第2章、第9話【疑念】
事態は深刻だ。
学園都市を騒がす連続殺人鬼。
せっかく裏世界の住人が追い詰めたというのに、これでは台無しだ。
表の住人による包囲に何の意味があるものか。
裏で生きている者たちですら包囲するのがやっとなのだ。警察官たちの手に負える相手じゃない。
相手は誓約者。
英雄の力を宿した怪物だ。
その力を俺は直に感じ取っている。
『あれ』は普通の人間が太刀打ちできるような代物じゃない。
どうにかしなければならないのは明白で、俺は何とか思考を巡らせる。
「さて。皆様、ここは見ての通り危ないです。もう暗いですからお帰りなさい」
「あっ……えっと、アルフレッドさん」
「何か?」
咄嗟に呼び止めてしまったが、対策はない。
このままではいけない、ということは分かる。分かるが、警察を止める手段なんて当然ない。
焦りのままにやってしまった行動だが、こうなれば仕方がない。
何とかしなければならない、と思いながら俺はアルフレッド巡査へと問いかけた。
「俺も連れて行ってください」
裏世界の人間は、表世界の人間がいるからこそ動けない。
裏と表は交じり合ってはいけない。それがこの世界の法律、絶対のルールだ。
なら、その狭間にいる俺なら動ける。
俺が警察の目を掻い潜り、旅団の力も借りずに、一人で霧咲孝之を打ち砕く。
「それは……」
「お願いします」
もちろん、簡単に承諾されるはずがない。
むしろ普通に考えれば拒絶されてしかるべきだ。それは俺にだって分かっている。
そのときは警察の力も借りずに、一人で突っ込んでいくだけだ。
アルフレッド巡査は目をゆっくりと細めると、背後の沙耶と弧冬へと視線をずらし、そして告げる。
「分かりました」
「えっ………………あ、ありがとうございます」
一瞬、ぽかんとしてしまった。
正直に言うと、無理だと思っていたのだ。
俺の考えは断られることを前提にしたこれからのことを考えていた。
だからアルフレッド巡査が簡単に頷くのを見て、思考が停止してしまったのだ。
いや、まあ。
承諾してくれることは嬉しいけど。
それでいいのか、学園都市警察、と思わなくもない。
「お兄ちゃん……」
「悪い、沙耶。ここで待っててくれ、すぐに戻ってくるから」
神妙な顔つきの妹を見て、決意が少しだけ揺らぐ。
その表情には明らかな憂いと色濃い不安が広がっていた。いくつかの諦観もあった。
沙耶の頭を乱暴に撫でると、弧冬のほうを見た。
「………………」
「弧冬?」
「……………………」
彼女は青ざめた表情でそこに立っていた。
舞夏の妹とはいえ、別々に住んでいるということは裏世界の姿を知らないのだと思う。
多分舞夏は妹を巻き込みたくなかった。
だから離れ離れになっているのだと思った。そんな弧冬からしてみたら、近くに連続殺人鬼がいるというのは恐怖に違いない。
「ここにいろ。沙耶、何かあったときは」
「分かってる。弧冬のことは任せて。絶対に危ないことしないで」
「……おう」
兄妹の間に不思議な心境がある。
危ないことをしない、というのであれば……そもそもこの事件に首を突っ込もうとはしない。
十中八九、俺は危険なことをしようとしている。それが沙耶にだって分かっている。
それを知りながら、俺は平然と嘘をつく。沙耶もまた、嘘だと分かっているのにそれで納得したふりをする。
「……行きますよ、無涯黎夜くん」
「はいっ!」
突入の準備が整ったらしい。
アルフレッド巡査は黒い手袋のようなものを填めると、俺に声をかけてから走り出す。
◇ ◇ ◇ ◇
「ほら、弧冬。寒いから私たちは別のところに行こ」
残された沙耶は溜息をつきながら弧冬に向き直る。
春先とはいえ、夜になればまだまだ肌寒い。こんな夜にずっと外で待っているのは体に毒だ。
そう思って手を伸ばした先で、赤毛の少女は震えていた。
「……なきゃ……いや……げなきゃ……」
「弧冬……?」
ふと、何か本能的に危険な予知を沙耶が肌で感じ取る。
その理由が何かも分からないうちに、恐慌に陥りかけた弧冬がうわ言のように呟き続ける。
「逃げなきゃ……! お姉ちゃん、逃げなきゃ……あ、ああああ……!」
「ちょ、ちょっと待ちなさいよ、弧冬ッ!!」
走り去る弧冬は暗い路地の中へと消えていく。
慌てて沙耶もその後を追う。
沙耶が感じた危険な予感。その理由を彼女はまだ気づくことはできない。
◇ ◇ ◇ ◇
「アルフレッドさん。今更なんすけど、どうして許可してくれたんですか?」
「断ったら無断でついてきそうな気配を感じましたから」
「ぎゃふん」
そんな会話を交わしながら、商店街の奥へと進む。
周りを見渡すが、真っ暗闇に少々の明かりがさしている。浮かび上がるのは人のいなくなった町並みだ。
不気味、としか形容できない暗黒世界は闇に堕ちていくような錯覚を覚えた。
互いの足音のみが響く。孤独な世界を歩くような、後戻りできない道を進んでいるような、そんな感覚に身を委ねた。
ガシャンッ、と大きな音が前方から聞こえてきたのは、そんなときだった。
俺でもアルフレッド巡査でもない第三者。
音は一度だけに留まらず、近づけば近づくほど騒音がハッキリと耳に届くようになる。
戦いの音だ、と俺は何となく察した。
転がるように地面を蹴る音、路地裏のゴミ箱をぶちまける音、何か大きなものがばたり、と倒れた音もある。
「無涯くん……」
「……はいっ」
アルフレッド巡査の声が震えていた。
いよいよ、という緊張感に体が凍りつきそうになる。きっと隣の巡査も同じだと思った。
薄暗い道の中、右と左に道が分かれている。
その向こう側に連続殺人鬼、霧咲孝之が……ジャック・ザ・リッパーの誓約者がいるのだ。
「私は左から。君は右からお願いします。囲みを決して崩さないように」
後は無言で頷き、それぞれが行動に移る。
俺はアルフレッド巡査へと注意を逸らすことすらせず、真っ直ぐに右の通路を走っていく。
早くしなければならないのだ。
警察の中にも犠牲が出ているかもしれない。最悪、アルフレッド巡査が到着する前に全ての決着をつけたいところだが。
がたんがたんがたん、と音が一際大きくなった。
思わず警戒に足を止めて辺りを見渡す。
本能的な恐怖に駆られて前後左右を見回し、引きつる顔を抑えながら一歩後ろに下がると。
いた。
ぎょろり、と。
男の大きな両の目が俺を覗き込んでいた。
「あっ……?」
「ひっ、ぎっ、ヒヒ、ヒッ、ははっ、はあ、はあぁぁぁぁぁぁぁ……」
初めて見る殺人鬼は、あまりにも奇妙な男だった。
血走った目と、グシャグシャな左腕。戦いの後と分かる鮮血は誰の血かも分からない。
印象的な瞳とは対照的に、残りの全ての個性は埋没してしまっている。
連続殺人鬼、霧咲孝之は新たな標的である俺を視野に入れると、発狂したかのような叫びを上げた。
「お、お、お、お前もかぁぁぁぁぁああああ゛あ゛あ゛あ゛あ゛゛あ゛あッ!!!」
罅割れた怨嗟が路地裏に響く。
孝之は一飛びで俺との距離をつめ、右手で握り締めた鈍色の包丁を掲げた。
極限状態に追い込まれた者の力か、あるいは霊核を解放したからの身体能力か。
俺が呆然とする一秒の時間。
孝之のナイフが空気を切り裂いた。
「ぐっ……!?」
問題なく避けられる一撃だった。
事実、その一撃を避けることはできた。反撃する余裕すらあった。
だが、俺の脚は自然に後退していた。
反撃しなければ、という意思とは裏腹に強烈な殺意に当てられた俺の身体は距離を取ることを選んでいた。
だが。
霧咲孝之は一撃で止まらなかった。
振り下ろしたナイフを我武者羅に振り上げ、もう一度俺の身体を引き裂こうとした。
再び避ける、が次の一撃がすぐに迫る。
「あああああぁぁぁああああぁぁぁああ、ばぁぁぁぁああああああぁぁぁぁぁあああ!!!」
「くっ、……そがぁぁ!!」
幾度となく繰り返される一閃。
錆びた凶器が鈍い風の音を響かせて迫る。
孝之は体力の温存など考えていなかった。精神の高ぶりが原因だろうか、疲労など度外視している。
ただ目の前の敵を殺して安心したい、ただ目の前に餌がいるから喰らいたい。
止まらない暴走は怒り狂った獣を連想させた。
ナイフが、服の切れ端を断つ。
孝之は興奮したかのように奇声をあげると、抱きつくように飛び掛かる。
そのまま乱戦にして包丁を突き立てるつもりなのが分かった。
確認するまでもない、孝之は俺を殺そうとしている。
ならば、もう迷うことはなかった。
「《誓約》」
力を解放した。
十日前のあの日以来、一度も使ったことのない奥義。
霊核を外すつもりである以上、今回が初めてで、そして最後だ。
遥か彼方の英雄の力が無涯黎夜という肉体の器の中で咆哮する。
ごうっ、と。
威圧感だけで周囲の空気を切り裂いた。
「え、っ……ひっ……?」
霧咲孝之の顔が初めて、負の感情で歪んだ。
奴の本能が訴えているらしい。
英雄の中でも武闘派。一方的な殺しではなく、殺し合いの中で培われた戦闘技術。
何よりも何人もの敵を斬ってきたという経験とそれに伴う威圧感がある。
ここに、過去の英雄が現世へと顕現した。
息を吸うかのように唱えた。
剣よ、我が手へ。
すちゃりと小気味のいい音がして、俺の右手には竹刀が握られた。
もちろん、中には鉄板を仕込んだ重量感のある鈍器だ。
「―――――行くぞ、霧咲孝之」
贖いの剣を構える。
断罪の意思を告げる。
目の前の敵はもう放っておけない。
最悪、この手を血で汚すことになろうとも止めなければならない。
殺す覚悟。
殺される覚悟。
英雄という絶大な力を宿してようやく、という情けない俺だけど。
戦う理由はここにある。
その芯がしっかりしているのなら、俺は戦える。あのときのように胸を張って戦える。
「お前を止める。そして、このふざけた悲劇の幕を下ろす」
宣告をここに。
一連の事件にケリをつけるため、俺は霧咲孝之へと踊りかかった。
◇ ◇ ◇ ◇
「そういえば、一度聞いてみたかったんだけど」
『なんですか?』
商店街の表通り。
技術部主任の高原希は商店のひとつに寄りかかって電話をしていた。
相手はもちろん、己の直属の部下である野牧誠一だ。
「無涯黎夜。彼が宿している英雄って、なに?」
『あや? 希さん、知りませんでしたっけ……まあでも、結構ヒントは散らばってますよ』
「もったいぶらないでよ」
希は少し頬を膨らませて抗議する。
電話口の向こうで誠一がくつくつと笑っているのを見ると、また悪戯をしてやろうという気になってくる。
彼女は生粋の負けず嫌いな苛めっ子なのだった。
「教えてくれないんだったら、明日、脇腹を突くよ」
『ええー! なにそのローキックみたいな地味な嫌がらせ!』
「いいから答えて」
強い口調で誠一を促す。
ええー、ともったいぶりたい誠一は不満そうな声をあげるが、やがて諦めた。
『黎夜の英雄はあれ、剣士なのは分かりますよね?』
「まあね。月ヶ瀬さんからそこは聞いてる」
『それで、ですね。ヒントはあいつが竹刀を自由自在に出せる、って点にあるんですよ』
それが黎夜の英雄の特徴だ。
普通の英霊ならば身体能力の上昇だが、英雄の偉業によっては特殊な力が付随する。
無涯黎夜の英雄もまた、そうした特殊能力を秘めている。
「あれ、魔術じゃなかったの?」
『月ヶ瀬さんの見立てでは違いますね。宿したばかりの人間が魔術を使うってのも非常識ですし』
「……そうね。魔術は生命力をうまく循環させて発言する奇跡だもの、確かに一般人が使えるわけじゃない」
『まあ、でも。それが大きなヒントになりました』
竹刀を創造する能力。
それは世界に竹刀という概念を作り出した英雄であるということだ。
竹刀を世に送り出した日本の剣士の名前は。
『剣聖、上泉信綱』
上泉信綱。
戦国時代の兵法家にして戦国武将。
あの武田信玄に仕官要請を断られてもなお、惜しまれた日本最強の剣士の一人。
『全ての剣術の始祖、日本に名を刻む大剣豪』
剣術、新陰流の創始者。
彼の門下生は新陰流を独自にアレンジして新たな剣術を編み出していった。
新陰流は全ての剣術の基礎であり、その創始者である上泉信綱は全ての剣術の始祖として剣聖と崇められた。
「なるほどね。通称、伊勢守ってわけか」
『多分、カイムの剣術が分かったってのも伊勢守の特典ってやつでしょうね』
「じゃあ、無涯黎夜が霧咲孝之に負ける確率は? 応援は必要ある?」
ははっ、と誠一が小ばかにしたように笑う。
そんなことは改めて聞くまでもなく、そして確認するまでもない。
絶対の自信と共に誠一は告げる。
「0%、必要ありません」
◇ ◇ ◇ ◇
二撃。
戦いが殺し合いとして成り立っていた数字だ。
たったの二合。二度、命のやり取りらしきものをしただけだった。
踊りかかる黎夜を牽制しようとして振るわれたナイフの一撃を弾くことで一撃。
続けて鋭い一撃で孝之の小手を強打し、孝之の右手首からグキリと骨の折れる音を響かせた二撃。
残りはただの一方的な戦いだった。
「いっ、が、あぁあぁあああああっ!!」
絶叫が響く。
穿たれた右腕を乱暴に振りぬいて殴りかかろうとする孝之。
黎夜は脅威も何も感じなかった。
折れた右手を執拗に攻めるかのように、回し蹴りで押しつぶす。今度こそ、ぐきゃり、と耳を塞ぎたくなる音が響いた。
「が、あ、あ、い、ぎぃぃぃぃぃぃぃっ!!」
「ふっ――――!」
容赦はしなかった。
圧倒的な戦力。一撃は身体能力向上により、肉弾戦でも凶器と化す。
戦国時代、生き抜くために人を殺してきた力だ。
鋭い一撃の数々は確実に霧咲孝之を捉え、凄まじい衝撃に男の顔が苦痛に歪む。
「な、何だよ、何なんだよお前ぇぇぇぇぇぇぇええええええっ!!!」
もはや攻撃にも転じられない。
ただ顔の前で手を交差させて身を守るばかりだった。
絶叫が苦痛の色を響かせる。
黎夜の腕が交差させた両手を外し、振るわれた竹刀が孝之の顔面へと叩き付けられる。
圧倒的な戦い。
一方的なワンサイドゲーム。
(弱すぎないか……?)
むしろ、黎夜はそんな感想すら抱いた。
誓約者同士の戦いにしてはあまりにも一方的な戦いだ。
カイム・セレェスとの戦いのときなどという問題ではない。これではまるでただの一般人と戦っているようだ。
(二週間近くの潜伏、旅団からの追撃、ってところか……相当に疲労しているんだろうな)
当たり前だろう。
いかに孝之が霊核を宿していたとしても、個人が組織に抗えるとは思えない。
疲労し、全力が出せない状態にあっても不思議ではない。
もう、霧咲孝之は限界のはずだ。思えばそれが当然だ、という気になっていた。
「ぐべえっ!?」
顔面を強打された孝之が地面に倒れる。
身体を痙攣させながら立ち上がるが、もはや精根尽き果てたのだろう。
立っているのが精一杯の様子で、血走った瞳が黎夜を睨み付けていた。
「ひっ、ぎ……お前らは……」
「うん?」
「お前らは……どうして、ボクを狙うんだよぉぉぉ……ボクが何をしたって言うんだよぉぉぉぉ!」
黎夜は怒りを通り越して呆れてしまった。
説得させて改心させようなんてつもりはなかったが、あったとしても無駄なのだろう。
霧咲孝之は自分の都合しか考えていない。
自分が何をしてきたか、自分が何故狙われるかも理解していない。
「テメェの胸に聞いて見やがれ」
多くを語るつもりもない。
霧咲孝之を倒すことに全神経を使えばそれでいい。
余計なことを考えている余力はない。
確かに戦いは圧倒的だが、そもそも『殺し合い』に慣れることなんてないのだ。
「いっ、いいいいい、いぎいぃぃぃぃぃいいあああああああああああああっ!!!」
満身創痍で飛び掛かる霧咲孝之。
ナイフも持たずに突撃してくる彼の行動は無謀であるという他ない。
逃げるわけでもなく、ただ猪突猛進してくる。
もはや正常な判断もつかないのだろう、と黎夜は思った。
殴りかかってくる孝之の拳を避ける。
その勢いのまま孝之の右足、ふくらはぎを思いっきり蹴り付けた。
悲鳴があがり、ごろごろと地面を転がる孝之。
だが、勢いよく再び立ち上がると、もう一度突進を繰り返した。それしか知らないと言うように。
「もう、いい加減、寝てろっての……!」
「しゃああああああああああああっ!!!」
響く奇声と繰り返される奇行。
力関係などもはや明らかなのは霧咲孝之にも分かっているはずだ。
なのに、何故。
孝之は何度でも起き上がって突撃を繰り返そうとしているのだろうか。
四度目の突撃が迫ろうとしているときだった。
霧咲孝之が笑った。
彼の右手がギラリと闇の中で光り輝いた。
暗闇という環境を利用して、何度でも転ばされた孝之は回収を終えていた。
鈍色の凶器は黎夜には見えない角度に隠されていた。
霧咲孝之は狂ってなどいない。狡猾に、冷静に、それでいて激情のままに戦ってきたのだ。
閃く一撃に気づいたのは、黎夜の首にナイフが突き刺さる一秒前だった。
何度も突撃をあしらったことによる油断。
圧倒的な戦力を持っていたことに対する慢心。
それが植えつけられるまで何度も何度も孝之は無謀を繰り返したのだ。
霧咲孝之は狂ってなどいない。
ただ一度の好機、無涯黎夜を必殺することに全てを賭けた。
黎夜が全てに気づいたときには、男の哄笑が響き渡るときだった。
「あっ、は、ひ、ひ、ひ、ひ、ひひひひひひひひひ、ひ、ひひひひひひひぁぁぁぁぁぁぁあああああッ!!!」
ナイフが振りかぶられる。
時間にして一秒弱。脳が事態を把握して命令を下すまでの空走時間は致命的だ。
孝之は勝利の雄たけびをあげながら、黎夜の喉にナイフを突き立てようとして。
逃げればよかった、と改めて後悔した。それが霧咲孝之が感じた最期の思いだった。
「ごっ……」
決着は一秒という時間でついた。
ナイフが黎夜の首に届くよりも早く、決着はついていた。
敵の命を奪うことを確認することなく、霧咲孝之の意識は一撃で刈り取られていた。
響いたのは孝之の後頭部を強打した殴打音だけだった。
「―――――ふう」
剣豪、無涯黎夜。
戦国時代の剣士同士の立会いは数多く。
当然ながら疲労困憊の孝之が振るうナイフよりも、鍛え上げた敵の剣士の斬撃のほうが迅い。
一秒という時間で決着のつく戦いを何十、何百と繰り返してきた英雄なのだ。
ならば、一秒という時間があれば十分。
突如の不意打ちにも対応できなければ生きてはいけない世界。
その世界で大剣豪として、剣聖として君臨してきた上泉信綱の力を宿した黎夜が敗北する道理はなかった。
「0%だ」
倒れ伏す霧咲孝之に向けて告げる。
油断などするはずがなかった。
慢心などできる余裕などなかった。
殺し合いに慣れてもいない無涯黎夜が、命のやり取りに対してそんな余分なものを抱けるはずがなかった。
「お前じゃ、俺には勝てない。素人の俺だからこそ、勝てない」
油断した剣士は死んでいく。
そんな時代に生きてきた弱肉強食の世界の知識を得たからこそ、付け入る隙など与えなかった。
霧咲孝之は無涯黎夜の霊核によって敗北した。
孝之は倒れ伏したまま、もう動かなかった。竹刀の一撃は彼の脳を揺らし、意識を確実に奪っていた。
「悪いな。俺は多分、お前を殺した」
直接、殺したわけではなくても。
組織に引き渡すということは間接的に殺すことと同義なのは言うまでもない。
後悔はしないつもりだ。
倒さなければ被害が拡大する。倒さなければ草壁睡華のような子が出てきてしまうのだから。
「じゃあな、霧咲孝之」
別れの言葉を告げる。
ポケットから携帯電話を取り出した。
孝之の確保を舞夏に伝えるためだ。戦いは終わった、悲劇は終わったと伝えるために。
◇ ◇ ◇ ◇
「さて、と……これからどうするかな」
黎夜は意識を失った孝之を近くにあった鉄の棒とヒモで拘束した。
本来なら気絶している相手に近づくことなど以ての外、と大蔵刑事に言われているが今回は別だ。
己の手が告げている。確実に入れた一撃は孝之を闇の世界へと葬った。
しばらくは起き上がることもできないだろう。その確信があったからこそ、拘束した。
「んー……舞夏にも誠一にも繋がらない。どうなってんだ、こりゃ」
せっかくテストで満点を取ったのに、親が家に帰ってこないときのような心境。
ようやく連続殺人鬼を巡る戦いの幕は下りたというのに、連絡が繋がらない。
このまま放置するわけにもいかなかった。
少なくともアルフレッドたち警察が霧咲孝之の身柄を確保したがっている。ほっとくわけにも行かない。
ここは一端、警察に引き渡しておくべきか、などと思う。
後のことは旅団が警察に交渉することだし、黎夜の目的はこれ以上の犠牲を防ぐことだ。
黎夜自身が孝之を始末することなんてできないのなら、早々にどちらかに引き渡すべきなのだ。
(とは言っても……警察も来ないしなぁ……知ってる警察官と言えば)
電話を掛ける。
あまり電池がないので急がなければならない。
電話の相手は以前、カイム・セレェスの件でお世話になった大蔵警部補だ。
刑事よりも上司だと言うのに自分で現場を踏みたがる、刑事魂の持ち主だというのが本人の談。
『どうしたぁ、坊主。今度はどんな面倒ごとだぁ?』
「初っ端からそりゃねえだろ、大蔵さん」
ばっはっは、と豪快な笑い声が聞こえてくる。
大蔵の口調から、彼は今回の連続殺人事件からは外れているらしい、と黎夜は推察する。
こんな風に談笑できる時間があるのがその証拠だった。
あまり時間というか、電池がないので用件は手短に済ませることにする。
「頼みたいことがあるんだ。大蔵さん、刑事さんたちへの連絡手段、持ってるよな?」
『あん? まあ、そりゃあるが。きょうび、連絡の取れない刑事なんて殉職か事故と相場が決まってらぁな』
「ひでえ言い草だ……まあ、いいや。それで連絡したい刑事さんがいるんだよ」
アルフレッドさんの連絡先か、もしくは伝言を頼もうと思っていた
黎夜は周辺の特徴をどう伝えようか考えながら、大蔵との電話を続ける。
『一応、個人情報の保護ってやつがあってな。あんまし教えられねえんだがなぁ』
「ちゃんと顔見知りだよ。最悪、伝言でもいいから」
電話しながらも霧咲孝之に注意は向ける。
よほど手痛い一撃が入ったのか、孝之はぴくりとも動かない。
まあ、拘束されているのだから大丈夫だとは思う。問題は霊核を解放した孝之が拘束を引きちぎらないかと言うことだが。
(そうだ。待っている時間がもったいないし、せっかくだから使ってみるかな)
左肩で電話を当てながら、右手で胸ポケットを漁る。
誠一から貰ったリトマス紙こと『英霊証明』だ。誓約者に付ければ黒く染まることは証明済み。
正直、誠一が何でこれを持たせたのかは理解不能ではあるが、せっかくだから試してみたいと思うのが人情。
ビニール手袋を填めて、リトマス紙を一枚取り出す。
『まあ、それでいいってんならよぉ、こっちは構わねえが。で、誰に連絡しろってんだ?』
「アルフレッド・ガードナー巡査に」
言いながら、孝之の首筋にリトマス紙をぺたりと張る。
内心、どきどきと子供じみた興奮を感じながら視覚で『英霊証明』を、聴覚で大蔵の返事を待つ。
そうして十秒間の時間が過ぎる。
リトマス紙は黒くならない。
(は……?)
凍りつく黎夜の耳元に、大蔵の声が響く。
苛立たしげにも似た中年男性の溜息と、呆れにも似た何かが耳に届く。
「アルフレッドぉ? おめー、そりゃ誰だぁ? そんな奴は学園都市警察には存在しねえよ」
な、に……という声が黎夜の口から零れた。
そのときだった。ぶつり、と音が途切れて大蔵との通話が切れた。
電池が無くなったらしい。だが、そんなことに気を回す余裕が黎夜にはない。
そんな些細なことに気を回す余裕なんて、今の無涯黎夜に存在するはずがない。
「待て……ちょっと待て……」
常識が崩れ去る。
前提条件が崩壊する。
スタートとゴールの位置が正しく把握できない。
「何だよ……これ。どうなってんだよ、おい」
慌てて孝之の首筋に張った『英霊証明』へと手を伸ばす。
ビニール手袋をしていないほうの手で触れた途端、リトマス紙は真っ黒に染まった。
正常に己の役割を果たし、リトマス紙は灰のようになって消えていく。もちろん反応があったのは黎夜の身体だ。
霧咲孝之の身体には一切反応しなかった。
つまり。
つまり。
つまり。
霧咲孝之は誓約者ではなかった。
誓約者でなければ裏組織が検挙し、始末することも容易のはず。
それなのに彼を見つけることができないということはどういうことなのか。そもそも、黎夜は何を勘違いしているのか。
そもそも、無涯黎夜は何を持って正しいとさせられているのか。
『月ヶ瀬舞夏や野牧誠一から聞かされた話は、本当に真実だったのか?』
「ちょっと待てよ……」
誠一から渡されたレポートを良く見た。
そこには連続殺人鬼に対する報告書と、被害者の女性のこと、それに見解などが書かれている。
だが、そこに『霧咲孝之』という名前が何処にもない。
最初から容疑者が挙がっているにも関わらず、一度も彼の名前が記されていない。
旅団が捕らえられなかったのは誓約者だったからだ。
その前提条件が崩れるということは、最初から旅団そのものが霧咲孝之を捕らえようとしていなかったことになる。
もしくはその上層部。彼らが捕まえる気がなかった。
何故なら真犯人は霧咲孝之ではなかったから。この報告書に書かれていた偽者に過ぎなかったからだ。
『ボクが何をしたって言うんだよぉおおおおおおおおおッ!!』
あいつの叫びはある意味で正しかった。
この連続殺人事件、学園都市においては霧咲孝之は何もしていないのだから。
誰もが踊らされていた。知っていたのは孝之本人と旅団の上層部、そして……真犯人だけなのだから。
霧咲孝之はダミーに過ぎなかった。
ジャック・ザ・リッパーではなかった。一連の連続殺人犯ではなかった、ということになる。
学園都市連続殺人事件は、まだ終わっていない。
じゃあ、誰だ。
切り裂きジャックの霊核を宿した真の殺人鬼だと言うのだ。
思い浮かぶのは一人の男だ。
警察官と偽っていた、少しばかり大きいナイフを携帯していた黒髪の外国人。
「アルフレッド・ガードナーは、何者だ……?」
誠一からの情報を思い出していた。
切り裂きジャックの一番の脅威はその戦闘力ではない、と。
厄介なのはその潜伏技術。
イギリスの警察全てを手玉に取って迷宮入りにまで持っていった、という事実だ、と。
そんな言葉が黎夜の頭の中で反芻されていた。
◇ ◇ ◇ ◇
「ちょっと、弧冬ー。何処まで行くのよー」
「遠くにだよ、遠くに行くの!」
人のいない路地を沙耶と弧冬は走る。
まるで見えない何かから逃げるように。何かを恐れるように弧冬は走り続けている。
最初は追いかけていた沙耶だったが、いつの間にか二人で逃げることになっている。
手を引かれるような形で沙耶も後に続いていた。
何処までも人の気配がしない路地裏を小走りに進み続ける。弧冬の表情は切迫されたものだった。
「逃げなきゃ、逃げなきゃダメなの! 沙耶お姉ちゃん、とにかく逃げて、逃げなきゃ!」
弧冬の言葉は抽象的なものだ。
ただ逃げて、と彼女は呟き続ける。何かを恐れるように、壊れた人形のように繰り返す。
彼女は何を感じているのだろう。
何から逃げて、と言っているのか分からないまま、沙耶は手を引かれていた。
「早く逃げないと、逃げないと、殺されちゃうんだから!」
夜の闇の中、二人の少女の足音だけが響いている。
かん、かん、かん、かん、と規則的な音が流れるだけの空間がそこにあった。
その中にひとつ、ザリ、と別の足音が紛れ込んでいる。
弧冬の顔色が真っ青になった。眼前に立ちふさがった黒髪の外国人を見て呼吸が確かに止まった。
「あ……」
アルフレッド・ガードナーが立っていた。
確かに無涯黎夜と共に商店街の奥へと走っていたはずの男が。
黒い手袋のようなものを嵌め、静かに獲物を狩る狩人の瞳で二人の少女を見ていた。
腰には明らかな凶器である大きなナイフ。
一歩、敵意と殺意を示すように前に出るアルフレッド。弧冬は喉の奥がひくっ、と恐怖で震えた。
「さ、さっきの警官さん……? な、何なの?」
「殺しに来ました」
返事は簡潔だった。
それ以上の言葉など持ち合わせていないとばかりに。
もう一歩前へ踏み出すアルフレッドを見て、弧冬が絶叫する。
「あっ……ああああ、うぁぁあああああああああああッ!!?」
逃げようとして、足が縺れる。
この場から離れようとして、それでも止まってしまう。
恐怖に体が竦んで動けない。
それを好機と見たアルフレッドはもう一歩前へ。逃がすまいとさらに足を進めて。
「っ……」
「それは、何のつもりですか」
眼前に立ち塞がる少女がそこにいた。
脅える弧冬を庇うように。
決して手は出させないと広げた両手が告げていた。
目の前の脅威には絶対に屈しないと強い意思を秘めた瞳が語っていた。
「弧冬。アンタは逃げなさい、早く」
「あっ……」
「いいから逃げなさいッ!! 立って! 走って! 絶対に振り返るなッ!!」
「あっ、ぅぁぁああああああああっ!!」
叫び声を上げながら弧冬が立ち去る。
残されたのはアルフレッド・ガードナーと無涯沙耶の二人だけ、互いに睨み合った。
沙耶には事情の一端も理解できない。
目の前の男が何者で、どんな存在で、弧冬がどうして怖がったのか、そんなことすらも理解できなかった。
それでも、無涯沙耶にだって分かることがある。
アルフレッドという男が弧冬に対して向けていた殺意は、間違いなく本物だということだ。
「聞きたいんだけど」
事情は知らない。
何が起こっているのかも分からない。
そんなことはどうでもいい、と沙耶は思う。
聞きたいことは弧冬のことでもなく、アルフレッドという者の正体ですらない。
「お兄ちゃんはどうしたの?」
「…………、」
答えは無言だった。
ただ口元に歪んだ嘲りの笑みがあった。
それだけで沙耶の脳が沸騰した。
黎夜に何をしたのかも分からないが、不安という名の想像に胸が圧迫されていた。
もしも。
もしも黎夜の身を。
もしも大切な兄を傷つけたというのなら。
「お兄ちゃんに何かしたのなら、私がアンタをぶち殺す」
無涯沙耶にとって兄は半身だ。
双子というわけでもない。何処にでもいるただの兄妹だが、絆はその比ではないつもりだ。
無涯黎夜が沙耶を救うためなら世界で一番大切な宝物を差し出すのと同じように。
無涯沙耶は黎夜を害する存在を前にしたとき、鬼となる。
共に両親を失った事故を支え合って乗り越えてきたのだ。
大人になればなるほど、涙も流さずに沙耶を護り続け、支え続けてくれた黎夜には感謝のしようもない。
だからこそ、無涯黎夜は幸せになるべきなのだ。
泣けなかった分だけ、頑張った分だけ、幸せを手に入れるべきなのだ。
可愛い奥さんを貰って、子供たちに囲まれて、今まで頑張った道を誇れるように大往生を遂げる。
青春時代のほぼ全てを妹のために捧げてくれた兄の幸せを奪う者がいたのなら。
「容赦なく、躊躇いなく、無涯の名のもとにぶちのめす」
激突はもはや避けられなかった。
アルフレッドは静かに腰を下ろして臨戦態勢を整えた。
沙耶は鞄の中からメリケンサックを取り出すと、静かに右手に填めて対峙した。
これより。
裏世界の住人相手に一般人が拳を振るう。
弧冬のために、黎夜のために、圧倒的な戦力が前にあったとしても。
躊躇うことなく少女は黒尽くめの外国人へと踊りかかった。
次回はいよいよ「真相」です。
この事件の真実に気づけた人はどのくらいいるでしょうか?w
もしも気づけた人は誇っていいはずですw