第2章、第4話【役割】
月ヶ瀬舞夏はホテルの個室に帰っていた。
黎夜と別れ、部屋に戻った彼女はシャワーを浴びると下着姿のままベッドに腰掛ける。
白のキャミソールを惜しげもなく晒し、いつもなら紅茶を入れるという日課も今日に限ってはない。
窓を開け、しっとりと濡れた髪を夜風で乾かしながら彼女は憂う瞳で夜空を眺める。
「……静かな夜、です。悲しいほどに」
星のない夜だった。
月すら限りなく細くなった漆黒の世界が広がっている。
それが未来への暗雲のようにも見えて、彼女の瞳は益々憂いを秘めたものになっていく。
世界は優しくない。
優しい世界があればいいのに、と思う。
悲しみもなく、苦しみもなく。
誰もが笑って暮らせる夢のような世界があればいい、と思う。
誰もが一度は願っただろう。
誰もが笑うことのできる世界、決して届くことのない理想郷。
月ヶ瀬舞夏は救いのない裏世界に足を踏み入れても、その幻想を打ち消すことができない。
「……どうして」
世界はこんなに優しくないんだろう。
残酷な結末が口を開いて待っている、それを彼女は承知している。
救いたい命があった。笑ってほしい人たちがいた。
この世界に入ればそんな人たちを護れると願って、闇の中へと堕ちた彼女は汚れていく。
赤い赤い血の海に。
白い白い虚無の心に。
黒い黒い業を背負い続けて。
少女に突きつけられた選択肢がある。
どちらかを選べばどちらかを切り捨てる選択肢がある。
どちらを選んでも少女の心をズタズタにする最悪の結末を用意するだろう選択肢がある。
悪魔が用意した脚本を演じるしかない狂い踊る道化たちが死力を尽くしてなお、そんな選択肢しか残らなかった。
「……本当に」
ゆっくりとベッドに身を預ける。
身体に力が入らない。脳が休息を求めて活動を停止しようとしている。
何も疲れるようなことはしていない。
ただひとつの悩みが月ヶ瀬舞夏を極限まで追い詰める。
「どうすれば、いいんでしょうか……」
静かに瞳が閉じられる。
眠り姫のように彼女の意識は闇の中に落ちていく。
悪夢よりも酷い現実から逃れるように。
夢の中ではせめて幸せな世界がありますように、と子供のように無心に願って。
「誰か、教えてください……ハッピーエンドは何処にあるんですか……?」
彼女の呟きは小さく。
課せられた役割の重さに押し潰されそうになりながら。
あまりにも儚げな少女の口から零れた弱音も、漆黒の闇の中へと消えていく。
◇ ◇ ◇ ◇
『切り裂きジャック? そいつはまた、面倒そうな名前が出てきたもんだな』
「やっぱり面倒なのか。大体予想はしてたけどよ」
夜、無涯邸。
妹の作る美味しいシチューに舌鼓を打った黎夜は自分の部屋に戻ってきていた。
何やら機嫌の良い沙耶が家事を全て終わらせてしまったため、兄の出る幕もなくなったからだ。
やることのなくなった黎夜はちょうどいい機会だ、と友人の一人と携帯電話で話し込むことにした。
野牧誠一。
黎夜の友人の一人にして雑学に詳しい男だ。
その代わり常識らしい常識を備えていないというアンバランスな大柄の青年である。
「実際、そいつがどんな奴なのか、おぼろげにしか憶えてなくてな」
『それで聴きたいわけね。まあ、いいけど……そんなの知ってどうするんだ?』
「いや、ちょっと気になることがあってさ」
連続殺人鬼の正体がそいつなんです、などと言うことは言えずに言葉を濁す。
誠一は何も知らない一般人なのだから詳しいことは語れない、と黎夜は思う。
当然、話した時点で黎夜は消されるので何と言われようとも話せない。それに彼を巻き込むつもりもなかった。
『切り裂きジャックか。イギリスの連続殺人鬼、ってのは知ってるよな?』
「ああ。何でも劇場型殺人の始祖だとか、なんとか」
『結構』
うむうむ、と電話の向こう側で頷いているのが分かった。
黎夜自身もたいていは『名前は知ってるけど、どういう奴だったかは憶えてない』というのが多い。
切り裂きジャックもイギリスの連続殺人鬼だということぐらいは知っているが、それ以上はあまり憶えていない。
パソコンでもあれば勝手に調べるのだが、生憎と無涯邸には導入されていないのだった。
『ジャック・ザ・リッパー(誰とも知らない人殺しのジャックさん)……意味は名無しの権兵衛と同じ意味だ。
知ってのとおり迷宮入りした売春婦連続猟奇殺人事件の犯人だな。
こいつについてはとにかく謎が多い。何故なら捕まっていないからな。名前も、性別も、素性も何一つ分かっていない』
だからあんまり詳しいことは言えないけど、と誠一は前置きする。
それに承知して続きを促すと、講義を教える教授のように彼は続ける。
『実は殺した人間の数すら曖昧なんだよ。
確実に犠牲者だと判断されたのは五人くらいで、何十名もの女性が『殺された疑いがある』とされているに過ぎない。
犯人もまた容疑者としてたくさん挙げられていてなー。
容疑者、模倣犯、もしくは切り裂きジャックの名前を騙る愉快犯だのを数え上げたらキリがない』
もう百年以上前に迷宮入りとなった事件。
被害者も容疑者も曖昧なまま一世紀以上の時間が経過した事件の犯人探し。
恐らく真実が語られることは永遠にないだろう。
そんな奴の情報なんてものは高が知れている、と誠一は言った。
「要するに何も分からないわけか」
『ぶっちゃけるとそうとしか言えないのだよ、うん。真相究明を目指す刑事さんならともかく、一介の学生の自分にはなぁ』
「そっか……そうだよな」
『本当に説に過ぎないものでよければ列挙するけど』
頼むよ、と黎夜が言うと少しの沈黙があった。
どうやら資料を探し出しているらしい。沈黙は十秒ほどで、やがて返事が返ってきた。
これから列挙していくからメモの必要があれば取っておくこと、と誠一は前置きした。
『ジャックは医師であるって説が有力だな。あと、必ずしも男性とは限らない、って説もあるらしい』
「そりゃまたどうして」
『切り裂きジャックと言えばバラバラ殺人だが、傍目から見ればグロい死体も医学的に見れば見事に解剖されてるらしい』
「うえ……じゃ、女性ってのは?」
『こんな連続殺人が起きているってのに、被害者たちは警戒心もなく迎え入れていた形跡があったらしいからな』
イギリスにおけるジャックは不特定の男性につけるものらしい。
そういった先入観が被害者の女性から警戒心を奪う……つまりは犯人は女性と飛躍させることもできる。
他にも被害者の数、容疑者など多くの説が披露された。
知れば知るほど、本当に切り裂きジャックという英雄については何も確定していないんだな、ということが判明するだけだった。
「……なんか、本当に雲を掴むような話だよな」
『元々迷宮入りの事件ってのはそんなもんじゃないのかねえ……だから迷宮入りしたんだから』
「確かに……っと、電池がヤバい」
『おっと、それじゃもうお開きにしようか』
少し長く話し込んでいたらしい。
あまり長電話はするな、と家計を司る妹から言われているのでこれ以上は厳しいのだった。
特にバイトもしていない黎夜は収入源がないため、強く出られない。
もうこれ以上は無理です勘弁してください、と携帯電話の電池を表示する場所がカラータイマーの如く点滅していた。
「んじゃ、ありがとう、誠一」
『うむ……と、黎夜』
「ん?」
『最後にちょっとしたアドバイスをプレゼントフォーユー』
微妙な英語の発音と共に呼び止められ、もう一度電話を耳に押し当てる。
その向こう側から聞こえてきたのは真面目な声色だ。
恐らく電話口の向こうでは真面目な話ですよー、と表情で告げる野牧誠一の姿があるのだろう。
『切り裂きジャックが厄介なのは強さじゃない』
その言葉はまるで黎夜の心を探るようなものだった。
まさか戦うつもりじゃないだろうな、と警告しているような感情を押し殺した言葉。
もしも戦うなら、と言外に前置きされているようで、思わず黎夜は息を呑んでいた。
『イギリス中の警察全てを敵に回しても逃げ延びた、その潜伏技術だ』
それさえ何とかすればいい。
女性ばかりを狙うクソッタレが強いはずがない。
いかに人を殺し慣れている鬼畜だとしても。いかに殺人を忌諱しない外道だとしても。
所詮、弱いものしか狙えない弱者だ。
逃げ回ることだけが上手い姑息な英雄にすぎない、と。
「………………」
『まぁ、気楽にな。それじゃ、また明日ー』
おう、と短く返すと携帯電話の通話を切って机の上に置く。
そうして今の言葉を心の中で反芻した。
実力はたいしたことはない。ただ、その潜伏能力だけは舞夏の組織でも捉えきれないほど凄い。
それならやはり自分に出来ることはないのではないか、と黎夜は考える。
黎夜の英雄は剣士だ。まだ誰かは確定しないが、それだけは確信している。
剣士は戦いでは役に立つだろうが、潜伏する相手を探るのには役に立たない。
舞夏の組織ならばそういったものがいるかも知れないし、見つければ黎夜よりも強い舞夏がいる。
(出来ることなんて、ない……か)
下手に出て行っても邪魔になるだけかも知れない。
無涯黎夜が動くメリットはなく、動くことで得るデメリットのほうが圧倒的に多い。
十分に承知している。
そんなことは本当に分かっている。
だけど。
舞夏は言っていた。
連続殺人鬼を殺す、と。殺してでもこの悲劇を食い止める、と。
彼女に人殺しの業をこれ以上背負わせていいのだろうか。
儚げに笑って罵倒を受け入れるような、あの年下の莫迦な女の子に何もかも押し付けていいのだろうか。
(俺は、人を殺したことなんてない)
当然だ。
無涯黎夜はつい十日ほど前までただの学生だった。
確かに死線というものを一度は潜ってきたが、それでも人を殺すようなことはしなかった。
きっと重いのだ、と思う。
それこそ人生の全てを変えてしまうほど重くて、痛くて、苦しいものなんじゃないか、と思う。
そんなにも重い業を彼女に背負わせることは正しいのだろうか。
誰かに負の遺産を押し付けて、その中で出来た日常を笑って受け入れていいのだろうか。
知らなければ無視も出来た。
だけど知ってしまったからには、もうダメだった。そんなことで渡された平穏を笑顔で享受なんてできなかった。
(まだ何か、出来ることがあるはずだ)
それを探そう、と黎夜は思った。
今はまだそれが分からないけど、何をすればいいのかも分からないけど。
きっと無涯黎夜にも出来ることがあるはずだ。
(俺の役割は、なんだ……?)
ベッドに寝転がりながらゆっくりと黎夜は瞳を閉じる。
まだ五月だと言うのに地球の温暖化は深刻だ。毛布の出番はなかった。
一度目蓋を開けて外を見ると星の姿はなく、漆黒の夜空が広がっている。
明日は晴れるだろうか、と柄にもなく思うと、黎夜は今日一日を締めくくるように夢の中へと意識を手放していくのだった。
◇ ◇ ◇ ◇
「まぁ、気楽にな。それじゃ、また明日ー」
時を同じくして。
眼鏡をかけた身長百八十cm強の青年が通話を切る。
電話している最中の彼は何処にでもいる学生の表情で、おかしなところなど何一つ見受けられない。
その表情がガラリと変わる。
表の世界から裏の世界へ、表の顔から裏の顔へ、同じ人物かと疑いたくなるほど感情を殺した顔つきへと。
野牧誠一。
新東雲学園都市の大学生。
兼、裏組織『旅団』、技術部副主任。
月ヶ瀬舞夏と同じ世界に立つ青年は天然パーマの黒い髪を掻きながら背後へと向き直る。
そこに彼の直属の上司である高原希の姿があった。
小柄な彼女はほんの少しだけ呆れるような、咎めるような視線を彼に向けている。
「あんまり変なことは言わないほうがいいよ」
「……たはは、すみません」
「別にいいけど。緋紗那さんに聴かれたら事だからね。彼女、一応監視役なんだから」
一番隊の副長、藤枝緋紗那も今頃は殺人犯の動向を探っている。
詳しいことを何も聞かされていない彼女からすれば、監視というよりも見届けることが重要なのだろう。
連続殺人鬼、霧咲孝之の動向は未だ掴めない。
技術部主任……各隊長と同じ権限を有する高原希は、迂闊な己の直属の部下を軽く窘める。
「そもそも、なんで無涯黎夜に情報渡すの? 彼が動いたら私たちも困るんだけど」
「希さん……貴女は分かってない。奴が動かないはずがない!」
「いや、そんな堂々とダメッぷりを力説されてもね……あら、でもやっぱり動くの?」
やけに自信たっぷりに言う誠一に頭を抱えたくなる希。
技術部と言えば何だか開発ばかりしているようなイメージだが、要はバックアップや情報隠蔽などの雑用をこなす職務だ。
もちろん様々な開発なども担当するのだが、有事の際には色々な仕事が舞い降りる。
舞夏の依頼で無涯黎夜の情報規制をしたのも彼らなのだが、そのときの苦労を黎夜本人は分かってくれないらしい。
「動きますね。一応釘は刺しましたけど、多分動きます」
「友達ならちゃんと止めてあげないと」
「それで止まるような奴なら苦労はしないのだぜふはははははーーー!」
笑う誠一だが、半ばヤケッパチだった。
ある程度高笑いをして希を呆れさせた後、ふと乾いた笑みで誠一は言う。
「……無涯の家の者ですよ、動かないはずがないじゃないですか」
「……………………」
その言葉を希も誠一も噛み締めた。
現実として無涯黎夜は以前、霊核受け渡しの際に己の正義に従った。
結果として彼は霊核を宿し、こうして裏世界に引き擦り込まれる危険をその身に宿してしまっている。
その生き方は酷く危うい。
「月ヶ瀬さんもあれほど釘を刺したんです。それでも切り裂きジャックのことを聞きに来ましたからね……」
「はっきり言ってしまうと、迷惑よ」
「善意の押し売りはあいつの十八番ですから」
「男の独りよがりって結構嫌われるわよ」
容赦のない言葉には事実しか込められてない。
ただでさえ忙しいのにこれ以上面倒事が増える、というので少しお怒りらしい技術部主任だった。
誠一は少し引きつった苦笑しか返せないが、概ね面倒が増えることに対しては同意する。
おかげで眠る時間が減り、講義を休む回数が増えるのだった。
真に遺憾なことである、と誠一は頷くのだが、サボりの半数はただ単に自主休講するだけなのであった。
「さて、と。それはそれとしてもやることがありますよね」
「ええ。私たちの勝利条件には欠かせないからね。ちなみに、これだけど」
希が懐から取り出すのは真っ白な宝石だった。
ダイヤモンドだとかそういったものではなく、完全に脱色された石ころのようなもの。
希はそれを勝利条件に欠かせないもの、とまで言い、誠一もそれに心の底から同意する。
三ヶ月という月日を掛けて技術部が完成させた、世界で初めての『特別な霊核』がそこにあった。
これの出来が全てを左右することを、誰よりも彼女たちは知っている。
この連続殺人事件も。
とある少女を絡めとる茨の運命も。
無涯黎夜という少年の存在すらも。
その先に何があるのかは、高原希も野牧誠一も知らない。
二人はこの物語の主人公ではない。
彼らを助けるための手段を用意する脇役に過ぎず、その決断は全てを決定するヒロインにしか分からない。
それがハッピーエンドを迎えるか、それともバッドエンドを迎えるか。
それすらも神のみぞ知る、という言葉でしか表せない。
「やるわよ、野牧くん」
高原希が張りのある声をあげる。
それまでの雑務で疲れた身体に鞭打って、彼女は白い霊核へと目を向ける。
彼女が三ヶ月という月日を掛けて発明した最後の希望。
「私たちの役割を」
はい、と背後から返事が返ってくる。
彼女は振り向かない。ただその返事だけを背中で受けてパソコンの電源を入れる。
霊核専用のテスタメントを接続する。
立ち上がったパソコンに白い霊核のデータをインストールし、更に解析を進めていく。
ハッピーエンドを迎えるための努力を続けよう。
裏組織に名の知られた『旅団』の技術部主任、高原希は一切の妥協を許さない。
ピーピーピーピーピーピ―――――――!!!
そんなときだった。
組織の支部のひとつである誠一の部屋に電子音が響く。
非常事態を告げる音。
この夜はこのまま平穏には終わらないと告げるような緊急連絡に、希と誠一の両者が立ち上がる。
「なに!?」
「分かりません……っと、緊急連絡……?」
二人で顔を見合わせる。
まさか、とお互いの胸に秘めたひとつの事実に対する懸念を確認しあった。
すぐに代表して希がパソコンに情報をインストールする。
コード『47712-A』
Aクラスの機密として情報を読み取る。
誠一はその情報が他の組織によってハッキングされることを防ぐためにキーボードを叩く。
読み取りは十数秒で終わった。
そこに書かれていた内容の一端を読んで、二人の表情が再び苦いものとなっていった。
『本日、夕刻未明―――――学園都市連続猟奇殺人、第六の事件が発生』
◇ ◇ ◇ ◇
時刻は少し戻って夕刻。
無涯黎夜が月ヶ瀬舞夏とマンションで別れようとする時間だった。
無涯沙耶が月ヶ瀬弧冬と商店街で買い物を終わらせようとしている時間だった。
場所は学園都市の南部にある大商店街。
そこに草壁睡華という名の少女がいた。
「うーん」
栗色の髪を耳元で揃えた中学生くらいの少女だった。
控えめな性格ながら何処にでもいる少女で、例に漏れず新東雲学園に在籍している。
彼女のここ最近の日課は商店街に行くことだった。
学園か終わると一度家に帰り、お歳暮のように包装された品物を持って商店街を歩く。
「んんーー?」
商店街へと行く日課の原因は十日ほど前にある。
彼女はここでバイクを倒してしまい、不良に絡まれるという事件に巻き込まれた。
身の危険に身体を震わせていた彼女だったが、そのとき一人の青年が現れた。
彼は圧倒的な力で不良たちを叩きのめすと、自分を逃がしてくれた。
「……むう」
無我夢中で警察に電話したのだが、それから先のことは憶えていなかった。
気づけば睡華は公園のベンチの上で眠っていたからだ。
何だかすごく怖い夢を見ていたような気がする。
それどころか何処までが夢で何処からが現実なのかは分からなかった。
携帯電話の通話記録にあった110番の数字が、かろうじて不良から助けてくれた青年の存在を示していた。
「……今日もいないみたいです」
ぐすん、と草壁睡華が肩を落とす。
その手には近所で一番美味しいと評判の和菓子屋の名前が記された包みがあった。
助けてくれたお礼がしたくて、お小遣いの半分以上をつぎ込んで買ってきた『和菓子デラックスセット』だった。
十日前から今日に至るまで、それを助けてくれた青年に手渡すために商店街へと足を運んでいたのだ。
だが、この十日間出逢うことはなかった。
警察に連絡してみたが、個人情報を教えることはできないと取り付く島もなく。
青年の運ばれたと思われる病院を回ってみたが、また情報を手に入れることもできなかった。
そもそも名前も知らないし、混乱していたせいで顔もほとんど憶えていない。
雲を掴むような形の上に、とある裏組織がその青年の情報を隠蔽してしまっているものだから報われない。
一般人である少女では彼の姿を見つけることはできないのだった。
「最近危ないし……今日も帰っちゃおうかな……いやでも、今日こそは逢えるかも知れないし、あともう少しは……」
睡華も連続殺人鬼については知っている。
さすがに一日中、そこら辺で警官や警邏たちが巡回して一人歩きの注意を呼びかけているのだ。
睡華自身も注意を受けたことは何度でもある。
それでも彼女は助けてくれた青年に逢いたかった。お礼を渡して、言えなかった『ありがとう』を口にしたかった。
そうした想いが強かったのだろう。
もしくは危機感が足りなかったのかも知れない。
まさか、自分が巻き込まれるなんて、と事件を人事のように考えてしまう人はあまりにも多い。
「………………んっ」
だから彼女は裏路地へと足を踏み入れてしまっていた。
大学生くらいの青年に助けてもらった場所だった。
一週間近くは怖くて近寄れなかった場所だけど、この日は勇気を持って薄暗い通路へと足を踏み入れたのだ。
すぐに帰るつもりだった。
ただ最後に路地裏のところをちょっとだけ覗いて、それで今回も不発に終わったとガッカリしながら帰るつもりだった。
あまりにも浅慮だった。
あまりにも愚考だった。
あまりにも無防備だった。
草壁睡華が路地裏へと立つ。
黄昏の時刻、夕日が世界を赤く彩る時刻でもその場所は暗い。
そんな薄暗いはずの通路に人が立っていた。
痩せぎすの骸骨のような顔をした小柄の男が、右手を夕日よりもずっと赤黒く染めて立っていた。
「え、……?」
身体が動かない。
喉が干上がってしまった。
心臓の音だけが大きく路地裏にまで響いた気がした。
草壁睡華は身を隠すこともしなかった。
ギョロリ、と小柄の男が睡華を見た。
血走った瞳に正気や理性というものは感じられなかった。
人が魔と逢う時間帯。
「ひー、ひー、ひ、ひ、ひひひひひひ」
息遣いとも、笑い声ともつかない嬌声が響く。
草壁睡華は動けない。
足が恐怖で止まっていて、脳が目の前の光景に停止している。
場所は入り組んだ路地裏だった。
夕方には商店街は閉まっていく。周囲に人の姿はない。周囲に味方の存在はいない。
「ひ、ひ、ひ、ヒ ヒ ひ ひ ひ ひ ひ ひ は は は は は は は は は
は は は は は は は は は は は は は は は は は は は は は は は は は
は は は は は は は は は ハ ハ ハ ハ ハ ハ ハ ハ ハ ハ ハ ハ ハ ハ ハ ハ ハ ハ」
歓喜の声が響いた。
狂った哂いは誰の耳にも届かない。
「い、や……あぁぁあああああああ――――――ッア゛!!!」
恐怖に染まった声が響いた。
助けを求める絶叫は誰の耳にも届かない。
死刑囚、連続殺人犯――――霧咲孝之の狩りが始まる。
◇ ◇ ◇ ◇
どうしてこうなってしまったんだろう。
私はただ助けてくれた人にお礼の品物を渡したくて。
私はただ助けてくれた人に憧れて。
私はただ助けてくれた人にありがとう、って言葉を言いたくて。
どうしてこんなことになってしまったんだろう。
助けて。
助けて……
助けてください……
痛いのはやだ。
苦しいのはやだ。
怖いのはやだ。
逃げる。
逃げる。
逃げる。
足が痛くなるほど走りました。
何度転んでも立ち上がって走りました。
とにかく怖いものから逃げるために走りました。
憧れの人に渡したかった和菓子が無残にも踏み潰されてもとにかく走りました。
何も考えられない。
人のいるところに逃げなくちゃ、とか。
携帯電話で助けを呼ばなくちゃ、とか。
大声を上げながら逃げなくちゃ、とか。
それも出来ないほどに混乱して、そんなことをしている間に後ろから追いつかれそうで。
いやだ、こんなのいやだ。
私はこれからも学校に通って、友達と笑いながら話して。
お父さんやお母さんとお姉ちゃんと一緒に、ずっとずっと楽しい毎日を送るんだ。
どうして、どうしてこんなことになっちゃったんだろう。
死にたくない。
死にたくないよ……
死にたくないよぉ……!
助けて、お父さん。
助けて、お母さん。
助けて、お姉ちゃん。
助けて、……名前も知らない憧れの人。
助けて助けて助けて助けて助けて助けて
助けて助けて助けて助けて助けて助けて
助けて助けて助けて助けて助けて助けて
助けて助けて助けて助けて助けて助けて
助けて助けて助けて助けて助けて助けて
助けて助けて助けて助けて助けて助けて
助けて助けて助けて助けて助けて助けて
あ、捕まった。
ブツン、と。
草壁睡華の意識が電源をオフにされたテレビのように消えた。
PVが一万ヒットを越えました。
まだまだ未知の途中、といった按配ですが、いつも来て読んでくれる皆様に心からお礼を。
これからも精進いたします♪
さあ、睡華ちゃんの明日はどっち。