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第2章、第5話【利用】










 草壁睡華は引き摺られていた。

 栗色の髪を細くて長い手で鷲づかみにされ、路地裏の奥へと連れて行かれる。

 抵抗はなかった。手足は投げ出され、痛みを訴えることもない。

 恐怖の絶頂に達した彼女の意識は自己を守るために停止することを選択したのだろう。


 「ひひひ、ひひひひひひひひ……! お前もだ、お前もなんだろう、キヒヒヒヒ……」


 誰に向けられているかも定かではない独白も狂っている。

 霧咲孝之はギョロリと血走った目で睡華を見る。

 続いて彼女が持っていた和菓子へと目を向け、これまた嬉しそうにキヒヒ、と哄笑を響かせた。


 「お前も、お前も、お前も、お前も……どいつもこいつもボクを追い詰めやがってぇぇぇ……」


 近くのゴミ捨て場を孝之は漁る。

 目的の品物はすぐに見つかったらしい。切れ味の悪そうな錆びたナイフだった。

 刃を舐めると錆びた味がして、それが彼の精神を興奮状態へと導いていく。


 「ひ、いひひひひ! 思い知らせてやる! ボクを追い詰めたらどうなるか……いひひひひひひひひひ」


 右手には錆びたナイフ。

 左手には髪を鷲づかみにされた草壁睡華の身体がある。

 霧咲孝之がナイフを何に使うかなど、確認するまでもないことだった。

 人の姿をした化け物は思案する。

 まずは何処から解体してしまおうか、と思案する。


 悩む時間は数秒もなかった。

 うんうん、と壊れたように何度も首を縦に振ると彼は言う。


 「ま、ま、ま、まずはぁぁぁぁ……! 両手とぉぉ、両足からぁああ!?」



 ザシュリ。

 下卑た笑い声が合図だった。



 振り上げられたナイフが思いっきり少女の右腕に突き立てられた。

 肉を裂く感触と吹き出る鮮血が霧咲孝之を更なる絶頂へと導こうとする。

 そのままナイフで魚を捌くように切りさばこうとして気づく。


 悲鳴が聞こえない。

 甲高い女の絶叫は届かない。

 気絶していたとしても絶叫と共に飛び起きるものだろう。

 そして何よりも絶対的なことは『草壁睡華の身体に傷はない』ということだ。



 「あ……?」



 彼の瞳がようやく現実を認識する。

 霧咲孝之と草壁睡華。

 殺す者と殺される者の間に一人の少女が割り込んでいた。

 割り込んだ少女の右腕には錆びたナイフが突き刺さっており、鮮血が白い肌を赤く染めていく。


 「……ねえ」


 だが、彼女は決して叫ばない。

 彼女の右の二の腕がナイフで貫かれ、痛々しい姿になっているというのに叫ばない。

 痛みはある。苦しみもある。

 それでも彼女は絶叫を呑み込んだ。彼女は静かに、ゆっくりと殺人鬼に問いかけた。


 「……楽しい……?」


 掛けられた言葉に感情はなかった。

 激痛が彼女の身体を支配するが、それでも彼女の神経はそんなところに回りはしない。

 紫色の長いロングストレートの髪が風で舞い上がる。

 痛みを唇を噛み締めることで我慢しながら、一人の少女はゆっくりと人殺しに向かって問いかける。


 「あ……?」

 「ねえ、楽しいかって聞いているんですよ……?」


 霧咲孝之には何が起こったのか分からない。

 目の前の少女の声色にようやく憤怒という感情が混ざり始めた。

 日頃の丁寧な口調がわなわなと怒りに震え、剥き出しの感情が叩き付けられようとしている。


 「人を殺すことが……そんなに楽しいんですかって……そう聞いているんですよ」


 突如、孝之の視界から彼女の左手が消えた。

 ズドン、と肉を捻り潰す音が響く。

 振るわれた左腕による拳の一撃は激烈だった。


 「ギッ―――――!!?」


 拳は容赦なく殺人鬼の顔面に突き刺さり、ロクな抵抗も出来ずに孝之はゴロゴロと地べたに転がる。

 その勢いでナイフが彼女の腕から飛び出した。

 結果として鮮血が雨のように吹き出るが、少女は構わなかった。

 親の敵のように孝之を睨み付け、大切な者にそうするように優しく草壁睡華を抱きしめる。



 「人に悲しみを押し付けることが……そんなにも楽しいですかって……そう聞いているんですよッ!!」



 藤枝緋紗那。

 一番隊副長にして監視役。

 彼女を知る者ならば誰でも驚愕するほど、その瞳には怒りが宿っている。

 決して目の前の男を許しはしないと、サファイアの瞳が告げていた。


 彼女が駆けつけることが出来たのは偶然だ。

 たまたま彼女は路地裏を探索していた。逃亡者というものは、こういった場所によく隠れる。

 誰もが通らない死角という地点を虱潰しに探索していた緋紗那は、激しい物音に気づいた。


 夕方から夜にかける時刻だった。

 商店街は店じまいを始める時間だったが、それにしては気になった。

 物音は断続的に続くことが不自然に感じられたのだ。

 もしやターゲットが逃げ出そうとしているのでは、と感づいた緋紗那はここに立っている。


 顔も知らない少女を護るために。

 藤枝緋紗那は誰かを救える舞台に間に合うことが出来たのだ。


 「お前ぇぇぇ……お前も! ボクを! 追い詰めるために来たのかぁぁああああっ!!?」

 「まさか、そんなつもりはありません」


 緋紗那は抱きしめる少女を優しく地面に寝かせると、悠然と立ち上がった。

 彼女の右腕からは血がどんどん流れていく。

 失っていく血液に眩暈を感じる緋紗那だが、それでも真っ直ぐに敵を前に見据えた。

 彼女はゆっくりと両手を挙げて構えを取る。



 「私は、あなたを殺しに来たんですよ」



 それは死刑宣告だった。

 藤枝緋紗那の任務は監視役ではあるが、連続殺人を止めるためにここまで来た。

 ここで霧咲孝之を殺せば全てが終わる。

 この学園都市で起こる悲劇のひとつを潰すことができる。

 ならば迷うことも、躊躇うことも緋紗那はしなかった。


 「コロ、す? 殺す? ひひひ、殺す……ボクを殺す……?」


 霧咲孝之はその言葉を受けて顔を可笑しそうに歪めた。

 今まで殺す立場にあった男が殺されようとしている、その不思議な感覚が興奮を高めていく。

 狂った哄笑が路地裏に響く。

 ゆっくりと錆びたナイフを緋紗那に向けると、痙攣した腕を振り上げて襲い掛かってきた。



 「ひ、ひ、ヒヒヒヒヒヒヒヒヒひひひひひひひひひひッ!!!!」



 23人もの女性を殺した殺人鬼。

 骸骨のような顔をした霧咲孝之が、藤枝緋紗那を解体するために飛び掛る。




     ◇     ◇     ◇     ◇




 藤枝緋紗那は誓約者ではない。

 英雄の力を手にした者はほぼ例外なく隊長に推挙されるのが『旅団』の方式だ。

 それ以外の者は全力で隊長をサポートする立場にある。

 それは一番隊副長である緋紗那も同じだった。彼女は戦いを専門としていない。


 目の前の敵は野牧誠一の説明によれば、霊核を宿した誓約者であるらしい。

 本来なら副長一人が立ち向かうことなど愚行だ。

 あくまで誓約者の相手は誓約者、もしくはそれに類する力の持ち主でなければならない、というのが原則だった。


 「ひ、ひ、ひぁあああああああっ!!!」

 「ぐっ……」


 藤枝緋紗那は飛び掛かってくる男の一撃を、地面を蹴って後方に飛ぶことで避ける。

 彼女には武装すらない。緋紗那の基本は徒手空拳による敵の制圧、これが彼女のスタイルだった。

 銃、剣術、武術については一通りのカリキュラムを終えている。

 だが、彼女の右手はナイフによって引き裂かれていた。武術を使う者にとっては致命的な負傷だ。


 「っ、はっ――――――!!」

 「ぶぐえっ!?」


 それでも。

 利き腕を失っただけで戦えなくなるようでは。

 組織の責任者の末席に名を連ねることなどできない。

 迫る孝之の刃を左手で押さえ、右膝の一撃を敵の腹部に叩き込む。

 そのまま右の肘で相手の後頭部を強打、よろける孝之の様子を好機と見た緋紗那はそのまま回し蹴りを鳩尾に叩き付けた。


 「ぐべがっ……!!?」


 薄汚れた壁に叩き付けられる孝之。

 後頭部への一撃は脳を揺らし、鳩尾への一撃は肺の空気を残らず吐き出させる。

 決まった、と緋紗那は思った。

 急所への攻撃。人体が悲鳴を上げているに違いない。

 孝之が油断して霊核を開放する前に勝負を決めなければならなかったのだが、どうやら成功したようだ。


 安堵の息を彼女は吐く。

 何とか制圧は完了した、と緋紗那は判断した。



 「……ひ、」



 だが、しかし。



 「ひ、ひ、ひ、ひ、ひ、ひ、ひがぁあぁぁああぁぁああああああぁぁぁあああああぁあああッ!!!!」



 人の声であるかすら不明瞭な絶叫が響いた。

 獣の咆哮、黒い黒い殺人鬼のどす黒い憎しみの篭った叫びだった。

 緋紗那の顔色が変わる。

 確実に手応えがあった。意識を奪い去ってやったつもりだと言うのに、霧咲孝之は立ち上がっていた。


 「誰も、誰も、誰も、誰も、理解してくれない」


 苛烈な恨み言。

 行き場を失った妄言が路地裏に響く。

 狂った言葉、聞くに堪えない雑音が世界に向けて発信されるように。


 「誰も、誰も、誰も、誰も、助けてくれない」


 自分勝手な独りよがり。

 目の前の光景、突きつけられた現状を理解できない孝之の叫び。


 「ボクを、殺す? 人殺し、人殺し、人殺し、人殺し、人殺しぃぃぃぃぃぃぃぃいいいいいいいいいっ!!!」


 己が所業を棚に上げる。

 彼は獰猛な思いに支配されているだけだった。

 孝之は世界に訴えかける。

 藤枝緋紗那の悪行として。こんなことが許されていいのか、と神に談判するように。


 「お、お、お前みたいのがいるから! ボクが認められない、ボクが不幸になる、ボクがこんな目にあう!!」

 「………………」

 「どいつも、こいつも! ボクを脅して、ボクを利用して、ボクを貶めて、ボクを傷つけて、笑い続けやがってぇぇええええっ!!!」


 彼女は動かない。

 彼女は何一つ反論しない。

 彼女は黙ったまま聞くに堪えない罵詈雑言を聞き続けていた。


 やがて一通り叫び終わったのか、孝之が息を切らして静寂が再び戻った。

 その言葉は彼女を大いに傷つけただろう。

 彼の叫びは彼女を大いに苛立たせただろう。

 ぽつり、と藤枝緋紗那はようやく一言だけ語った。


 「終わりですか?」

 「…………は?」

 「最期の言葉はそれで終わりですか、と」


 彼女の言葉は霧咲孝之の心を逆に大きく揺さぶった。

 緋紗那はまったく揺らがなかった。

 罵倒を受けることなど慣れていた。恨み言で呪い殺されそうなほどの罵詈雑言など慣れていた。

 彼女は裏組織の人間だった。

 人を殺すことも厭わない組織の責任者は、百の悔恨も千の憎悪も万の怨嗟も背負って生きてきたのだ。


 霧咲孝之の身勝手な言葉など、そのうちのひとつに過ぎない。

 聴くに値しない言葉をこれから殺す相手の最期の言葉として刻み込む。

 罪を忘れぬように。いずれ訪れる罰を自覚できるように。


 そうして彼の言葉を聴いたあとに告げるのだ。

 最期の言葉は終わったか、と。

 死ぬ覚悟はできたか、と。言外に突きつけるのは恐怖という化け物の存在だ。



 「殺される人の気持ち、味わえてますか?」



 死神を気取るつもりはない。

 聖人を気取るつもりはない。

 罪人を罰する神になったつもりでも、ない。


 藤枝緋紗那の願いはただひとつ。

 悲劇をひとつでも多く減らすことができるのなら、彼女は薄汚れた裏世界でも戦っていける。

 

 「お、ま、えぇぇえぇええええぇぇえええぇええっ!!!」


 再び孝之が咆哮する。

 馬鹿にされた、と思った。この女をぶち殺してやらなければ気がすまなかった。

 激情が冷静さを奪う。

 藤枝緋紗那はゆっくりと、感覚のなくなってきた右腕を庇うように構え、戦闘続行の意思を告げた。


 だがしかし。

 再びの激突は必死と思われたとき、変化は訪れた。



 ナ ニ ヤ ッ テ ル ノ ?



 「ガッ……ヒッ……!?」

 「……?」


 霧咲孝之の顔が初めて恐怖に歪む。

 殺意を向けられてもなお、笑い続けた男の顔が可哀想な子供のように怯えていた。

 彼は藤枝緋紗那を見ていない。

 孝之の瞳はその向こう側。緋紗那の背後に向けられている。


 「アッ……あ……赦して、許して」


 霧咲孝之は見てしまった。

 緋紗那の背後に廃屋がある。誰も使っていない古びた一軒家だ。

 東雲の町の路地裏にはそうした廃屋は珍しくない。

 その一室、半開きになったドアの間から覗く目があった。


 ぎょろり、と見開かれた目が霧咲孝之を捉えていた。


 「ボクは言われた通りに、やってる、分かってる……分かってるからぁぁああああっ!!!」


 それが何なのか分からない。

 何が起きているのか分からない緋紗那に構わず、殺人鬼が赦しを乞う。

 誰とも知らない見開かれた瞳が語っている。



 オ マ エ ヲ ズ ッ ト ミ テ イ ル ゾ



 「ひ、ひぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃッ!!!」


 霧咲孝之は逃げ出した。

 興奮状態にあった精神が一気に氷点下まで下がった気がした。

 兎にも角にも孝之は逃げた。

 今度こそ『殺される人間の立場』を理解した憐れな男は、脇目も振らずに走り出す。


 「ま、待ちなさ……ぐっ」


 追いかけようとした緋紗那が苦痛の声をあげる。

 右腕は真っ赤に染まっていた。

 このまま放置すれば傷が広くなってしまう可能性もあり、錆びたナイフは鋭利なナイフの数倍危険なことも知っていた。


 緋紗那は追いかけられなかった。

 副長は『誓約者』ではない。無理をする戦い方は出来なかった。

 あのまま戦い、追い詰めれば霧咲孝之は霊核を解放していただろう。そうなれば、勝てる確率は良くて半々。

 藤枝緋紗那は『誓約者』を軽くは見れない。その強大な力をすぐ近くで見ているのだから。


 (無念……です)


 自分の身ひとつなら追っただろう。

 だが、今回は助けた少女がいる。藤枝緋紗那が助けることの出来た少女が眠っている。

 保護した少女、草壁睡華も助けなくてはならない。

 ゆっくりと草壁睡華を抱きかかえると、緋紗那も夜の闇に消えていく。


 (そうだ……高原主任のところに、連絡を……)


 携帯電話を持つ手が震えていた。

 毒とか仕込まれてなければいいな、と人事のように呟いてボタンを押す。

 時刻は夜の八時を過ぎていた。

 同じ頃、藤枝緋紗那の負傷を受けて、野牧誠一の家に緊急連絡の知らせる電子音が響き渡る。


 連続殺人鬼を捕まえることは出来なかった。

 この悲劇を根本から断絶することは出来なかった。


 だけど、それでも藤枝緋紗那の報告は誇りに満ちたものだ。

 彼女が賭けられるものなど身一つに過ぎない。

 それでも彼女は胸を張って報告をする。



 「緋紗那です。ターゲットに襲われた少女を一人、保護しました」




     ◇     ◇     ◇     ◇




 「現状はどうなってる!?」


 野牧誠一はクタクタだった。

 電子音が響き渡ると同時に、一切合財の雑用を高原希に押し付けて情報収集を開始した。

 細かい作業は希の得意分野であり、自分にできることはほとんどない。

 ならば現状把握だけでも、とこうして『対連続殺人鬼』を想定したチームの本拠地へと乗り込んだのだ。


 「報告します。藤枝緋紗那さんがF-7地点でターゲットを発見」

 「襲われた少女は保護。幸いにも無事ですや」

 「緋紗那さんは負傷、これ以上の作戦続行は危険と判断し、撤退させました」

 「ターゲットは逃走中。現在、我が四番隊から追撃部隊を編成中!」


 動いているのは四番隊、月ヶ瀬舞夏の部下たちだ。

 十日前ほどまでオーストラリア旅行へと洒落込んでいたのだが、その間に隊長が負傷したことに衝撃を隠せなかったらしい。

 故に隊長が戻ってくるまでは自分たちで何とかしよう、と誓いを新たにする甲斐甲斐しい人たちである。

 その暫定の責任者として四番隊の副長が務め、その補佐として野牧誠一が名を連ねていた。

 基本的には誠一の権限も副長クラスなので、特に混乱はおきていない。


 「ターゲットは霧咲孝之で間違いないな!?」

 「緋紗那さんの証言から間違いないかと」

 「副長はどうした?」

 「ほんの少し前に部隊を編成して追撃に当たっています!」


 よし、と誠一が大きく頷いた。

 とりあえず霧咲孝之については副長のほうに任せておけば『問題ない』だろう。

 負傷した緋紗那が気になるが、今はそれどころではない。

 とりあえずの指令として誠一はその場にいる四番隊の構成員、六名に向けて命令する。


 「命令だ、霧咲孝之は『追い詰めるな』」

 「は……?」

 「分からないか? 奴を追い詰めるのは得策じゃない、と言っているんだ」


 突然の不可解な指令。

 彼らの目的は霧咲孝之の拿捕、もしくは殺害であることは明白だ。

 それなのに、目の前の仮の指揮官の一人は追い詰めるな、と命令を下した。

 あんまりな命令に納得のできない構成員の一人が、誠一に食って掛かる。


 「し、しかし! 追い詰めなければ捕らえることもできませんや!」

 「……いや、多分、もう無理だ」


 誠一は四番隊の構成員の言葉を、ゆっくりと否定する。

 彼は数人の部下を集めて、そもそも前提が間違っていることを告げる。

 我ら『旅団』の目的は霧咲孝之を殺すことではない、と。そういうことをとつとつと伝えた。



 「霧咲孝之は長い逃亡生活で恐らく追い詰められているだろう。

  奴を今追い詰めれば霊核を開放し、民家を襲うことも考えられる。そうなればアウトだ。

  俺たちの任務を勘違いするな。『霧咲孝之を始末すること』が任務じゃない。

  『表世界に裏の情報を与えないようにしながら、連続殺人鬼を排除すること』――――それが俺たちに求められていることだ」



 押し黙る月ヶ瀬舞夏の部下たち。

 彼らの胸の内には『そんなことができるんだろうか』という思いが去来している。

 ただ潰すだけなら隊長格を投入すればいいのだ。

 裏組織が警戒しなければならないのは、裏世界の技術や情報が表世界に流出すること。


 「さらに言うなら、霧咲孝之は『切り裂きジャック』の誓約者だ。潜伏することと逃げることに関しては右に出る者はいない」


 最初に藤枝緋紗那が霧咲孝之を見失って、数分が経過している。

 それだけの時間があれば恐らくは逃げおおせる。

 副長たちが追撃に向かったと言うが、それも無駄足であることを野牧誠一は冷静に告げる。


 「では、どうすれば」

 「いや、案外すぐにでも捕らえることはできそうだけどな」

 「は、はあ……?」

 「いや、こちらの話だけど。……多分、もうすぐこの任務は終わるよ」


 根拠のない独白には確信がこめられていた。

 四番隊の構成員たちには意味が分からないが、上層部は何かを掴んでいるのかも知れない。

 或いは殺人鬼を捕らえる切り札や、捕らえるための作戦が考案されているのかも知れない。

 とにかく、上司がそう言うのだから仕方がない。

 裏組織という場所も、死にたくなければ上役には逆らわないほうがいい、というのが暗黙のルールである。


 (…………もう、ヤバいな)


 一人、野牧誠一が心の中で呟いた。

 表には出さなくても、彼の心中は焦燥感が漂っていた。


 (もう……これ以上は、時間が……ない)


 出来るだけ長引かせたかった。

 だが、霧咲孝之が犯行を重ねようとした事件は恐らく彼女に伝わる。

 いや、伝えなければならないと誠一は思う。

 もう時間がない。結論を求めなければならない。覚悟を決めてもらわなければならない。


 (どうしますかね、月ヶ瀬さん……)


 野牧誠一は物語の中心に立つ存在ではない。

 あくまで彼の出来ることは物語の主人公たちへの協力、そこらの村人Aでもやれることぐらいだ。

 迫ってくるのは悲劇だと知っている。

 待ち受ける過酷な結末を前にして、野牧誠一はキーマンたる一人の少年を思い浮かべる。


 (お前さんならどうするかね……黎夜少年)


 優しくない世界を見つめながら。

 そっと吐いた溜息は想像以上に重かったが、誰にも気づかれぬことなく溶けていった。




     ◇     ◇     ◇     ◇




 蠢く影が息を吐く。

 奇声を上げて走ること十数分、ようやく孝之は足を止めた。

 それでも、それでも逃げられない。


 ひたひた。


 「分かってる……分かってるからぁ……言うとおりにするから……許してくれよぉぉぉぉぉ……」


 彼の右手は血に染まっている。

 緋紗那はこの数日間で手にかけた犠牲者の血だと思っていた。

 だが、それは少し違う。

 彼の右手の血は、霧咲孝之本人が流した血液だった。


 ひたひた。


 背後でせっつく影がある。

 長らく続く逃亡生活で精神を磨耗した憐れな男。

 彼は傷だらけの右手にも構わず両手で髪を掻き毟ると、動物のように絶叫した。


 「もう……もう、もう、もう……解放してくれよぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉッ!!!」


 それでも想像の産物は止まらない。

 ひたひたと歩いて彼を見続ける。ずっと、ずっと、ずっと、夜の闇の間、ずっと。

 孝之は朝が待ち遠しかった。

 夜の間、ずっとずっと近くに居続ける悪魔の姿に脅えながら、彼はそれだけを希望に夜の闇の中に溶けていく。


 ひたひた。

 ひたひたひた。

 ひたひたひたひた。


 クスクスクス、と誰かの笑い声が響いた。




     ◇     ◇     ◇     ◇




 「…………そう、ですか」


 深夜。

 月ヶ瀬舞夏はホテルの一室で報告を聞いていた。

 電話の相手は技術部の主任である高原希だ。

 彼女は仕事としての付き合いだけではなく、紅茶好きとしての個人的な交友があったりする。

 しかし、今日の用件が日頃の長閑な雑談ではないことは、舞夏の苦しそうな表情からも明らかだ。


 『とにかく、今回は犠牲者は出なかった。それだけは不幸中の幸いね』

 「……ええ」

 『だけど、もう限界よ。出来るだけ手は回してきたつもりなんだけどね、もうこれ以上は庇えない』


 希の言葉は厳しく事実だけを突きつけてくる。

 その一言一言が舞夏の心をズタズタにしていくことは希にも良く分かっていた。

 それでもこれ以上の犠牲は許容できない。

 一人の我侭が多くの人の命を巻き込んだ。その罪科だけでも万死に値する、と舞夏自身も思っている。


 「希さん……私は」

 『学園都市では処刑部隊の投入を恐らく決定すると思う』

 「処刑部隊エクセキューショナー……」

 『出てこられたらもう終わりね。これ以上に厳しい監視役もいない、もう何もかもを始末してしまう』


 学園都市の暗部。

 標的を問答無用で全て何もかもを処刑することで平穏を取り戻そうとしている。

 これまで彼らが出てこなかったのは、偏に高原希が隊長を務める埋葬部隊の働きがあったからだ。

 学園都市も『旅団』に対しての敬意があったからこそ、彼らを投入することを遠慮していた。

 だが、それにも限界が訪れようとしている。


 『期限は三日、それまでに全てを終わらせなければ処刑部隊が全てを終わらせるわ』

 「…………ええ、分かってます」

 『明日一日の時間をあげるわ。それまでに決めなさい、貴女が』


 悲劇の結末までもう時間がない。

 もしも時間切れになれば、今度は舞夏の手で物語の幕を降ろすこともできなくなる。

 それが嫌ならば決めろ、と希は言う。

 他の誰でもない、他の何でもない、月ヶ瀬舞夏が決めなさい、と。まるで厳しい姉が妹に向ける言葉のように。


 『じゃ、私はもう少し業務をこなして来るから。貴女はもう休みなさい』

 「……はい、ごめんなさい、希さん」

 『……いいのよ』


 それで会話は終わりだ、と舞夏は通話を切ろうとする。

 そんな彼女を呼び止めるように希は呼びかけた。


 『ああ、そうだ、月ヶ瀬さん。もうひとつ』

 「……はい?」

 『例の無涯黎夜、彼を利用しなさい。彼なら少なくとも牽制にはなるでしょう?』


 その言葉で舞夏の身体がビクリと震えた。

 どういう意味なのかは舞夏にも分かる。彼は恐らく動くだろうことは舞夏にも分かっていた。

 それに頭を悩ませていたのも確かだが、それを逆手に取れと希は告げているのだ。


 「希さん、それは……!」

 『どうせ彼は勝手に動くわ。それなら、こちらで手綱を握っていたほうがいい、そうでしょ?』

 「そ……それは……そうですが」

 『何より、学園都市に在住する五千人の命を守るために、ね』


 それで通話が切れた。

 舞夏はしばらくそのまま電話を耳に押し当てたまま動けなかった。

 ツー、ツー、という電子音も耳に入らなかった。

 たっぷり数分間も硬直していた少女は、のろのろと立ち上がると窓の向こう側へと視線を移す。


 「…………ごめんなさい」


 ぽつり、と。

 少女の謝罪が零れ落ちる。


 「ごめんなさい、ごめんなさい……ごめん、なさい……」


 誰に向けられた謝罪なのかは舞夏自身にしか分からない。

 或いは舞夏本人にも分からない懺悔だったのかも知れない。

 すっかり衰弱した少女は、綺麗な瞳からそっと涙が零れ落ちるのにも構わず、ごめんなさい、と呟き続ける。


 しばらくして彼女は涙を拭う。

 振り向いた彼女の瞳にはもはや迷いはなかった。

 謝罪したことでスッキリしたわけではない、懺悔することで罪悪感を払拭したわけでもない。


 「申し訳ありません、黎夜さん……」


 ただ彼女は覚悟を決めただけだった。

 あまりにも哀しい覚悟を決めただけの話だった。



 「私は、貴方を利用させていただきます」



 言葉に出すことで強く、強く自分に言い聞かせた。

 少女の名前は月ヶ瀬舞夏。

 裏組織『旅団』所属の隊長であり、その手を血と肉と皮と内臓で染め上げた怪物である。

 少なくとも裏世界の人間とは、そういうものだった。





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