第2章、第12話外伝【慟哭】
――――――救いたい、と思っていたはずだった。
誰も犠牲にすることなく、みんなで笑って帰る。そんな世界を夢見ていた。
だから誰も笑えないような選択が嫌で、抗っていた。
救いたい、と思ったのは嘘なんかじゃない。
助けたいし、守りたいと思う気持ちは決して偽りなんかじゃないはずだった。
なのに。
俺の脚はそれ以上、前に進まなかった。
顔がクシャクシャに歪み、握り締めた拳がぎりぎりと音を立てている。
水音が聞こえた。
それが俺の瞳から零れた涙だったのか、掌を握り締めすぎて垂れた血液なのかも、もう分からなかった。
「……っ……っ!」
舞夏を助けたい、弧冬を救いたい。
沙耶との約束を果たしたい。アルフレッドの願いを叶えたい。
たくさんの想いを背負っているのに、俺の脚はそれ以上前に進まない。
また、失ってしまうのか。
あの飛行機事故のような理不尽が襲ってくる。
あのバラバラになりそうなくらいの激痛が蘇ってくる。
舞夏を助けたいのに、沙耶と天秤にかけた俺は文字通り迷っていた。
彼女が突きつけられていた選択を、今度は俺が突きつけられていた。
母さんの形見の宝石。
絶対に手放したくなかった存在なのに、今はその存在があまりにも重い。
霊核を外さなければ、俺はまた家族を奪われてしまうかも知れない。
「くそ……」
母さんの宝石が特別なものだ、と知らされてからまだ二週間も経過していない。
それなのに沙耶は既に二度も命の危機に晒されている。
俺がこれを宿している限り、俺も沙耶もじっちゃんも、何度も危険な目に合わせてしまうんだ。
これからも一生、ずっと。それはきっと、沙耶の人生を滅茶苦茶にする。
(俺は……)
失いたくない。
もうあんな想いはしたくない。
俺は妹を、じっちゃんを、絶対に危険な目にはあわせたくない。
たとえ……たとえそれが、たくさんの想いを踏みにじることになったとしても。
「それが、正解です」
「あっ……」
それは本当に些細なことだった。
前に進まなければならないはずの俺の脚が、一歩後ろに後退していた。
それが俺の意思の表れ、と舞夏は受け取った。
俺は思わず違う、と声を張り上げそうになって……そのまま言葉を嚥下した。
何も、違わない。
「もし、黎夜さんがそれでも弧冬に使え、と言うのなら……私は、あなたを恨んでいたかも知れない」
俺が否定の言葉を搾り出す前に、舞夏は静かに俺に警告していた。
霊核殺しの宝玉、舞夏だって弧冬に使いたいはずなのに。
妹の命を助けたいのに、その唯一の希望を俺なんかのために差し出そうとしている。
否定したい、拒絶したいのに。抗えないモノがあって唇を噛んだ。
「舞夏……ごめん、俺……」
「兄として、当然の選択です。黎夜さん」
兄として、妹を守るのは当然のこと。
その代償として目の前の姉は、妹を殺さなければならない。
「アルフレッドは……来られませんよね」
「……ああ」
そうですか、と舞夏は静かに溜息をつく。
彼女にとって自分とアルフレッドだけが親類のようなものなんだろう。
兄や弟がいる、と言っていたがここに姿を見せることはない。その事情まで俺も気を回すことは出来ない。
「ねえ、黎夜さん……」
「……なんだ」
「弧冬を、一緒に看取ってはもらえませんか……? アルフレッドの代わりに」
返事を即答することは出来なかった。
先ほどとは打って変わった舞夏の言葉だったが、拒絶する意志はなかった。
アルフレッド・ガードナー。彼女たち姉妹の従者にして兄のような存在。
彼が見届けられなかった全てを見る。世界にまたひとつ生まれた悲劇を、この目に焼き付ける。
「……ああ」
それが、俺が出来る精一杯の贖罪。
舞夏を救うことも出来ない、情けない男が出した情けない答え。
せめて悲劇から目を逸らすことなく、この事件の最後を見届けよう。
◇ ◇ ◇ ◇
裁定の準備は整った。
小さな廃工場の床の上に横たわった弧冬の体を、二人の男女が眺めている。
女のほうである舞夏の右手には、赤い柄の短刀が握られていた。
これを胸に突き刺すことで、連続殺人事件は幕を下ろす。男のほうである黎夜は見届け人であり、手出しは無用。
ゆっくりと、舞夏が弧冬へと近づいた。
意識もなく、ゆっくりと胸を上下させる弧冬の頬を舞夏が撫でる。
生涯で恐らく初めてとなる姉妹の触れ合いだ。
こうしてあげるまで、長い道のりだった。その果てにあったのも悲劇だった。
舞夏は短刀を一際強く握り締めると、そのまま上へと掲げた。
こうすることを舞夏は覚悟していた。
弧冬は人を殺しすぎた。たとえ救ったとしても良心の呵責に耐え切れず、いずれ自滅してしまうだろう。
舞夏も人を殺しすぎた。これはその裁きに相違ないと思っていた。
むしろ、そんな最低の姉妹の確執に無涯黎夜を巻き込んだことが申し訳なかった。
(…………なんで、でしょうね)
どうして黎夜に見届けを頼んだのか、舞夏は分からなかった。
このまま帰ってもらうほうがずっと、黎夜の心を傷つけることはなかったのに。
忘れてほしくない、と願ってしまっている。
弧冬の存在を、舞夏自身の存在を、黎夜に憶えていてほしい、と願ってしまっていた。
(莫迦……)
その想いすら何もかも消えていく。
そんなことは分かっていた。だから舞夏はそれ以上、何も言うことはなかった。
化け物は静かにここから消えていこう。
これは黎夜が見た悪夢。舞夏と弧冬は悪夢を演出した悪魔なのだ、と舞夏はそんなことを考えた。
掲げた短刀が、震えていた。
それでも振り下ろさなければ終われない。
この悪夢が終わることはない。
舞夏は意を決すると、唇をかみ締めたまま一気に短刀に力を込めた。
最期の、最後のときだった。
「お姉ちゃ……ん……?」
意識を失っていたはずの弧冬の瞳が、姉の姿をじっと見ていた。
短刀を振り上げ、今にも妹の命を奪おうとする舞夏の姿を弧冬はじっと見つめ続けていた。
「…………っ!?」
舞夏の顔が恐怖に歪んだ。
どんな恨み言を言われるのか、と思うと身体が動かなくなった。呼吸すらも止まっていた。
しかし。
「お姉ちゃんだぁ……♪」
「……え……?」
弧冬はただ、微笑んだ。
切り裂きジャックから一時的に意識を奪い返し、舞夏の姿を見て微笑んでいた。
振り上げた短刀が見えていないはずがない。
舞夏が自分をどうしようとしていかなんて、分からないはずがないのに。
「ごめんね……ごめん、お姉ちゃん……」
「なんで……弧冬が、謝るの……? あやま、るのは……私、なのに……」
舞夏の付けていた無感情の仮面が音を立てて崩れた。
耐え切れない、とばかりに舞夏は口元を押さえて俯いた。
それでも、掲げた剣は下ろせない。
加害者であるはずの舞夏が呟くのは、ただ疑問だけだった。ずっと聴きたかった疑問だった。
「どうして、私を憎まないの……? あんなり、いっぱい酷いこと言ったのに……いっぱい、酷いことしたのに……っ!」
母が死んだのはお前のせいだ、と言って拒絶した。
そのことが恐ろしくてずっと構ってやることもせず、怖がって距離をとってばかりだった。
そして今はこの手で殺そうとしているのに、どうして。
どうしてこの子は、こんなにも幸せそうな顔をしているのか、舞夏には分からなかった。
対して弧冬は、精一杯の笑みで口にした。
ずっと口にしたかったこと。ずっと言ってあげたかったこと。十六年の時間を少しでも埋めるために。
「お姉ちゃんが、好きなの」
「え……?」
「弧冬ね、弧冬ね……強くてカッコイイお姉ちゃんが憧れだったんだ……」
舞夏が己の母に憧れ、母のようになりたくて修練を重ねたように。
弧冬は己の姉に憧れ、彼女のようになってみたいと思った。
ただ、それだけのことだったのだ。
舞夏の隣にいた黎夜は気づいた。
弧冬の右手を、弧冬が左手で押さえつけていることに。その身体が小刻みに揺れていることに。
ジャック・ザ・リッパーは生きようとしているのだ。
宿主の身体を今一度乗っ取って逃げようとしているのを、弧冬は力ずくで押さえ込んでいた。
それが、月ヶ瀬弧冬の最後の矜持。
「お姉ちゃんみたいになりたくて、弧冬、頑張ったんだけど……だめだめで」
どんなに修練しても、戦闘の才能はなかった。
頑張っても裏世界で戦えるほど強くなれなくて、出涸らしとまで呼ばれることがあった。
姉のように強くはなれなかった。
「お姉ちゃんの役に立ちたかったんだけど、弧冬はダメな子で」
一生懸命勉強しても、舞夏の役に立つほどまで秀才にはなれなかった。
弧冬の知識で舞夏が知らないことなどなく、そして舞夏もまた弧冬を頼ろうとはしなかった。
姉のように聡明にはなれなかった。
頑張っても頑張っても、才能という残酷な壁が弧冬の前に立ち塞がり続けた。
「だから、霊核を宿したら、お姉ちゃんみたいに強くなれると思ったんだ」
舞夏の力になりたかった。
大好きな姉と一緒に頑張りたかった。憧れのお姉ちゃんに認めてほしかった。
恨んでなんかいなかった。憎むはずなんてなかった。
弧冬にとって舞夏は辿り着きたい場所であり、いつかそうなりたい憧れの人であり、自慢の姉だったからだ。
「だけど、やっぱりお姉ちゃんに迷惑かけちゃった……だから、ごめんね」
でも、何をやってもうまくいかなかった。
いつもやることは裏目に出てしまって、それで姉に迷惑をかけてばかりだった。
残酷な才能の差があった。ただそれだけの話だった。
舞夏は何度も首を振った。そんなことなかった。莫迦なのは私のほうだった、って言いたかった。
「ごめん、って……ごめんって言うのなら……私だって……っ!!」
冷たくしてごめんなさい。
構ってあげなくてごめんなさい。
あなたを選ばなくてごめんなさい。
言わなければならないことが浮かんでは消えていく。
もっと伝えたいことが山ほどあったはずなのに、感情の波に飲まれて言葉が出てこない。
「泣いてくれるんだ……お姉ちゃん……嬉しいな」
弧冬は笑みを絶やすことはなかった。
全ての罪を受け入れた聖女のように、死を前にしても微笑み続けた。
「ありがとう……お姉ちゃん……」
振り上げたまま止まっていた舞夏の右手を、弧冬は優しく包み込んだ。
あっ、と舞夏が声を上げる。弧冬の手はそのまま降ろされる。
掴まれた舞夏の右手は、吸い込まれるかのような自然さで振り下ろされて……
「弧冬はね、幸せだったよ」
トスリ、と。
そのまま少女の胸へと裁断の剣が突き刺さった。
◇ ◇ ◇ ◇
「あ……」
弧冬は、自ら死を選んだ。
こんなことを最期に聞かせられたら、舞夏が自分を殺すことを迷うだろうから。
迷っている間にジャック・ザ・リッパーに負けてしまわないように。
また暴走して、大切な姉を傷つけさせないために。
ころころ、と。弧冬の亡骸から輝きの失った宝石が零れた。
かつて切り裂きジャックを封じていた宝石は、宿主の死と共にその力を失った。
ジャック・ザ・リッパーはもう二度と誰かによって宿されることはない。
たった今、一人の少女が決着を付けたから。
「あああっ……!!」
神様。
あなたがどうしようもなく冷酷なことは知っている。
運命が月ヶ瀬弧冬という少女から何もかもを奪っていった。
それでも、少女は選んで見せた。
未来も、人生も、命さえ奪われても……大切な姉だけは奪わせない。
「ごめん……なさい……! ごめんなさい、ごめんなさいっ……弧冬……!」
白いワンピースが赤く染まるのも構わず、舞夏は妹の亡骸を抱きしめる。
伝えたい言葉がたくさんあった。
注ぎたい愛がたくさんあったのに、もう二度とその想いは少女には届かない。
「うぁ……ぁぁぁああああああああああああああっ……!!!」
泣き叫ぶ舞夏と、この世を去った健気な少女を黎夜は見つめていた。
絶対に目をそらしてはならない光景だと思った。ひとつの悲劇を胸に刻みつけた。
この悲劇と引き換えに、彼は家族の命の保障を得たのだ。
結局、無涯黎夜は選べなかった。
どちらも救う、と誠一に伝えたその願いを、黎夜は選ぶことができなかった。
「舞夏……お前の妹は、すげえよ……」
搾り出すような声で黎夜は言う。
月ヶ瀬弧冬という少女の立派な最期、その姿を目に焼き付ける。
自ら命を絶つことが正しいこと、だなんて思えない。
それでも弧冬という少女の矜持、苦しんだ中で選んだ答えは誰にも莫迦にはできない。
「ほんとに……すげえことを、したんだよ……」
二人の嗚咽が夜の闇に木霊する。
連続殺人鬼を巡る今夜の戦いは、こうして終焉を迎えた。
この小さな世界の中で、小さな悲劇を生んで。
◇ ◇ ◇ ◇
あれから一週間が過ぎた。
世界はいつもどおりの日常を廻し続けていた。
朝食を食べて、皿洗いをして、学校に行って、授業を受けて、友人と馬鹿騒ぎをする。
何も変わらなかった。何一つとして変わっていなかった。
沙耶は何も言わなかった。
泣きそうな顔で戻ってきた黎夜をただ抱きしめるだけだった。
嗚咽を零すこともなく、何を言うこともなく、ただ静かに有りのままの現実を認識して受け入れた。
アルフレッドとはあれから逢っていない。
合わす顔がないのは両者とも同じだった。逢って、何かを話しても何の意味もないからだ。
彼はこれから、残されたもう一人の主を何としても護るのだろう。それこそ、今度は命を捨ててでも。
野牧誠一も何も言わなかった。ただ友人として馬鹿騒ぎをしていた。
黎夜に対して失望したこともあるのは分かっていたし、誠一に対して騙していたことを追求することもない。
ただ、彼らの関係は何処かギクシャクとしたものになっていて、誠一とあまり顔をあわせることもなくなっていった。
裏組織の人間である、と知らされたときでも笑いあえた仲が、急激に冷えていく感覚を何となく黎夜は感じていた。
そして。
月ヶ瀬舞夏はいなくなった。
表向きには転校という形を取り、二度と黎夜の前には姿を見せることはなかった。
一週間という時間が過ぎてもなお、音沙汰というものはなかった。
舞夏も、アルフレッドも、旅団という組織も、霊核も、全部が幻のように感じてしまうくらいの虚無感。
「………………くそ」
黎夜は学園の帰り道を歩いていた。
まだ講義は残っていたが、とても受ける気分にはなれなくて早退したのだ。
黎夜はゆっくりと歩を進ませながら、今でもあのときの選択が正しかったのかどうかについて考える。
時間を戻すことができないことも、人の命は二度と還らないことも分かっているのに。
今でも黎夜はあの選択について後悔にも似た何かを感じてしまう。
裏世界はほんとにあったのか。
そんなことまで考えてしまう。
連続殺人事件は『警察が霧咲孝之を再逮捕した』と報じており、その裏でどんなことがあったのかは説明しない。
その裏で何人もの人間が、どんな思いで運命に向かって抗っていたのか、それは知られることもない。
黎夜自身が夢から覚めたかのように、呆然としながら日常を送り続けている。
いまや裏世界を証明する事柄と言えば。
(霊核……)
未だ宿したままの霊核の存在。
あれから音沙汰がなく、弧冬のために使われるはずだった『霊核殺しの宝玉』……それを思うと胸が苦しくなる。
どのように使うかも知らないが、恐らくは改良に改良を重ねているのだろう。
舞夏のもうひとつの願いを果たすために。万が一にも失敗などないように。無涯黎夜を裏世界から表へと返すために。
(……そして)
もう一人。
裏世界を示す人物は未だそこにいる。
得がたい友人だった野牧誠一。裏世界の人間であり、そしてそれ以前から黎夜の親友だった者。
ざり、と背後から足音が聞こえた。
黎夜は釣られるように背後を振り向いて、少しだけ表情を歪ませた。
苦々しい顔をした黎夜に対し、来訪者は特に変わった行動を起こすことなく、そこに立っていた。
唯一、裏世界の事情を知る者。
藍色の混じった黒髪の天然パーマにメガネ、長身が特徴の野牧誠一は一週間前から変わることなく、そこにいる。
変わったのは黎夜と誠一の距離感だけだった。
「……誠一」
「約束を果たしにきたぞ、黎夜」
言葉に温かさはなかった。
ただ一方的な宣告。裏組織旅団の一員として、黎夜へと相対していた。
そこに友人としての情は感じられなかった。
「これから、お前の霊核を剥ぎ取る」
「誠一……俺は、」
「既に八方、手は回した。お前の妹は昨日の事件を憶えていないし、月ヶ瀬さんは次の任務へと赴いた」
黎夜が何か言おうとするのを、誠一は聞く耳持たずに一蹴する。
色々と聞きたいことがあった。色々と直したい絆もあった。
その全てを拒否されたような気がして、黎夜は黙って俯いた。誠一は対話を成立させるつもりじゃないのだ。
舞夏がどうなったのか、とか。そんな余分な気持ちは語ってはいけないのだ。
無涯黎夜は月ヶ瀬の姉妹を選ばなかった。
見捨てた少女たちのことを気にしても仕方がないだろう、と暗に告げられているようだった。
誠一の失望にも近い感情が黎夜にも手に取るように分かった。
それが情けないと思いつつも、黎夜は自分とその家族の無事を願ってしまったのだ。
もう、家族は失いたくなかったから。
「詩乃、こっちに来てくれ」
誠一の声に反応して現れたのは、オレンジの髪を耳元で切り揃えた少女だった。
本当に少女、という形容がぴったりな小学生を卒業したばかりのような小さな女の子だった。
彼女は朗らかな笑みと共にとてとてと歩いてくる。
その仕草が何処となく自分が見捨てた少女のようにも見えて、黎夜は思わず驚きで思考を止めてしまった。
「はいはいはい野牧さんとりあえず任務ということでお呼ばれしましたけどどんなご用件ですかーっ!」
「ああ、いつもの任務だ。そんでこいつが、今回のターゲット」
はーい、と詩乃が明るく返事をするのを聞きながら、黎夜は思考をようやく取り戻した。
なにやらターゲット、などと物騒な言葉が聞こえてきたからだ。
「ちょっと待て、誠一。話の流れが見えな、」
「黎夜。自分たちはあの事件以来、疎遠になってしまった。せっかくの友人関係が崩れようとしている」
思わず、黎夜は無言になる。
黎夜から誠一を避けることもあったし、誠一が黎夜のことを無視することもあった。
以前のような笑い合う関係とは程遠い。
それについて気を揉んでいたのは、黎夜だけではなかったらしい。
「前にも言ったけど、自分はあの五人の仲を壊したくない。お前とも気の置けない友人であり続けたい」
「……誠一」
「自分たちを歪めている原因があの事件なのは言うまでもない。裏世界の存在が、お前の重荷になってしまっている」
だから、と誠一は眼鏡をあげて言う。
「お前の記憶を奪う」
反応は、できなかった。
突如の不意打ち。誠一は何もしていない。誠一に注目していた黎夜は呆気なく倒れた。
背後から誠一の部下と思しき少女……詩乃と呼ばれた少女が黎夜を気絶させていた。
その右手にはスタンガンらしきものが握られている。
「久々登場の傷跡なしスタンガンー! 一家に一台生活の必需品にしてこの本間詩乃の相棒なのでしたー!」
「いいから記憶を消してくれ。お前はそのために人員なんだから」
「むー後でちゃんと設定をくださいよーとりあえずやりますけど詳しいことを聞かないと分からないんですからー!」
意識を失う直前、黎夜は嬉しそうな少女の声を聞いた。
そしてそれ以外にも聞こえてきたのが、誠一の黎夜へと向けた独白にも近い囁きだ。
「次の主人公を見つけるよ。『俺』は絶対に諦めない」
次の主人公、という単語の意味は分からなかった。
何処となく野牧誠一の隠れた真相がその呟きにあったような気がしたが、もはや黎夜には関係のない話になる。
誠一は厳しい表情を少し砕き、改めて友人へと見せる表の顔つきで黎夜を見た。
意識を失いかけ、倒れる黎夜が最後に聞いた言葉は、何処となく心地よいものだった。
「おかえり。黎夜。平和な日常へ。また皆で遊ぼうぜ」
ああ、それは――――とても楽しいものなんだろうな。
何もかも忘れたことになろうとも。
舞夏が願ったのは無涯黎夜の日常への帰還。
無涯沙耶がいて、相沢祐樹がいて、安藤啓介がいて、網川流牙がいて、野牧誠一がいる日常の世界。
平和でつまらない学園生活をもう一度送れるように。
色々な犠牲があって。
様々な悲劇があって。
それはこれからもきっと続いていくものだけど。
最期の最後に。
優しくない世界の中で起こった悲劇の中でも。
ただひとつの願いだけは誰にも邪魔させることなく成就させることができた。
それが、この世界に対する精一杯の抵抗だった。
くすり、と。
そんな精一杯な抵抗を見て。
誰かが口元を歪めて哂っていた、気がした。
<BAD END>
なんと、まさかのバッドエンドです。
主人公の黎夜はトラウマを持った少年です。これは妹の沙耶も同じですが。
小さい頃に家族を失った飛行機事故で後天的に何処か異常があります、この兄妹は。
黎夜は今回の選択として提示されたとき、そのトラウマを突きつけられることにも繋がるわけです。
結果的には平穏を手に入れることのできた今回の話は、敢えてバッド・エンドとしています。
ですがこの先の更なる過酷の可能性も考えれば、どちらが正解かは易々と判断は下せないでしょう。
とりあえず私は家族を失う、というトラウマに打ち勝てなかった主人公を『ヘタ黎夜』と呼んでいますw
ですが、黎夜はヒーローではなくて少年です。
彼曰くの『普通の選択』と『馬鹿な選択』を今回で分岐させてみたわけですね。
次回は『馬鹿な選択』をした黎夜の続きを送りたいと思います。
それでは、今後とも宜しくお願い致します!