#5 太公望の決意
こいつ、今なんて?
「おとうさん」
オレにはそう聞こえた。
川原は、小学生だったオレにスプーンでボラを釣る方法を教えてくれた釣り人の背中を見ながらそう言った。
それはつまり……。
あの人? あの人が川原のお父さん?
オレは混乱しながら川原に目を向ける。
川原は呆けたような表情で、もう姿が見えないあの釣り人が去って行った方向をじっと見つめたままだった。
オレは午後からの釣りを、ブッ込みでのコイ釣りに切り替えた。
あの川原の様子ではルアーフィッシングどころじゃない。というより、状況を考えたら釣りどころじゃない。
かと言って、釣りを切り上げて帰る提案をするためには、川原に関するさっきの事情を父さんに話さなければならない。それを川原が望んでいるのかいないのか、それが分からない限りは迂闊なことはできなかった。
川原は立て掛けられた竿の前に、膝を抱えて座り込んでいる。午後から一言も喋っていない。
オレは少し距離をおいて、川原の左側に腰を下ろす。
オレの方も、特に何も川原に話しかけるつもりはなかった。
オレが川原の事情にあれこれ踏み込んで詮索する権利はないし、川原が話したくないことに触れようとも思わない。
けれどもしも……、もしも川原が何かを誰かに話したいという気持ちになった時、誰もそばにいないのはつらいだろうと思ったのだ。
父さんは川原の様子の変化に気づいてはいたようだが、やはりあえてあれこれ聞いたりはしなかった。
智也も姉の雰囲気に話しかけがたいものを感じ取っているようで、午後に入ってからは一度も川原に声をかけていない。
ニ人は今、オレと川原が座る場所から五十メートルほど上流でルアーの練習をしていた。
オレは秋の気配を含み始めた風に頬をなぶられながら、川鵜が水面に潜ったり浮かんで来たりを繰り返すのをじっと見つめていた。
「和泉ってさ、時々ヘンに優しいよね」
川原が突然ポツリと言う。
それ、褒められてんのかどうかビミョーだな。「時々」も「ヘンに」も、別にいらなくね?
「何が?」
内心不満はあれど、オレは川面に目を向けたままそれだけ聞き返した。
「今だって何も聞かないじゃん。聞こえてたんでしょ? さっきの」
「オレが無理にほじくり返すようなことじゃないだろ」
「そうかもね」
川原は顔を空に向けて言った。
「でも私の周りは今まで、無理にほじくり返そうとする人達ばっかだったよ」
言葉がそこで途切れた。
オレは川原に目を向けてビクッとする。空を見上げる川原の左の頬に、涙が一筋光っていた。
気配を川原に悟られないよう、ゆっくりと視線を前に戻す。
「私のお父さんとお母さん、私が三つの時に別れたの。智也はまだよちよち歩きだったんじゃないかな」
川原がしゃくり上げる気配があった。
「それからずっとだよ。『瑞季ちゃんちは何でお父さんいないの?』『川原さんのお父さんどうしたの?』。小学校に上がっても、中学に入っても。クラス替えのたび、席替えのたび……」
川原の声が震え始める。
オレは川原の周囲に対する拒絶の理由がやっと腑に落ちた気がした。
こいつは小さな頃からずっと晒されて来たんだ。無責任で無遠慮な好奇心に。
だからいつのころからか、自分からあらかじめ防衛線を張り始めた。ここから踏み込んで来るなと。自分の生い立ちを詮索するなと。
きっと川原の防衛線は、智也のためにオレの助力を乞わなければならないというイレギュラーな事態がなければ、本来はこのオレもその中に踏み入ることは許されなかったのだろう。
けれど今、川原はオレに話してくれた。他人にほじくり返されることを嫌った自分の身の上を。
慎重に張り巡らせた防衛線を、自らオレに向かって少しだけ開いてくれたんだ。
今がチャンスかも知れない。
もしかしたら唯一無二の、最初で最後のチャンスなのかも知れない。
オレはさっきのあの釣り人との出会いが、川原に及ぼす影響を心配していた。
朝の挨拶をするようになったり、同じ委員会の子に自分から話しかけたりといった、ささやかだが確実な川原の変化が逆戻りしそうな気がして。
それだけはどうしても避けたい。
それを避けるために、川原の防衛線がほんの少し開かれている貴重なチャンスである今、このオレに出来ることは一体何だ?
そんなことは分かりきっている。
痛みを差し出すことだ。
川原の痛みを伴う告白を真っ向から受け止めようと思うなら、オレ自身も痛みを差し出す覚悟をしなければならない。
「なあ、知ってるか?」
オレはゆっくりと言葉を紡いだ。
「相沢も、お父さんいないんだぜ」
川原がゆっくりとこちらに顔を廻らせる。涙に濡れたその顔には、かすかに驚きの表情が浮かんでいた。
「相沢は、あんまりそのこと気にしてないみたいだけどな」
相沢は四月に川原の席の周りに集まっていた女子の中の一人だ。席替え前はオレの隣の席だった。
相沢はいつも、オレが隣に座っていても前の席の女子と家庭事情を含めた色々な話をしていた。まったくこちらを憚る様子もなく。
一度相沢の話題が両親の離婚に及んだ時、オレは気を利かせたつもりで席を立とうとしたことがあった。そのオレに相沢は「ああ、和泉。別に気使わなくてイイって」と、あっけらかんとした調子で言った。
「だから、私も気にするなって?」
川原が手の甲で涙を払いながら言う。
「いや……」
そんなことは言えない。痛みは感じた本人だけの物だ。
その痛みがどれ程のものかは、感じた本人にしか分からない。「痛くない、痛くない」なんて言っていいのは、小さな子供に注射するお医者さんだけ。
それに川原、オレがお前に伝えたいのはそんなことじゃない。
「……そうじゃなくてさ、お前の周りに集まって来るやつらが、みんないらん詮索するようなヤツばっかりじゃねえんじゃねえのってコト」
オレはガリガリと頭を掻きながら言った。こういう話は、どうにも照れてしまってニガテだ。
「ただお前と仲良くしたいだけかも知れないし、もしかしたら同じ悩みがあるどうし、相談したいコトとかあんのかも」
その言葉を聞いた川原は、何かを探るようにじっとオレの顔を見つめている。
実際、あの相沢が川原に身の上相談をするなんて思えなかった。だがもし川原が相沢を敬遠したりせずに仲良くなっていたら、あの相沢の天真爛漫さは、きっと川原にとっても救いになっただろうとは思う。
「和泉は?」
突然の質問の意味が分からず、思わず川原の顔を見返した。
「和泉も仲良くしたいの? 私と」
こいつ、どれだけ自信過剰なんだ? それともバカか?
だいたいオレの場合はお前の方から相談持ちかけて来たんだろうが。
おまけに今の質問のせいで、一番大切なコト言うタイミング逃しちまった。
「イヤだ。したくない」
腹立ちまぎれに、オレはなるべく間を空けないよう言ってやった。
「私だってヤダ」
ふいっと顔を背けつつ、川原も即答する。
いいぞ。だんだん川原の元気が戻って来た。
オレはクーラーボックスからノンカロリーのコーラとジンジャーエールを取り出すと、川原に差し出した。
川原は拗ねたような顔のままコーラの方を受け取る。
栓を開け、舌をヒリつかせる液体を一口飲み下すと、オレは川原に話しかけた。
「イヤなら答えなくていいんだけど……」
「うん。じゃあ答えない」
川原が威勢よくコーラをラッパ飲みしながら言う。まるで酒豪がシャンパンを飲んでるみたいだ。
「ウソだよ。何?」
すわった目で川原が言った。
あれ? 間違ってこいつにビールでも渡したのかな、オレ。
「お前、どうしてさっきの人がお父さんだって分かったんだ? ご両親が別れたのって、お前が三才の時だったんだろ?」
オレの質問に川原は真剣な表情に戻り、少し躊躇ってから答えた。
「あの人がお父さんだって自信があるわけじゃないよ。すごく似てるなって思っただけ」
「三才だったのに、そんなはっきりお父さんの顔覚えてんのか?」
そのオレの質問には答えず、川原は来ていたベストのポケットからパスケースを取り出す。
「智也には言わないでね」
そう言ってパスケースからニ枚の写真を取り出すと、川原はオレに向かって差し出した。
実の弟にすら明かさない秘密を差し出される。そのことの重さがオレを少しの間躊躇わせた。
だが質問をしたのはオレの方だ。いまさら尻込みはできない。
オレは手を伸ばして写真を受け取る。
「大掃除の時見つけた、クローゼットの奥に隠してあった箱に入ってたの。そのまま持って来るとお母さんにバレちゃうから、カラーコピーなんだけどね」
一枚目は結婚式の当日に撮られたらしい新郎新婦の写真だ。ニ人ともカメラに幸せそうな笑みを向けている。
控え室前の廊下で撮られたらしく、ドアの脇に掛けられたプレートに「新海 川原 ご両家控え室」と書かれているのが何とか読み取れた。
新婦の方は当然川原のお母さんだろう。直接会ったことはないが、目を見張るような綺麗なヒトだ。
そしてその隣に立つ新郎。
似てる。
確かに似てる。
写真の新郎、つまり川原のお父さんは、多少若くは見えるものの確かにさっき会ったあの釣り人に瓜二つだった。
「ね? 似てるでしょ」
川原が言う。
「まあ、他人のそら似だと思うけどね」
そう言う川原の表情はどこか寂しげだ。
川原はそう言うが、オレにはもう一つ引っかかっていることがあった。
さっきあの釣り人が、川原と智也を見た時の反応。
彼はニ人を見た時、確かにぴくりと頬を引き攣らせた。あの釣り人の方も、何かしらニ人を見て感じることがあったに違いない。
オレは手の中の写真をめくる。
ニ枚目はベビーベッドで眠る赤ちゃんの写真だった。
産まれて間もないらしく、シワクチャの顔をしている。
わたしのなまえは しんかいみずき です。
パパ しんかい ひでかず
ママ しんかい あけみ
水原総合病院 産婦人科
ベッドの天板に貼られたプレートにはそう書かれていた。
「ほー。川原って、赤ちゃんのころは可愛かったんだな」
いつだったか、川原に言われたセリフを返してみる。
川原は急にボンッ、と顔を赤くして勢いよく立ち上がった。
「か、返せ! バカ!!!」
慌てたしぐさで駆け寄ってくる川原が、大きな石に足を取られてよろめいた。
オレは思わず川原の腕をつかんで支える。
はっと驚いたような川原の顔が、すぐ目の前にあった。その右側半分が、オレンジ色を帯び始めた陽の光りに照らされている。
その時、心の底から思った。
今なら出来る。
この女の子に、今なら自分の痛みを差し出せる。
「なあ、川原……」
言葉での返事はなかったが、オレの様子にただならぬ何かを感じたのか、川原が口元をキュッと引き結んだ。
そしてオレは、微笑みながらそっと呟く。
「オレも母親がいないんだ」
思えば、このことを自分から誰かに話したのは初めてだったかも知れない。
夕陽を受けて煌めく川原の瞳が、真っ直ぐにオレを見据える。オレの腕をつかむその手に、心なしか少し力が込もった気がした。
川原が何を言わなくとも、オレには自分が差し出した物を相手が確かに受け取ったことが感じられた。
オレはニ枚の写真を川原の手にそっと握らせながら、その目を見据えて尋ねた。
「川原……。もしあの人が本当にお前のお父さんだったとしら、お前はどうする?」
川原はオレの質問に、きゅっと唇を噛み締める。そしてその目から、再び涙がポロポロとこぼれ始めた。
「き……、き…………た……い」
震える声が、唇から途切れ途切れに漏れる。
オレは促さずに、ただ川原の言葉の続きを待った。
「訊き、たい……。ど、どうして私達のま…………、前から、いなく……なったのか…………、訊きたい」
川原はそれだけ言うと、オレの胸に顔をうずめて嗚咽を漏らし始めた。
オレはどうすればいいですか、神様?
川原に何をしてやればいいですか?
抱き締めてやればいいですか?
涙を拭ってやればいいですか?
……でもそれは、こいつの彼氏か、それこそ父親の役目ですよね?
オレは川原の彼氏でも、父親でもない。ただのクラスメイトだ。
いや、ただの、じゃない。
「釣りの得意な」クラスメイトだ。