第2章、第14話【裏方】
「お待たせしました」
「遅いわよ」
打ち捨てられた廃工場に人影が集まる。
四番隊長の月ヶ瀬舞夏。旅団の技術部を統括する主任の高原希。
裏と表の世界を彷徨う一般人のはずの無涯黎夜。
希直属の部下であり、技術部の副主任である野牧誠一が廃工場に到着したとき、既に全員が揃っていた。
「もう野牧くんなしで始めてしまうところだったの」
「酷い話だ……っと、黎夜。紹介はもう済ませたかな、こちらが俺の上司の高原希さん」
ああ、と黎夜が誠一の言葉に首肯する。
小柄な女性だが、鋭い表情で常時不機嫌なのではないか、と思ってしまうのは内緒だ。
何というか鉄の女、というのが黎夜の第一印象なのだった。
「さて、と」
その希が場の空気を切り替えるために声をかける。
四人の視線は地面に横たわった少女に向けられた。この事件の真犯人にして救うべき少女だ。
舞夏の妹、月ヶ瀬弧冬。彼女を霊核から解放させる。そのために彼らはここに集結した。
「これが、霊核殺しの宝玉よ」
水色のチェックのハンカチに包まれた、白色の宝玉を希は取り出した。
白というよりは、脱色してしまったというほうが表現的には正しい。傍目にはゴツゴツした白い石にしか見えない。
舞夏も見るのは初めてなのか、何度も宝玉と希の顔を見比べる。
これが弧冬の命運を決める宝玉。希と誠一が数ヶ月かけて完成させた、霊核を外すための霊核。
「これが……」
「そうだ。自分たちの切り札、この事件を丸く収めるために開発した霊核殺しの霊核」
誠一が補則し、希はそれを舞夏へと渡す。
舞夏は大切な宝物のようにそれを両手で受け取ると、それを大事に白い手で包みこむ。
これの出来次第で、弧冬の命運が決まる。
「使い方は簡単だ。この霊核を、紋様に触れさせればいい」
「紋様?」
ここで声を上げたのは黎夜だった。
初めて聞く単語に眉をひそめる黎夜だったが、それ以上に不審そうな顔をしたのは誠一だった。
何をいまさら、と言わんばかりの顔で言う。
「誓約者は体の何処かに五センチくらいの紋様がある。お前にもあるだろ?」
はてな、と黎夜は首をかしげた。
さすがにそんなものがあれば気がつくと思うのだが、心当たりがなかったからだ。
きっと目の届かないような微妙な場所にあるんだろう。黎夜は複雑そうな顔でそう納得した。
誠一は説明を続ける。希も追って語る。
「もう一度確認しておくが、これはまだ未完成だ」
「失敗したらどうなるかは分からない。弧冬はおろか、その周囲の人たちだって危険よ」
何しろ身体の中に染み付いた英雄の魂を剥奪するのだ。
それがどれほどの苦痛を伴うか、どれほど英雄の反抗を受けるか、どんな事態になるのか。
予想がまったくつかない。そんな絶望的な状況でもなお、舞夏たちはそれを試そうとしている。
これが最初で最後のチャンス。これを逃せば次はない。
「………………」
舞夏の表情が曇る。迷いが彼女を捕らえていく。
失敗は弧冬を失うだけではなく、黎夜まで危険に晒すことになる。
彼女はそっと黎夜を見た。
「……舞夏」
「………………」
彼は舞夏の返事を待っていた。
舞夏を勇気付けるように、一度だけ強く頷いて見せた。
それだけで、舞夏の覚悟は決まった。
「覚悟は、できています」
「よし」
誠一は強く頷くと、そっと希の肩を叩いた。
最初は何事かと訝しげに誠一を見る希だったが、誠一の目を見てその意図に気づく。
何か別の問題が起こっていることを彼女は悟った。
だが、舞夏や黎夜にそれを知られてはならない。彼らはそんなことに気を回している場合ではない。
「月ヶ瀬さんのことは頼んだぞ、黎夜」
「ああ……分かってる」
弧冬を助けるために、この時のために動き続けた者たち。彼らに混ざって黎夜は思う。
アルフレッドの願い、沙耶の願い、そして何より舞夏の願いを胸に宿す。
万感のこもった簡潔な言葉に、誠一は満足そうな笑みを浮かべた。
「じゃあ、後は任せる」
その言葉で黎夜が気づく。
希は既にこの工場の外へと向かって歩き出していることに。
そしてまた、誠一もこの場から去ろうとしていることに。
「何処にいくんだよ」
「後始末は脇役の仕事、と相場が決まっているんだよ」
そんなことを投げやりに誠一は言う。
内心で自身の装備を確認。拳銃が二挺、弾丸の数は十二発。それが野牧誠一の武装だ。
目立たないように腰のホルダーにひとつ。胸ポケットにひとつ。
相手は学園都市お抱えの処刑部隊。なかなかの戦力差に思わず誠一から呆れにも似た笑いが零れた。
野牧誠一は表舞台から降りていく。
後は主役に任せた、と。そんな言葉をつぶやくと、希を追いかけて外へと行く。
◇ ◇ ◇ ◇
「行っちまったな……」
「……ええ」
誠一と希を見送った黎夜と舞夏。
彼らが言う脇役の仕事が何なのかは分からないが。
霊核殺しの宝玉の暴走を恐れたわけではないことくらいは理解している。
それに、黎夜と舞夏がやらなければならないことは、そんなことを考えることではない。
「弧冬……」
横たわった少女。
希の勧めで彼女の腕には手錠がかけられ、拘束されている。
切り裂きジャックという英雄の脅威はその潜伏技術と残忍さ。腕力で手錠を切るような芸当はできないはず。
そう予想を立てて、覚醒した場合の危険を取り除いておいた。
「……必ず、助けるから。今度こそ、助けるからね」
丁寧ないつもの口調も剥離し、素の舞夏の言葉が優しく弧冬へと投げかけられる。
決意をもって霊核殺しの宝玉を握り締めると、そっと弧冬へと近づいていく。
黎夜もまた、彼女に追従するようにして舞夏の隣に立つ。
「………………」
と、ここで沈黙が降りた。
霊核殺しの宝玉を使おうとした舞夏の動きが止まったのだ。
不審に思って黎夜は声をかける。
「どうした? まだ……迷ってるのか?」
「い、いえ……それが」
珍しく歯切れの悪い舞夏の言葉。
この期に及んでもなお、迷っているのでは。そんな不安が再び黎夜の中でもたげようとしていたときだった。
そっと、顔を赤らめて、舞夏が言う。
「そ、そのですね。私はずっと弧冬と疎遠でいましたから……」
「いましたから?」
「ええと……」
言いよどむ舞夏だが、黎夜には何がなんだか分からない。
彼女の頬が僅かに赤くなっている理由も、せわしなく舞夏の視線が行ったり来たりをしている理由も不明だ。
相手が察してくれない、と悟ると舞夏は消えそうな声で、言う。
「弧冬の何処に、紋様があるのか知らなくて……ですから、その……これから調べないと」
「ふむふむ…………ふむ?」
誠一の真似をして顎に手をやる黎夜だったが、何かいま引っかかった。
一連の流れは正しい行為であるはずなのに。舞夏が顔を赤くする理由と、それが繋がりかける。
だが、黎夜が答えを脳裏で弾き出すよりも僅かに早く、舞夏が口にした。
「弧冬の、服を脱がして隅から隅まで調べなければならないのですが……その、ご一緒に、探され、ますか……?」
その言葉を聴いた黎夜は、舞夏に負けず劣らず顔を赤くする。
言葉にならない奇声をあげた黎夜は、動揺を言葉にすることもできずに思い切り首を横に振る。
ギシギシ、とロボットダンスのような動きで黎夜は背後へと回れ右。
そのまま廃工場の外へと出ようとするのを舞夏が止める。
「あ、黎夜さん……できれば、傍にいてくれたほうが心強いと言いますか、その」
「お、おおおう、分かった」
びしり、とその場で直立して気をつけ体勢をする黎夜。
黎夜は後ろを向いた状態なので分からないが、舞夏はどうやら紋様探しを始めた様子だ。
かさこそと衣類の擦れる音。しゅるり、と妙に生々しい。
お互いが無言なので、そんな小さな音が工場内に響く。どういうわけか、黎夜もその音に聞き入ってしまう。
(いやいや、なんていうか、なに、この状況!? どうしようもないってか、むしろどうしろと!)
混乱の極みにあるらしい黎夜は割りといっぱいいっぱい。
手持ち無沙汰なのだが、手や指一本でも動かしたら何かいけない気がして硬直している。
そんなオトコノコの葛藤をしている黎夜に気づくことなく、舞夏は言う。
「……あ、あれ……手錠を外さずに脱がすにはどうすればいいんでしょうか……?」
どうやら向こうも難航しているらしい。
お嬢様っぽい舞夏には人の衣服を脱がしたりする救命的な心得はなさそうだ。
かといって振り向いて手伝うこともできない黎夜はただ硬直する。
そんなときだった。
ビリビリビリッ!
なんかいま、布の破れる音がした。
黎夜の額から冷や汗が流れるが、全力で気づかない振りをする。
というか、さっきまでの展開との落差が酷すぎて、この状況に適応できないのだった。
「……そうですね。全部破ってしまいましょう」
「(ええええー)」
抗議の声を上げることもできないが、とりあえず内心で突っ込みを入れた。
次々と破けていく衣服の音。黎夜はいっそ叫びたくなった。
生殺しというか何と言うか。紋様が見つかっても振り向けないような気がするが、舞夏の行動はとまらない。
どうやら真の敵は自分らしい。己の煩悩と黎夜は戦い続ける。
「……本当に、大きくなりましたね、弧冬……」
「(何がーっ!!?)」
というか、独り言はやめてほしい。
余計に意識しすぎてしまう。黎夜の精神力にも限界というものがあるのだった。
ただ、独り言は舞夏の癖らしく、その後もしばらく続くことになる。
「弧冬、ちょっとごめんね……」
「んっ、ぅぅ……やっ」
「(ぐぉぉおおおおおおあああああああああああああああッ!!!!)」
弧冬の艶やかな鼻にかかった声が聞こえてきた。
精神衛生上、よろしくなさ過ぎる状況に黎夜の脳内が全力でノーと叫ぶ。
背徳感が溢れすぎる天国一歩手前の地獄に、青少年の黎夜は頭を抱えるのだった。
◇ ◇ ◇ ◇
一方、そんなピンクな空気など知らない誠一たちは廃工場の外にいた。
雰囲気は一転してピリピリとしたもので、彼らの表情は状況の悪化を告げている。
「何が起きたの?」
「処刑部隊です。霧咲孝之を護送していた隊員六名がやられました」
希の整った顔立ちが誠一の報告で僅かに歪む。
隊員六名とは四番隊の構成員の半分以上を占めている。隊ひとつが十人構成だからだ。
アルフレッド副長は無涯黎夜に敗れた。今頃は無涯沙耶を保護して、この場から離れているはず。
そして残り四人の構成員は以前、天凪葉月によって病院送りとされている。
「そう。四番隊は全滅したのね」
「はい。いずれこのままでは、この廃工場を探し当てるでしょう。そうなれば……」
弧冬を救うどころではない。
協力組織であるはずの旅団の構成員を襲撃したところからも、狙いは標的だけ、などという命令はない。
そんな涙ぐましい指令ではないことは、誰の目から見ても明らかだ。
「そう」
希はそっと短く呟いた。
彼女は廃工場の外に立てかけておいた武装を掴んだ。
それは小柄な彼女には似合わない、長さ三メートルにも及ぼうかというほど長い槍だった。
太さも胴回り二十cmほど。その重量は十kgを超え、武器として振り回すにはあまりにも巨大すぎる戦槍だ。
その鷹のように鋭い目つきがただ告げる。
邪魔をする相手には容赦しない、と。部下を傷つけた者なら遠慮はしない、と。
技術部の主任にして、埋葬部隊の隊長たる高原希が歩き出そうとして。
「の、希さんは防衛のほうを。自分が出ます」
若干、冷や汗をかいた誠一が彼女を物理的に押し留めた。
具体的に言うと彼女の前に立ち塞がって、両手で彼女の肩を抑えている。
必然的に誠一と希の顔の位置が近くなる。
大柄な誠一と小柄な希の差は身長差くらいで、お互いが見上げ、もしくは見下ろす形で対峙した。
「ち、ちょっと。ここ、外だよ……」
「どうどう、どうどうどう……はーい、どうどう」
若干、慌てた様子で距離をとる希。
対して苦笑いを浮かべながら、まるで馬に行うような対応で落ち着かせる誠一。
その行動と、ついでに高い身長に見下ろされることに苛立ちを感じたので、誠一の脇腹に一撃を入れる。
みぎゃあ、と猫のような鳴き声をあげる誠一に対して、希が言う。
「行けるの?」
「つ、月ヶ瀬さんたちの邪魔だけはさせちゃいけませんからねー。荒事は苦手だけど、仕方ない」
工場の守りは希に任せておきたい。
この工場は最終防衛ラインであり、処刑部隊を絶対にこの先に通してはいけない。
だからこそ『一番強い切り札』を防衛に当てる。
組織でもAクラスとして隊長の任に当たる者の全ては誓約者。それは、埋葬部隊の高原希も例外ではない。
「第一、希さんに戦わせたらこの辺が焦土と化す……」
「む、なんか言った?」
「はっはっは、そんな恐れ多いこと言うわけないじゃないですかー。恐ろしいと怖い、ふたつあわせて恐怖ですよー」
軽薄な顔つきでおどけてみせる誠一。
そんな彼を珍しく心配するような表情の希は、言葉を紡ぐ。
彼女の負い目を表すような、思いやるような声色でもう一度誠一へと問いかけた。
「その身体で、本当に戦えるの?」
ぴたり、と青年の身体が止まった。
それは一瞬のことだったが、確かに青年の心の内が読めた。
それでもすぐに回復した誠一は、すぐに苦笑した表情を希に向ける。
心配させないために、野牧誠一は使い慣れた自然な作り笑顔で応答した。
「楽勝に決まってるじゃないですか」
「右腕の握力、戻ってないでしょ。左腕だって使えるかどうか、じゃなかったっけ」
「良いハンデです」
「歩くこともできなかったじゃない」
「三年前の話ですね」
「『誠一』くん」
そっと、怒ったような声で希は制す。
誠一の作り笑顔で少しだけ壊れるが、それ以上のことはない。
「誰がそんな身体にしたと思ってんのよ」
少しだけ、彼らの中に沈黙が訪れた。
時間の猶予もない。それすらも長くは続かない。
「君の右腕を潰したのも私、両足の腱を引きちぎったのも私、二度と戦えないような身体にしたのも私よ」
「仕方がなかった。悪いのは自分だ」
「私も後悔しているわけじゃないけど。たった三年のリハビリで学園都市お抱えの殺し屋と戦えるの?」
初めの一年は日常生活もままならなかった。
次の一年も思い通りの行動はできなかった。この三年目になってようやく、こうして走るくらいまで回復したのだ。
もちろん、それは誠一の血の滲むような努力もあったし、進んだ医療のおかげもある。
だが、それは決して以前のように戦えるほどまで回復したわけではない。戦いからは当然、離れていた。
「これでも、先代四番隊長なんだから大丈夫。自分にはまだ、霊核の残滓が残ってる」
舞夏が四番隊に就任したのは三年ほど前のことだった。
先代の隊長は野牧誠一。彼もまたかつてはAクラスとして前線を戦っていたのだ。
それも、もう昔の話に過ぎないのだが。
「……そう」
それ以上、希は何も言わなかった。
彼の気質も性格も、上司である彼女は誰よりも把握している。
自惚れではなく、完全な事実として野牧誠一という男性のことを知っている。
不思議な関係だ、と希は笑みを浮かべた。
「いってらっしゃい。早く帰ってきてね」
「いってきます。なるべく早く帰ってくるよ」
何でもない日常会話のように二人は別れる。
かつて、とある理由で殺し合った二人は今、自然な形でこんな言葉を口にする。
本当に人生というものは何が起こるか分からないわね、と。
そんなことを考えて苦笑いをすると、希はいつも通りの無愛想な表情へと戻して気合を入れた。
戦いはまだ、終わってないのだ。
◇ ◇ ◇ ◇
「ぐっ……」
「ちょ、ちょっと! 大丈夫なの!?」
悲鳴のような叫びを上げるのは無涯沙耶だ。
一般人である彼女は何も知らない。よって、この場からすぐに避難させなければならなかった。
だが、アルフレッドは気絶しており、誰も沙耶を保護できない。むしろアルフレッドは逆の立場となっていた。
黎夜の一撃で意識を失っていたアルフレッド。その彼を支えて、路地裏の入り口にまで引っ張ってきたのは沙耶だった。
ようやく商店街の近くまで引っ張ってきた沙耶だったが、そこでアルフレッドが覚醒する。
そんな彼は自分で立ち上がろうとして、頭と腹部を押さえている。
沙耶が悲鳴を上げたのも無理はないほど、どちらも出血がひどい。
「腹部のほうは……貴女なのですがね……」
「仕方ないじゃない! 勘違いさせたアンタが悪いのよ!」
「確かに」
そこについて否定はできない。
簡潔に弧冬に向かって殺しに来ました、などと口にした自分が恨めしい。
とはいえ、彼女を説得させている間に逃げられては元も子もないので、あんな強引な手段を取らせてもらった。
その結果が裏目に出てしまったことは、ご愛嬌というべきか否か。
「私は、ここで大丈夫です。貴女は早くお帰りなさい」
「いや! お兄ちゃんがまだ向こうにいるし、弧冬のことだって……弧冬の、ことだって」
弧冬のことを思い出す。
あの天真爛漫な少女が連続殺人鬼なんて思いたくない。
何もかもがただの的外れな勘違いであってほしい。
そもそも、黎夜が何を知っているのか。言葉の一端も分からなかった沙耶は不安でいっぱいだった。
しかし、アルフレッドとてこれ以上、彼女を介入させることはできない。
どうしたものか、と思案していたときだった。
商店街から路地裏へと入ってくる人影がふたつ。その影の正体を見て、アルフレッドが声を上げる。
「一番隊副長の、藤枝緋紗那さん……? それに、埋葬部隊の」
「ご無沙汰していました、アルフレッドさん。こちらは記憶操作係の本間詩乃(ほんま、しの)さんです」
「こんにちはーじゃなくてこんばんはです応援に来たのですよはいー!」
病院で療養中だった監視役の緋紗那。
彼女もまたいてもたってもいられなくなったらしく、利き腕を包帯で巻いて現場へと現れた。
内心でアルフレッドは冷や汗が流れる。
彼女の中では霧咲孝之が犯人である、となっている。つまり、弧冬のことを知られればただではすまない。
そんなアルフレッドの内心を読んでいたように、緋紗那が小声で言う。
「大丈夫。事態は把握しています。霧咲孝之は誓約者ではありません」
「…………っ」
「一度戦って、気づきました。彼は誓約者にしては弱すぎた。ですから、病院で高原主任に確認を取ったんです」
その結果、高原希は話してくれたと言う。
霧咲孝之はダミーに過ぎず、連続殺人鬼の真犯人は他にいることを。
それが誰なのか、緋紗那は知らされなかった。知りたいとは思うが、さすがにそこまでは知らされなかった。
監視役としては困るのだが、緋紗那にとって一番の問題はそこではない。
「アルフレッドさん。この事件は解決しますよね? もう、この事件は今夜で終わりますよね?」
今夜でこの事件を終わらせることだ。
理不尽に命を奪われる人々はもう出ないことだ。
藤枝緋紗那はそこさえ確約してくれれば、もはや何も言うことはない。
アルフレッドは少し迷いつつも、しっかりと頷いた。
「必ず。この事件は今夜で」
「なら、私からは何も言いません。傷の手当てをしますね。……ええと、彼女は?」
アルフレッドから沙耶へと視線を向ける緋紗那。
沙耶はじっくりと観察するように緋紗那を眺めていた。持ち前の警戒心が発言することさえ許さなかった。
そんな彼女を補足するように、アルフレッドが言う。
「巻き込まれた一般人です。詩乃さんの出番ですね」
「はいはいはいはいはいー了解なんですよーここで取り出したるは我が相棒のスタンガンー!」
「………………」
「わーんっなんか無言で血だらけのメリケンサックを取り出してきましたーっまさかここで殴り合いなんですかー!」
警戒心が最高潮に達した沙耶が、無言でメリケンサックを右手に装着する。
アルフレッドの腹を抉ったそれには鮮血がびっしりとこびり付き、威圧感で詩乃の体ががくがくと震える。
あやうくスタンガンとメリケンサック、どちらが強いかの頂上決戦が繰り広げられる直前で勝負は終わる。
緋紗那が彼女の背後に回ると、左手で沙耶の首をトンと叩いたのだ。
「あっ……う」
「ごめんなさい」
消耗していた沙耶は、呆気なく地面に倒れるところで緋紗那に支えられる。
気絶させたためにスタンガンは用なしとなり、詩乃があーっと叫び声をあげるが誰も気にしない。
「では、詩乃さん。記憶の操作、お願いしますね。今回の事件の記憶を奪っておいてください」
「ちぇー了解ー」
不満そうな詩乃を尻目に、アルフレッドは傷の手当てに入った。
貰った包帯を腹部に巻いて出血を止め、殴られた頭にも包帯をする。簡易的だがそれで十分だと判断した。
そしてもう一度、アルフレッドは路地裏の奥へと進んでいく。
その後姿を慌てて緋紗那が止めた。
「どこに行くんですか、アルフレッドさん!」
「緋紗那さんに後はお任せします。私は、行かなければならないところがあります」
強い意思のこもった瞳に、緋紗那は気圧された。
彼の傷は決して軽くはない。ここで戦線を離脱しなければならないぐらいだというのに、アルフレッドの意思を動かせない。
「遅いかも知れない、無駄かも知れない。ですが、私にもまだできることがあるかも知れない」
「……そう、ですか」
この件について口には出すまい、と緋紗那は誓っている。
だからこそ、何かをやろうとしているアルフレッドを止めることはできない。
例え止める立場にいようとも、止めてはならない。見送って無事を祈るのが一番正しい選択なのだ。
それを理解した緋紗那は、静かにアルフレッドの背中に向けて語る。
「ご武運を。こちらのことは任せてください」
返事はなかった。
アルフレッドにはそうする余裕さえもなかった。
緋紗那は彼の背中が消えるまで見送ったあと、雑務をこなすためにもう一度商店街へと戻っていった。