなっていた。
「不思議な人ですね、本当に」
あくまで自分は無涯黎夜にとって赤の他人のはずだ。
だと言うのに舞夏が自分のことを悪く言うのは我慢ならない、と来た。最高にカッコいい、と力説した。
あれは決して、黎夜を裏の世界から遠ざけるためだけじゃない。
自分自身、本当にそう思っていた。そんな舞夏の自嘲を、黎夜は強く制したのだ。
プルルルル、舞夏の携帯電話が光る。
まさか早くも黎夜にカイムの手が伸びたのか、と少し慌てながら画面を見る。
だが、予想に反して液晶に表示された着信相手は『副主任』の文字だった。
「……はい。旅団、第四部隊長、月ヶ瀬舞夏です」
『ああ、どうもどうも。副主任の……っと、前置きは置いておきましょう』
相手は舞夏の所属している組織の人間だった。
科学部、技術部などの副主任を務める人物で……慇懃な態度だが、良く分からない人間像だった。
また、舞夏がペンダントを預け……そしてもう一度、返してほしいという無理を聞いてもらった人でもある。
『あの霊核は結局、持ち主に返したんですね? 律儀ですねぇ、月ヶ瀬さんも』
「無理を言って申し訳ございません。ですが、私は自分が正しいと思えることをするまでですから」
『いやいや、良いですよ。自分もそれが良いと思いますから』
それであの霊核なんですがね、と彼は続けた。
『あれはかなり高位の英雄です。時間がなかったので正体までは解析できませんでしたが……』
「そうですか……だとすれば、上層部は何としても手に入れろ、と急かすでしょうね」
『実はもう命令が下ってますな。『軍師様』から、ね……まあ、握り潰しておきましたけど』
「だ、大丈夫なんですか……?」
彼の言う『軍師様』と言うのは、組織のリーダーたる統帥の腹心。
つまるところナンバー2にして、組織の運営を司る参謀のことだ。彼の言葉は総帥の指令……それを握り潰すというのは危険だ。
だが、当の本人は暢気に笑ってみせた。
『んーーーーー、大丈夫。多分』
「………………」
『主任も承知済みだし、二日以内に答えを出してくれれば誤魔化せますから』
だから、と副主任たる男は前置きして。
『二日以内に彼に決断させられますか? いや、実際はもっと短い。何しろ相手は二日も待ってくれない』
「カイム・セレェスですか。……彼の情報は、ありますか?」
『目下、捜索中ですかね。生憎と自分に情報は入ってきませんで……そちらの戦力は?』
「私一人です。本来なら私の隊は長期休暇中ですから、海外のほうに飛んでいまして」
ありゃりゃ、とおどけた溜息。
舞夏の隊の副長はオーストラリア人で、休暇の間に隊員を招待している。
ただ、隊長である彼女だけは日本で休暇を楽しむ予定だった。そのため、タイムラグが発生している。
残っているのは日本で過ごすことを決めた数人の隊員だが、生憎とカイム相手には戦力にならない。
『そいつは少しまずいですねぇ……ちょいとこの件、月ヶ瀬さん一人にゃ、荷が重いかも知れません』
「……? それは、私がカイム・セレェスに遅れをとる、と?」
『ああ、いや。実はですね、こいつは未確認情報ですが……もう一人、来ているらしいんです』
「もう一人……それはまさか彼ら……『クロノア』がですか?」
ええ、と肯定の合図が電話先で聞こえた。
舞夏は少しだけ苦い顔をする。彼の情報は新たな敵影を知らせるものだった。
カイムの組織は十二の精鋭を傘下に引き入れた巨大組織だ。
精鋭十二人を時計の数字に因んで『クロノア』と呼ばれていた。
彼らは全員が英雄の力を持っている。カイム・セレェスもその一人だが……さらにもう一人、英雄が来ていることになる。
一対一なら舞夏のほうに勝算がある。だが、敵が二人となると戦況は一気に覆りかねない。
「……誰か、増援は来ないのですか?」
『今、手配しました。他ならともかく、この学園都市でアクションを起こした奴らの失態ってやつですね』
「どういう、ことですか?」
『此処は、自分たちの本拠地みたいなもんじゃないですか』
舞夏にはそれで合点がいった。
それと同時に安堵する。今、黎夜を監視しているだろう部下たちを駆り出さなくて済みそうだ。
まあ、本来なら彼らも休暇なのだろうが。ここは我慢してもらうことにした。
『さて、それじゃあ失礼しますよ。こちらも仕事が残ってますからねぇ』
「はい、お疲れ様です」
『お疲れ様です……っと、例のアレですが、もうすぐ完成します。それまで、どうか辛抱を』
一瞬、舞夏の表情に色がついた。
喜びと悲しみが一緒くたになったような、複雑な表情。だが、告げられた声に舞夏は確かに喜んでいた。
ぷつり、と通話が切れた。
舞夏は再び紅茶に口をつける。少しだけ冷めてしまったのが、残念といえば残念だった。
「もう少し、ですね……」
呟いた言葉は、夜の帳の中へ……窓から吹きつける風に巻かれて消えていった。
◇ ◇ ◇ ◇
「……大丈夫ですか、カイム?」
「ああ。こんなの大したことない。……にしても、まったく無様としか言い様がないな」
廃ビルに二人分の影が蠢く。
一人はカイム・セレェス。頭には包帯を巻き、そこからは紅い血が染み付いている。
木刀よりも危険な凶器で頭を殴られたのだから、額が割れるのも当然といえば当然だった。
もう一人は長い黒髪の女性だった。いや、年の程は少女と言ってもいいかもしれない。
名前を天凪葉月(あまなぎ、はづき)という。
黒髪はポニーテールで纏められ、肌の色は病弱そうなほどに白い。
長い足を包むジーパンは、所々がファッションのつもりか破れている。瞳は無感情に、それでも心配そうな素振りを見せている。
「是、油断したからそうなります」
「否定はできないよ……だけど、月ヶ瀬舞夏が動いてきたのは予想外だったかな」
「否、最初から分かっていたことでした。むしろ月ヶ瀬が強引に奪わなかっただけでも、ありがたく思わないと」
葉月は若干、機械的な応対をカイムに返す。
これが天凪葉月の素のため、カイムも今更何かを言うつもりはないようだ。
二人は同じ立場の同僚として、コンビを組んで長い。……長いのだが、二人の年齢を考えれば数年といったところ。
だが、それでも長いほうだ。何しろ彼らが立ち入るのはどちらかが殺されてもおかしくない、殺戮の戦場なのだから。
「……それで、どうするんだい? 君も……出るのか?」
「是。月ヶ瀬が出てきた以上、カイム一人では役者不足です。……違いますか?」
「…………悔しいが、そのとおりだ。月ヶ瀬だけならともかく、旅団が戦闘の意志を示した以上……増援の可能性もある」
すでに自分の組織の部下たちには連絡を送っている。
だが、この学園都市は敵対組織である『旅団』の資金提供者だ。確実に向こうのテリトリー(領域)ということだ。
こんなアウェー(敵地)において、派手に抗争を仕掛けるのは自殺行為とも言える。
カイムも葉月も莫迦ではない。さすがにこの学園都市そのものを敵に回して、楽に済むとは思えない。
「敵戦力は未知数。そしてこちらは私たちの部隊のみ……少し厳しいですね」
「こんなことなら、天凪の力を最初から借りておくべきだったと後悔しているよ」
「否、後悔に意味はありません。ただ、私たちにできることをやりましょう……この件はカイムにとって、後悔ではなく反省の件です」
葉月は壁に立てかけてあった、己の武器を掴んだ。
それは短いナイフのようなものだった。
カイムが何本も携帯しているものと同じくらいの大きさだが、葉月のそれは赤銅色に輝いていた。
彼のナイフが店で売っている実用品のようなものなら、彼女のそれは調度品などで飾るための観賞用の短剣だ。
「次は私が出ますね。何とか、標的に接触してみます」
カイムに異論はない。
自分は一度、葉月の協力案を蹴って失敗した身である以上、何も言えない。
ただ、どのような手段を取るつもりなのだろうか、と純粋な疑問があった。
「どうする気かな?」
「さて……どうしましょうか。とりあえずカイムは、月ヶ瀬たちの足止めをお願いします」
「承知したよ。成功を祈ってる」
ありがとうございます、と葉月は無表情を少しだけ崩して笑う。
時刻はもう、夜の帳が降りてしまっている時間。
標的、と称された無涯黎夜は家に帰宅してしまった頃だろうか。そうなれば手を出すのも難しいのだが。
「今夜、行きますね。善は急げ、と……まあもっとも、善行とは限らないのですが」
それら全てを肯定した上で、夜を選択した。
そこにはどのような計算のうえで成り立っているのか、カイムには分からない。
「君が、始末をつけるのかな?」
「否。私は常に私の願いと理想のために動きます。カイム……貴方とは、理想が違う」
「そういうの、全部分かってて私とコンビを組んでいるんだろう?」
「是。貴方には貴方の理想がありますから……否定することは、許されない。そんなことは絶対に許されない」
ここが葉月を気に入っているところだ、とカイムは思う。
真っ直ぐに相棒の行動を非難し、それでいて拒絶はしないという矛盾。
その裏には互いを尊重する、という意思がある。
「ところで、だ……天凪」
「何でしょう?」
「いい加減、機嫌を直してくれないか? 確かに抜け駆けをしたのは、私の勝手だった」
「……貴方が昨日、お茶目をやらかした商店街の喫茶店に……おいしいクレープがあるのですが」
これを、と葉月が持っていた本を見て、カイムの愛想笑いが止まる。
お茶目、というのは抜け駆けのことを言っているのだろう。
ついでに商店街のクレープの情報は、葉月が開いてみせる週間情報誌から。
「……一個、二千円ってなんだ? どんな材料を使ってるんだ?」
「これで、手を打ちましょう」
「……二千円、渡そう」
「買ってきてください、明日にでも。もちろん、カイムが」
了解、と溜息をつくしかなかった。
確認しておくが、カイムのほうが年上である。ついでに組織内でも先輩である。
「……では」
葉月が立ち上がる。
短剣は護身用、というかのように胸の中に仕舞われた。
そうして葉月は廃ビルより立ち去る。後ろでその背中を見つめ続けるカイムにも告げずに。
「ま、マイペースなのは良いことだね」
カイムはくつくつ、と口元を上げて笑った。
それは黎夜や舞夏が警戒するような殺人者としてのものではなく、あくまで青年としての笑いだった。
一度だけ葉月に渡された週刊誌に目を向けると、もう一度苦笑して立ち上がった。
まだ、仕事は終わっていない。
人間らしい生活に戻るには、人間らしい感情を取り戻すにはまだ早い時間だった。
◇ ◇ ◇ ◇
「…………………………疲れた」
全てが終わったとき、時刻はすでに夜の十時を回っていた。
無涯黎夜は今日の一件で精根尽き果てたらしく、部屋に到着した瞬間にベッドに飛び込んだ。
一息つき、そして溜息をつく。
同じ行為なのに、意味合いが大きく違うことが面白いなー、などと呟いたところで不毛さにもう一度溜息。
「なんつーか……最近、一ヶ月分の不幸が数日に集中している気がするぞ……」
特に今日は参った。
口裏合わせを終わらせ、妹である沙耶のところに姿を現したときの反応がきつい。
まず、泣かれた。妹とはいえ女の子に泣かれるのは辛い。
その後、ボコボコに殴られた挙句に真っ赤な顔で激怒された。身体中が激痛で軋んでいる。
通報で集まってきた刑事たちの反応も特殊だった。
まずは驚き、そして沙耶が泣いて抱きついてきたところで微笑み、怒りで暴力を振るうときは目をそらした。
(いや……目をそらした、じゃなくて助けてくれよ……)
一度だけ助けを求めようとすると、全員が『俺たちを巻き込むな』みたいな目で見つめた。
正直なところ、祖父である無涯賢吾の仲裁があと二分ほど遅ければ、大事になっていたかもしれない、と黎夜は本気で思う。
その後、賢吾の取り成しで事無きを得たのだが。
黎夜は事情聴取のため、そのまま交番に任意同行。ついでに沙耶も半泣きになりながら付いてきた。
まるで悪いことやって警察に自首するような展開に、黎夜は頭を抱えていた。
ちなみに警察からの確認電話で相沢祐樹が冷や汗をかいたのは別の話。
黎夜が事情を話せない以上、周りの友人に頼み込む他はない。
こうして知らず知らずのうちに、祐樹に『偽証罪』という前科がついてしまうのだが、そこは割愛しておく。
必要な犠牲だったのだ。バレなければ犯罪は成立しないのだ。
……こういう大人にならないように、注意しようと思う心を育てよう。
「あー……結局、沙耶には説教食らうし、夕食も食べ損ねた……ああ、いいや……眠い」
今は食欲よりも睡眠欲だー、と沈む意識に言い訳して瞳を閉じた。
もう絶対、今までの人生で一番深く眠れると信じている。
コンコン。
もちろん、邪魔が入らなければの条件付だが。
黎夜は枕に顔をうずめると、聞かない振りをした。俗に言う無視である。
「……お兄ちゃん。おーい、起きてるー?」
「寝てる。寝てるから、頼むからそっとしておいてくれ。頼む、本当に俺の平穏を返してくれ」
「そ、そんな切実な声で言われても……」
ガチャリ、と無常にも開かれる扉に黎夜は嘆いた。
己の妹を悪魔でも見るかのような不機嫌そうな顔で見ると、気まずそうに眉を寄せてくる。
「私も今日ぐらいはそっとさせてあげるつもりだったけど……お客さんだよ」
「……お客さんって、俺の? うん、男なら追い返してくれ」
どうせ我が家を訪ねるやつなんて男だけだろうし、と自分にしては良い案に頷いた。
悲しい話ではあるが、女の知り合いは本当に少ない。それが家まで訪ねてくる知り合いなら、さらに絞り込まれる。
ここは99%、男で間違いないだろうと当たりをつけ、二度寝モードに意識を移行させる。
「…………お兄ちゃん、いつの間にそんなプレイボーイに……私、悲しいよ」
「その誤解も明日解くから……頼むよ」
「……まあ、要するに男なら追い返せ、と。……了解、変なことしないようにね」
いや、面会謝絶だと言ってくれ……という呟きは妹には届かなかった。
本日何度目かの溜息をつく。
ああ、そういえば溜息をつくと幸せが逃げていくんだっけなー、と死に掛けた思考が華麗に現実逃避。
とりあえず、考えることは明日に全部回そうと寝返りを打って。
「………………」
「……………………」
その視線の先に少女が立っていた。
事実を認識した瞬間、黎夜の思考が混乱により完全に停止した。
「……人を招きいれておいて、自分は寝転がるとは。前漢の創始者である劉邦のつもりですか?」
「………………」
「是。では私はせいぜい、劉邦を叱る乞食儒者といったところでしょうか……」
無感情な瞳に僅かな怒りを滲ませる少女の突然の登場。
黒髪を後ろでまとめたポニーテール。活動しやすい服装だが、所々が破けている。
クールビューティー、というのが一番正しいのだろうか。
「……無視、とは気に入りませんね。それとも……もしや、聴覚に異常や障害が?」
「………………」
「否。そのような情報はなかったはず。ならば、どうして私の言葉に反応しないのですか、無涯の黎夜」
少なくとも黎夜には見覚えのない少女だ。
いや、むしろ美少女の部類に間違いなく入る。舞夏といい、最近は美人とのエンカウント率が高い。
それはいい、素直に嬉しいはずだ。
重要なのは黎夜の中の公式で美人=厄介事の類、という認識が構築されつつある、という事実。
「何を呆然としているのですか。私に何かおかしいところが……」
「………………」
「ま、まさかあるのですか? 顔に何かついていますか? そ、そんなはずはない……はず、なのですが」
「………………」
「や、やはり、何かついているのですね。くっ……それならカイムも知らせてくれればよかったものを、意地の悪い……!」
やがて黎夜は思い至る。
最初は夢なんじゃないかなー、とか現実から裸足で逃げ出そうとしたのだが。
いくら待っても意識が淀むことなく。というか、あまりの衝撃に襲ってきた睡魔がまとめて逃げてしまった。
(……うん、OK。状況は理解した……)
それじゃあ皆さんご一緒に、せーの。
「うおおおぉぉぉああああああああああああっ!!!!!」
「ひゃああああっ!!?」
時刻は午後の十一時。
無涯邸に二人の心の底から驚いた悲鳴が響き渡りました。
◇ ◇ ◇ ◇
「……貴方たちは、ゆっくりと紅茶も飲ませていただけないのですね」
「無粋だとは知っていたがね。謝罪はしておこう」
無涯邸に悲鳴が響き渡った、同時刻。
月ヶ瀬舞夏は夜の闇を疾走していた。白いワンピースは暗闇でも明確に存在を醸し出す。
それを目印にして、背後からは青年が追撃してくる。
狩る者と狩られる者、まるで白いウサギに飛び掛ろうとする狼のように、カイム・セレェスは地面を蹴る。
「っ……」
「無駄だよ。もう、無涯黎夜に接触した。今からでは間に合わない」
「ぐっ……貴方たちはっ……!」
唇を噛み、日頃の冷静さも失って舞夏は憤る。
無涯邸に『クロノア』が接触した、という情報が舞夏の元に飛び込んできた時には遅かった。
監視していた部下たちは敗れた。
カイムにではなく、もう一人の『クロノア』に……今、無涯邸を訪れている天凪葉月によって、倒されてしまった。
奴らを甘く見ていた、などと言い訳をするつもりはない。
全ては油断した自分のせい。
そして黎夜にその場で決断させなかった自分の甘さのせいだ、と舞夏は激しく自分に憤る。
(私が、愚かだったっ……!)
こんなだから、早々に回収しなければならなかったのに。
黎夜を裏の世界に巻き込んだ。
その情報を知りえた瞬間、黎夜はもう表の住人とは認識されない。そのことを舞夏はまだ知らなかった。
結果、無涯邸には『クロノア』が侵入してしまっている。
このままでは黎夜の身が危ない。いや、それどころか家族の身まで危険に晒されていることになる。
「落ち着きたまえ、君は少し勘違いしている」
焦る舞夏を呼び止めるように、カイムはそんな言葉を口にする。
何を、などと問いかけることに意味はない。
ただ、今は黎夜の元に急がなければ……そんな焦燥感に駆られてしまっていた。
「ここで君は乱入することが、無涯黎夜にとって一番危険なのが分からないのか?」
その言葉で、ついに舞夏の足が止まる。
軽い驚きのままに背後を振り向くと、若干遅れてカイムが到着する。多少、息が乱れているようだ。
いや、それは舞夏自身も同じことで……気づかなかったが、体力の貯蔵も考えずに走っただけ、舞夏のほうが息が上がっている。
舞夏の疾走が終わったことに安堵しているらしい。
カイムはやや崩れた、皮肉そうな笑みを向けながら両手を広げる。
「少しだけ話をしようじゃないか。まず、君の誤解を解きたいからね」
舞夏は怪訝そうに眉を寄せると、端正な顔の表情を曇らせた。
夜の密会、二組の男女が語り合う。
裏と表の世界で、表と裏の人間同士が……敵と味方が混ざり合う。
夜景の闇に紛れてカラスが鳴く。
鳴き声は不気味に闇の中へと浸透し、そのまま風に巻かれて消えていった。