インターミッション
週明け、月曜日の朝。
今日も空は快晴、厳しい残暑が続く中、オレは学校への道をテクテク歩いていた。
釣りをしてる最中はまったく暑さなど気にならないのに、登校途中だと回れ右をしたくなる。人間の目的意識というものはかくも不思議な作用をする。
土曜日の川原姉弟との釣行はまずまずの結果だった。
智也は結局六十三センチを筆頭に四匹のコイを釣り上げて満足げな様子だったし、川原も初めての釣りで十七匹のフナを上げて、なんだかんだとはしゃいでいた。
川原の依頼を受けたオレも面目躍如。最後のスウィートオニギリトラップさえなければ、完璧な一日だったんじゃないか?
ホント、あれさえなければな。
マジで一生モンのトラウマになりかねないインパクトだったぞ、あのオニギリ。
そんなことを考え、ちょっと身震いしながらオレは下駄箱で靴を履き替え教室に向かった。
教室後ろ側の扉を開け、うーっすとやる気のない挨拶と共に教室に入る。
目に入るのはいつも通りの光景。男子が何人か、同じくテンション低めの挨拶を返してくる。
川原もいつも通りオレより早く登校していて、席について何やら文庫本を一心に読み耽っていた。
「うす」
川原に声をかけつつ席につく。
その時、それは起きた。
「おはよ」
本から目も上げないままボソリと川原が口にする。
その声に、オレを含む周りの席の生徒達がいっせいに川原に向き直った。
そして静寂。
何が起きた? 今、何が起きた?
オレは必死に今の状況を把握しようと頭を巡らせた。
今のは挨拶か? 川原が朝の挨拶をしたのか?
静寂の中、周りの視線がこれまたいっせいに川原からオレに移る。しかもどいつもこいつも目だけを動かすもんだから、一糸乱れぬ集団行動なのに布ズレの音一つしない気味の悪さ。まったく、ちょっとしたホラーだ。
オレは我知らず、周囲に向けて必死にかぶりを振っていた。そのジェスチャーに込められたメッセージは一体何だったのか。
「オレのせいじゃない」か?
「オレに解決を求めるな」か?
それとも「オレはここに存在しない」だったのか?
何だ、その哲学的言い訳。
何が自分をそこまで駆り立てるのか、自分でも判然としないままオレはひたすらに頭を横に振り続けた。
オレの横に座る川原は、そんな周りの様子など気にも留めずに本に集中している。
たった三文字の言葉で、クラスをこれだけの混乱に陥れる川原、恐るべし。
その日の下校時、校門を出たところで後ろから聞きなれた声に呼び止められた。
「ユキ」
ユウだ。こいつとは幼稚園からの付き合い。小学校も同じで互いの家もごく近かった。
「おう、ユウ」
「今日、また川原さん噂になってたね」
オレに追いつくなり、女子のようなまつ毛の長い目でオレの顔を覗き込みながらユウが言った。何のことかはすぐ分かる。
「ああ、朝の挨拶のことな」
「挨拶? へえ、挨拶がどうかしたの?」
……?
ユウが言っている噂って、どうやら朝のこととは別件らしい。
「いや、普段オレに挨拶なんかしないくせに、あいつ今日に限って挨拶して来てさ。それで周りのやつらがびっくりして……」
まったく、ただでさえオレと川原が変な疑惑を持たれているこの状況で、わざわざ火に油を注ぐような川原の行動の真意がつかめない。
「へえ?」
ユウももともと丸い目をさらに丸くして意外そうな顔をした。
「それより、お前が聞いた噂って、どんな?」
「ああ……。うちのクラスの吉崎さん、知ってる?」
そう言われて顔を思い浮かべようとするが、記憶が曖昧でぼーっとしたビジュアルしか脳裏に浮かばない。が、そう言うと話が進まなそうなので、とりあえず頷いておくことにした。
「吉崎さん、今日、昼休みに保健委員の用事で川原さんのところに行ったんだって。そしたら……」
ああ、そう言えば川原も保健委員だったな。オレを心の病に追い込みかねないのにな。
「『そのシュシュ、可愛いね』って向こうから話しかけられたってさ」
オレは思わずユウに向き直る。
「ね? ビックリでしょ?」
「あ、ああ」
そりゃあ確かにビックリだ。
朝の挨拶の事と言い、一体どんな心境の変化だ、川原?
だがよくよく考えて見れば、朝、隣のヤツに挨拶するのも、同じ委員会の子とちょっとした会話を交わすのも、ごく当たり前のことに過ぎない。
当たり前の行動が噂になるって、今までが逆にビックリだったんじゃないのか?
「川原さん、もともと可愛いコだし、そうやって周りと打ち解けたら、きっと友達もたくさんできるんじゃないかな?」
女子のことを可愛いとかこんな自然に口に出せるって、我が親友ながらすごいヤツだな、コイツ。
だがクラスの違うユウが気づいていない要素が一つある。川原はもともと、自分から友達を作ることを拒んだのだ。その理由はいまだにはっきりとは分からないけれど。
だが今日の2ニつの情報は、その川原のスタンスに僅かな変化が起きていることを想像させる。きっといい方向への変化が。
ここ数日オレが時おり感じたように、一見排他的で周囲を寄せ付けない川原も、実は多感な中学生の女の子に過ぎない。怒りもすれば、喜びも怯えもする。
そういった感情を過度に抑えることなく、普通に学校生活を送れるならその方がずっといい。
オレはちょっと明るい気分で、ユウと並んで家路についた。
夕食前、今日も今日とてオレは学校の復習と塾の予習にいそしんでいた。
一区切りついて伸びをしていると、突然携帯の着メロが鳴る。設定してあるメロディで、差出人の顔が浮かんだ。
From:川原瑞季
17:56
【件名】何とかして
【本文】智也が「次はいつ連れてってもらえるかな?」
って言ってばっかりでウザい。
川原
おい、何だこの感じ悪いメール。オレのせいか?
それと意図がよく分からん。早く次連れてけってアピールなのかな?
とりあえずしらばっくれてみるか。
18:01
【件名】え?
【本文】次がある前提なの?
和泉
くらえ、送信!
数分と間をあけずに返信が来る。
From:川原瑞季
18:04
【件名】
【本文】慣れるまでは自分が連れてくって言ったで
しょ?
言ったことに責任持ちなさいよ。
川原
無題かよ!! 怖ぇよ!
しかもオレの言ったこと、都合よく解釈されてる気がする。
確か「自分の釣具を買うのは慣れてからにしろ」って言った気がするんだが。まあ、結果的には同じことか。
ていうか、なんかオレに対してだんだん遠慮なくなってきてないか、こいつ?
よし、こちらもガツンと……。
18:08
【件名】Re:
【本文】申し訳ありません。
早急に次回の日程を調整させて頂きます。
今しばらくお待ちください。
和泉
どうだ。ガツンと下手に出てやったぜ!
……だって逆らうと後が怖そうなんだもん。シクシク。
川原がいい方向に変わって来てるって思ったけど、オレにとってはあんまりいい方向でもないのかも知れない。