第2章、第11話【選択】
商店街裏、廃工場に月ヶ瀬の姉妹はいた。
元は何かを製造していただろうことは分かる工場内。
何らかの原因で潰れてしまったのか。現在、ほとんどの機材は持ち運ばれている。
おかげで広々とした空間が確保できているが、当然のように薄暗くて周囲もよく見渡せない。
僅かな明かりはランタンと月の光だけで、白と赤の輝きが二人の少女を浮かびあげていた。
憂いの表情でその場に佇む月ヶ瀬舞夏。
気を失ってその場に横たわる月ヶ瀬弧冬。
二人の姉妹は互いを害しあう関係としてその場に集まり、最後の審判を待っていた。
「……弧冬」
今夜で全てを終わらせるつもりだった。
何もかもがここで終焉を迎えるはずだった。
地獄しか道がないというのなら、永劫に焼かれる炎を自分で用意して堕ちようとさえ思っていた。
それほどまでに月ヶ瀬舞夏は追い込まれていたのだ。
後はアルフレッドが来れば全てが終わる。
弧冬は身動ぎひとつしない。意識は確実に刈り取り、深い闇の中へと誘った。
例えばこのままこの小さな首にナイフを突き立てれば苦しみを感じるまでもなく逝けるだろうか。
もう、これ以上の煉獄に晒されることなく最期を迎えられるだろうか。
偽善だと知りつつも、せめて最期の夢は孤冬の望んだ幸せな夢を見てほしい、と舞夏は思う。
「………………ごめんね」
もう、どうにもならないのだ。
世界は優しくない。幸福はいつだって人間全体の総数よりも少ない席なのだ。
舞夏も弧冬も、そうした幸福の席からたまたま転げ落ちただけに過ぎない。
幸福不幸なんて、そんなものだ。
そして、処刑執行の時間が来る。
家族の死を看取るために集まるのは遺族と相場が決まってる。
姉である舞夏と保護者のように過ごしたアルフレッドだけでも、家族の最期を見届けようと考えたのだ。
ザリ、と背後から足音がした。
この場で合流することを知っているのはアルフレッドだけだ。
だから間違いなく彼だろうと後ろを振り向いて。
そこに無涯黎夜が立っていた。
◇ ◇ ◇ ◇
「え……!?」
心臓が凍りつくかと思った。
いや、恐らくはショックで心臓が一瞬だけでも止まっていたに違いない。
どうやら全速力で走ってきたらしく、黎夜の息は荒い。
疲労が全身に蓄積しているのか、足取りは重い。制服の所々は破けていて、白い生地が薄く紅に染まっていた。
戦いの後だ、というのが一目でわかった。
どうして、とか。
なんで、とかそういう疑問すらも形にならないほどの驚愕が舞夏を縛る。
「あ、アルフレッドは……」
かろうじて出た言葉は情けないほどに震えていた。
対して黎夜は真っ直ぐな瞳を返してきた。
裏世界の事情とか、闇の中の地獄とか、どうしようもなかった惨劇とかを知らない瞳。
表の世界にいるべき純粋な心の持ち主である無涯黎夜は、余計な問答などしなかった。
ただ、闇の中から一人の少女を引っ張りあげるためだけに屹立していた。
「倒してきた。事情も全部、聞いてきた」
「……っ……!」
ああ、と舞夏が嘆息する。
無涯黎夜は知ってしまった。この事件の背後関係の全てを知ってしまった。
舞夏の妹が殺人鬼だということも、血を分けた妹を他ならぬ姉の自分が殺そうとしていることも。
絶対に知られたくなかった真実が無残にも知られてしまった。
黎夜は廃工場の中へと一歩を踏み出す。
薄暗い闇の中に呆然と立ち尽くす一人の少女。そして倒れたままの少女の姿。
他には誰もいない。ここが連続殺人鬼の墓場だ、と雰囲気が告げていた。
黎夜は構うことなく前へと足を進める。
舞夏と黎夜の距離は三十メートル。歩けば十歩ほどでその場所にまで到達するだろう。
唖然としたまま反応のなかった舞夏が叫んだのは、黎夜が最初の一歩を踏み出したときだった。
「来ないでくださいっ!!」
切り裂くような悲鳴が響いた。
ボロボロの心が張り裂けそうな激痛を舞夏に与えていた。
ぴたり、と黎夜の足が止まった。
これほどまでに激しい感情を舞夏が見せたのは初めてだった。それほどまでに舞夏が追い詰められているのが分かった。
「こんな化け物の近くに来ちゃだめです……私たちのような怪物の近くに来たら、穢れてしまいます!」
「化け物じゃないッ!!!」
舞夏の悲鳴に黎夜は怒号で返した。
この期に及んでも、まだ表と裏の区別か。
ここまで酷い状態になっているにも関わらずまだ彼女は頼ろうとはしてくれないのか。
こんな地獄の中で一人だけ苦しんでる舞夏はまだ己を化け物だと、怪物だと言って卑下するのか。
ふざけるな、と黎夜は血を吐くような声で叫んだ。
月ヶ瀬舞夏も、野牧誠一も、アルフレッド・ガードナーも化け物じゃない。
それぞれが傷つくことを覚悟の上で、それでも誰もが人間くさい事情を背負って走り続けていただけだ。
「いいえ、化け物です! 両手を血と肉と内臓で真っ赤に染め上げた化け物なんです!」
舞夏は溜まらず叫んでいた。
黎夜をこの世界に関わらせたくはないのか、それとも妹を殺す場面を見られたくないのか。
どちらもだろう、と黎夜は思う。
余計な業を背負わせたくはないし、不幸を味わうのは己だけでいいとでも月ヶ瀬舞夏は思っているのだ。
「私たち姉妹はたくさん人を殺しました! こんなっ……こんな姿、見られたく、ないのに……!」
それ以上に黎夜には知られたくなかったのだろう。
自分でも理解できない様々な感情が渦巻いて、その言葉は滅茶苦茶なものになってしまっている。
舞夏は穢れた自分が嫌いだった。
日常なんてものは分不相応な願いだと言い聞かせ続けた舞夏にとって、無涯黎夜とは日常を象徴する人間だった。
この人物だけは裏の世界など知らずにいてほしいと思っていた。
裏の世界など知らなければ舞夏の罪状など見られない。
表の世界にいる限り、舞夏のやってきたことなど知られることはない。
本性を知られることもなければ、無涯黎夜には嫌われないで済む、と。
そういった想いまでが混在していることを、舞夏自身もまだ知らない。
黎夜はそんな身を切り裂くような叫びを受けても止まれなかった。
ここまで来て背中を見せる選択肢などあるはずがなかった。
「舞夏っ!!」
「来ないでッ!!!」
更に一歩を踏み出したところで明確な拒絶が返ってくる。
黎夜は再び足を止めざるを得なかった。
舞夏の美しい双眸から透明の雫が零れているのに気づいて、黎夜は思わず足を止めてしまっていた。
気高い彼女が泣いているところを初めて見たのだ。
「もう、こうするしかないんです! 妹を殺してでも止めないと、もっともっと無実の人が死んでいくんです!!」
「殺す以外の方法なんていくらでもあるだろうがっ!!」
更に一歩。残りは七歩の距離だ。
無涯黎夜は月ヶ瀬舞夏を止めなければならない、という義務感に圧されていた。
姉の手で妹の命を奪うなんて。それも望んだわけでもなく、今もこうして苦しんでいるというのに。
絶対に止めなければならない、とその想いだけで前へと進む、が。
「―――耐えられますか……?」
なに、と声にならない言葉が黎夜の口から零れた。
冷静沈着だった舞夏が、決して取り乱さなかった舞夏が、決して恨み言すらも口にしなかった舞夏が。
初めて、無涯黎夜に悪意を向けた。
今まで向けられることのなかった悪意が、黎夜へと突き刺さった。
「沙耶さんが弧冬の立場だったら、あなたは耐えられるとでも言うんですかっ!?」
「――――――っ……」
ああ、終わったな、と舞夏は本能的に理解した。
無涯黎夜の心を確かに傷つけたことも、この少年と決別することになるだろうことも理解した。
決して言ってはならなかった悪意の塊だと知りつつも、もう舞夏は止まらなかった。
今までずっと心の内に溜めていた絶望がドロドロと溢れ出した。
「自分の妹が! 身体の内側から、精神から切り裂きジャックなんて奴に心を犯され尽くされる姿を見れますか!?」
言葉にするだけでもおぞましい現実。
霊核という悪魔の力を宿した代償は想像以上の苦痛と恐怖と悲劇を生み出したのだ。
「そんなふざけたモノに徐々に壊されていく妹を見続けることができますかっ!?」
両手の拳を握り締めて、舞夏は癇癪を起こしたかのように叫ぶ。
今まで長い間抑圧されてきた激情を、何の関係もない一般人にぶつけることの卑しさを舞夏は自覚していた。
舞夏は最低の自分が大嫌いだった。
内罰的な彼女は自己嫌悪に浸りながらも、叫び続ける。何年間も胸の中に秘め続けた慟哭を。
「私だって最初はそうしましたよ! 月ヶ瀬家の別荘に閉じ込めて! 嫌がる妹を冷めた瞳で見つめながら拘束して!」
もちろん、そんなことはしたくなかった。
でも、そうしなければ切り裂きジャックが表に出てきたとき、周囲の人間が犠牲になる。
だから心を鬼にして月ヶ瀬弧冬という少女を監禁した。
自分がどんなに酷いことをしているか理解していたから、決して謝ることもなく、冷酷な少女を演じ続けた。
「その間だって、ずっと弧冬は言うんです! 『ごめんなさいお姉ちゃん許して許して助けて助けてお姉ちゃん助けて』って……っ!」
それはどれほどの悪夢だっただろうか。
舞夏が妹の弧冬を大切に思っていないはずがない。それぐらいは言動の端々から理解できる。
彼女が妹を愛していたことくらい、鈍感な黎夜にも良く分かる。
そんな彼女が大切な妹の『敵』として行動しなければならない、という現実がそこにあるのだ。
世界はこれほどまでに優しくないのか、と。
舞夏の絶望は止まらない。
恐らくは弧冬が霊核を宿したその日から始まった悪夢を延々と語り続けた。
黎夜は口を挟むことなく、じっと真実を聞き続けていた。
「でも、夜の弧冬は別人のようで……っ……聞いたこともないような汚い言葉で罵って、弧冬の心が汚されていくようでっ……!」
それはどれほどの絶望だっただろうか。
当時は直す方法もない手探り状態。どうしようもない現状の中、新しい可能性を探し続けるしかなかった。
気の遠い作業、形にもならない希望を舞夏は探し続けたのだ。
あるいはこれが、誠一の言っていたパンドラの箱なのだろうか。
その箱の中には本当に希望が入っていたのだろうか。絶望が詰まった箱の中に希望なんて明るいものが残されていたのだろうか。
その希望すらも絶望を深く感じさせるための光に過ぎないのではないだろうか。
希望を持つから絶望するのだ。深い深い黒という色は、白という比較があるからこそ黒く映えるものなのだから。
「もう、耐えられないっ……弧冬が壊されていく姿なんて、もう、……見れない……っ」
それが月ヶ瀬舞夏がついに折れた台詞だった。
必死に見つけようとした解決法。弧冬を救う手段を探すために彼女はもっと深い闇の中へと赴いたのだろう。
彼女は気高いのではない。ただ、頑張り続けていただけなのだ。
妹のためには決して折れない心を持つしかなかった。その生き方を続けて強くなっていった。
その裏で血の滲むような努力と、幾度の地獄を積み重ねてきたのか、黎夜には想像もつかなかった。容易につくものではなかった。
「どうしようもないんです、黎夜さん……」
そうやって強くなった彼女の心が折れてしまった。
弧冬はついに人を殺してしまった。何人も、何人も霊核の暴走によって殺してしまった。
どんなに頑張ってもどうにもならないことがある。
そのことを突きつけられた舞夏の心はどれほどズタズタにされただろうか。
どんなに最善を尽くし続けようとも、大切な妹一人守れないことを告げられた舞夏はどれほど絶望したのだろうか。
そして、ようやく舞夏の激情の吐露が終わったとき。
黎夜はもう一歩前に踏み出した。
諦めるのは早い、と。ここに来るまでに考えた起死回生の一手、一発逆転の可能性を示すために。
「手ならある! 『霊核殺しの宝玉』がある! それでジャック・ザ・リッパーの霊核を外せばいいじゃねえかっ!!」
そうだ、霊核が悲劇の元凶だと言うのなら。
その源である英霊を殺してしまえばいい。最初からそうやって弧冬を助けてやればいい。
きっと舞夏が手段を探し出した当時には、霊核を外す手段などなかっただろう。
しかし、自分に勧めてきた以上、その手段は今ならある。弧冬を助ける手段はある、と黎夜は希望を乗せて言う。
だが。
「まだ、言ってませんでしたね……」
舞夏の表情は少しも好転してくれることはなかった。
事態すら少しも好転してはくれなかった。
舞夏は寂しそうな表情で笑った。
とても痛々しい微笑みだった。
「それ、ひとつしかないんです」
直後、黎夜の表情が凍りついた。
その言葉はこれ以上は驚くことはないだろうと思っていた黎夜を、更に驚愕へと誘った。
ぐらり、と身体が揺れて倒れそうになってしまう。
必死に考えた希望は文字通り絶望へと反転し、黎夜は初めて舞夏の絶望を共有することとなった。
◇ ◇ ◇ ◇
『カルネアデスの板、という言葉を知ってるか?』
昨日、誠一によって問われた言葉を思い出す。
誠一は恐らく知っていたのだろう。
舞夏の妹が連続殺人の真犯人だということも、霊核殺しの宝玉がひとつだけ、というのも。
全て知っていたからこそ、あのとき無涯黎夜へと問いかけたのだ。
「しかも宝玉は未完成。黎夜さんのように宿したばかりならともかく、精神まで霊核に侵食された弧冬では……」
どういうことだ、それは。
いったい、舞夏は何と何を天秤に載せていたというのか。
そんなことは決まっていた。黎夜にも理解できた。
『つまり、お前は板だ。溺れた二人の人間のどちらかを助けることができる、どちらかを見捨てることができる』
ああ、と黎夜は嘆息した。
あの問いかけはつまり、そういうことだったのだ。
彼女は大切な家族である妹の弧冬と、友人である無涯黎夜を天秤にかけていたのだ。
救えるのはどちらか一人でしかない。
板は舞夏。そして溺れているのは弧冬と黎夜の二人、どちらを選ぶかは板である舞夏だけが決めることができる。
「黎夜さんなら、恐らく8割方の成功が見込まれています」
「弧冬は……」
問いかけるまでもない。
ヒントなら誠一があのとき、大盤振る舞いに聞かせてくれたじゃないか。
優しくない世界、甘くない現実を。
「どんなに楽観的に見ても、3割に満たないそうです……」
予想通りの声だった。
誤算はひとつもなかった。それが最大の誤算だった。
確かにあのとき、野牧誠一は告げた。不真面目な口調とは別に、事情を知る彼は何を思っていただろうか。
『そしてもうひとつ条件を追加する。身内のほうは、板を差し出したとしても助からない可能性がある』
舞夏は選んでしまったのだ。
彼女は博打を打つことなんてできなかった。
確実に一人を助ける選択肢を選んだのだ。その結果、大切な妹を切り捨てることになったとしても。
妹を選んで二人とも救えない、なんて悪夢だけは嫌だったから。
「なんで……なんで、俺なんかを選んでんだよ、莫迦! 俺なんかよりも、妹を選ぶべきだろうがッ!!」
「黎夜さんは私が巻き込みました。私がこんな汚い世界に巻き込んだんです。だから、責任を果たさないと」
「違っ……」
十日前の月下の決闘を思い出していた。
霊核を宿す、と宣言したときの舞夏の悲痛な叫びを思い出した。
彼女は霊核の悲劇を知っていた。
そして巻き込んだという責任がある以上、黎夜が手遅れになる前に救済するしか道はなかった。
『やめ……て……黎夜さん、や……めて、ください……っ!!』
『霊核を、宿……すと、いうことは……その英雄の、罪業を……背負、うという……こと、なんです……!』
『辛いんです、苦しい、んですっ……それは、悲劇……しか、産み出さないっ!!!』
あれはこういうことだった。
弧冬のように暴走する危険性を孕んでいる時限爆弾のような兵器。
あの瞬間から、舞夏はずっと悩み続けていた。
巻き込んだ黎夜を日常に戻す責任を果たすか。それとも、博打で妹を救うエゴを果たすか。
『貴方さえいなければ、全てうまくいったかも知れないのに……』
アルフレッドのあの台詞はこういうことだった。
黎夜がいなければ。黎夜が霊核を宿してしまわなければ、こんなことにはならなかった。
舞夏は弧冬を殺すまでもなく、救うために行動することができたはずだ。
『もう……私の望みは消えてなくなったからです』
『ええ。私は……結局、誰も護れませんでしたから……黎夜さんも、そして……自分の家族すらも』
あの月下の校庭での戦い。
黎夜の都合で霊核を宿すことになってしまったとき。
舞夏はどんな想いで、黎夜を見ていたのだろう。どれほど絶望に彩られたのか、黎夜には分からなかった。
『ふふっ……確かに選り取りみどりですね。選択肢が多すぎると、迷ってしまいます』
舞夏は、どんな想いで黎夜に笑顔を向けていたのだろうか。
舞夏は、どれほど悩んで妹を切り捨てる選択肢を選んでしまったのか。
『いっそのこと、ひとつしか選択肢がなければ良かったのですけどね……私は優柔不断ですから』
選択肢を増やしてしまった黎夜。
舞夏から夢を奪ってしまった彼は静かに俯いて歯を噛み締めた。
あの学校での帰り道。莫迦なことを囀る黎夜を見て、それでも笑顔を向けてくれた彼女はどれほどの犠牲を強かれてきたのか。
『黎夜さん、私は損得を選択させられるなら、損を選んでしまう人間なんですよ』
あの言葉は自分へと向けた痛烈な皮肉だったのだ。
彼女は内罰的で、他人に対しての恨みよりも自分が悪いのだ、と思ってしまうような女性だった。
その彼女が、感情を剥き出しにするほど追い詰められている。今にも泣き出しそうな顔で、黎夜を見ながら言う。
「あなたは、表の世界にいるべきです。こんな非日常にいてはいけない」
舞夏は責任を果たすことを選んだ。
黎夜とその家族の安全を守ることを選んだのだ。
人殺しの姉妹が犠牲になることで、無実の一般市民の家族が助かるのならそれでいい。
それで無涯黎夜の世界を守れるのなら、もうそれでいいじゃないか。
「私のエゴが多くの人を不幸にしました。もう、それもここで終わりにしなければいけないんです」
「エゴ……?」
はい、と神妙に舞夏が頷いた。
そして自嘲染みた笑みを浮かべて、黎夜に語って聞かせた。
もう全てを伝えてもいいだろう、と思った。これが最後なら思いの丈を吐露してしまってもいいと思った。
舞夏と弧冬、二人の姉妹の幼少の物語を。
◇ ◇ ◇ ◇
あれは、10年前のことでした。
母を亡くしました。
元々身体の弱かった母は弧冬を産んだことで体調を崩し、数年後にそのまま。
母は私の憧れでした。優雅で、凄く綺麗で、そしてとても優しかった。
だから母が亡くなったとき、母を敬愛していた私はまだ六歳だった弧冬に酷いことを言ったんです。
お前のせいで母様が死んだんだ、と。
それが弧冬との決別の言葉でした。
それから私は母のようになるために研鑽を積み続けました。
霊核を宿し、魔術を習得し、知識を増やし続け、血の滲むような努力を重ねました。
十五歳の頃、私は兄や弟を差し置いて、月ヶ瀬家の跡継ぎの地位を手に入れたのです。
弧冬が私に対抗するように霊核を宿したのもその頃でした。
私の言葉に責任を感じていたのか、それとも私を見返すためだったのかは今でも分かりません。
まともに宿せたのは私だけ。兄も弟は宿すこともできず、弧冬も宿すことはできても力を扱いきれませんでした。
黎夜さんのように、宿してそのまま使えるようになる例なんてほとんどないんです。
私は弧冬に構ってやることをしませんでした。
弧冬を振り切るように修練に打ち込み、妹から逃げるように研鑽を続けてきました。
怖かったんです、妹が。
成長していくにつれ、幼い頃に弧冬に言い放った一言が最低のことだと自覚するにつれ、弧冬に拒絶されることが怖くて。
直接、糾弾されてしまうことを恐れたんです。
そして弧冬は、霊核に呑まれました。
切り裂きジャックに心を汚染された弧冬は暴走し、その場で取り押さえられました。
当時は死者こそ出ませんでしたが、怪我人は多く出しました。
それから弧冬は毎夜、切り裂きジャックに身体を操られるようになってしまいました。
組織は、弧冬を処断を決定しました。制御できない危険な力を放っておくわけには行かなかったんです。
私は、殺させたくなくて弧冬を逃がしました。
生きていてほしい、と思ったから。
死んでほしくない、と願ってしまったから。
弧冬は私の屋敷から去り、学園都市へと逃げ出し、そして……ついに人を殺して回る殺人鬼になった。
私はこうなることを予感していながら、妹を解放してしまったんです。
そして、学園都市で弧冬は切り裂きジャックとして覚醒しました。
◇ ◇ ◇ ◇
「……分かりましたか、黎夜さん」
全てを語り終えた舞夏は、憔悴しきった疲れた笑みを浮かべた。
黎夜にして見ても見慣れてしまった自嘲の微笑み。
全てを諦めてしまった少女が静かに語る。
「何もかも、私のせいなんです。私は汚れています、ただの化け物です」
今回の連続殺人の真犯人。
殺人鬼の名は月ヶ瀬弧冬。宿した霊核の名はジャック・ザ・リッパー。
全てを裏で操っていた黒幕の名前は月ヶ瀬舞夏。
この事件は完全な出来レースだったのだ。文字通り、人の命を対価にした茶番劇を演じていたに過ぎなかった。
「黎夜さんの前に立ってはいけない。平穏な学園生活なんて、許されるはず、ない……」
表の世界では霧咲孝之というダミーに犯行の全てを擦り付ける。
裏の世界も舞夏は数少ない共謀者以外、全員を欺き続けた。総員が霧咲孝之を犯人と思わせた。
その実態は月ヶ瀬弧冬という連続殺人鬼をもう一度回収し、殺したと偽って幽閉する計画だったのだ。
表世界も裏世界も騙しきり、犯行の全てを霧咲孝之に背負い込ませ、妹を救おうとした。
その裏で何人かの命が犠牲になった。
脱獄させられた連続殺人鬼の霧咲孝之は、このために学園都市を彷徨い続けた。
追い詰められた孝之はついに狂い、草壁睡華を襲った。
それを防ぐために監視役の藤枝緋紗那が負傷した。
何もかも、月ヶ瀬舞夏が仕組んだことだった。
彼女の計画通りに事は進んだ。
「化け物は、闇の世界に還らないと……」
本当なら再び幽閉するつもりだった。
だが、もう手遅れだった。次の英雄殺しの霊核が完成するまで待つことはできなかった。
弧冬の全てが喰らい尽くされるほうがずっと早かったのだ。
故に舞夏に残された道はただひとつ。弧冬が弧冬であるうちに、せめて安らかな終わりへと誘おう。
それが、学園都市における連続殺人事件の全貌。
「………………」
「お願いです、黎夜さん……帰ってください……こんな汚い私を、見ないで……」
帰れ、と舞夏は苦しそうな声で告げた。
このまま帰ると言うことは月ヶ瀬弧冬を見捨てる、ということだ。
黎夜は霊核を外して日常へと帰ることが出来る。家族や友人の命ももう狙われない。
月ヶ瀬の姉妹を見捨てることで、この世界から立ち去れる。
悪意と暴虐と陰謀にまみれた裏世界。
言ってしまえば黎夜もまた騙されていたのだ。
他ならぬ舞夏や、友人の誠一にさえも騙されて踊らされていた。
それが裏世界の常識だ。情報こそが武器であり、信頼こそが駒になる汚い世界。
そんな世界も、舞夏や弧冬のことも、何もかもを捨ててしまえばいい。それが表世界に生きる者の選択だ。
(俺は―――――)
――――家族とその周りの世界を護る。
――――危険を承知で姉妹の因果の鎖を断つ。
どちらを選べばいい……?
まさかの選択問題ですw
一度、こんな形で問いかけてみたいと思っていましたが、それぞれの選択の場合の話は既に原稿的にはあがってますw
どちらの選択肢を先に投稿するか、で悩んでいるところですね。