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#7 太公望とお姫様

 日曜日、午前九時五十五分。オレは三好台公園のベンチに座って川原を待っていた。

 約束の時間は十時だが、川原、五分前行動は社会人の常識だぞ。オレら中学生だけど、父さんそう言ってたぞ。

 気候もすっかり秋めいて過ごしやすくなったせいか、公園には小さな子供を連れた家族が目立った。

 こういう雰囲気の中、中学生男子が一人ぽつんとベンチに座っている状況というのは何となく言い知れぬ疎外感を感じる。これが中学生じゃなくておじいちゃんとかだったら、まったく違和感ないんだろうけどな。

 気がつけば、ついこの間までやかましいほどだったセミの鳴き声も、今は思い出したように時折り聞こえるだけだった。

 オレはポケットから携帯を取り出して時間を確認する。

 十時十七分。

 念のため周囲を見回すが、やはり川原の姿はない。

 来ないつもりなのか?

 いつもならほとんど間をおかず返ってくる川原のメールが、昨夜に限ってはやけに遅かったことが今さらながら気になった。

 一瞬、新海さんがすでに川原にコンタクトを取った可能性を考えたが、昨日の今日でそれはないとすぐに考え直す。

 第一、新海さんが何らか行動を起こすとしても、それはオレとの勝負が済んだ後のはずだ。

 オレが川原にメールを打とうと携帯を開いた時、白い膝丈のワンピースを着た女の子がこちらに歩いて来るのが目に入った。

 川原だ。

 その顔には言い知れぬ物憂ものうげな表情が浮かんでいる。

「ごめん。遅れた」

 ベンチに座るオレの前で立ち止まると、川原は沈んだ声で言った。

 解りきったことをあらためて言わなくてイイよ。それより遅れた理由を言え、理由を。

 だがそんな減らず口も実際には声にならない。川原のいつになく沈んだ様子のせいか、それとも自分の中に巣食う罪悪感のせいなのか、オレの口から出たのは別の言葉だった。

「呼び出して悪かったな」

 川原は黙って首を振る。

「話って何?」

 オレはベンチから立ち上がり、逆に川原に訊き返した。

「ちょっと行きたいトコあんだ。少し時間大丈夫か?」

 川原はそのオレの言葉に少し警戒心を抱いたのか、一瞬ためらう素振りを見せたが、やがてやっと聞き取れるくらいの声でポツリと言った。

「いいよ」

 俺達は公園を出て、一緒に歩き出した。

 川原は行き先を尋ねるでもなく、黙ってオレの後を着いてくる。

 この川原の様子、明らかにいつもと違う。

 学校の時のように超然と構えているわけでもなく、かといってオレや智也といる時にへそを曲げるあの感じとも違っている。

 今日のオレの用件が、今までオレ達ニ人の間になかったたぐいのものであることを感じ取っているのだ、きっと。

 ホント、オンナの勘って怖い。

 住宅街の中を通り抜け、オレ達は互いに黙ったままおよそ十分ほど歩いた。周囲は次第に住宅がまばらになり、空き区画が目立つようになる。

 オレは、唐突に現れた鉄製の門の前で足を止めた。

 川原が顔を上げ、その目を微かに見開らく。

「ここって……」

 オレ達、この周辺の小学校に通っていたヤツなら誰でもここを知っている。徒歩での移動が可能な範囲の小学校は、遠足の場所として必ずここを選ぶからだ。

北見きたみ貝塚……」

 川原が意外そうに言った。

 ここ北見貝塚は、縄文中期から後期にかけての遺跡だ。

 廃棄された貝殻が地中に埋もれている様子が観察できる断層モデルや復元された住居、さらには小規模だが展示物の充実した博物館などが設置されている。

「どうして?」

 その問いに答えず、オレは黙って川原の目を見返す。

 川原の問いに対する答えは、実はオレ自身にも分からなかった。

 ただ、川原に昨日の出来事を話す前に、ある物をどうしても見ておきたかったのだ。

「行こう」

 オレは川原の返事を待つこともなく、小さな博物館の建物に足を向けた。

 入館料を払い、オレは目的の展示物まで迷うことなく歩く。

 今まで何度見て来たことか。入り口から展示場所まで、目をつぶってでもたどり着く自信がある。

 それはまだ小学校に上がる前、父さんに連れられて初めてここに来た時とまったく同じ場所に展示されていた。

 オレはその前にたどり着き、ガラス越しにその展示物に目を向ける。

 少し遅れて追いついて来た川原も、隣に並んでオレの視線を追う。

「これって……」

 川原が囁くような声で溜め息混じりに言った。

 「……釣りばり?」

 骨角器。

 縄文時代の人々が獣骨を削って作り出した矢尻やもり先だ。その中に見紛みまごうべくもない、オレが見慣れた道具が並んでいる。

「返し」こそないものの、形状は現在使用されている釣りばりとまったく同じだ。

 ヘラブナ釣りなどで使用されるスレばり。違いは金属製ではなく、獣骨製であるという点のみ。

 これが、驚くべきことに数千年前の物だという。

 これを見るたび、オレは釣りというもののルーツを否応なく考えさせられる。

 釣りとは最も原始的、かつ基本的な漁の形態だ。

 その起源においては、成功の可否が人々の生命の存続を直接左右した。

 獲物を獲得できれば食料の確保は成功。ただし、不漁が続いた場合は餓死する者が出ることすらあっただろう。

 現代のレジャー(娯楽)としての釣りに対し、あまりにシビアな生活維持のための手段。

 数千年前、人類にとって釣りは文字通り命懸けの戦いだった。

 うん。見ておけてよかった。

 おそらく数日のうちに、オレも戦いとしての釣りに臨むことになる。




 施設の敷地内にある広場のベンチに、オレと川原は並んで座っていた。小学校の遠足でここを訪れた時、みんなで弁当を食べた広場だ。

 所々に植えられた常緑樹から、時折吹きつけて来る風に乗って木の葉が舞い落ちて来る。

「どうしてここに連れて来たの?」

 川原が口を開く。

「どうしてだろうな……」

 川原の質問に対する回答がうまく言葉にならない。それが自分でももどかしい。

「……オレにもよく分からないや」

「何それ」

 川原は膝に目を落として小さな声で言った。

「お前に話をする前に、どうしても見ておきたかったんだ、あれを」

 沈黙が降りる。今のオレの言葉に何を感じ取ったのか、川原は黙って何も言わない。

 吹き渡って行く風に、木々がざあっと葉を鳴らす。 

「昨日、あの人に会った。先週のあの場所で」

 オレはゆっくり話し始める。

 隣で、はっと河原が顔を上げる気配があった。

 オレは川原にゆっくり向き直り、言葉を繋ぐ。

「名前を訊いた。あの人に」

 川原がベンチからゆっくり立ち上がる。その腕も脚も、小刻みに震えていた。

 ごくりとオレの喉が鳴る。

「……それで…………?」

 掠れた、かろうじて聞き取れるほどの川原の言葉。注意していないと、木々のざわめきにすら掻き消されてしまいそうだ。

 オレは自分もベンチから立ち上がり、真っ直ぐ川原に相対あいたいした。そしてその濡れた瞳を見つめて告げる。

「…………あの人だ……。あの人がお前のお父さん。……新海秀和さん」

 川原の唇が小刻みに震え始めた。何か言おうとしているらしいが、声が出てこない。

 オレはふっと息を吐き出して言う。

「お父さんの方も、先週お前達を見て何となく気づいてたらしいよ。面影あったんだろうな」

「…………おと、……お父さん……何て?」

 震える川原の声が、途切れとぎれに紡がれる。

 オレは少しためらい、足もとに目をやった。

 そして腹を決める。

「……お前達に会うことは出来ないって。お母さんと、そういう約束になってるそうだ」

 オレの言葉に、川原は静かに下を向き、両手で顔を覆った。

 オレは黙って、静かに嗚咽する川原を見守る。

 川原も、恐らくはある程度予想していたのだろう。自分を十年間悩ませたこの事情が、そう簡単に解決はしないと。

 だが予想していることと、事実を突きつけられることとはまったく別のことだ。人は誰だって、現実が訪れるその瞬間まで希望にすがる。

 きっと川原は今、現実によって粉々に砕かれた希望が、手のひらから砂のようにこぼれ落ちて行くのを感じているだろう。


 ここからがオレの役目だ。


 オレの役目は、そのこぼれ落ちて行く川原の希望を、地面に落ちる前に受け止めること。たとえそのための手段が、川原との訣別をもたらすことになるとしても。

 しっかり悪役を演じろ、和泉克之。

「オレ、お前のお父さんに一つ頼み事をしたよ」

 川原は何も言わない。

「オレと釣りで勝負して下さいって。もしオレが勝ったら、お前と話しをしてやって下さいって……」

 ゆっくりと川原の顔が上がる。その目は涙に濡れ、オレを呆然とした表情で見つめていた。

「受けてくれたよ、お父さん。オレが勝ったら、お前達に会えるようお母さんに頼んでくれるって」

 一陣の風が吹き抜けて、川原の髪をその濡れた頬に貼りつかせる。

「…………許さない」

 川原のようやく聞き取れるほどの、微かな声。

 オレはそっと目を閉じて俯いた。

 当然だ。オレは川原に無断で運命のさいを投げた。しかもその運命はオレのものではない。川原のものだ。

「……絶対許さない」

 今度の声はさっきよりずっと大きく、はっきりとしていた。

 その言葉と共に、川原が一歩オレとの間を詰める気配がする。

 直後、オレの唇に何ががそっと押しつけられた。

 ほんのりと温かく、しっとりと濡れた、フルフルとはかなげで柔らかな何か。それが小刻みに震えているのを感じる。

 体が硬直して、目を開けることも、のけ反ることもままならない。

 不意に唇から感触が消える。

 オレは目を開け、プハッと息を吐き出した。自分が呼吸を止めていたことにやっと気づく。

 目の前に川原の顔があった。驚くほど近くに。

 その目には先程までの虚ろな表情はない。

 川原はじっとオレの目を見つめながら、はっきりとした声で言った。


「負けたら、絶対に許さない」




 月曜日の朝、オレは教室の扉の前で立ちすくんでいた。

 なぜって、この扉を開けて教室に入ったら川原がいる。間違いなくいる。

 昨日あんなことがあった後で、どんな顔であいつに会えばいい?

 誰か『ファーストキスの相手と翌日会う時の会話集 ベスト100』とかいう本出してくれ、頼むから。できれば二分以内にな。

 さりげなく「よう、おはよう」とか挨拶して、クールなしぐさで席に着く?

 うん、ムリ。絶対ムリ。たった六文字を、百パーセント噛む自信あるよ。

 大体、昨日だって朝の四時まで寝つけなかった。

 あいつ、一体何なの? まさか相手を不眠症にして、体力削って徐々に死に追いやる暗殺方法だったりするの?

 新海さんとの約束についての、昨日の川原への報告。

 オレはまず間違いなく、話を聞いた川原が手がつけられないほど怒り出すと予想していた。

 まあ実際のところ、ビンタの一つくらいは覚悟していたほどだ。

 なのに川原の反応はまったく予想外。怒り出すどころか、まさかファーストキスを奪われるとは。

 子供の頃から女の子の反応に関する予想を外しまくって来たオレの経歴の中でも、今回のケースは極めつけと言っていい。

 しかもその後、川原のヤツただの一言も喋らずに踵を返して歩き去るというオマケ付き。一人取り残されたオレは、たっぷり五分は茫然と立ち尽くしてたと思う。

「おーい、和泉。なにやってんだよ?」

 後ろからクラスの男子に声をかけられた。

 まあ、扉の前に突っ立ってたらそりゃ邪魔ですよね。すいません。

「わり……」

 オレはそう言って、腹をくくって扉を開く。

 ……いなかった。

 川原の席は空だった。いつも必ずオレより早く登校しているのに。

 トイレにでも行ってるのかと思ったが、いつも机の横に掛けられている鞄が見当たらない。

 朝のホームルームで担任が「川原さん、今日は風邪でお休みと連絡がありました」と他人事のように言ったとき、クラス中の視線がオレに集まった。

 おい、だから何でお前らオレを見んだよ。川原に何か変わったコトあったら全部オレのせいか?

 いや、でも何か、今回ばかりは自分でもそんな気がする。

 その日、隣の空席が気になったのと睡眠不足なのとで、一日中勉強がまったく手につかなかった。




 何やってるんだろ、オレ?

 オレは川原の家の前にぽけっと突っ立って、今さらな自問自答を繰り広げていた。手にはコンビニ袋に入ったプリン。

 川原の家は小さいが小綺麗な、ニ階建ての一軒家だった。

 以前雅川に行く時、川原の着替えのために寄ったことがあるので場所を知っていたのだ。

 しかし、たった一日風邪で休んだだけのクラスメイトの家まで来るって、ひょっとしてこれ、ストーカー行為認定か?

 だけどさ、昨日キスしてきた相手が急に学校休んだりしたらやっぱり気になるだろ?

 とは言え、どうしても呼び鈴を押す勇気が出ないオレは、川原にメールを打とうとポケットから携帯を取り出した。

 だって、呼び鈴を押して、お母さんとか出てきたらもうムリ。

 川原の話では、もともとお母さんは智也が釣りをすることに反対だったみたいだし、顔を合わせたら絶対に取調室行きだって。

 携帯でポチポチとメールを打っていると、後ろから聞きなれた声が聞こえた。

「和泉さん?」

 振り向くと、学校から今帰って来たのか、智也がこちらに歩いて来るところだった。

「おう、智也」

 オレはホッとしながら智也に向かって手を上げる。

 よかった。これで川原やお母さんと顔を合わせずにすむ。

「和泉さん、どうしたんすか? あ、もしかして姉ちゃんの見舞いに来てくれたとか?」

 智也が玄関のドアを開けながら言う。

「まあ、そんなとこ。これ、姉ちゃんに渡して」

 オレはそう言って智也にプリンの入った袋を差し出した。

「あ、ありがとうございます。今姉ちゃんに声かけて来ますから、ちょっと待ってて下さい」

 智也は袋を受け取ると、そのまま家に入って行こうとする。

 オレは慌ててそれを引き留めた。

「なあ、いいよ。オレもう帰るし」

「ええ? せっかく来てくれたのに」

 智也が顔をしかめながら言う。

 その時、家の奥の方から女の人の声が聞こえて来た。

「智也、お友達?」

 澄んだ風鈴の音のような、綺麗な声。

 玄関の扉に姿を現したのは、背中まで届く長い髪の、ほっそりした美しい女性だった。ゆったりしたシルエットのベージュのサマーセーターに、黒い膝丈のタイトスカート。

 この人の顔には見覚えがある。川原が利根川で見せてくれた写真に写っていた、ウェディングドレスの女性だ。

 この人が川原と智也のお母さん。

 川原との年齢差を考えたら、三十代半ばより若いとは考えにくいが、とてもそんな風には見えない。たっぷり十才は若く見える。

 こ、これは取調室行き決定か? 取り調べの時って、やっぱりカツ丼とか出るのかな?

 ちなみにあのカツ丼代って、実は被疑者の自腹だって聞いたことがある。オレ、今日サイフにいくら入ってたっけ?

「この人が和泉さんだよ。釣りに連れてってくれた姉ちゃんの友達」

 智也がお母さんにオレを紹介する。どんな反応が返って来るのかとドキドキしながら、震えがちな声で挨拶する。

「は、初めまして……」

「あらあら。あなたが和泉君? いつもウチの子達がお世話になっちゃってご免なさい。お父様にまでご迷惑かけちゃってるみたいで、よろしくお礼伝えて頂戴ね」

 お母さんの声色は予想に反してとても優しい。

「これ、和泉さんが持って来てくれた」

 智也が、オレの渡した袋を中身が見えるようにお母さんに向かって開いて見せる。

「あら、ありがとう。あの子プリン大好きだから喜ぶわ。今、お茶淹れるから、一緒に持って行ってあげてくれる?」

 え? オレがですか?  川原の部屋にですか?

 結局フェードアウトの機会を与えられることなく、オレは川原家にそのまま招き入れられた。

 川原のお母さんがお茶を淹れてくれている間、オレは居間のソファーで座って待っていた。カチコチに緊張して、棒を飲んだような座り方になっている。

「でもびっくりしたわ。あの子が友達を連れてくることなんて、小学校の頃からほとんどなかったから。何年振りかで家に来たお友達が男の子だなんて」

 対面型キッチンの向こうから、お母さんが言った。

 申し訳ありません。オレ、連れてこられたんじゃなくて押し掛けたんですよね。ホントごめんなさい。

「はい、これ」

 キッチンから出てきたお母さんが、紅茶の入ったティーカップとプリン、それからクッキーの皿が乗せられたトレイを渡してくれる。

「ニ階の、階段を登って一番手前の部屋よ」

「ありがとうございます」

 そう言って居間を出ようとするオレに、お母さんが悪戯っぽく笑いかけた。

「和泉君」

「はい?」

 オレは振り返って答える。

「大人の階段って、慌てて駆け登ろうとすると踏み外したりするから気を付けてね?」

「は、はい!」

 バカ正直に、裏返った声でそう答えた。

 とてもじゃないが、昨日一段登っちゃいましたとは言えないもんなぁ。

 肝に銘じます、おば様。ていうか、その前にニ階への階段踏み外しそうな気分なんですけどね。

 それでもオレは何とか、階段を踏み外すこともなく無事二階にたどり着いた。

 廊下の一番手前のドアに「みずき」と書かれたドアプレートが下げられている。

 この向こうが川原の部屋。オレにとっては未知の領域、女の子の聖域だ。

 ドアの前でたっぷり一分はためらった後、オレはビクビクしながらそっとドアをノックした。

「はい?」

 川原の声だ。当たり前だけど。

 ジェシカ アルバの声とかするワケねえ。

「オレ……。あ、和泉だけど」

 思わず名乗り忘れた。オレオレ詐欺かよ?

「い、いずみぃぃぃ!!!?」

 ドアの向こうの気配がにわかに慌ただしくなった。ドタバタという足音が近づいたり遠ざかったりする。

「ちょっ……!!!  ちょっと待ってて! ちょっとだけ!!!」

 あんなに病人走り回らせて、ぜんぜん見舞いになってない。

 ああ、やっぱ来るんじゃなかった……。

 やっとドアの向こうの騒ぎが収束し、ゆっくりと足音がドアに近付いてくる。

 ドアが十五センチほど開き、川原の顔が隙間から覗いた。

 ものっそい不機嫌そうですね、川原さん。

 まあ、分かります。オレが悪いです。

「何しに来たの?」

「お、お見舞い?」

 オレはキョドりながら、しどろもどろに答える。なにせ、自分自身でもまったく思ってたから。

「何で疑問形?」

 呆れたようにため息をつくと、川原はドアを大きく開いて壁ぎわのベッドに戻る。

 オレはソロソロとした足どりで部屋に入り、後ろ手にドアを閉めた。

 オレは今日というこの日まで、女の子の部屋というものに対して「ピンク」と「フリル」というニ大キーワードに基づく勝手な先入観を構築していた。

 ところが実際には、目にした川原の部屋を構成するキーワードは「青」と「白」と「セーラー服」だった。

 いつだったか授業中、川原がメアドと携帯番号を書いてオレに渡してきたメモ用紙。そこにデザインされていたあのアヒルのキャラクターのグッズが、部屋じゅうところ狭しと並べられている。

 何? さっきの騒ぎって、このグッズの再配置とかだったの?

 川原は、これもやはりアヒルさん柄のパジャマの上にカーディガンを羽織った姿でベッドに腰掛けている。

「座れば?」

 川原が立ったままのオレに向かって、部屋の中央に置かれた小さなテーブルとクッションをアゴで示しながら言った。

 とてつもなくムカつく仕草だが、完全アウェー状態のオレは大人しく従う。

 テーブルにトレイを置き、クッションを引き寄せて座る。

「別に、ただの風邪なのに」

 川原がアヒルさんのヌイグルミを胸に抱き締めながら言った。

「お前、昨日は何でもなさそうだったじゃないかよ」

「夕方から咳が急に出始めたの。あんたがうつしたんじゃないの?」

 川原は抱えたヌイグルミに顔の下半分をうずめながら言い返して来る。

 そう言われて、突然オレはウィルス感染の可能性が一番高かったシーンを思い出した。急にいたたまれない気分に襲われる。

 いや、犯人は絶対オレじゃない。

 オレ、ピンピンしてるし。第一キスしてきたのお前の方だし。

 川原も同じ場面が頭に浮かんだのか、急に押し黙った。

 おい、熱計り直した方がイイぞ。お前、顔が真っ赤になってる。

 気まずい沈黙が立ち込める。

「……プリン」

 は?

「プリン取ってよ」

 川原のかろうじて聞き取れるほどの声。

 いいけど何でちょっとキレ気味なんだよ、お前。

「ああ……」

 納得行かないながらも、オレはトレイからプリンを取り上げて川原に差し出した。

 まあ相手は病人だし、少しくらいは我慢しなくちゃな。

 だが川原は、差し出されたプリンを受け取る代わりに、上目遣いにオレを睨みながら言う。

「フタ開いてない」

 あれかな? これはオレの堪忍袋のの強度テストか何かなのかな?

 オレは頬を引き攣らせながらもプリンのフタを外した。

 お姫様の厳命はさらに続く。

「食べさせて」

「はぁ!?」

 さすがに、これには思わず声が出た。

 何だとぅ? それって、ムカつくとかじゃなくて、普通に恥ずかしいだろうが。

 ていうか、お前の方はいいのか? 平気なのか、それ?

 あのキスといい、昨日からこいつの行動が何かおかしい。

 オレは川原の表情を窺って探りを入れるが、向こうは相変わらず拗ねたような顔をしながらこちらをじっと睨んでいる。

 その川原の目を見た瞬間、オレは急にある事に思い至った。

 ああ。この目には見覚えがある。

 以前、スーパーで迷子の女の子を保護したとき、迎えに来たお父さんにその子がこんな目を向けてたっけ。

 本当は涙が出るほど安心して、嬉しくて嬉しくて仕方なかったはずなのに、なぜか素直になれなくて拗ねて見せていたあの女の子。

 川原のヤツ、あの時の女の子とまったく同じ目をしてる。

 今この時、川原が手放しに、ワガママいっぱいに振る舞える相手はきっとオレだけなんだ。

 今お父さんはそばにいない。

 仕事で忙しいお母さんは、きっと川原にとって甘える相手ではなく助ける対象なのだろう。

 その事に気づいた瞬間、オレの中に川原に対する、今までにない感情が芽生える。

 何かオレを、くすぐったいような甘酸っぱいような、奇妙な気分にさせる感情。それに上手く名前を付けられない事が、ひどくオレを戸惑わせた。

 ま、まあしょうがない。お父さんとの勝負がつくまでは我慢してやるよ!

「はい、あーん!」

 オレはもうほとんどヤケクソ気味で、プリンをすくったスプーンを川原の口元に差し出す。

 躊躇ためらうようにそっと開かれた口に入れてやったプリンを、コクリと喉を鳴らしながら呑み込むと、川原はほとんど聞き取れないほどの声で呟いた。

「……美味しい…………」




 川原の家からの帰り道、オレは三好台公園の前を通りかかった。

 初めて智也と川原に釣りを教えた日に、ニ人と待ち合わせた公園だ。

 あの日、場違いにオシャレをして現れた川原。

 朝四時に起きて弁当を作ったという川原。

 なぜかいつも智也の釣りについて来る川原。

 まず間違いなくオレの自惚うぬぼれだろうが、もし万が一、それらの川原の行動がオレに向けられていたのだとしたら?

 それに昨日のキスと今日の小さな子供のような態度。

 考えれば考えるほど分からなくなる。

 まさかな。そんなことあるワケないよな。

 川原がオレに対して、何か特別な気持ちを持ってるなんて。

 でも、もしもそれが本当だとしたら。

 もし本当に川原がオレのことを想ってくれているんだとしたら。


 ……きっとオレ、すごく幸せな気持ちになるだろうな。


 その想いが自分の中で形になった瞬間、突然何の前触れもなくオレの中にある言葉が降りてきた。

 さっき川原に対して抱いた感情を表す言葉。

 あれほど名前を付けるのに苦労した感情に、ピタリと当てはまる言葉。


「愛おしい」


 ああ、そうだったのか。

 オレ、あいつが愛おしかったんだ。

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