コーヒーと青の絵具
棺桶に横たわる七滝の姿を見ても、何も感じなかった。
どうもこの動かないのは人形ではなく七滝の死体らしいと、そういう風に頭では理解しようとしているのだけれど、まるでピンと来なかった。
外傷があったら違ったのだろうか。前触れもなく突然倒れて、そのまま病院に運び込まれるまでもなく息を引き取ったらしい七滝の姿は、眠っているようにすら見えないほど、いつもの七滝そのままだった。今この場で唐突に、目を閉じたまま口を開いて、いつものように奇妙奇天烈なことをペラペラと饒舌に語り始めても、俺は何も驚かないだろう。
チープな演劇みたいだ、と思った。
周りの人たちは泣いていた。七滝の家族も、俺以外の友人も。
俺は泣いていなかった。ここにいるのが見慣れた七滝じゃなかったら、それとも感動的なBGMでも流れていたら泣けたのだろうか、とか。やっぱりこいつには白雪姫のクラス演劇で王子様をやらせるよりも素直にお姫様をやらせた方がよかったんじゃないか、とか。そんなどうでもいいことばかりを考えながら、間抜けな顔で七滝の死体を見ていた。
告別式が終わった。
出棺が終わった。
火葬場から七滝の家族が出てきた。
その胸に小さな箱を抱えていた。七滝だった。見慣れた友達は、焼かれて骨になって箱詰めにされていた。
それを見た瞬間に信じられないほど涙が出た。
息ができなくなるくらいに泣いた。
もういないんだって、ようやくわかった。
*
午前六時は夜の月。冬の話だ。
朝は早ければ早いほどいい。うちの家訓だ。よって俺は月曜日だろうがなんだろうが早朝から叩き起こされ、午前六時には学校の最寄り駅に到着している。
冬の頃になると毎年新鮮な気持ちになる。午前六時の夜空の存在を知っている人間は、日本にどのくらいいるんだろう。俺はこの空が好きだ。満月の日は特に良い。朝として認識されているはずの時間帯に、驚くほど輝かしい月が昇っている。なんだか秘密の冒険でもしているような気持ちに――、って。なんだか高校生にもなって子供っぽいような気もするけれど。
駅から歩いて三十分弱。湖みたいに静かな通学路を抜けると、高校の校門が見えてくる。六時半でもすでに開門されているのは、文武両道を掲げる校風から来る部活の朝練サポートのためであるが、実態はほとんど文に偏った進学校であるうちの高校でそれがどれくらい効果を発揮しているかと言えば。
まあ少なくとも俺が早朝の寒風に吹き晒されることは防止されている。ありがたい。
校内に入ると、俺は教室ではなく図書室にまっすぐ向かう。
ホームルームの開始まで約二時間。教室でボーっと過ごすのはあまりにも不毛だ。
渡り廊下を伝って隣の校舎の四階奥。そこが図書室の場所になる。
引き戸を開けて中に入る。電気は点いていない。俺以外の生徒もいない。窓際の机に鞄を置いた。
一番近くの大きな窓から、いまだに夜の続く外の空を見つめ、少しセンチメンタルな気持ちになった。毎朝のことだ。
そして、ふと思い出した。
七滝と初めて会ったのもちょうど一年前の、この夜の朝が空に漂う季節だったことを。
*
早朝の図書室に居座るようになったのは去年の九月の頭、秋の口くらいのころからだったけれど、それからその年度の真冬に至るまでに一度も、自分と同じく図書室で時間つぶしをする生徒に遭遇することはなかった。
その理由はいくつも思い当たって、まず時間が早すぎてまだ生徒がほとんど登校していないこと。別館四階という立地ゆえにわざわざここまで来るのが億劫で、そもそもの来室者数が少ないこと。別館の設備は教室棟よりボロっちくて、夏場は湿気で本がダメになりそうなくらいの、冬場は寒気が厳しくコートを脱げないくらいの場所であること。それから図書室自体が進学校の割にやけにこぢんまりとしていて、魅力がないこと。
けれども、俺はそんな魅力ない図書室を気に入っていた。
閲覧机の採光のために設置された広い窓。そこから大きく夜の月が見える。たまたま見つけたこの場所だけれど、初めて見たその景色がとても幻想的で、早朝の時間帯はいつもここで過ごすようになった。
誰もいないというのもよかった。小学生の頃忘れ物を取りに夜の校舎に入ったことがあるけれど、あのときと似たような感覚がする。
本当はたくさんの人がいるべき空間が、たった今だけ自分のために存在しているような――、いや、図書室はいつも人がいないんだけれども特に朝は、という話で。
学校の中に、自分ひとりが使うための特別な部屋が用意されているような、そういうときめきを、俺は感じていたのだ。
あまり読書好き、という人間でもなかったけれど、入り浸るようになってからは不思議と本を読む気も湧いてきて、その日も小説の棚の前で乏しい文学知識から聞いたことのある作者の本を掘り出そうとしていて――。
「あ、サンモン」
背後から聞こえてきた予期せぬ声に飛び上がった。大袈裟に驚いてしまったのが恥ずかしく、慌てて後ろを向くと、見知らぬ女子生徒がこちらを向いて笑っていた。
それが、七滝だった。
*
あのときは『サンモン』というのがいったい何のことかわからず、『サンシャイン・モンキー』とか『サンクトペテルブルク・モンスター』とか、そういうのの略称だろうか、なんてくだらないことを考えていたけれど、いまならわかる。
あれは『三文』のことだったのだ。『早起きは三文の徳』の『三文』。
たまたま早起きして、ものすごく早く登校して、暇だから校舎を徘徊していたら図書室の窓から午前六時の夜の月が見えた。その光景を『三文』と呼んだんだと、今ならわかる。
というのも、それは七滝がその『三文』に味を占めて、俺と同じ寂れた図書室の朝の常連になったからで、また長いことその朝の二時間をともにしてきたからである。あいつの言動は基本的に脳と口と手が直結しているとしか思えないほど衝動的で、周囲に自分が何を考えているか理解させようなんて気はほとんどないのだ。あるいは、自分自身でも自分が何を考えているのかわからなかったのかもしれない。さらにもしくは、本当にこれっぽっちも何も考えていなかったか。これが正解な気がする。
しかし長いこと一緒にいると、特殊なコミュニケーションの文法にも慣れてくるもので、そのうち七滝の思い付きの言葉にも対応できるようになっていった。わからないものもやっぱり多く残ったけれど。
七滝は変なやつだった。たぶん俺以外のまわりの人たちもそう思っていただろう。しかしそれで誰に害を及ぼすこともない七滝は、案外普通に生活していた。これは二年に上がってクラスが同じになってから知ったことだけれど。
人間誰しも人とは違うところがあり、そうすると案外自分よりもあからさまに変な人間と一緒にいる方が安心することもあるのだろうか。
まあなんだかよくわからないが、結局言いたいのは、七滝は変なやつだけれど、一緒にいて疲れるわけでもなく、というよりもむしろ朝の友人としてはこれ以上ないくらい落ち着くやつだったということだ。
少なくとも、『たったひとりの秘密の場所』だったはずの図書室が、『たったふたりの秘密の場所』に変わってしまっても、居心地が悪いと思わないくらいには。
むしろ今までよりも――、と。そう思ってしまうくらいには。
窓の外に出る月を眺めていた。
ひどく懐かしい気持ちになってきた。先週まではこの図書室に、俺の隣に七滝がいたのはずなのに、なんだかそれを遠い昔の幻影のように感じ始めてきた。
月のクレーターに、『静かの海』と呼ばれる場所があるらしい。きっと、この図書室みたいな場所なんだろう。
そんなことを思ってしまうくらいに、七滝のいなくなった夜の図書室は凪いでいた。
席を立った。本棚へと向かう。話し相手のいなくなった空間で、何も時間つぶしの道具もなく座っているだけというのも時間が余るだろう、と。
一年前よりかは幾分増えた知識を元に本棚を物色していると、背筋を寒気が襲って、思わず肩をすくめた。今日はいつもより寒い。雪なんか降らないでくれよ、と一瞬頭を不安がよぎったけれど、あの清々しく晴れた夜空を見る限り心配はいらないだろうと思った。
それでも寒いのには変わりなく、制服のポケットに手を入れて少し震えながら月明かりを頼りに本棚を見ていると、ふと、かつての七滝とのやりとりを思い出した。
コーヒーに青色の絵具を混ぜると人間ができるだなんて、あいつはどんな顔で言ってたんだっけ。
*
「ボクは寒いよ、古ヶ崎くん。なんでこの部屋は暖房はおろかストーブすら置いてないんだい?」
「さあ……? 本が燃えるからじゃないか」
「燃やせばいいさ」
「火事になるわ」
「でも校歌でも熱き青春燃えよ魂みたいなこと言ってるじゃん」
「燃えてるのは本じゃなくて魂だろ」
「本は学生の魂みたいなものだし、オーケーラインだって」
「そこまでわかってるなら物理的燃焼で暖を取ろうとするな」
一ヶ月も前の話ではなかったと思う。記録的な寒波がどうとか言われていた日で、ギリギリまで休校を狙っていたクラスメイトたちが続々遅刻してきた日。その日も全然雪の気配はなく、快晴の夜の月が出ていて、風だけが強く吹いていた。
いつものように俺たちは、午前六時の夜の月を眺めながら、隣り合って図書室に座っていた。
日の昇らないうちにも図書室の電灯を点けなくなったのはどうしてだったのか、もうよく覚えていない。夏の頃に染みついた癖が冬になっても抜けなくなったのか、それとも、もう俺はただ七滝と話をするばかりで、読書のための灯りが必要なくなったのか――。
暗闇の中で隣に座っていたあのとき七滝は、寒さのせいかおかしくなっていて――、いやいつもおかしかったけれどそれ以上におかしくなっていて、机に顔を突っ伏しながら身体を丸めていた。
「古ヶ崎くんって、紅茶とコーヒー、どっちが好き?」
だから、普通の世間話みたいな振りをされて、少し驚いた。
「どっちかって言うと、コーヒーかな。なんか今の寒さにひきずられた答えのような気がするけど」
「ふーん、へーえ、ほーう」
「……なんだよ」
「いやあ~? 別になんでも」
「七滝はどっちなんだよ」
「シチュー」
「せめて飲み物で答えろよな……」
七滝との会話は万事こんな感じだった。ホップステップフライアウェイみたいな感じで、いつも投げっぱなしの会話になる。だから。
「知ってる、古ヶ崎くん? コーヒーに青色絵具を混ぜると人間ができるんだよ」
こういう荒唐無稽でどう膨らませたらいいのかさっぱり見当がつかない発言も多々あった。「夜空の星は全部巨大な犬の瞳なんだよ」とか「わたあめってコスト削減のために羊の毛を混ぜてるところがあるらしいよ」とか。というか大体そんな感じで、まともな会話をしているとむしろ不安になる――、というのはちょっと言いすぎか。
「錬金術かよ」
「いやいや違うよこれはね、なんというか――色彩、術?的な? 絵具の混ぜ方みたいな?」
「ふわっとしすぎだろ」
「カルメ焼き作ったことある?」
「そんなに膨らまなかった」
「青いカルメ焼きは?」
「ない」
「チャレンジ精神が足らないなあ。だから人間のレシピにも挑戦できないんだよ」
「お前は誰目線なんだよ」
「カルメン」
「赤いのかよ」
思い出してみても、何も大したことは言っていなかったし、七滝は寒さに丸まったままでどんな顔して言ってたんだかわからなかった。けれど大体予想はつく。半分夢見てるみたいないつもの顔だと思う。
今このときの記憶を思い出そうとしたのは、きっと『コーヒーと絵具』という組み合わせの響きがなんとなく気になっていたからで、この何の意味もない会話を、当時もう少し続けようと思ったのもきっとそれと同じ理由で、けれどこの先に会話が継続した記憶がないのは――。
*
急に部屋が明るくなって顔を上げた。時刻は七時を回る頃。日の出の時刻が来ていたのだ。
あのときも確か、同じように太陽が昇って、七滝が月の出ていたのとは逆側の窓に駆け寄って「太陽賛美」とかなんとか言いながら日向ぼっこを始めたので、会話が打ち切られたのだ。
ふと、あのとき七滝が居たはずの窓際に視線をやった。
誰もいなかった。
舞う埃だけが、やけに清浄めいて朝の空気にキラキラと輝いていた。
ひとりで夜の月を眺めることは、最近でも何度もあった。早く着いた方は必然的に図書室の最初のひとりとしてもうひとりの到着を待つことになるのだから。
けれど。けれど――。学校の図書室で、たったひとりで朝日が昇るのを迎えるのは、きっと、七滝と出会ってからの、冬も春も夏も秋も、もう一度訪れた冬を通しても初めてなくらいで――。
居るはずの人が、そこにいなかった。
居てほしい人が、そこにいなかった。
朝日の中で、初めて気付いた。
俺は七滝が好きだった。
*
学校からの帰り道、駅地下の食料品店でインスタント・コーヒーを、文具店で青色の絵具と画用紙を買った。
七滝の言葉を真に受けたわけじゃない。ただ、何か区切りを、というよりも、思い出を残してみたくなった。
七滝は『コーヒーと青い絵の具を混ぜると人間ができる』と言った。たぶんそれはその場の思い付きに違いなくて、きっと言った本人も覚えてないんじゃないかと思う。
誰も知らない俺と七滝だけのやりとりを、形に残してみたくなった。あの軽口を、本当にしてみようと。
コーヒーと青の絵具で、人間の水彩画を描いてみようと、そう思った。
果たしてコーヒーで水彩はできるんだろうか、とか、そもそも中学以来美術なんて触れていない俺が人物画なんて描けるものだろうか、とか色々不安はあったけれど、とにかくやってみたくなった。
パンだって消しゴムになるし、藍染めだって植物由来なんだから、コーヒーで絵くらい描けるだろう。技量の方は……、まあチャレンジ精神が大事なんだ。
独りよがりな行動だと思ったけれど、仕方がない。俺と七滝が立っていた場所には、たったふたりしか居なくて、そして七滝は去って行ってしまったのだから。
自分の気持ちに気付くのは随分遅れてしまったけれど、もう少しだけ、もう少しだけでいいから、お前を好きでいさせてくれ、と。
どこへ消えたとも知れない、七滝の魂に祈った。
家に着いてまず、画用紙を机の上に置いて、中学の頃に使っていた美術道具を押し入れから引っ張り出して、青い絵の具をパレットに乗せて、お湯を沸かしてコーヒーを淹れた。
何から手をつければいいのだろう、と考え込むと『クロッキー』だとか『木炭デッサン』だとか、記憶の彼方に追いやられていた単語が脳裏をよぎった。けれどそもそもそんな段階より先に、誰の人物画を描くのかという問題がある。
七滝だろうか。
いや、ここまでの流れからしてそうするのが自然だと、そうわかってはいるのだが、何か気恥ずかしいものがあるというか。ここまで来て恥じらいも何もあるかと、自分でもそう思うのだが。
かといって自分の顔を描くというのもよくわからないし、他の人間の顔を描くのも全く理由がない。いっそあの図書室を描きたいと思うのだが、けれどそれでは『コーヒーと青い絵の具を混ぜると人間ができる』の条件を満たしていない。なら、図書室に俺と七滝がふたりで座っていた姿を――、いやそれは余計に――。
「あー、もう」
いい年こいて、好きな女の子の苗字を自分のものに変えてノートの端に相合傘で書き込んでいるような、そういう恥ずかしさがあった。
俺はあいつのことが好きだったけれど。
「あいつは……」
口に出して、さらに恥ずかしさが増した。
とにかく今日は、構図を考える前にコーヒーで色が絵が描けるのか確認してみよう。まずはそれができないと話にならない。
条件は『コーヒーと青い絵の具を混ぜると人間ができる』。だからまずはコーヒーと青い絵の具を混ぜてみて――。
「……は?」
俺の頭がおかしくなったんだと思った。七滝が死んだのが悲しすぎたあまりに、幻覚を見ているんだと思った。
「お? ……ふふ。ボクの勝ち」
目の前に 七滝がいた。 コーヒーと青い絵の具を混ぜたら七滝ができた。
意味がわからなかった。目の前で何が起こったのかさっぱりわからなかった。かろうじて、七滝が俺の部屋で、俺の目の前で、全裸で笑顔でピースサインをしていることはわかった。
「……ふ」
「ふ?」
「服を着ろおおおおーーー!!」
絶対にそこじゃないと思った。絶対に今の問題はそこではないと思った。けれど、目の前の状況が処理能力の限界を遥かに超えていて、俺に対処できる問題はそれしか見当たらなかった。
俺は大慌てで、七滝の身体を隠すべく、隣のベッドに載せてあった掛け布団を取りに行く。
その途中、焦ってテーブルに膝を三回くらいぶつけた。テーブルの上に置いてあった使い捨ての紙コップを七滝が取った。
「危ないなあ。コーヒー零れて床に染みついちゃうよ」
「少しは恥じらえ! って馬鹿お前それ、」
七滝は何気ない動作で手に取った紙コップを口元へ持っていく。
「それ絵具混ざってるやつだぞ!!」
「うえ!? ぺっ、ぺっ! 早く言ってよ! ちょっと飲んじゃったじゃん!」
「お前の素なんだからわかれよそれくらい!」
もう何もかもめちゃくちゃだった。何がなんだかわからなかった。七滝は変なやつだと思っていたけれど、思っていたよりもずっとずっとずっと変なやつだった。
足元に置いてあった水入れを四回くらい蹴倒して、掛け布団を七滝に押し付けて、床にこぼれた水を拭いて、ひと段落したところでようやく話を切り出せた。俺は汗だくだった。七滝は涼しい顔をしていた。
「……どういうことだ」
「これがボクと君とのディスティニー」
「真面目に」
「この状況で真面目になろうとするのもすごいよね。もう少し肩の力を抜きなよ。この部屋は初めてかい?」
「ここは俺の部屋だよ!!」
「知ってるよ、やだなあ」
もう、と言いながら軽く肩を叩いてくる七滝。悲しいくらいにいつも通りだった。
「……七滝、だよな」
「そうだよ。いいでしょ」
「死んだんじゃ、なかったのか」
「死とは再生のメタファーである、そうは思わないかい? メタファーってどういう意味なのかよくわかんないけど」
「生き返ったってことか?」
「うーん、というよりも」
急に七滝は真面目なトーンで話し始めた。
「たとえば古ヶ崎くんもボクも地球の裏側にどんな人が住んでいるのかを正確には想像できないように、ボクたちは隣にいる人間がどういう生態を持っているのかを確信を持って知ることはできないわけで」
「……おう」
「つまるところ、ボクがコーヒーと青い絵の具を混ぜると出来上がる連続した存在であるように、そのへんを歩いている人たちも実は特定のレシピによって出来上がる人間存在であるという可能性は常に否定され得ないわけで」
「……おう?」
「たとえばそういう存在が、日常の会話にさりげなく差し込んだ自分のレシピを、自分が消え去ったあとにも相手がちゃんと覚えていてくれて、そのうえでちゃんと実行してくれるかどうかで愛情の確認を図る独自の告白文化を発達させているとして」
いつもの三倍増しくらいで何を言っているのかわからなかった。よって俺の感情はごくシンプルな形に純化されていった。
すなわち、『七滝にまた会えてよかった』と。
泣き笑いみたいな表情で七滝を見ていた。何か喋っているのはわかったけれど、右から左だった。ただ、目の前に七滝がいるのが嬉しかった。もうそれしかなかった。
七滝はそんな様子に気が付いて、長広舌をやめた。
「まあ、つまりね」
そう言って、俺の瞳をまっすぐ見つめる。
「ボクのこと好き? ……なんて」
七滝はごく自然な動きで俺の肩に両手を置いて。
「聞くまでもないか」
唇を寄せて、コーヒー味の口づけを。