第1章、第2話【壊れ始めた平和】
「いやー、最高だったな。まさか本当に言ってくれるとは」
「……最悪だね、誠一」
歴史、現国と授業は終わり、俺たちはこうして下校することになった。
俺と誠一、そして祐樹と啓介が並んでいつもの道へと帰っていく。
今日の授業内容から流牙の奇行まで話題は展開されていく。
ちなみに件の流牙は予想通り生徒指導室へと連行された。今頃は小桃先生と熱い時間を過ごしているだろう。
「だって普通は言わないだろ、ラグナロクって。日本ですらないのに」
「ん〜……いやいや、あいつはな。ただ純粋なだけなんだよ、察してやれよ」
人、それを莫迦と呼ぶ。
フォローする祐樹には悪いが、俺も誠一と同意見だ。あんな地雷投下は有り得ない。
まあ、それが流牙の魅力というか、愛嬌というか。少なくともあいつの特徴ではある。ただ、今後の彼の人生が心配です。
「んで? 誠一たちは結局来るのか、俺の家?」
「ああ、僕は行くつもりだけど」
「無論。いい加減、あのゲーム終わらせて次にいかんとな。まだまだ、お勧めのゲームがたくさんあるんだ」
もちろん、大半がギャルゲーという恐ろしいラインナップではあるのだが。
祐樹の家でやらせてもらったことがある。確かに面白かったし、思わず涙が出てしまうような展開もあって良かった。
ただ、それでも絵やその手のシーンを敬遠してしまうのが何とも。少なくとも家でやれるような内容ではない。
俺と同じ立場の啓介も同様のようで、祐樹の家でしかやらないと聞いた。正しい判断だと切に思う。
「黎夜もやれよー。今ならお好みと思われし少女剣戟ゲームっぽいものがあったりする。戦う女の子が好きなんだよな?」
「……まずは、俺はそれ系が好みである、という妄想から打ち砕くべきか」
「知らんのか? 『妄想』ってのは亡くなった女の人を想う、と書くのだぞ? この場合は妄想ではない、断じて」
論点が違う、という言葉を喉元まで出して、引っ込めた。
それよりも商店街が近い、と気づく。一応、楽しい下校時間だっただけに、一抹の寂しさが過ぎるのは何故だろう。
祐樹も同じことに気づいたようで、俺に声をかける。
「んじゃ、ここでお別れだな、黎夜」
「おー、そうか……んじゃ、黎夜。気をつけてな」
「商店街に寄るんだっけ、珍しいね」
祐樹、誠一、啓介が順々に別れの言葉を告げる。
三人はこれから西部の住宅地へと行くのだろう。俺はこのまま南進していかねばならないから、ここでお別れだ。
「じゃあ、また明日。……明日は土曜日だっけな、遅れるなよ。特に誠一」
「うむうむ。背中に気をつけるといいよ、黎夜。いつの日かグサリの予定かもな?」
縁起でもない言葉だった。
一秒前にこちらの身を案じていた男の言葉じゃない。二重人格とか精神異常者の件を疑ってみるべきか。
と、そのとき。誠一は背中を見せようとして、ふと立ち止まる。そのままもう一度俺のほうへと目を向けた。
「おっ、そういや知ってるか? こいつはあくまで噂なんだけどな、脱獄犯の話なのだが」
「……?」
俺は首をかしげる。祐樹と啓介も同じような反応だ。
言いだしっぺの誠一はその反応に満足するように頷くと、腕を軽く組んで目を細める。
この目は少し真面目な話をするぞ、という合図だ。常人と変人を自分の中でうまく分別するらしい。
「数ヶ月前、東京都を恐怖させた連続殺人鬼の話だな。すまんが名前は忘れた。
そいつは東京都で通り魔をしていて、23人も殺した。結局、オトリ捜査の末に捕まったんだっけな。
裁判では精神異常が見られたものの、責任能力は認められ死刑が確定したって話」
その言葉で啓介が気づく。
思い出した、という顔をしながら誠一の後に続けていく。
「確か、霧咲…………孝之、とか言ったっけ?」
「そうそう、そんな奴。そいつが夕べ、刑務所の独房から脱獄したらしい。……しかも、噂ではこの町に潜伏中らしいな」
「うわ、マジで?」
「うむ、マジで。まだ政府は公式な発表を控えているぞ。無用な混乱は殺人者の思う壺だ」
連続殺人鬼、そんな奴がこの東雲の町に潜伏しているらしい。
もちろん噂の類だ。誠一本人もそれが分かっているため、あくまで噂と前提して語ったのだろう。
ただ、情報を伝えて用心しておくように、と言っているらしい。
さっきの『背中に気をつけろ』というのは、そういう意味の言葉だったのか。
これは沙耶にも伝えておくべきかも知れない。
そんなことを考えていると、祐樹が機先を制して俺へと言葉を投げかけてきた。
「……なあ、黎夜。お前の妹にも気をつけるように言ったほうがいいぞ。確か犠牲者ってのは全員、女性らしいからな」
「女性……女ばかりを狙った通り魔、ってことかよ」
「見事に女ばかりだ。助かった娘も、殺された人も、全員が女。ある意味、俺たちは安全かもな。……『俺たちは』な?」
つまるところ、この情報は沙耶にリークすることを前提として誠一たちは語っている。
沙耶から友達の女生徒へ、その女生徒がさらに友達へ、と噂を広めさせていく。
そうすることで警戒心を強めていこうと考えているらしい。
まあ、政府の対応に真っ向から立ち向かおうとしているのだが、それは確かに当事者たちからすれば問題にもならない。
「んー、確かにおかしな話だよな。混乱させないように、とか言っても犠牲者が改めて出たらそれ以上の混乱だろうに」
「うんうん、偉い人にはそれがわからんのです。……ていう、冗談は求めていないんだよね、今は」
「啓介、そのネタが好きなのはわかった。ただ、あまり連発するのは勘弁してくれ。フォローしきれん」
微妙な空気が辺りを包む。
シリアスな雰囲気は好きじゃない。ただ、この情報は決して笑い転げれる類の話じゃない。
いくら武術の達人とはいえ、沙耶はまだ高校生になったはがりの女の子だ。そんな通り魔に狙われては堪らない。
「じゃ、気をつけてくれよ」
シリアスな空気のまま、彼らは去っていく。
俺はそのまま誠一たちを見送った。彼らの背中は未だまだ連続殺人鬼の話題を語っているらしい。
と、そのときだった。
「はっ」
次の瞬間、突発的に誠一は手を垂直にして振り上げ、祐樹の脇にチョップを食らわせた。
「ぬぐあっ! なにしやがるテメエ!?」
「殿の仇ー、殿の仇ー、殿の仇ー」
「だあああ、やめんか! 俺のターン、安藤啓介を守備表示!」
「えっ、僕?」
どうやら、シリアスに耐えられなくなったらしい。
誠一がまた変人に戻り、祐樹に強襲しはじめた。俺はただ、前後のシリアスとの違いに呆れるだけだ。
ものすごく莫迦な争いだった、と感想を漏らしておく。
アレだ、大学三年生が童心に帰ってチャンバラをしているよりも酷い。
ぎゃー、ぎゃー、と騒がしい一行の声もフェーズアウト。ようやく訪れた静寂に俺はほんの少し溜息をつくのだった。
「自分のターン、攻撃―――――ダイレクト・アタック!」
「ぐわ、ちょ、やめ、その輪ゴム今日の昼にぽかぽか亭で買った弁当についてた奴、ぐば!」
誠一が輪ゴムで祐樹を攻撃している様が浮かぶ。
ついでに啓介は巻き添えを食らっているんだろうな。多分、誠一は人質なんて気にせずに攻撃するんだろうし。
「…………………………さて」
じっちゃんの要望どおり、和菓子を買いにいくとしましょうかね。
背伸びをひとつ、ついでに今日一日勉学に頑張った自分を褒める。
そのまま南に進路を取り、盛況な商店街へと歩いていった。
ただ、連続殺人鬼の話はしばらく心の中に残ったままだった。
◇ ◇ ◇ ◇
この東雲の学園都市は、中央部と東西南北に分かれて展開されている都市だ。
東京湾を埋め立てて作られた人工都市。それぞれの地区には役目のようなものがある。
(まず、北部が学園、と)
俺たちがさっきまでいた新東雲学園は、町の北部全てを使っている。
土地にすれば埋立地の三分の一に相当する。学園内には幼稚園から大学まで揃い、何千人も収容できる場所だ。
それほどまでに反則的な贔屓なのだから、この都市が学園都市と呼ばれるのも分かる気がする。
(東部が俺の家……ていうか、住宅街)
東部には多くの人が住居を構えている。
俺も含めたこの土地の出身者、もしくは移住してきた者はここに住むのが通例となっている。
学園内に広い寮があるため、流牙も含めた学生たちの八割はそこで生活している。
例外は地元で剣道場開いている俺の家だったり、近くに家庭があって一人暮らしする必要のない誠一たちだったり。
(西方に見えますのが、東京都でございます)
高層ビルやらマンションやらお台場やら、そんな都会が広がっている。
大掛かりな買い物だったり、立派な洋服を見に行ったり、デートと洒落込むならあちらがお勧めだ。
まあ、地下鉄を利用しなければ向こうにはいけないことを考えると、この学園都市は巨大な鳥かごかも知れない。
「で、南方が……って、誰に説明しているんだ、俺は」
ぶつぶつと、独り言を呟く二十歳の男。
うん、見事に変人だ。俺が目撃者ならそんな男には近寄らない。つまるところ……最悪だった。
俺は気分を切り替えて、ついでに周りを見渡してみる。
人はまばらで、独り言をぶつぶつ呟く俺に注目するような人はいなかった。
そうしてそのまま南へと歩を進める。
やがて見えてきたのは大きな商店街。二百ほどの様々な店が所狭しと両サイドに並んでいる。
南部はこの商店街と公園、裏路地が代表的な地域となっている。
簡単な食材や調味料、駄菓子などの日常生活に必要なものは、大抵がここで取り揃えられる仕組みになっている。
「今日も盛況ってやつだな……」
時刻は夕方の五時を回ったところ。
そろそろ今晩の夕食を真面目に考えなければならない主婦の皆様が、いざ行かんとばかりに押し寄せている。
俺の目的は八百屋でも魚屋でもなく、駄菓子関係。しかもじっちゃんの好物は商店街の奥、公園の近くにある。
正直、あんな話を聴いたあとでは出歩きたくない場所でもある。
何しろこの近くは路地裏もある。そういう類の奴らが隠れるには持ってこいの場所だ。
「とっとと買って、さっさと帰る。これに限るな」
話を聴く限り、俺が狙われる可能性は薄いのだが。
さっさと終わらせて拳法部まで沙耶を迎えに行ったほうがいいだろう。警戒するに越したことはないんだから。
◇ ◇ ◇ ◇
「…………ふむ、こんなもんか」
じっちゃんの好きな和菓子を袋に詰めてもらった。
できるだけここまで来なくていいように、多少なり自腹を切って多めに購入した。後でじっちゃんに請求しておこう。
「さて、帰るか」
拳法部は六時頃に終わるはずだ。
ここから学園までは一時間ほど。ちょっと時間的には厳しいものがあるかもしれない。
ポケットから携帯電話を取り出し、沙耶と連絡を取ることにする。少し待ってもらえば、一緒に帰れるのだから。
「……?」
そのとき、俺の耳に何かが届いた。
思わず振り返ると、その先には路地裏へと繋がる通路。
黄昏の光すら届かない、暗黒への入り口がぽっかりと開いている。
悲鳴、のような気がした。
どうしてこんなことを思ったのだろう。
幻聴かも知れないし、気のせいかもしれない。
だが、俺の耳には確かに悲鳴……それも、女性の悲鳴が聞こえてきたような気がした。
(………………まさか、な)
路地裏、女性の悲鳴、それらの条件が誠一の情報と一致する。
たったそれだけで俺の体は凍りついた。有り得ない、という理性の悲鳴を押さえつける。
どうする? ―――――自分に問いかけてみた。
聞かなかったことにして立ち去るのが利口だ。
わざわざ自分から厄介事に首を突っ込むこともないし、そもそも気のせいである可能性が高い。
誠一の情報だって人づてに聞いた、根も葉もない噂話の類に過ぎない。そう、信憑性なんて欠片もないのだ。
(だけど、もしも『本当』に誠一の情報が正しかったとしたら……)
ごくり、喉を鳴らすと、吸い込まれるようにその中へと入るために近寄っていく。
怖いもの見たさ、という心理状態に近いかもしれない。
ただ、もしも。そう、本当に僅かばかりの可能性であったと仮定して……それが、本当に本当だったとしたら。
無涯黎夜は、救えたはずの命を救わなかった―――――そうなるも、同然なのだと思い至った。
「何もなければ、ただの笑い話で済むんだよ……」
俺自身、誰に言い訳しているのか分からない。
ただ、知らずに心の中で構えていた。たった今、ほんの十数秒の逡巡がもしかしたら明暗を分けるのかも知れない。
なら、もう迷っている暇なんてない。あるはずがない。
ひとつだけ、深呼吸をして路地裏に入る。
願わくばただの笑い話でありますように。そんなことを考えながらも、結局のところ結果は同じ。
俺はこのとき、この選択を自分で選び取ってしまったんだ。
日常と非日常の狭間へと誘われるように前へと進む。これが俺の最初の選択肢だった。
◇ ◇ ◇ ◇
学園都市にも暗部というものがある。
いくら住人の約八割ほどが学園の生徒とはいえ、その中にはどう頑張っても落ちこぼれというものが出てきてしまう。
そんな彼らは徒党を組み、社会に反抗する。この場合の社会とは学園都市そのものを指すことになるが。
それはこの町にも、隣りの東京都にも関わらず何処にでもある出来事だ。
そしてこの光景も、少し工夫して捜せば簡単に見つかるようなことなのかも知れない。
夕刻の路地裏の一角……一人の少女を数人の男たちが壁に追いやっていた。
色褪せた壁を背に、少女は怯えた表情でうろたえている。
端的に言おう。栗色の髪を耳元で切り揃えた中学生くらいの少女は、三人の不良に絡まれていた。
「なあ、こっちは聞いてんだけど? どう落とし前つけてくれるんだ、って」
「そんな黙ったまんまじゃ分かんねえって。意味分かる? これ高かったんだよ?」
きっかけは些細なことだった。
少女は学校の帰りに大好きな和菓子を買いにここまで来ていた。
お気に入りの和菓子を手に入れ、意気揚々と帰還しようとした、その帰り道。通路を三台のバイクが塞いでしまっていた。
この学園都市は車の通行がほとんどない。
何故ならこの東雲の町が一種の閉鎖空間のような作りになっている。
東京都に戻るには地下鉄からモノレールに乗るしかない。
町の広さも端から端まで一時間少々歩けばいい。バスやタクシー、緊急車両の類が走行しているぐらいしかないのだ。
「あ……あの、あの……その……」
少女は違法駐車しているバイクが珍しくて、少しのあいだ眺めていた。
改造が施されているのか、ギラギラという擬音が相応しいような装飾に目を奪われていた。
だから後ろからバイクの持ち主たる不良たちに気づかなかった。
背後から怒鳴られ、驚いた少女は弾けるように飛び上がった。
その結果、バイクと身体が接触してしまい、持ち主の目の前でバイクを転倒させてしまったのだ。
それから因縁をつけられ、路地裏へと追いやられてしまった。
背後は壁、前方には自分よりも体格を大きい青年が三人。ピアスやらリーゼントやら、いかにも不良らしい様相だ。
少女は半分泣きそうになりながら、震えるだけ。
「ちっ……なあ、ミッチー。こいつどうするー?」
「んー、とりあえず連れてこうか。テイクアウト、テイクアウト」
「うわミッチー、さすがにそれヤバくね? だって中学生だろ、こいつ。いくら何でも犯罪犯罪」
ぎゃははははははははは、下卑た笑い声が木霊する。
ふぇ……、と少女の顔が半分以上泣き崩れかけた。これからどうなるのか、と思うと震えが止まらなかった。
「おら、行くぞ。ぼさっとすんな」
「あっ……あああ……」
乱暴に少女の腕を掴むスキンヘッドの男。
そのまま嫌がる少女を引きずりながら、路地裏を出ようと三人の先頭を歩く。
いや、正確には歩こうとしていた。
「あ……?」
角を曲がったばかりの男の視界に、妙なものが写った。
それは視界の中央ほとんどを埋め尽くす黒い物体。そして、スキンヘッドの男が認識できた映像はたったそれだけ。
黒い物体が何なのか、とか考える余裕すら与えられなかった。
ぐしゃり、と殴打音。顔面に突き刺さる一撃に、男の意識は一瞬で刈り取られた。
その黒い物体は正確に男の鼻骨を叩き折る。鼻から赤い血を撒き散らしながら、男は宙返りのまま地面に倒れ伏した。
後ろの二人にも、先頭の男に手を掴まれていた少女も、何が起きたのか理解できない。
ただ、前後の光景から察することができるのは、一人の少年は一撃で蹴り飛ばされた、という事実だけ。
「……ったく、少しでもびびった自分が莫迦みてえじゃねえか」
声は前方から。
一撃で倒された男以外の全員が、その前方を呆然と凝視する。
そこに青年は、自嘲するような表情のまま無涯黎夜が立っていた。
不良の少年たちから見れば、少しばかり年上だろうか。黒い髪の端から見える瞳が獰猛な印象を与えていた。
「ああ、ああ、悪かったよ。誠一の言うとおり、アレはただの噂な。
確かにちょいとばかり、展開が速すぎないか、とか思ったさ。そんなことまず有り得ないのにな」
黎夜は少年たちには分からないような独り言をぶつぶつ、と。
ただ、その口元は凶悪に哂っていた。自分と相手、両方を嘲るように。
解放されたはずの少女が、思わずどちらが敵でどちらが味方か分からなくなるほどの、凄惨な笑み。
「まあ、杞憂で済んでよかった。いや、やっぱり厄介事だったけど、この程度でホントに良かった」
この程度、と指し示された不良二人が同時に我に返る。
仲間がやられた、と判断するのにたっぷり三秒間。そうして目の前の青年を敵として認識するのに一秒。
「てめ、ミッチーに何しやがる―――――!」
リーゼントの男が黎夜に殴りかかろうと拳を振り上げる。
少女が目を伏せる。黎夜はそれがいい、と思った。そういう光景はできるだけ見ないほうがいい。
顔面に飛んでくる拳を、黎夜は片手で受け止める。
重くない、強くない……所詮、路地裏で弱いもの苛めしかできない負け犬の拳だ。
「あ、あ……? あ、ぁぁぁああああっ!!?」
そのまま、己の握力で握り潰してやった。
バキボキゴキ、と骨が悲鳴を上げる交響曲。リーゼントの男の悲鳴を背景に、無涯黎夜はもう一度、笑う。
捻りあげると、ポキリと情けない音。呆気ないほど簡単に男の手首は折れてしまった。
男が悲鳴と共に地面を転がりまわる。
呆気に取られる最後の一人はモヒカン頭。少女は未だ呆然と、ようやく開けた瞳で目の前の現状を把握できなかった。
その背中を軽く押す。路地裏の外へ、ぽんと軽く。
「あ……」
「そら、走れ」
最後の男はどうやら怖気づいてしまったようだ。
黎夜はもう一度、少女の背中を押す。その真意に気づくまで、たっぷり五秒間。
やがて弾かれたように、少女は走り出す。夕焼けの沈む黄昏の商店街へと。何度も転びそうになりながら。
「…………おい」
「ひっ……」
「まだ、遊ぶか?」
このとき、黎夜は敢えて喧嘩ではなく、遊びと銘打った。
こういう類には絶対的な実力差を見せ付けておく必要がある。上下関係をハッキリとさせれば、二度と襲ってこない。
気絶させた男の腹を蹴飛ばし、叩き起こす。
そいつらの見ている前で、近くのプラスチック製のゴミ箱を蹴飛ばした。
中身が派手にぶちまけられ、ゴミ箱は二度と使い物にならないぐらい破損した。どっちが不良か、傍目には分からない。
「二度と、面ぁ見せるな」
それが最後の引き金だったのか。
脅された不良の少年たちは方法の体で、路地裏の向こう側へと逃げ去っていた。
ばたばた、騒がしい音が狭い道に反響するが、それも一瞬。やがて路地裏の通りはかつての静寂を取り戻した。
◇ ◇ ◇ ◇
「あーあ……疲れた……」
演技は成功したようだ。面倒事が終わり、ぐっと背伸びをした。
当然の確認だが、別に俺は不良でもないし、かつてそうだったわけでもない。ただの一般人だ。
まあ、それでも昔から喧嘩には明け暮れていた。
ああいった類の奴らを相手にして、だ。そこを考えると一逸人かも知れないけど。
じっちゃんから教わった剣術などの喧嘩の技術を、最大限に利用して戦っていた。
あいつらは下っ端程度だから知らんだろうが、これでも東雲の町の不良の間では有名になったものだ。
まあ、さすがに中学生とかの話だから忘れ去られても無理はないけど。
「それにしても……」
喧嘩もご無沙汰だった。
決してあの不良たちは弱くないはずだ。あくまで常識の範疇なだけ。
ただ、俺の周りには師匠のじっちゃんを初めとした武道派な友人たちが揃っている。ただ、それだけの話だ。
例えば祐樹なら、面倒くさがりな印象にそぐわないほど速攻でケリをつけるだろう。
例えば啓介なら、無駄な腕力も使わずに相手の弱点を突くだろう。
例えば流牙なら、そもそも握力のあの時点で、奴の右手は二度と使えないほどの複雑骨折になっていただろう。
そんな友人たちに加え、妹である沙耶も武術の達人だ。
強豪ひしめくこの人間関係の中で、俺がここまで喧嘩慣れしてしまったのも必然と言える。
だって沙耶とか普通に攻撃してくるし。
しかも割と本気で。寝こみとか襲われたり……あれ、何故か涙が出てきたよ、母さん。
「……時間、もう間に合わないな」
携帯電話が現在時刻を表示していた。現在は夕方の六時前。
さすがに一時間以上も沙耶に学校で待っていろ、とは言えない。迎えに行くことは諦めて、路地裏を後にすることにした。
途中、和菓子を回収するのも忘れないようにしなければ。
俺はぐるぐると腕を回しながら、入り口に置いてきた荷物を取りに戻ろうと一歩前に進み―――――そして、気づいた。
俺の前方、距離にして十メートルほど向こう側。
黄昏の商店街へと続く道を遮るように、一人の男が仁王立ちしていることに。
「…………あ」
黒尽くめの外国人だった。
身長は俺と同じくらいでやや細身、黒いコートがやや不吉な妄想を掻き立てる。
タバコを口に咥えたまま、赤い目を俺に向けていた。
「なんだよ……お前」
「………………」
答えはない。
ただ、その紅蓮色の瞳は友好的とは思えないほど、ギラついていた。
黒尽くめの外国人は黒いフードを取る。金色の長髪が惜しげなく晒される様子を呆然と見やる。
(まさか、例の連続殺人鬼がホントに現れやがった……?)
しばし、考えを巡らせる。
そうして一秒にも満たない時間の後、その想定を完全に否定した。
確かにヤバそうな奴だけど、さすがに外国人だ。霧咲孝之、とかいう連続殺人鬼は名前だけで考えても日本人。
つまるところ、こいつはその時点で違う。
そう断言したかった。その考えに納得して安心してみたかった。
だが、無理だと知った。俺の眼前にいる男はどう控えめに見ても、件の連続殺人鬼と同等のような存在に見えた。
そいつはただ一言、俺を無遠慮に見定めて言い放つ。
「サファイアのペンダントを持っているのはお前で間違いないな?」
「は……?」
待て、こいつは今、なんて言った?
サファイアのペンダント、だと?
奴の正体は分からない。ただ、こいつの口ぶりから察するに『俺がペンダントを持っていることを確信している』らしい。
「それを渡せ。そうすれば危害は加えない」
「はっ……ははは」
思わず笑ってしまった。
このご時世に追いはぎの真似事か、と。あまりにも時代錯誤な現状に笑みが零れてしまった。
財布を狙うならまだしも、サファイアのペンダント。
確かに売れば価値があるかも知れないが、問題はそこじゃない。そんなくだらないことは、心の底からどうでもいい。
「意味が分かんねえよ」
どうして、俺がサファイアのペンダントを持っていることを知っているのか。
どうして、狙いは財布やらではなく、わざわざペンダントを狙ってくるのか。
どうして、俺は目の前に外国人を相手にして、誠一の言っていた連続殺人鬼よりも凶悪な敵だと認識してしまったのか。
「とぼけるな、無涯黎夜。お前がサファイアをペンダントにして持ち歩いていることは、調べが付いている」
「……だから、意味分かんねえって」
こいつが言う調べ、とはどういう意味か。
こいつがどうして俺の名前を知っているのか。
分からない、分からない、分からないことばかりだけど……その中でただひとつ、俺は心の底から理解していることがひとつだけ。
―――――この男はどう展開が転がろうと、敵だという事実だけ―――――
「…………だったら、いいよ。別に私は譲渡でも、強奪でも構わないんだから―――――な!」
「ふっ―――!!」
奴が地面を蹴って距離を詰めてくる。
同じく迎え撃つと決めた俺は、後の先戦法で敵を出方を見る。どんな攻撃が来ようと打ち返す自信があった。
やがて、奴の右手が動く。黒いコートから取り出されたのは、白い刃物……それを握り、容赦なく切り付けてきた。
「がっ……!?」
「ぬっ……?」
驚愕の声は二つ、俺と相手の二人分だ。
男のナイフは速かった。不良どもの拳なんて比べるのも失礼なほどの一撃。
早いではなく、速い。
動体視力に優れているはずの俺が、目で追うことが出来なかった。それに対する驚きが俺のもの。
奴の驚きは恐らく、そのナイフを閃かせる腕を止められたことだろう。
目で追えないなら、追わなければいい。理屈なんて関係ない、俺はナイフを操る敵の手首をギリギリで抑えにかかった。
かろうじて奴の手首を抑え、そのまま関節技を決めようとしたが、外される。一瞬の判断の後、再び互いに距離を取った。
(ふざけ……やがって……)
俺の背中に戦慄が走るのを感じた。
あのナイフの軌道は俺の心臓を一突きにするための一撃だった。受け止めなければ、俺は死んでいた。
つまり、これはこういうことだ。
奴は俺を殺してでも、このペンダントを手に入れようとしている。俺を殺すことなど、何の躊躇も抱かないのだ、と。
「だから、意味が分かんねえって言ってるだろっ!! ペンダントがどうしたってんだ、アンタおかしいぞ!?」
「だから、知る必要はないと言っている。大人しく渡すか、それとも奪われるか、だ」
「ふざけんなっ!! そんな前口上で渡せるほどこいつは安くねえッ! 欲しけりゃ奪えってみやがれ……!」
上等だ、そちらの言い分はまったく理解できないけど。
だったらこちらも手加減はしてやらない。剣術使いは、同時に武術にも精通しているということを思い知らせてやる。
こんな危険な奴は警察に突き出すに限る。
そんな考えを巡らせていたとき、いきなり目の前の男が始めて感情をあらわにする。
それは歓喜。
まるで可哀想な奴を見つけたかのような、そんな哀れむ紅蓮の瞳が俺に突き刺さっていた。
「ああ……なら、そうさせてもらうとするよ」
ヒュン、と。
風を切る音に目を見開いた。
無我夢中で腕を振ると、左手の甲に鋭い痛みが走った。
ナイフが投擲されたのだ、と弾いた後に気づく。銀色の凶器は俺の左手でかろうじて防がれ、路地裏に転がった。
「はっ、正気かテメ……!?」
敵が唯一の武装を手放したことに安堵した。ホッとしてしまった。
その油断、慢心を目の前の男は見逃そうとはしなかった。
身体を綺麗に折りたたみ、そのまま蹴撃が飛んできた。避けることも出来ずに、鳩尾に混信の一撃が炸裂する。
「がはっ……!?」
呼吸がすべて、吐き出された。
そのまま吹っ飛ばされ、俺がぶちまけたゴミの撒き散らされた地面に叩きつけられる。
「かっ……ふっ……!」
「お疲れ様、ご苦労様。所詮、お前ごときじゃ何百回やっても私には勝てないって話だよ」
目の前の男の嘲る声すら遠い。
揺れる視界の中で、俺は手探りで武器を探した。鉄パイプでもあれば、逆転は十分に可能。
本来、俺は剣士だ。なら長柄物さえ持てば、俺は無涯黎夜の力を最大限に引き出せるのだ、と。
(ちっ……そんな都合よくはない、か)
掴めたのは自分で蹴り飛ばしたゴミ箱。
期待したものですらない、という事実に不思議と笑いしか込み上げてこない。
上等だ。ここまで最悪なら、これ以上下がることはない。ここから最善を尽くすしか、この場を切り抜ける方法はない。
「おらっ……!」
ゴミ箱を引き寄せ、投げつける。
これで怯んでいる間に体勢を立て直し、五分と五分の状態まで持っていく予定だった。
この距離で避けられるはずがない、と。
俺の読みは正しかった。奴は避けられなかった―――――否、避ける必要がなかった。
次の瞬間、ゴミ箱は二つに両断された。
体勢を立て直す暇どころか、驚きの声を上げる暇すらない。
金色の夜叉が黒いコートの下から何かを取り出し、俺の投げたプラスチック製のゴミ箱を真っ二つに切り裂いたのだ、と。
そんな非常識を頭の中で受け入れるまでに、しばらくの時間が必要だった。
◇ ◇ ◇ ◇
「は……?」
それは剣に分類されるものだった。
正しくはサーベル、だと思う。細身の刀身は軍服に身を包んだ軍人が持っているような、あんな形をしていた。
だが、目の前の光景を理解できなかった。奇しくも、さっきの不良どもと同じように。
明らかに銃刀法違反だ、とかそういう問題じゃない。
こいつは、サーベルなんて細身の剣で『プラスチックを切り裂く』ことが出来るというのだ。
同じく剣術使いの俺だからこそ、理解できる。
それがどれだけ異常であるか、ということが。それどころか、奴が心で決めている覚悟まで理解できる。
あれは模造品じゃなくて、本物だ。それを持ち歩いているということは……そう、答えはひとつしかない。
人殺しの道具を持つ、ということは。
人を殺すことを前提として俺に接してきているという、現実がそこにあるということだ。
(ダメだ……)
奴は、殺す。
何の感慨もなく、命を奪う。
躊躇などせずに、無涯黎夜という存在を抹消する。
(……勝てない)
男は、無表情のままサーベルを構えた。
俺の喉元に、切っ先を合わせて……そして、余裕の笑みを浮かべたまま口を開く。
「お別れ、かな。警察に通報されても面倒だし、始末しておくよ」
「………………はっ、警察ね」
一秒後の死を前にして。
俺は不敵に目の前の男を睨み付けた。口元をやはり、獰猛に歪めて。
「ほんの少し、遅かったみたいだけどな」
なに、と口に出す直前、奴も気づいたらしい。
独特のサイレンを音と、この町には珍しいエンジン音。もはや夕刻から夜へと変わる時間帯、暗い空間を切り裂く赤い光。
男の顔に初めて、動揺の色が見て取れた。
「警察……? 莫迦な、どうして」
「さあ、ここで喧嘩でもあったんじゃないか? 例えばほんの少しぐらい前、この路地裏で、とか」
本当なら、ここでこいつをぶっ飛ばして警察に引き渡す予定だった。
ここに警察が来てくれるだろう、とは思っていた。通報してくれたのは恐らく、あの栗色の髪の女の子だろう。
決して分の悪い賭けじゃなかったが、成功してくれて安堵していた。
「どうする? 抵抗する俺を殺してペンダントを奪うのと、警察がここまで踏み込んでくるのはどっちが早いっけな?」
「貴様……」
そうこうしている間にも、パトカーから誰かが飛び出してくる音が路地裏に響く。
どちらが早いかなんて、明白だ。それは奴にも分かっているのだろう。
一度、それだけで人を殺せそうなほどの怒りを内包した視線を俺に向けると、サーベルをコートに仕舞って走り去った。
一息、つく。
九死に一生を得た、とはこのことを言うのだろう。
俺はその場にぐったりとしたまま、警察官が駆けつけてくるのを待たずして意識を失った。
(ああ、畜生……疲れたなぁ、ホントに)
薄れていく意識の中で、ぼんやりとペンダントのことを思い出す。
そして、これを俺に託してくれた人のことを思い出す。今はもう逢えない、過去の人。
誠一に言わせれば、これこそが本当の妄想なのだろうか。なにしろ、亡くなった女の人のことを想うのだから。
(母さん……)
どたどた、警察官が路地裏に踏み込み、そして俺に気づくらしい。
どうやら俺に声をかけてきているらしいが、答える余裕は無い。本当に今日は疲れたんだ、休ませて欲しい。
(母さんのペンダントに……何の意味があるんだよ……?)
しゃらん、と鐘の音がひとつ。
俺は時を待たずして、再び不完全な世界の中へと落ちていくのだった。