#4 お姫様の困惑
九月に入って三回目の土曜日、午前八時。
オレは父さんの運転する車で北に向かって走っていた。
目指す場所は利根川。当然釣りが目的だ。
それ自体はさほど珍しいことじゃない。最近はオレの興味が海釣りに寄りがちなので回数こそ減ったが、利根川は小学校高学年の頃は年に十回以上は必ず訪れた釣り場だ。
珍しいのは、車の中でのオレの位置。オレが助手席に座っているということ。
父さんと二人きりの時でもオレはいつも後部座席に座るし、じーちゃんが加わって三人になっても、オレとじーちゃんは後部座席に座る。
つまり釣り場へ向かう和泉家の自家用車の助手席は、普段ならばもれなく空席なのだ。
その助手席になぜオレが座っているかと言えば理由は簡単、後部座席が満席だから。
今後部座席に座っているのは誰あろう、我がクラスの“孤高のお姫様”こと川原瑞季と、その弟である川原智也だ。
智也はいい、分かる。今回の釣行の主旨からして、智也がこの車に乗っているのは当然だ。
釈然としないのは、なぜか今日もまた川原までついて来ていること。
今日はオレだけじゃなくて父さんも同行しているんだから、智也の心配をする必要はまったくないだろうに。
しかもうちの父さんと川原の初顔合わせって、何かイヤな予感しかしない。
事の発端は今週の月曜、川原が送りつけて来たメールだ。
智也が釣りに慣れるまでは自分が連れて行って教える、そう言った責任を取れとの姫君のご下命を受けたオレは、例によって夕食の時、父さんに今後の対応を相談した。
「ふーん。そりゃ弟クン、本格的に釣りにはまったかな?」
例のごとく、父さんはほろ酔い加減でゴキゲンそうだ 。
「良かったじゃないか。お前のサポートが上手く行ったってことだ」
呑気ですね、父上。オレとしては早く智也が自分の道具を揃えるところまでこぎつけて、この案件の対応クローズしたいんですよ。
「もう一度くらい、雅川でコイ釣りをしようかと思ってるんだけど」
「それでもいいけど……」
父さんはキュウリのぬか漬けをポリポリ噛みながら、しばし考えを巡らせる。
「せっかくそんなに乗り気になってるんなら、利根川まで連れて行ってあげるか」
その父さんの言葉に少なからぬ違和感を覚える。
オレの家から利根川までは、車で高速を使ったとしても一時間近くかかる距離だ。とてもじゃないが、釣具を抱えた中学生が小学生を連れて行ける距離じゃない。
しかも「連れてってやれ」じゃなくて「連れて行ってあげるか」って言ったぞ、この人。
「それはつまり?」
「父さんが車で連れてってやる。日曜は午後からお前が塾だから、弟クンの次の土曜日の予定、お姉ちゃんに聞いとけ」
オレはこの時点ですでに何か嫌な予感がしていたが、智也の予定を尋ねる内容のメールを川原に送った。
返事は例のごとく数分で届く。
何だろう。あいつ風呂とかにまで携帯持ち込んでんのかね? 最近は防水機能、ほとんどの機種についてるし。
From:川原瑞季
20:11
【件名】了解♪
【本文】次の土曜なら、智也もわたしも大丈夫だよ。
お父さんが連れてってくれるの?
お礼言っといて! あと、お弁当、オニギリで
大丈夫ですかって聞いて!
川原
何でシレッと「わたしも」って入ってんだよ。オレが訊いたのは智也の予定だぞ。より厳密に言えば智也の予定「だけ」だぞ。
あと、もしかしてお前オニギリ好きなの? ていうか、弁当のメニューじゃなくて調味料を気にしろ。「オニギリにお砂糖使っちゃうかもしれないけど、大丈夫ですか」ってさ。
「何か、姉貴の方も来たそうな雰囲気醸してるんだけど?」
わずかな望みを込めて父さんにおそるおそる告げる。
「いいじゃないか。お姉ちゃんの方も雅川でデビューしたんだろ?」
あっけなく、望みが粉々に打ち砕かれた。
まあ、姉貴の方までデビューさせたのは他ならぬオレ自身だけど。
「あと、お礼がわりに弁当は向こうが用意してくれるって」
若干ニュアンスを調整し付け加える。
「お、それは楽しみだな。ひょっとしたら、お姉ちゃんの手料理が食べられるかも知れないじゃないか」
まさに知らぬがホトケ。
父さん、川原のラブコメ体質ナメない方がいいですよ。下手すると健康被害が出かねないレベルですから!
ちなみに精神的被害はすでに出てます。
こうして如何なる悪魔の計らいか、和泉家、川原家合同の利根川釣行という憂鬱なイベントが現実のものとなった。
「せっかくのお休みなのに、すいません」
後部座席から川原のしおらしい声が聞こえる。
もちろんこれは父さんに向けた言葉だろう。見事なネコの被りようだ。
「ぜんぜん構わないよ。それより、こっちこそお弁当用意してもらってごめんね。お母さんにお礼言っておいて」
思ったけど、父さんの方も川原に甘い。まあ、他所様の子が相手だからそういうもんかも知れないけど。
「私が作ったんで、味は自信ないんですけど…」
技術より注意力が問題だけどな。お前の場合。
「へえ、瑞季ちゃんが作ってくれたのか。そりゃあ楽しみだ」
「そ、そんなに期待しないでくださいね!?」
父さんのコメントに川原が慌てて答える。
「そうですよ、おじさん。先週雅川に連れてってもらった時なんか、姉ちゃん塩とさと…」
ゴツッ、という音と共に、智也の声が途切れた。
怖いよ。怖くて振り向く勇気がないよ。
智也の呻き声を乗せて、車は北へひた走る。
「今日はここら辺にするかな」
堤防下を川と平行に走る道の脇に車を停めて父さんが言う。
父さん、やっぱりこの場所を選んだか。
利根川で釣りをする時に父さんと行く場所は数ヶ所ある。その中でもここは岸がコンクリート護岸で覆われている箇所の他、消波ブロックが積まれていたり、桟橋があったりと変化があり、かつ初心者でも釣りをしやすい場所だ。
さすがは父さん、いい選択。
オレ達はめいめい荷物を持って川に降り、準備を開始した。
「今日は父さんが智也君につくから、お前は瑞季ちゃんを見てやるんだぞ」
父さんの言葉に、オレと川原は思わず顔を見合わせた。
何だよ川原、その困ったような顔。オレの方がお前よりずっと困ってるよ。
「えっと……、じゃあどうする?」
対応に困ったオレは、思わず川原に尋ねる。
「何で私に聞くのよ?」
口をへの字にして川原が言い返してきた。
「いや、お前がどうしたいのかと思って」
川原の語調に思わずムッとしてこちらも言い返す。
「どうすればいいかなんて、私に分かるわけないじゃない! あんたが決めてよ!」
ついに川原が大声を出したところで、智也ののんびりした一言が割って入った。
「あのさあ、姉ちゃんたち」
「何よ?」
川原がジロリと智也を睨みながら言う。
「横から見てると、まるでデートコースのことでケンカしてるカップルみたいだよ?」
智也の言葉に、隣でタックルを用意している父さんも吹き出すのを我慢するような顔をしている。
「なっ! ……あんた……!」
顔を真っ赤にした川原が言葉に詰まる。智也を怒鳴りつけたいが、父さんの手前はばかっているというところらしい。
いい防波堤を見つけたな、智也。
オレは溜め息をついて、今日の川原のメニューを検討し始めた。
先週の雅川では、川原にはウキを使ってのフナ釣りをさせた。今日はもう一段ステップアップさせるとすると、何がいいか?
この前の智也と同じく、コイを「ブッ込み」で狙わせようかとも思ったが、五十センチクラス以上のサイズが来たらまだ川原に扱いきれるとは思えない。
……よし、それなら。
ちょっと季節的には遅いかもだけど、まだ何とかいけるんじゃないか?
オレは波立つ川面をざっと見渡して、あるものを探す。
見つけた。まるでイルカのように水面から勢いよくジャンプする魚影。軽く水面から七~八十センチは跳ね上がる大ジャンプを数回づつ繰り返すあの魚が今日のターゲットだ。
オレは一本だけ持っている自分のルアーロッドを取り出した。
ブラックバス用、六フィート。真ん中からニつに分けられるツーピースタイプだ。
ジョイントをつないてロッドを組み立てると、リールをバッグから出して取り付ける。
通常、ルアーフィッシングで使われるリールは、スピニングタイプとベイトキャスティングタイプのニつがある。オレのはより扱いが簡単で初心者向けのスピニングタイプだ。
これならぶきっちょさんの川原でも何とか扱えるはず。扱えると思う。オレ、信じてる。
次はルアーだ。
オレはルアーボックスからスプーンを一つ選んで取り出した。少し重めの三.六グラム。
スプーンはマスやサケの仲間を釣る時によく使われる、最も古典的、かつ基本的ルアーだ。涙滴型の平べったい金属片を波うたせたような形をしている。
あのプリンとか食べる時のスプーンが語源。スペルも一緒。いや、ホントだって。
父さんから聞いた話だと、昔ヨーロッパの貴族が湖畔でピクニックをしていて、誤って湖に落としたスプーンを魚がくわえて行ったのを見たのが始まりだそうだ。
でもこのスプーン、もうひと工夫しないと今日の狙いの魚は釣れない。
オレはさらに油性の黒マジックを取り出して、暗緑色のスプーンを真っ黒に塗りつぶした。
「何してんの?」
川原がどこか心配そうな顔でオレに声をかける。
おい、もしかしてオレのオツムの心配とかしてないだろうな?
「おまじないだ」
オレはぶっきらぼうに答えながら、黒く塗りつぶしたスプーンを糸に結んだ。
準備完了っと。
「ほい」
タックルを川原に差し出す。
両手で受け取ると、川原はしげしげとタックルを見つめた。
「この前のと違う……」
まあ、この前のウキ釣り仕掛けよりずっとメカニカルな見た目だしな。
「今日はエサ釣りじゃなくてルアーだ」
「こんな鉄の板みたいなので、魚が釣れるの?」
当然の疑問だが、こればかりは実際に釣れた経験だけが疑惑を拭える。口でいくら言われても実感が湧かないのだ。
「まず、ルアーの投げ方を説明するからな」
オレは川原を川に向かって立たせ、その横に並ぶ形で説明を始めた。
「まずリールの足を、中指と薬指で挟むように握って」
川原は言われた通りに握りを直し、どうだと言わんばかりの顔でオレを見た。
あのね、当たり前っしょ? こんなレベルからつまづいてたら、マジでオレ家に帰るよ。
「じゃあ、この部分を倒してみ?」
オレはリールに取り付けられた、ワイヤーと小さな滑車のようなものが組合わさったパーツを指差しながら言う。ちなみにこのパーツは「ベイル」と呼ばれている。
「あ」
川原がオレの言う通りにすると、滑車に支えられていた釣り糸がスルスルと糸巻きの部分からほどけ、糸に結ばれていたスプーンが地面に落ちてチャリンと音を立てた。
「な? これを倒すと糸を送り出せるようになるけど、このままじゃ投げる前にルアーが地面に落ちちまう。だから……」
オレはベイルを起こし、ハンドルを回してルアーを元の状態に戻させた。
「……この部分を倒す前に指でラインを押さえておくんだ。」
自分の右の人差し指を九十度に曲げて見せながら、川原に言う。
川原はたどたどしい手つきで釣糸に指を掛けた。
「よし、じゃあもう一度さっきのパーツを倒して」
「うん」
今度は指が滑車の代わりに糸を押さえているので、ルアーはさっきのように地面に落ちない。振り子のようにプラプラと揺れた状態で吊り下がっている。
川原がまたしても得意げな顔を向けて来た。
だからよ、まだルアーを投げてすらいないんだよ。そういう顔すんのは魚が釣れてからにしろ。
「さて、この状態から竿を振って、竿先が頭の上を通過した直後くらいにタイミングよく指を離すとルアーが飛んで行くわけだ。ただ、離すタイミングは微妙だから、やりながら体で覚えて行くほかない」
「分かった……。振り方ってこんな感じ?」
川原が、剣道の上段からまっすぐ竹刀を振り下ろすような動作をしながら言った。
おお、さすが武蔵、サマになってる。お前、剣道部じゃなかったよな?
「そう。それが一番基本的な『オーバーヘッド・キャスト』だ。まずその投げ方を徹底的に覚えろよ」
「うん。投げてみても大丈夫?」
何やらうずうずした感じで川原が言う。こいつ、もしかして釣りにハマりかけてんじゃないの? 智也の釣りに必ずついて来るし。
「まあ、とりあえず投げてみ」
真剣な顔で川を見つめながら、川原が頷く。そして大きく深呼吸すると、ロッドを振りかぶった。
「やあ!」
威勢のいいかけ声と共に、勢いよく振り下ろす。
いや、かけ声はいらんけどな。
「あれ~?」
川原が空を見上げながら意外そうな声を出す。
オレにしてみれば意外でも何でもない。予想した通り、ルアーはキャッチャーフライのように空高く舞い上がり、ゆっくりと落下してきた。
要するに、指を離すタイミングが微妙に早すぎるのだ。
おそらく初めてルアーフィッシングをやる人の第一投目は七十パーセントがこうなる。二十パーセントは目の前、足もとの水面に叩き込むように落とし、八パーセントはそこそこいい軌道で飛んで行く。そして残りニパーセントの選ばれし人はロッドごとぶん投げるという快挙を成し遂げる。
川原、お前が選ばれし人間じゃなくてよかったよ。
「手もとはもっと固定して、竿先のしなりを使って振ってみな」
「うん」
川原選手、第ニ投目。
ピュンッ、という小気味いい音と共に、スプーンが飛んで行く。まだ少し軌道が高めだが、さっきよりはかなりましだ。
ポチャン、という音と共にスプーンが着水した。
「よし、後はさっきのパーツを起こしてからハンドルを回してルアーを泳がせる」
「分かった」
川原選手、真剣です。ちょっと目が怖い!
「巻くのが速い。もう少しゆっくり」
「そんないっぺんに言われても分かんない!」
怖い、キレられた。
すいません、もうご自由にやって下さい。
やがて送り出した糸を巻き取り終え、スプーンが川原の手元に戻って来た。
「釣れない」
口を尖らせながら川原が言う。
コノヤロウ、キレたり文句言ったり……。
大体ルアーでそんなにポンポン釣れてたまるか。全国の、いや世界中のルアー釣り師に謝れ。
「はい、文句言ってないでどんどん投げる」
オレってホント優しいよなぁ。自分のアドバイスをろくすっぽ聞きもしないヤツを、見捨てずにちゃんと指導してやるんだから。ノーベル平和賞、一体いつもらえるんだろうな?
川原は拗ねたような顔をしつつも黙々とキャストを続ける。
「ルアーって、エサ釣りと違って疲れるね」
川原が辟易したような顔で言ったその瞬間、ロッドが急激にしなった。来たぞ!
「な、何これ!」
ロッドが引ったくられそうになるのを必死に耐えながら川原が叫ぶ。
次の瞬間、岸から七、八メートルほど沖で銀色の細長い影が水面を割って跳ね上がった。
「竿を立てろ」
オレは川原の横に歩み寄って短く指示する。
魚が掛かった時、ロッドとラインを一直線に伸されるのが一番まずい。ロッドの弾力が効かなくなるため、あっさりラインが切られるからだ。
「ど、どうすればいいのーーー!!!?」
もはや絶叫と言っていい川原の叫びが辺りに響き渡る。
なあ川原、向こう岸で犬の散歩してるオジサン、お前見て楽しそうに笑ってるぞ。
「ゆっくり竿を煽って」
川原がオレに言われた通り、ロッドを胸と肩に着けるように煽った。それに伴って、ラインも数十センチ程度だが手元に引き寄せられる。
「次は少し竿を倒しながら、素早くリールを巻く!」
オレの指示に従う川原の動きによって、先ほど引き寄せた数十センチ分のラインがリールに巻き取られて行く。
「それを繰り返すんだ。無理せずに少しづつだぞ!」
これがいわゆる「ポンピング」と呼ばれるアクションだ。
川原はもはや返事をするどころではなく、かろうじて頷くことでオレの指示を理解したことを伝えてくる。
「時間がかかっても我慢だ。少しづつ手元に寄せろ」
幸い魚が掛かったのがさほど沖じゃなかったため、比較的短時間で寄せられそうだ。
オレはランディングネットを組み立てると、川原の足もとにしゃがんだ。
水中で踊る銀色の影が、段々と岸に近づいて来る。
「よし。そのまま竿を立てとけ」
もう十分寄せたと判断した所で、川原に声をかけた。
片手でラインをたぐり、ネットを水中に差し入れる。
魚が最後の抵抗とばかりに身をよじらせた後、スポリとネットに収まった。
「オッケー」
ネットを引き上げながら言う。
肩で息をする川原の横に父さんと智也が歩み寄って、ネットを覗き込んだ。
「お、ボラだな」
「ボラ?」
父さんの言葉に川原がおうむ返しに言う。
「カラスミが取れるヤツだ」
オレは横から口を挟んだ。
九州の方ではボラの卵巣の塩漬けであるカラスミが名産品だが、ボラ自体を食べるという話はついぞ聞いたことがない。魚屋でも見かけないし、不遇な魚である。
このボラという魚、夏の盛りは真っ黒に塗りつぶしたスプーンを投げてやるとよく釣れる。イヤというほどよく釣れる。
小四の時、ちょうど今釣りをしているこの場所で知り合った釣り人に教えてもらったオレの秘密だ。さっき川原に何を釣らせようか悩んでいた時、その時のことをふと思い出したのだ。
「変な顔~」
川原の言葉に自分のことを言われたのかとジロリと目を向けるが、川原の目はネットの中の魚に向けられていた。さすがの川原も、何の脈絡もなくオレの顔の造りをこき下ろしたりはしないか。
ボラの顔って、正面から見ると上下方向に押し潰したような形してんだよね。重ね重ね不遇な魚だ。
「まるで和泉みたいだね」
こき下ろしやがった。
……ほう? だがそう来るならこちらにも隠しダマがあるぞ?
「お前、いつだったかオレの顔がうちの父さんそっくりだって言ってたよな?」
「へ?」
そのニつの評価の論理的繋がりに思い至ったのか、川原は慌てて言い募る。
「そ、そ、そんなこと言ったことないし!」
「あれ? そうだっけ?」
オレは智也に向き直って確認を求めた。
「ん~、確か雅川で……」
バシッ!!!
智也の証言が、川原の伝説のローによって遮られる。やり口がまるで禁酒法時代のマフィアだった。
そんなオレ達の様子を、父さんは何故か嬉しそうな様子で黙って見ていた。
ひとしきり釣りを楽しんだところで、智也の腹のムシが不服を唱えたのを潮に昼食タイムとなった。オレにとってはトラウマが甦る苦悩の時である。
「なあ……」
オレは思わず弁当の包みをほどく川原に声をかけた。
ジロリと川原が視線を返して来る。それ以上喋るな、という意志を込めた威圧的な視線を。
そんなこと言ったって川原、ただ一人車の運転が出来る父さんに何かあったら、今日オレ達帰れねえぞ。分かってんのか?
幸い、今回の三つのオニギリにはいずれも爆弾は仕掛けられていなかった。オレは卵焼きや唐揚げの方に仕掛けられている可能性に対する警戒を決して解かなかったけど。
実際川原の料理は、調味料の誤使用という悲劇的事故さえなければ文句なく美味かった。
父さんもしきりに川原をほめながら、満足そうに食べている。
「この唐揚げも上手く揚がってるね。瑞季ちゃん、うちにお嫁においでよ」
父さんがお約束のセリフを恥ずかしげもなく口にする。何で男の子の父親ってのは、他所の女の子にこういうコト言いたがるんだろね?
一方の川原の反応もお手本通りだ。
「え、えぇぇ!!!? そんな!まだ私そんなこと考えたこともなくて!」
いちいち真面目に返さなくていいよ、川原。こっちまで恥ずかしくなるだろうが。
まあ「こんな朴念仁と結婚する気なんかありません!」とか言い出さないくらいの、最低限の社交辞令はわきまえているらしい。
そんな中智也は黙ってオニギリをモグモグやりながら、姉の様子を見てニヤニヤしている。
オレはリアクションを求められなくてすむよう、他の三人から視線を逸らした。
その逸らした視線の先に、堤防を下って来る一人の釣り人の姿を捉える。
「あ……」
その釣り人には見覚えがあった。細身の長身に、彫りの深い落ち着きのある顔立ち。
釣りをする人は誰でも大概お気に入りの場所というものがある。そのせいで、ある釣り場で同じ釣り人に何度も会うということはさほど珍しくない。
今堤防を下ってやって来るその釣り人は、さっき川原にやらせたボラの釣り方をオレに教えてくれた人だった。
「こんにちは。お久し振りです」
オレがキャップを取って挨拶すると、向こうもオレに気付いた。
「やぁ、久し振りだね。元気だった?」
その人は優しそうな微笑みを湛え、オレに挨拶を返した。
「どうも」
父さんもその人に会釈しながら言う。
父さんに笑顔で会釈を返した後、その人の視線が川原と智也に移った。
その時だ。
ぴくり、とその釣り人の頬がわずかに引き攣った。
時間にして数分の一秒、ほんの一瞬のことだが、オレの目は確かにその瞬間を捉えた。
だがその人はすぐに元の優しげな表情に戻り、何事もなかったように言う。
「おや、今日は初めて会う子がニ人いるね。君の友達?」
「はい。クラスメイトと、その弟クンです」
オレは今しがたの釣り人の表情に違和感を抱きながらも、それを悟られないよう、努めて明るい声でニ人を紹介した。
「こんにちは」
智也が釣り人に挨拶する。
「うん、こんにちは。釣りはよくやるの?」
「いえ、この和泉さんに教えてもらってて、今日がまだニ回目です」
智也が恥ずかしそうに答えた。
「そうか。彼に教えてもらってるなら、すぐに上手くなるよ。頑張ってな」
「はい!」
智也の元気な返事ににっこり笑って頷き返すと、その人はキャップを直しながら言う。
「さて、私は邪魔にならないように少し離れた所に入らせてもらおうかな。じゃあ、またね」
その人はオレ達に背を向け、下流の方へと歩いて行った。
オレは今のやり取りの中で川原だけが一言も喋らなかったことに気づき、彼女に視線を向ける。
川原はこれ以上は無理というほどに目を大きく見開き、次第に小さくなって行くあの釣り人の背中をじっと見つめていた。
そのただならぬ雰囲気の川原の様子に、オレも思わず息を呑む。
オレが声をかけることも出来ずに見守っていると、川原はごくりと喉を鳴らし、掠れた声を漏らした。
「お……おと…………う……さん?」
かろうじてオレにはそう聞こえた。
それは隣に座ったオレにだけ、やっと聞こえる消え入りそうな声だった。