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第2章、第3話【把握】









 ――――――今、この街を騒がせている連続殺人鬼は知っていますね?

 ――――――その人物の殺害、それが私に課せられた役割です。


 空気が凍りついたのではないか、と俺は錯覚した。

 彼女、月ヶ瀬舞夏は優雅に紅茶を飲みながら、努めて冷静な表情で俺の反応を待っている。

 これまで通りの舞夏として、その言葉に罪悪感はなく、むしろ義務として捉えられているかのような言葉だった。


 「………………」


 反応が、できなかった。

 殺す、と彼女は言った。カイム・セレェスのような軽薄な言葉ではないにせよ、内包した意味は同じだった。

 心の何処かでは納得していた。

 月ヶ瀬舞夏は裏世界の住人。敵対する相手を殺し、その手は血に染まっている。彼女自身の言葉だった。


 だけど、その事実そのものが悲しかった。

 怖いでもなく、汚らわしいと思うのでもなく。ただ悲しかった。舞夏は殺人という禁忌を迷わず実行すると断言することに。

 遠かった。何の変哲も無い女の子が、俺よりもずっと遠くにいるような錯覚に陥った。


 「……順を追って説明しますね、黎夜さん」

 「…………ああ、頼む」


 頭を振って、嫌な思考を追い払った。

 舞夏はその罪を見つめている、受け入れている。

 そして勇気を持って俺にその事実を突きつけている。傷つくことすら覚悟の上で。

 それは凄いと思う。俺には自分の罪を相手に曝け出すような勇気は無い。だからこそ、俺は彼女を否定できない。


 瞳を一度だけ、瞑った。

 深呼吸をひとつ。そして真っ直ぐに舞夏の綺麗な瞳を見据えた。


 「まず、前提条件の確認から。……あなたはあの日、霊核をその身に宿してしまいました。憶えていますね?」


 首を縦に振って肯定した。

 忘れるはずがない。生涯、初めての命の危機。俺の価値観を完全に狂わせた夜の校庭。

 土方歳三の霊核の持ち主、カイム・セレェスを撃破した日のこと。

 俺もまた、舞夏やカイム、葉月のように霊核を宿し……英雄の力を手に入れたという、ひとつの事実。


 「以前、説明しましたように……霊核とは英雄の力をその身に宿せる神秘の秘法。

  その宝石ひとつが数百万、数千万で取引される絶大な力の源。

  モノによれば、たったひとつの霊核を巡って国が、組織が争い、滅びていく……そういう代物です」


 母さんの形見だった宝石。

 舞夏と沙耶を護るために宿した力の大きさ、重さを改めて俺は実感した。

 今の俺はそういうものを背負っている一人である、ということを胸に刻む。

 舞夏はそんな俺の決意を感じ取ってくれたのか、僅かに微笑み……そしてやはり、厳しい表情を見せる。


 「あの夜、月に照らされた校庭での貴方の選択……あの場においては、それが最善手だったのかも知れません」


 ですが、と舞夏は言葉を区切る。

 苦虫を噛み潰したような顔が、事態の深刻さを俺に客観的に伝えさせた。


 「同時に黎夜さん……貴方の立場は悪くなってしまいました」

 「どう、なってるんだよ……?」


 俺の立場。一般人でありながら、裏世界の神秘に触れた者。

 天凪葉月の手紙によれば、大人しくしていれば問題はない、はずだ。

 とはいえ、実際にこうして面と向かって言われれば、さすがに冷や汗も出てくるというものだった。


 「今は、大丈夫です。旅団、アスガルドの両組織は事実を誤認しており、黎夜さんが狙われることはない」

 「そっか……それなら」

 「ただ、今は嵐の前の静けさ。もしくは台風の目の中にいると考えてください。楽観視は決して出来ないのです」


 ズバリ、と一言。

 気を緩めそうになる俺の心が跳ねた。


 「我々は霊核の情報を隠蔽、無涯黎夜という人間を無関係な一般人として偽装しています」

 「情報操作……?」

 「ええ。とりあえず、前提条件として……黎夜さんはデリケートな位置におられる、と理解していただきます」

 

 ……窘められてしまった。

 確かに俺が霊核を宿している、という事実は変わらない。

 今はまだ仮初めの平穏に過ぎないのだ。

 情報が漏れたとき、真実に辿り着く者が現れたとき、この平和な日常は脆くも崩れ去ってしまうのだと。


 「それでは、本題に入らせていただきます」


 舞夏はしっかりと俺に釘を刺すと、自分の胸元に手を突っ込んだ。

 思わずその様子にドギマギしてしまう俺に気にせず、彼女は滑らかな手つきで一枚の写真を取り出した。

 テーブルの上に置き、俺に差し出す。

 写っていたのは小柄な男だった。まず印象的なのはギョロリとした目玉だった。ついで削げた頬、不健康そうな顔つき。

 歳は三十代を過ぎたところだろうか。髪の色には黒に混じって白いものが見えている。


 「私たちの組織が追っている男です。名は霧咲孝之……標的の連続殺人鬼です」

 「こいつが……」


 女性ばかりを狙う連続殺人犯。

 この学園都市に潜伏中で、未だ犠牲者を生み出し続ける男。

 ニュースでも何度も取り沙汰され、俺たちの周囲にも警戒の声が上がっている。

 幸いにもまだ学園の中からの被害は無い。狙われるのは深夜に帰宅する酔った女性などが多いらしい。


 なるほど、舞夏の所属している組織はこいつを追って始末するらしい。

 こういう人間としてのクズは死んでいい、というのが正直が感想。

 だが……目の前の少女もまた、手を赤く穢している。人を殺す奴は死んでいい、という考えは……したくなかった。


 気分を切り替える。

 まだまだ聞かなければならないことが山ほどあるんだ。

 

 「でも、舞夏の組織がそいつを狙うのと、舞夏が学園に来たことには関係があるのか? ……その」


 例えば、学園の中にそんな危険な奴が忍び込んで来ているとしたら。

 無力な少女なんて山ほどいる。そんな奴が学園に現れるという事態は最悪だろう。

 もっとも、校長先生や何人かの武道派教師がいる以上、そんなことはないと思いたい。

 だが、舞夏は俺の言いたいことを察したのだろう。僅かに顔を曇らせながら、肯定も否定もしない。


 「可能性はない、とは言えません」

 「……そっか。つまり、舞夏は学園の警備と生徒の護衛のために」

 「いえ。それももちろんありますが、私の任務は他にあります」


 舞夏は俺を見る。

 紅茶から手を離し、俺の反応を窺っている。

 その様子と、そして前振りの話から漠然と俺も舞夏の言いたいことを理解した。

 件の任務には、俺が関わっているということを。



 「無涯黎夜の監視――――それが、私に与えられた任務です、黎夜さん」



     ◇     ◇     ◇     ◇



 所変わって商店街。

 両サイドに並ぶ数多くの店を横切りながら、二人の少女が闊歩する。

 まるで仲の良い姉妹のように笑顔に小言を混ぜながら、少女たちは夕食の材料を吟味していた。


 無涯家のお財布事情は最年少の家族である沙耶に握られている。

 両親が亡くなってしばらくは祖父の賢吾が切り盛りしていたのだが、物心が付くと同時に政権交代。

 料理、洗濯、掃除などの家事を一手に引き受ける存在として、無涯邸に君臨した。

 今では彼女の名を冠した法典が定められ、いかに祖父であろうと兄であろうと、法を乱す者には厳しい処罰が下される。


 結論。

 食を司る者こそ、最強である。


 「んー、今日はシチューだから……こんなもんかな」

 「こそこそ……」

 「こら」


 ごちん、と鈍い音が商店街に響く。

 星マークが飛び出したかと思うほどの一撃に、月ヶ瀬孤冬は頭の周りにヒヨコを流転させる。

 隣の中年の女性が、あらあら……などと口元に手を当て、二人の少女を生暖かく見守っていた。

 そんなことは関係ない、とばかりに、孤冬は突然の犯行に及んだ沙耶を恨めしそうに睨み付ける。


 「頭が痛いっ! なんでなんで、なんで叩くのー!?」

 「勝手に買い物籠の中にアイスを入れようとするからでしょ。私はアンタのお母さんか」

 「ママーッ!!」

 「いらない! 同い年の子供なんていらない! ああっ、周囲の認識が道場の娘から若奥様に!」


 信じて、おばちゃん! 私はまだ16歳だよ!? などと周囲に呼びかけてみる。

 この学園都市は大きいが、逆に閉鎖された環境でもある。

 近所付き合いなどは主婦(といっても高校生)の必須科目であり、周囲の買い物客や店員は半分以上が顔見知りだ。

 突如として現れた『いつもの道場の娘さんをママと呼ぶ少女』に、現場は冗談半分ではあるが、騒然となる。


 学園都市唯一の道場。

 そこの娘であり、そして近所の主婦たちと熱い闘いを繰り広げる一人の猛者として。

 その主婦たちの頂点に立つ女性、通称『東雲の呂布』と対等に渡り合ったという伝説がある。


 所謂、ひとつの有名人。

 話題の先取り、独占などお手の物なのが中年の主婦連中である。


 「い、いらない子……孤冬は、いらない子……」


 気づけば、隣で俯いたまま目元が見えない少女が一人。

 何やらブラックオーラが発しているような気がするのは、全力で気のせいであると信じたい。

 ぶつぶつ、と呟くその不気味さが怖かったりする。

 だが、やがて切り替えたのか、立ち直ったのか。一際、スッキリしたような表情のままに頷いてみせる。


 「うん、大丈夫。孤冬はね、強い子なの。引かない、媚びない、省みない」

 「そんな年から皇帝やら、覇者の道でも歩くつもりか、アンタは」


 孤冬が持ってきたアイスは冷凍庫の中に放り投げて、会計を済ませる。

 今日の献立はシチュー。祖父の賢吾は和食を好むが、彼女の兄である青年の大好物だ。

 洋食が苦手とはいえ、祖父が食べられないようなものを作るつもりは更々ない。


 不肖、無涯沙耶。

 仮にも無涯家の食卓を統括する影の支配者である。


 兄からも将来は良いお嫁さんになれるだろう、と太鼓判を押されているのだ。

 唯一の問題は相手が見つかるか、というところだと彼は語っている。

 更にダメ出しするのならば、婚約に行き着く前に付き合う相手に襲い掛かって警察のお世話になりませんように。


 「………………」

 「んー、どうしたの、沙耶お姉ちゃん?」

 「いま、なんか、失礼な言葉が聞こえたような気がしてさ……気のせいかな?」


 気のせいです。

 気のせいですとも、ええ。



     ◇     ◇     ◇     ◇



 「監視、って……」

 「文字通りの意味です、黎夜さん。私の主な役割は、貴方を監視することです」


 少女、月ヶ瀬舞夏は語る。

 裏組織の幹部の一人として、月ヶ瀬舞夏が語って聞かせる。

 俺が抱いたのは疑問。監視されることについての意味、その理由を知りたいと思うのは当然だ。

 それは舞夏とて理解しているらしく、かちり、とカップを置くと再び口を開いた。


 「貴方はイレギュラーな存在、英雄の力を手にした一般人です」


 裏世界の住人ではない。

 さりとて、その力は一般人……表の世界の住人を凌駕した存在となっている。

 イレギュラー(想定外)の存在と、裏組織に認定された俺……無涯黎夜の立場というものは、どういうものなのか。


 「つまり、組織の指図も受けない。誰の命令にも従わない、手綱を握れない。

  その上、その力は基本的には我々のような誓約者でなければ、太刀打ちできない。

  そういう人間は組織だけでなく、裏世界そのものからしても困るのです。血生臭い裏世界の情報が、表に流れる要因になりますから」


 それは、紛うことなく裏世界の住人からの忠告だった。

 それは、間違いなく組織の幹部がイレギュラーに向けて発した警告だった。

 それは、確かに俺の心臓を直接掴み取るような衝撃を彼に与えていた。


 表に流れる理由とは、どのようなものか。

 例えば、路上の喧嘩で霊核や魔術を使ってしまったり。

 例えば、手に入れた力を暴走させてしまったり。もしくは、うっかり家族にその事実をバラしてしまったり。


 もしもそうなってしまったら、どうなってしまうのか。それは以前にも説明されたことがある。

 口封じという安易な方法。知ってしまった者は処断し、行方不明という扱いになるのだ。


 「ですから、監視です。黎夜さんは正義感の強い方ですから……その力で、この男を捕まえよう、などとはお思いになられませんよう」

 「………………」


 少し心を覗かれたような気がした。

 確かに心の何処かで思っていたことがあった。今の俺には、人とは違う力がある。

 裏組織の殺し屋といっても過言ないほどの実力を持った男……カイム・セレェスとの殺し合いと、その結果。

 裏世界の人間とも戦える、この力。これさえ使えば、あの連続殺人鬼ですら止めることができるのではないだろうか、と。


 俺だって戦いやら殺し合いはしたくない。

 命を狙われるのは怖いし、自分から関わり合いになろうなんて莫迦な考えは起こさない。

 力がどうだろうと、俺はつい最近まで一般人だったのだ。路上の喧嘩が限界な、一人の大学生に過ぎないのだ。


 だけど、その裏で思ってしまう。

 俺が平穏に暮らしている裏で、誰かが襲われているという事実がある。

 それを承知した上で、そのまま平和を享受できるかと問われれば……恐らく、俺にはできない。


 「それで。結局、舞夏は何をしようとしているんだ?」

 「基本的には黎夜さんの監視、学園の探索、及び警備と護衛です。周囲の索敵は、私の部下たちが」


 つまるところ、連続殺人犯については舞夏ではなく、部下たちがやるらしい。

 その事実にホッとした反面で、やはり複雑な心境になってしまう。

 殺人鬼とはいえ、人の殺害を指示する舞夏。彼女の心境はいかなるものだろうか。

 俺には舞夏のことなんて、何も分かっていない。だけど、部下に全ての責任と業を押し付けられるような人間じゃないのは分かる。


 そうでなければ、俺のことなど放っておくに違いない。

 天凪葉月と同じだ。やはり、目の前の少女も人が傷つくという事実に心を痛めてしまう。

 ましてや、それが自分の手によるものならば。直接だろうが、間接だろうが、その事実は彼女の心を痛めつけるのだろう。


 「なあ……ひとつ、聞きたいんだけど」


 話を逸らすように、ぽつりと。

 舞夏に差し出された紅茶を一口飲んで落ち着く。

 安らげるような香りに思わず頬が緩んでしまうが、それを引き締めて疑問をひとつ。


 「舞夏が転校してきたときから、ずっとそうやって探し続けて来たんだよな?」


 ええ、と舞夏が応じる。

 話に聞く限り、舞夏が転校してきた初日から作戦は開始されていたらしい。

 舞夏自身も、学園の探索はほとんど終えてしまい、学園の中に霧咲孝之はいないと結論付けているそうだ。

 なるほど、つまり捜索から一週間は経過していることになる。


 「なら、どうして霧咲孝之は捕まらないんだよ。裏組織がそんなローラー作戦を行ったなら、すぐにでも捕まえられるんじゃねえのか?」


 舞夏との最初の出会いを思い出す。

 一度、曲がり角でぶつかっただけの俺の情報を、一日足らずで事細かに入手する情報収集力。

 それに加えて、大勢の部下たち。そして表でも警察が百人体制で動いている。

 こんな状態で、この男が今日まで逃げられるとは思えない。

 いかに連続殺人犯とはいえ、彼は表の世界の人間のはずだ。この閉鎖された学園都市の中で、一週間も逃げられるものだろうか。


 答えは否だ、と俺は思う。

 裏世界の組織からも狙われる存在。表の世界の住人が、彼らの索敵の手から逃れられるとは思えない。


 「何か理由があるんだろ? 捕まえられない理由ってやつが」

 「……黎夜さんには敵いませんね」


 静かに、少し考える仕草をしたあと、舞夏は肯定した。

 連続殺人鬼を捕らえることはおろか、索敵することすらできない理由がある、と。


 「言いましたね。誓約者は、同じ誓約者でなければ、基本的には太刀打ちできない、と」


 その言葉に俺は首肯する。

 あの学園での月下の校庭での戦い。霊核を宿すことができなければ、俺は手も足も出ないまま死んでいた。

 普通に戦えば、プロボクサーでも勝てない気がする。

 とにかく、誓約者……霊核を宿した奴らの実力は、身をもってよーく知っている。


 と、そこまで考えて。

 ふと、その可能性に思い至ってしまった。


 「まさか……」


 そうだ、誓約者が相手では一般人は太刀打ちできない。

 それと、霧咲孝之が捕まらないという事実。これらが合わされば、答えはひとつと考えていい。

 向かい側に座る舞夏が、静かに首を縦に振った。



 「はい。私たちの標的は、私たちと同じく英雄の力を宿している可能性が高い」



 カイム・セレェスの霊核、土方歳三。

 彼にしても武芸は一応、一般人の域のはずだ。

 確かに剣術については天然理心流を習得している。剣道四段か、五段かといったところ。

 それでもあの強さだ。戦場で人を斬ってきた、という経験がそこに拍車をかけている。


 「マジ、かよ……」


 そんな奴が連続殺人犯。

 それなら、一般の警察たちが捕らえきれない理由も納得がいく。


 「分かりましたね。警察ではなく、私たちのような組織が動かなければならない理由が」


 霧咲孝之は裏世界の人間。

 そんな彼が、目的は分からないが、恐らくは己の欲望のために人殺しをしていく。

 その重大性。そして下手をすれば裏の情報が表に流れる可能性を鑑みれば、答えは容易といって過言ない。


 「彼もまた裏世界の人間であり、その彼が殺人を繰り返している……これは、止めなければなりません」


 たとえ、その手を血で染めようとも。

 たとえ、人殺しを肯定したとしても。


 その結果として、表の世界が平穏無事でいてくれるなら。

 その結果として、犠牲者の数が減ってくれるのならば。悲しみに嘆く声がひとつでも減ってくれるなら。

 月ヶ瀬舞夏はきっと迷わない。

 彼女の人物像など一面しか知らない俺でも、それぐらいのことは分かったような気がした。


 かちゃり、と舞夏は紅茶の入れたカップを所定の位置に戻す。

 その中身、赤い水の文様がゆらゆらと揺れていた。

 その水面に浮かんだ少女の面影は、何処となく暗くて……角度の問題だろうか。舞夏はとても儚い笑みを見せていた。


 「………………」


 それが、今日の帰り道で見せたあの笑みと重なって。

 今、この瞬間にも何かを憂うような表情。後悔とも、悔恨ともつかない……そんな顔をしていた。


 「……なあ、舞夏」


 だからだろうか。

 何だか消えてしまいそうな雰囲気に呑まれてしまったのかも知れない。

 まるで覚めてしまう夢に向かって手を伸ばすように、俺は問いかけていた。


 「その仕事が終わったら……舞夏は、もういなくなっちまうのか?」

 「ええ、仕事は終わりです。私は次の任務のために、各地を飛び回ることになるでしょう。今までどおりに」

 

 一切の淀みなく、迷いなく少女は答えていた。

 今までどおりに、と彼女は言っていた。今回のように組織のために人殺しを肯定し続ける、と。

 そんなのダメだ、と言いたい。そんなことはやめてしまえ、と叫びたかった。

 だけど、彼女のことを何も知らない表世界の若輩者が偉そうに口にできるような内容ではない、と思った。


 いや、表世界とか裏世界とか関係ない。

 放っておけないような気持ちになってしまう。だから今でも、叫び倒したいのを我慢していた。

 きっと、叫べば叫ぶほど月ヶ瀬舞夏の心は締め付けられる。

 そして俺の言葉を肯定した挙句、ボロボロの儚い笑みを浮かべて自嘲しながらも首を振るのだ。

 それが、俺にも分かってしまった。


 「……そっか。そうだよな、悪い」


 だから、俺は結局何も言えずに。

 彼女の道を変えさせることもできず、彼女を傷つけることしか出来ずに。

 静かに、言葉もなく俯くことしかできなかった。



     ◇     ◇     ◇     ◇



 時刻は既に夕刻すらも過ぎていた。

 沙耶と弧冬の二人が商店街の大手スーパーから出てきた頃には太陽の出番は終わっていた。

 見上げる夜空は漆黒一色。

 もうすぐ新月になろうとしているのか、月は三日月をさらに細くしている。空が曇っているのか、星の姿も確認できない。


 自然の光源の恩恵はほとんど受けられない。

 人工の輝きが二人の少女を照らしており、少女はいつものことのように戦利品を抱えて夜道を闊歩する。

 いつもと違うところといえば、やはり隣を歩く赤髪のショートヘアーの少女ぐらいか。


 「買ったね、買ったねー。でもでも、野菜を数種類買うためだけに、いくつもの店をハシゴするのー?」

 「安くて質も良いのがあるなら、そっちを買わないとね。タイムサービスもあるし」

 「んー、でもでも弧冬にはどれも同じに見えるよー?」

 「この日本も不景気なんだよ。私たち民衆はせめて、美味しいものを確保しなくちゃ。女の子の必修科目だよ?」

 「女の子の必修科目というより、おばさ――――あっ、あああっ、グリグリしないでそこー!」


 所帯じみている、というのも一種のステイタスなのだよー? と笑顔のまま語ってみる。

 右手は買い物袋で収まっているので、左手で弧冬の脳天をグリグリと螺旋を描いて苛めてみる。

 ジタバタしながら逃げようとする弧冬は、涙目になりながら訴える。


 「暴力反対ー! だから戦争はなくならないんだ、と弧冬は言ってみる!」

 「戦争の原因は独裁者と宗教が大部分を担っているの。力はその手段に過ぎない、と私も語ってみよう」

 「えーと、えーと、えーと……この独裁者さんめっ☆」


 問答無用でグリグリ攻撃。

 みぎゃあー、と猫が襲われたかのような女にあるまじき叫び声が夜の闇に響き渡る。

 結局最後は力押しなんだね、この外道っ――――懲りずに開いた口が新たな惨劇の幕を開けたり開けなかったり。

 一通り、弧冬を可愛がった沙耶はふと、夜空を見上げた。


 「いけない……もう夜か」

 「うー、うー……痛い、痛い、痛かった。うん、もう夜だね」

 「弧冬、家まで送ってあげるから案内して。さすがにこの時間は危ないしね。最近じゃ特に」


 変質者が可愛く思える相手が夜の街を闊歩している可能性。

 さっきまでのおふざけな雰囲気を一蹴させて沙耶は語る。

 弧冬は一度だけ首をかしげる。この街の状況が飲み込めてないのだろうか、などと沙耶も首をかしげる。


 「ほら、今は物騒だしね。私が送ってあげるってば」

 「んー? でもでも、沙耶お姉ちゃんは一人で帰ることになるよ? きっと、きっと危ないよ?」

 「私はこれでも強いから大丈夫。でもアンタは違うでしょ、どう見ても強そうには見えないし」


 一応、連続殺人鬼についての知識はあるらしい。

 そのことについてホッとしつつ、沙耶はこれからの行動について思考してみる。

 もしも、僅かな可能性で変質者、もしくは殺人鬼に出逢ってしまった場合のことを考えてみた。


 右肩からぶら下げてる鞄の中には、護身用のメリケンサックが入っている。

 利用したことは一度もない。というより、台所に飾っていたに過ぎない修学旅行のお土産だったのだ。

 だが、一週間ぐらい前から持ち歩くように、と兄に勧められてしまった。

 それ以来、大して荷物も嵩張らないという理由からも持ち歩くことに決めたのだが……もしや、初実戦投入だろうか。


 他にも兄から簡易的なスタンガンなどを貰った。

 こっちも同じく鞄の中に入っているのだが、いくらなんでも警戒しすぎな気がするのは気のせいだろうか。

 いや、心配してくれているという事実は本当にありがたいことなのだと、沙耶自身も分かってはいるのだが。


 最も、あのとき意識を失っていた沙耶は知らない。

 とある少年たる自分の兄が、命を狙われている以上、妹の沙耶に危難が加わる可能性は低くない。

 だからこその処置ではあるのだが、もちろん気づいたら皆勤賞を逃していた沙耶にはそうした裏事情の出来事など知らない。

 もちろん、自分が十日ほど前に拉致されていたという事実も知らないのだ。


 「………………」

 「ん、どうしたの?」


 ふと、隣にいたはずの少女が消えていた。

 背後を振り向くと、そこには赤髪の少女がいた。

 暗闇に取り残されてどうすればいいか分からない幼子のように、泣きそうな顔を俯かせた弧冬の姿があった。

 その姿が、今までの快活な少女から掛け離れた雰囲気を醸し出していて。


 短い赤髪の少女は俯いたまま、一人暗闇の中に取り残されていた。

 その様子に何か不安なものを感じ取って、思わず手を伸ばそうとした沙耶の言葉を遮るように、ぽつりと言葉が零れ落ちる。



 「……お腹、痛い……」



 あまりにもくだらない一言に、無涯家の食卓の皇帝陛下が足を滑らせてずっこけた。


 「アイスの食べすぎだ、この妖怪乞食幼女」

 「よ、妖怪扱いされたー!? いいもんいいもんっ! こうなったら沙耶お姉ちゃんに恵んでもらいまくってやるー!」

 「そんな後ろ向きな発言をそんなにも前向きに宣言してんじゃないっ」


 ぐあー、と髪の毛を掻き毟って目の前の少女を睨み付けてみる。

 弧冬はと言えば、相変わらずのマイペースで首を傾げている。

 なんだか自分ひとりだけ騒いでいるのが馬鹿らしくなってきたので、沙耶は溜息をひとつするだけで落ち着くことにした。

 こんなことでは、自分のライバルである『とある少女』に付け込まれる理由を与えてしまう。


 「さて、と。んじゃ弧冬、アンタの家まで……って」


 気づけば、赤色の髪の少女は沙耶と距離を置いたところにいた。

 弧冬はにこにこと微笑みながら、沙耶に向かって手を振り続けている。

 どうやらほんとに一人で帰るらしく、弧冬が持っていた荷物は気づけば自分の足元に置かれている。

 彼女は無邪気な笑みのまま、ぶんぶんと手を横に振る。


 「ばいばーい、沙耶お姉ちゃーんッ! また明日ねー!」


 そう言うと、弧冬は子供らしい走り方で道の向こう側へと消えていく。

 電光石火の犯行に呆然としながら、沙耶は控えめに手を振って返すことしかできなかった。

 大丈夫なのだろうか、とすごく心配ではあるのだが、あれでも一応は自分と同い年らしいので大丈夫、ということにしておこう。


 (それにしても、お姉ちゃんか……えへへ)


 妹ができるとこんな感じなのかなー、と遠い昔に弟や妹に憧れた沙耶は、思わず笑ってしまうのだった。

 時刻は夜、漆黒の闇。早く帰らなければならない。夜の闇に紛れて、怖い怖い怪物が徘徊しているのだから。

 さあ、我が家に帰って美味しいシチューを作ってあげよう。



     ◇     ◇     ◇     ◇



 「それでは、黎夜さん。また明日です」

 「ああ、また明日な、舞夏。とりあえず俺は、大人しくしていたらいいんだろ?」

 「ええ。黎夜さんの出る幕はありません。この件は私たちに任せて、どうかご自愛ください。それがお互いのためです」

 「……わかった」


 じゃあな、と片手を挙げて別れの挨拶をする。

 もっと言いたいことはあったが、俺が言っていいことは何ひとつなかった。

 大人しくしろ、と言われれば大人しくしなければならない。

 責任が降りかかるのは俺だけじゃない。この危険は、沙耶やじっちゃんにまで降りかかってしまうのだから。


 それでも、何もやらないということは出来そうもなかった。

 だから俺に出来ることはやろう、と心に決めて、いつまでも見送ってくれる舞夏の元から……立ち去ろうとして、一度踏みとどまる。

 俺は表情を変えないまま、再び舞夏のもとへと舞い戻る。


 「れ、黎夜さん……?」

 「悪い。もうひとつだけ、興味本位に聞きたいことがあるんだけど」


 ひょっとしたら、無駄骨かも知れない。

 何の意味もないし、質問自体を突っぱねられるかも知れないけど。

 俺に『出来ることをやる』と決めたばかりなのだから、それだけは知っておいて損はないと思ったのだ。


 「舞夏。多分だけどお前、霧咲孝之って奴の霊核がどんな英雄か、知ってるだろ?」


 断定形で俺は尋ねる。

 別に根拠らしい根拠はないのだが、何となくの直感だ。

 知らないなら知らないでいいし、もしも知っているなら教えてほしかった。

 そのほうが『もしも』のときのために、自分に有利に働くことを知っていたからだ。


 「……それを知って、どうするのですか?」

 「別に首を突っ込むつもりはねえよ。だけど、自分の守りたいものだけは自分で守りたい。舞夏なら分かるはずだろ」

 「それは……分かりますが」


 ただの暴漢ぐらいなら、沙耶でも逃げるくらいはできるはずだ。

 しかし裏世界の人間が相手だというなら、俺も沙耶も力不足と言わざるを得ないことは十日前で証明されている。

 敵を知り、己を知れば百戦危うからず。

 情報を共有させてくれる、というのなら相手がどんな英雄か、ということぐらいは教えてほしい。


 舞夏は少し眉をひそめて俺を見る。

 恐らく、この情報を与えることの意味を計算しているのだ。

 彼女は莫迦ではない。むしろ聡明だからこそ、彼女は何もかもに慎重を期す。あくまで俺の勝手なイメージだが。


 「……彼の霊核については、調べがついてます」


 やがて、教えても問題はないと判断したのか。それともただ単にしつこい俺に呆れたのか。

 舞夏はそっと瞳を伏せる。その表情に何だか違和感を覚えた。

 だが、彼女は瞳を開くといつもの月ヶ瀬舞夏に戻っていて、仕方なしとばかりに情報を俺に与えてくれた。


 「その英雄……いえ、英雄というべきではない者ですが、知名度としては恐らく高名なほうでしょう」

 「『英雄というべきではない者』……?」

 「実は霊核に宿された者たちは、決して善というわけではないのです。さらに言えば、決して強いというわけでもありません」


 今まで確認されている英雄の例では、と舞夏は何人かの名前をあげる。

 例えば『発明王』と呼ばれたエジソン。明らかに戦闘力もない存在で、英雄と呼ぶべきかどうかも悩む。

 そもそも、霊核自体が俗に言う『オーパーツ』のようなもので、未だ解明されていないというのだ。

 今更ながらに俺は宿してしまってよかったのだろうか、と冷や汗をかくのだった。もはや、色々と今更すぎるが。


 「彼の本当の名前は分かりません。結局、誰もが彼の真実を掴むことができなかったのです」


 舞夏は語る。正体不明の英雄について。

 真実の名前は誰にも分からない。真相は完全に闇の中だというのに、その名は恐怖の代名詞として現代まで続いている。

 俺は知らず知らずのうちに、息を呑んでいた。

 その英雄を語る舞夏の表情は、何処か鬼気迫るものがあったのだ。


 「かの英雄は、再現しようとしているのでしょう。イギリス中を恐怖のどん底に突き落とした、1888年を」


 舞夏は端整な顔立ちを僅かに歪めながら続ける。

 今、この学園都市を狙おうとする英雄の名。誰も真実の名前は知らないくせに、通り名だけは知っている。

 俺にも理解できた。霧咲孝之が宿した英雄……いや、殺人鬼の名前を。



 「イギリスの連続猟奇殺人鬼、劇場型犯罪の始祖――――切り裂きジャック」



 それが、敵の名前だった。

 噛み締めるように、何かを堪えるように。

 月ヶ瀬舞夏はゾッとするような暗い声色のまま、静かな激情を身に宿していた。

 そんな彼女を、俺は息を呑んで見守り続けることしかできなかった。






 



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