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#3 王子の初陣

 約束の土曜日、六時ちょっと過ぎに目を覚ます。

 釣りで時間を取られる分、塾の予習を前倒しで片付けたのと、今日のための「仕込み」をしていたのとでかなり眠い。

 きっと今のオレ、金曜の夜仕事から帰って来た父さんみたいな顔してんじゃないかな。

 顔を洗いながら、オレは昨日の川原の様子を思い出した。

 一昨日の夜あんなメールを送って来たとは思えない程、川原の学校での態度はまったく普段通り。

 平たく言えば、オレのことを完全無視。

 オレと川原のことを詮索しようとする周囲の空気がまだまだ下火になっていないせいもあるだろうが、昨日の川原はオレと目を合わせようともしなかった。 

 交わした会話は、朝の「うっす」というオレの挨拶と、配布物が回って来た時の「はい」と「ん」だけ。

 よく考えたらこれ、会話ですらないや。

 互いにメアドも知っているのに、隣どうしの席で会話もしない。何だろうね、この奇妙な関係。

 ご飯に生卵と醤油をぶっかけてかき込み、家を飛び出そうとするオレの背中に、父さんが声をかけて来る。

「克之、昼飯どうすんだ?」

 説明するとまたメンドクサイことになる。

「コンビニで買ってく!」

 待ち合わせに遅れそうで焦っている雰囲気を演出しつつ、それ以上の追及を許さない。

「行ってきまーす!」と背後に声をかけ、オレは家を飛び出した。

 チャリンコにまたがり、まだ人気の少ない町を走り抜ける。

 夜の涼気がまだかすかに残る朝六時五十分、オレは約束の三好台公園に到着した。

 荷物満載のチャリンコを停め、ロッドケースを肩から下ろすと公園を見回す。

 土曜とはいえまだ朝七時前、公園にはオレの他に一組の男女の姿があるだけだった。

 一人は紺と白のキャップを被った男の子。

 そこそこ背丈があるが体の線が細いので、自分より年下だとすぐ分かる。

 それよりなにより目だ。その瞳の大きなくっきりした目が、一瞬である人物を連想させる。

 間違いようがない。この子が川原の弟クンだ。

 オレの荷物を見て姉貴のクラスメートだと気付いたのか、こちらにペコリと頭を下げる。

 うむ、礼儀正しくてヨロシイ。お姫様の弟ならさしずめ「王子様」といったところか?

 …はて、ところでその隣にいる女の子は誰ですかね?

 肩口まである緩やかにウェーブのかかった髪。そして抜けるような白い肌とほっそりした体つき。

 服装はノースリーブの白いブラウスにデニムのショートパンツ。足元は明るいグリーンのストラップサンダルだ。

 これまた顔が川原にソックリ。

 あいつ、弟だけじゃなくて妹もいたんだ? いや、もしかしたら姉貴? 何でここにいるのか分からんけど。

「おっす。川原の弟クン?」

 軽く手を上げて見せながら男の子の方に声をかける。女の子はニガテだし、当然の選択だよね。 

「おはようございます。川原智也(ともや)です。今日は、よろしくお願いします!」

 ホントに礼儀正しい。

 何で姉貴の方はああなんだろうね。爪の垢でも煎じて飲ませとけよ、弟クン。

「こっちこそよろしくな」

 そう弟クンに挨拶を返して、オレは女の子の方をチラリと見る。

 女の子はオレの視線に気付くと、ふいっと目を逸らした。

 ああ、こちらは姉貴だか妹だかに似たんですね。

 まあ、初対面の女の子に気に入られるとは思ってないけど。ついでに初対面じゃなくても気に入られないけど。

 その女の子はあさっての方を向いたまま、ボソッと不機嫌そうに言った。

「おはよ、和泉」

 ???

 頭の上でクエスチョンマークが踊る。

 どこかでお会いしましたっけ? 

 顔は毎日のように見慣れたあの顔だけど、雰囲気がまるで違うし……。

 ……え、え、え? ていうか、まさかこれ妹とか姉貴じゃなくて……?

「お前……、もしかして川原?」

 そう言った瞬間、グリンっとこちらに向き直って睨み付けられた。

「誰だと思ってたの?」

 地の底から響いて来るがごとき、低い声。

 怖い。いやだ、マジ怖い。

「い、いやスマン、い、妹かなんかかと……」

 川原から発散されるあまりの威圧感に、ちょっと歯の根が合わなくなりかけてる。

「毎日学校で隣の席に座ってて分かんないわけ?」

 声がさらに一オクターブ下がった。

 ていうかお前、隣の席に座っててもしゃべらないし、こっちを見もしねえじゃねえかよ。分かんなくて当たり前だろうが。

 そう心の中で反論しつつも、そんなコトを口にしようものならたちまち火ダルマになるのは目に見えている。

 仕方なしに、オレはしどろもどろで何とか弁解を試みた。

「い、いやだって、あれだ。お前、学校じゃ髪上げてるし、私服初めてみるし……」

 オレのその言葉を聞くと、険しかった川原の顔が意外そうな表情に変わる。

「今日って私、そんな感じ違う?」

 川原はキョトキョトと自分の服装を見回しながらそう言う。

 実際のところ、学校での川原は顔立ち以外は地味としか言いようがない。

 なのに今日はどうだ。女の子らしくオシャレをして、見ただけで思わずドキリとさせられる。

 川原の怒りがトーンダウンしたらしいのを見て取って、オレはチャンスとばかりにプッシュしてみることにした。

「ああ。今日はいつもと違って可愛いっていうか……」

「いつもは可愛くないんだ」

 声がさっきのオクターブに戻る。プッシュするボタンを間違えたらしい。

 さすがはオレ。こと女子の心理が読めないコトにかけては、右に出る者なしというところか。

「まあしょうがないよ。姉ちゃんいつも学校行く時は、身だしなみとか超テキトーじゃん」

 絶妙のタイミングで弟クンの助け舟が出た。

 頼りになるぜ。サンキュー、智也!

「うっさいよ智也! だいたい今日のことだって、誰のためだと思ってんの!?」

 ああ、助け舟もろとも沈む運命なのか…。

 道連れにしてすまん、智也。

 ところが智也は姉の怒りをものともしない様子で、むしろニヤニヤ笑いながらからかうような調子で言い返す。

「ホ、ン、ト~にオレのためだけぇ~?」

「なっ……!!!」

 智也にそう言われた瞬間、川原は口を大きく開けて言葉につまった。顔がみるみる真っ赤に染まっていく。

「な、何言ってんの? あんたはあぁぁぁ!!!」

 おい川原、休日早朝の町中で絶叫すんな。近所迷惑だぞ。

「あ、あんたのためにき、決まってんでしょ? 私がど、ど、どんだけ苦労したと思ってんのよ! この……、このヌボーっとした無愛想ぶあいそうバカに頼みゴトしたり、母さんを説得したり!」

 川原は慌てた様子で早口にまくしたてる。

 顔を真っ赤にし、ムキになって弟に噛みつく川原と、泰然自若たいぜんじじゃくとした学校での川原のイメージとの落差に、オレはただただ茫然としていた。

 こうして感情をあらわにした川原を目の前にすると、どこから見てもごく普通の女の子だ。いや、見た目が平均を上回る分、「可愛らしい女の子」とすら言える。

 普段もこれくらい自然に振る舞えば、きっと学校中の人気者だろうに……。

 それにしてもさっきの智也のセリフ、いったい何がこんなに川原を慌てさせたんだろう。今日の智也の釣りって、川原にも何かメリットがあるのか?

 あと、さっきなんかひどいこと言われた気がすんのは空耳?

「分かった、分かったよ」

 智也は笑いを噛み殺すような表情でそう言うと、オレの方に向き直った。

「和泉さん、そろそろ出発しませんか?」

「そうだな。せっかくのいい時間帯を逃しちまう」

 オレもこの流れを逃さず智也に同意して見せる。

 川原はまだ納得いかない様子でムクレていたが、形勢不利と見たのかそれ以上反論しなかった。

「じゃあ智也、オレの後ついて来いよ」

 オレは自分のチャリにまたがりながらそう声をかけた。

「了解っす」

 智也もチャリに乗って返事をする。

 川原にじゃあな、と声をかけようとして目を向けると、なぜか川原まで自分のチャリにまたがってじっとこちらを見ている。

 うん? 何だこの川原の雰囲気。オレはてっきり「じゃあ、気をつけて行って来なさいよ」とでも智也に声をかけ、そのまま家へ走り去ると思っていたのに。

 しばし沈黙が流れた後、オレはおそるおそる川原に尋ねた。

「なあ? もしかして、お、お前も一緒に来るつもりなの?」

 そのオレの言葉に、川原はあからさまに「はぁ?」というような顔をした。「バカなの? こいつ」とその目が言っている。

 やっぱり一緒に来るつもりなんだ。

 なあ川原、バカなのはきっとお前の方だと思うんだ、オレ。

 オレは思わず、川原の姿に上から下まで目を走らせる。

 その目線に気づいた川原が、自分の胸の辺りを両腕で抱きかかえるようなしぐさをしながら、オレをギロリと睨んできた。

 何だよ。別にお前のその凹凸(おうとつ)に乏しいプロポーションを見てたわけじゃねえよ。

 あとその目つきヤメロ。すっごく傷つく。

「私が行っちゃダメなの?」

 相変わらず無意味な防御姿勢を取ったまま、ムッとした様子で川原が言う。

 その川原の言葉に、ちょっと溜め息が漏れた。

 川原が智也の見送りに来ただけだとオレが思い込んでいたのには、実はちゃんとした理由がある。

 その理由を、川原にもこの際はっきり分からせておかないといけないと思い、オレは少し厳しい口調で言う。

「ダメじゃないけど、その格好じゃ無理だ」

 言われて、川原は自分の服装にあらためて目をやる。そして困惑したような顔になってオレを見た。

「この服じゃダメ?」

 いや、街に買い物行くとか、映画見に行くとかだったら全然ダメじゃない。

 むしろイイ。カワイイ。本人には絶対言わんケド。

 でもね川原さん、今日は街に行くんじゃないですよ。釣りに行くんですよ。

「そんな露出が多い服じゃ、紫外線やら虫やらで肌やられるぞ。足だって、ススキの葉や漆蔦うるしづたでキズだらけになる」

 オレが自分の同行に難色を示した理由がやっと理解できたのか、川原がしゅんと下を向く。

 まあ弟のことが心配でついて来るつもりだったんだろうが、やはりこの服装では連れて行ってやるのは無理だ。

 すると智也が、今度は自分の姉貴に助け舟を出す。

「しょうがない、一度家に戻ろ。急いで着替えろよな、姉ちゃん。和泉さん待たすんだから」

 え、あくまで姉ちゃんを連れて行く気ですか。

 まさか智也、お前シスコンじゃないよね?

「和泉さん。オレらんちすぐそこなんで、一緒に来てちょっと待っててもらえませんか?」

 智也が申し訳なさそうな口振りでそう言いながら、オレに向かって手を合わせて見せた。

 そこまでされて拒否るのも感じが悪いし、仕方なしに頷く。

 まあ、川原には弁当作ってもらった借りもあるしな。

 そんな経緯いきさつで、オレら三人はいったん川原家に向かうことになった。

 それにしても川原、そこまでして弟の釣りに同行しなくてもイイんじゃねえの? たかだか近場の小川に釣りに行くだけなのに、ちょっと過保護すぎると思うよ。

 そんなことを考えながらペダルをキコキコこいでいると、智也がチャリをオレの横に寄せて来て、前を走る姉貴に聞こえないような小さな声で話しかけて来る。

 「手間掛けさせてスンマセン、和泉さん。でも姉ちゃん、昨夜鏡の前で一時間くらい今日の服悩んでたんですよ。置いてくの、何かかわいそうで」

 



 オレを先頭にした三台の自転車は、国道を南に向かって走っていた。

 予定外の川原の着替えに時間を喰ったせいで、太陽もかなり高くなっている。

 こりゃ少し急がないと、本当にいい時間帯を逃しちまう。

 左側に田んぼが見え始めると、オレは農家の人しか使わない舗装されていない脇道に入った。

「こんなトコ通るの?」

 路面のでこぼこのせいで、後ろから聞こえる川原の声まで波打っている。

「近道なんだ」

 振り返って答えた。

「遠回りでも、普通の道がよかった」

 川原がいかにも不満そうな口調でブーたれる。

 余計なこと喋ってると舌噛むぞ。ていうか噛め。少しは静かになる。

 学校じゃあ、あんなに静かなのになぁ。

 だいたい、近道しなきゃいけなくなったのは誰のせいだよ。

 そんなことを胸の内で呟きながら、ひたすらペダルをこぎ続けた。

 見えて来た。高速道路と川が交差する高架下。あそこが今日の釣り場だ。

 チャリを道の脇に停めると、オレは草むら越しに川を見下ろす。よし、まだ誰も入っていない。

 ここはこの雅川にいくつかある釣り場の中でも、特にオレが気に入っているポイントだ。高架下で風の通りも良く、日陰も出来る絶好の場所になっている。

「行こう」

 荷物を肩に掛けながら二人に声をかけた。

「荷物持ちます」

 そう言って智也が荷物をいくつか引き受けてくれた。川原は少し大きめのトートバッグを手にしている。

 オレは草むらにできたケモノ道のようなところを川に向かって下り始めた。後ろの二人がついて来れるよう、ゆっくり歩く。

 振り向くと、智也は難なくついてくるが、川原はヨロヨロしている。あまりアウトドア向きのヤツじゃなさそうだ。

 何とか川辺まで下りると、オレは荷物を下ろしながら言った。

「着いたぞ。ここが今日の釣り場だ」

 智也は、はぁ~っと感心したように川を見渡しながら言う。

「この川、昔から知ってましたけど、こんな近所の川でも釣りって出来るんですね」

 智也がそう言うのも無理はない。

 この雅川は一番川幅の広いところでも十数メートル程しかない小規模な河川だ。普通の人はあまり釣りが出来るような場合だとは思わない。

 その智也の言葉に答える代わりに、オレは少し下流の浅場を指差す。

 そこには五~六十センチくらいの黒い魚影が三つ、上流に頭を向けてユラユラと漂っていた。コイだ。

「でかい……!」

 智也が目を見張りながら嘆息を漏らす。

 まあ、コイのサイズとしては、まだまだあんなもんじゃないけどな。

「今日の狙いはあれ」

 オレはロッドケースを開き、三組のタックルを取り出した。

 釣りでは、竿を「ロッド」、更にロッドとリールの一組を「タックル」と呼んだりする。最近は何でも横文字だよね。

 三組のうちニつは、すでに仕掛けのセッティングを済ませてあった。

 残りの一つは智也自身に作ってもらう。糸の結びやヨリモドシなどの小物の機能を覚えてもらうためだ。

 特に糸の結びは、自分で出来るようにならないと釣りどころじゃない。

 オレはいくつかの糸の結び方や小物の説明をしながら、智也の手元に注意を向けた。

 うん、なかなか手先が器用だ。出来上がった仕掛けも上出来。

 仕掛けはこれでよし。次はエサだ。

 オレは荷物からビニールの袋を取り出し、口を開けた。中身は昨日作っておいた特製のネリエサ。

「うっ」

 川原が口と鼻を手で押さえながら眉をひそめる。

 失礼な。この臭いが効くんですよ?

 こいつの正体は米糠こめぬかと小麦粉、それから釣具屋で売っている「サナギ粉」を混ぜて、フライパンで炒った物だ。

 これをビニールバケツにあけ、さらに市販のグルテンを混ぜて水を加える。柔らかくなりすぎないように、少しづつ水を加えるのがコツ。

 グルテンが作用して、エサに次第に粘りが出てくる。

 ウム、いい感じ。

 ……いや、だから川原さん、そんな目でオレを見ないで下さいよ。

 これだもん、女の人達が釣りを敵視するわけだよなぁ。

 しかしそんな川原の反応も、オレがバックアップで用意した二種類目のエサを目にした時の比ではなかった。

「いやあぁぁぁぁぁぁ!!!!!」

 オレが箱から取り出したミミズを見るなり、川原が金切り声を上げる。

 その声は高架の基礎コンクリートに反響し、空気を震わせた。

 おい。もし誰かに通報されて警察来たら、自分で事情説明しろよな。遺体でも見つけたような声出しやがって。




 紆余曲折うよきょくせつ、大小の騒ぎ、色々あったものの、何とか釣りを始めるところまでこぎつけた。

 釣りを始めるところまででこんなに疲れたのは初めてだよ。

 四メートルおきに等間隔で立てられた竿掛けに、三本のタックルがセットされている。両端のニ本はネリエサ、中央にはミミズを使っている。

 コイという魚はフナ等と同じ雑食性で、ミミズや小さな昆虫の他イモネリを始めとするネリエサも食べる。

 今回は動物性のミミズと植物性のネリエサ両方を用意したが、オレの経験上この雅川ではネリエサの方が実績が高い。両端のニ本に期待だ。

 オレの隣では、智也王子が期待に満ちた眼差しで三本のタックルをかわるがわる見つめている。

 さらにその隣では、川原姫がネリエサの臭気とミミズのショックに放心状態となっていた。

 だから無理について来なくて良かったのに。智也がミミズをはりにかけている時なんか、まるで手術の現場に居合わせてでもいるように顔を背けていた。

「智也」

 オレは右端のタックルを指差しながら智也に声をかけた。

 右端のロッドの穂先が細かく震えている。魚がエサをついばむ振動が、糸を通して伝わっているのだ。

 智也が立ち上がってロッドのグリップをつかむ。

「まだ上げるな」

 はやる様子の智也に声をかける。

 あの細かい振動は、コイがまだエサを口に入れたり出したりを繰り返しながら、エサの様子を探っている動きだ。

「魚がエサを完全に食い込んだら、竿先が大きく引き込まれる。そこで合わせろ」

 オレの言葉に智也が真剣な表情で頷く。

 次の瞬間、竿先がガクンと大きくしなった。

「今だ!」

 オレの声より早く、智也はロッドを煽って合わせを入れていた。

 ホント才能あるな、王子!

 ロッドが引き絞られた弓のようにしなり、糸は弦のように張りつめて震えている。

 突然何の前触れもなく、ボンっという音と共に水面が爆発したように弾けた。瞬間、水しぶきの中にかすかに覗く背ビレと赤黒い魚体。

 間違いなくコイだ。しかも結構デカイ。

 チラリと川原に目をやると、目を丸くして智也と魚のやり取りを見つめている。

 麻痺パラライズ解けたようで何よりですね、お姫様。

 オレは組み立ててあったランディングネットを手に取り、智也の隣に歩み寄る。

「無理に引っ張るな。魚が疲れておとなしくなるまで待て」

 智也を落ち着かせるため、敢えて静かな声で話しかけた。

 智也は一見、初心者とは思えない程冷静にロッドを扱っているが、内心は期待と焦りで心臓バクバクといったところだろう。

 初心者は一刻も早く魚を手元に寄せたくて無理な綱引きをしがちが、これが魚をバラしたり、糸を切ってしまったりの原因になる。

 猛然と抵抗していたコイの動きが、次第に緩慢かんまんになってきた。

「よし。竿を上げて、魚の頭を水面の上に出して」

 智也はもはや、オレの言葉に返事をするどころではない様子だったが、オレの指示に従ってゆっくり竿を差し上げた。それに伴ってコイの頭が水面から現れる。

 これでよし。コイは頭を水面から出させて空気を吸わせると、とたんに抵抗をやめて大人しくなる。

 智也がゆっくりとリールを巻き、魚を引き寄せた。

 川原はと言えば、まるで猛獣にでも睨まれたように身じろき一つしない。

 いや、君がそんなに緊張しなくても大丈夫ですよ?

 オレは左手を釣り糸にそっと掛けると、ランディングネットを水中に差し入れる。魚体が頭からすうっとネットに収まった。

「いっちょあがり!」

 そう言いながらオレが差し上げたネットから、ザアッと水が滴る。

 重い。六十センチは確実にある。

 川辺から離れ、草むらの上にそっとネットを下ろした。智也と川原がおそるおそる覗き込んで来る。

 息を軽く弾ませている智也に「やったな」と声をかけた。その声に、はっと我に返った様子で智也がオレを見る。

「や、やりましたね」

 ちょっと声がうわずってんな。お疲れ、王子。

 オレはタックルボックスからメジャーを取り出すと、口をパクパクさせて横たわるコイの魚体にあてがった。

「六十三センチ」

 まずまずのサイズだ。初めて釣り上げたコイがニ尺物《六十センチ級》なら上出来だろう。

「いいかただな。どう? 感想は」

「て、手が……」

 オレの質問に、智也は自分の手を見ながら答えようとするが、声が震えてうまく話せない。

 うん。分かるよ、その感じ。むしろ言葉にしちゃったら台無しかもな、その手に残った感触が。

 きっとお前、いい釣り師になる。

「おっきぃ……」

 うわごとみたいに呟きながら、川原がコイのそばにしゃがみ込む。次の瞬間、ビチッ!! とコイが勢い良く地面の上で跳ねた。

「きゃあっっっ!!?」

 これまた跳ねるように飛びのく川原。

 もしかして、今日は「川原に悲鳴をあげさせる日」なんですかね? 神様。

 ……それ、いっそ国民の祝日にしない?




 太陽の位置がかなり高くなってきた。時刻は十時半を少し回っている。

 智也はあの後、さらに四十七のコイを一本釣り上げ、だいぶ感じもつかんで来たようだ。

 最初の一匹を上げた時のアドレナリン作用も治まったようだったので、オレはあえて手を出さずに智也の好きにやらせてみることにした。

 折り畳みイスに座って麦茶を飲むオレの隣では、川原が揃えたヒザの上に頬杖をついて弟の様子を見つめている。その表情は疲れのせいか、それとも他の要因なのか、少しぼーっとしていた。

 それにしてもこいつ、弟のためとは言えせっかくの休日を潰してこんな所までやって来て。

 自分で他人様ひとさまに頼んだコトだからと、責任でも感じてるんだろうか?

 自分自身が興味を持っているわけでもない釣りに付き合って、手持ち無沙汰ぶさたな様子の川原を見ていると、何かもう一アクション必要な気がしてきた。

 ムダかも知れないが、こっちにもちょっと布教してみますかね?

 オレはロッドケースから三.六メートルの振り出し竿を取り出すと、仕掛け巻きから一つを選び出して竿に結んだ。赤と黄に塗り分けられた玉ウキを取り付け、さらにマッシュポテトだけを使ってネリエサを作る。

 釣り堀では必ず目にする、最も基本的なウキ釣り仕掛けだ。

 オレは智也が釣っている場所から十数メートルほど下流の深場ふかばを覗き込んで、水深と流れを確認する。

 うん、いい具合だな。

「川原」

 そう声をかけ、顔を上げたところに手招きしてみせた。

 川原は戸惑った様子を見せながらも、腰を上げてトテトテ歩いて来る。

「何?」

 川原の質問に直接は答えず、オレは仕掛けを深場ふかばのよどみに投入した。

「ホレ」

 持ち手側を向けて、川原に竿を差し出す。

「わ、わ、私がやんの?」

 目を真ん丸にしながら口籠る川原。

 こいつ、イチョウ並木の所で初めて声かけられた時から思ってたけど、ほんとテンパり屋さんだよな。

 もうちょっと落ち着けよ。釣り失敗しても死なないよ?

 それでもオレの意図を汲み取って、川原はおずおずと竿を受け取った。

「ど、どうすればイイの?」

 おお、まるで剣道の竹刀構えるみたいに竿持ってる。

 強そうだな、武蔵かよ。竿、もう一本貸そうか?

「あー、川原。竿の握りかたはそうじゃなくてさ、こう……」

 オレは自分の右手の人差し指を伸ばし、他の四本を左右から軽く添えるようにして手本を見せる。

「こう?」

 コイツ、テンパり屋さんの上にぶきっちょだ。今度は包丁構える強盗みたいになってる。物騒なオンナだな!

「もっと力抜いてさ、人差し指は竿に添えちゃって……」

 もどかしいのが限界を越えて、思わず川原の手に直接触ってしまった。その瞬間、ビクンッ、と川原の手が跳ねるように震える。

「わり……!」

 慌ててぱっと手を離し、早口に謝った。

 川原は何も言わずに顔を真っ赤にして俯いている。

 奇妙な沈黙の中、川のさらさらというせせらぎだけが耳につく。

 ……く、空気、おっも〜〜〜。

 こんな時いつもの川原なら、ムッとした顔で「ちょっとぉ」とか言いながら、パシッとオレの手を払いのけそうなもんなのに。

 その乙女チックな反応、こっちまで顔赤くなるからやめてね。

 何とかこの沈黙を打開しなくては、と頭をフル回転させているところに、足元で大きなコイがバシャンッ、と跳ねた。

「きゃあっ!」

「おわっ!?」

 思わず二人同時に声を上げる。

「うおー、超ビビったぁ」

 マジ、心底ビビったよ。変な空気になってる時に、その不意打ちは心臓に悪い。

 オレの様子がツボに入ったのか、川原が隣でケタケタと笑いだした。

 だけどおかげで硬直も解けた。コイ、グッジョブ!

「あー、そう。竿はそういう感じで握って」

 川原の方も硬直が解けたのか、いつの間にやら握りから力が抜けていい感じになっている。

「そしたら、あのウキ見えるか?」

 川原はまだほんのり赤い顔のまま、黙って頷く。

 まずい。下心あると思われたか?

「あのウキ、よく見てて……」

 オレがそう言うか言わないかのうちに、ウキがピクピクと震える。

「……!和泉、今……」

 感心。ちゃんと見てたな。

「まだだぞ」

 オレは内緒話のような囁き声で言った。次の瞬間、ウキが水中にピュッと引き込まれる。

「よし! 上げろ!」

 ヒュンッという風切り音をさせて、川原が竿を煽った。

 ピンと張った糸の延長線上、水中に小さな銀色の影が明滅する。

「あ………………、あっ……!」

 ゴメンなさい。白状します。

 魚が掛かった時の女の子の声って、ちょっとセクシーだなとか不埒なコト考えちゃいました。

 今度は川原の手に触らないよう注意して、握りの上の部分に手を添える。

「よし、上げるぞ」

 わずかに反動をつけて竿尻に下向きの力を加えると、小さな魚体がピョンと水面から飛び出して来た。川原の顔に向かって飛んで来た魚を、鼻先で糸をつかんで受け止める。

 目を丸くした川原の眼前、二十センチくらいのところで、手のひらほどのギンブナが身を踊らせていた。

「うわぁ……」

 川原が呆然とした表情でキラキラ輝く小さな魚を見つめている。

「どうだ? 初めて魚を釣った感想は」

「す……」

 クルリとこちらに向き直ると、川原は興奮した表情でまくし立て始めた。

「すごーい! こんなに小さな魚なのにスゴイ手応えで! 竿がブルブルブル~~~って!!!!!」

「お、おう……、そうか」

 予想以上の食いつきに、こちらが面喰らう。

 川原のこんなイキイキした顔、初めて見るんじゃないかな。

「じゃあ、どんどん釣ってみな。エサここにあるから」

 はりからフナを外し、エサ箱を川原に差し出しながら言う。

 だが川原は急に顔をしかめて一歩後ろに下がった。

「そのエサさっきの……」

 川原が何を言っているのかピンと来た。

「ああ。いや、安心しろ。こいつはマッシュポテトしか使ってないから。お前、サナギ粉の匂い苦手みたいだし」

「え、そうなの?」

 川原は、オレの手からエサ箱を受け取り、おそるおそるフタを開ける。

 マッシュポテトの甘い香りがフワッと辺りに広がった。

「あ、いい匂い」

 コノヤロウ。今、心底ホッとした顔しやがった。ホントはサナギ粉入りの方がずっと釣れんだぞ。

「このエサをイクラの粒くらいの大きさに丸めて、はりにつければいいんだ」

「分かった」

 川原はぶきっちょな手つきで悪戦苦闘しながらもはりにエサをつけ、仕掛けを川に落とした。

 やれやれ、暇潰し程度にはなったようで、よかったよかった。 

 オレはくるりと川原に背を向けると、折り畳みイスの所へ戻ろうとした。そのとたん、背中に声を掛けられる。

「和泉!」

 振り向くと、ピチピチ跳ねるフナがぶら下がった糸をつかんで、川原が立っていた。

 なんですと? 間髪入れずに2匹目ですか?川原さん。

 もしかして、こっちも意外に才能ある?

 だがそんなオレの感心も束の間、川原はバツの悪そうな、すがるような目付きでぽそっと言った。

「魚、外して?」



 それから小一時間、オレは川原が釣り上げる魚をひたすらはりから外すという単純作業に明け暮れた。まさにお姫様お付きの召し使い。

「二人とも、そろそろお昼にしようよ」

 智也がそう言い出してくれなかったら、危うく過労死するところだったぞ。

 労働基準監督署の責任者、オレに謝れ。

 オレは折り畳みイスを三つ寄せ集め、川原がその中央にトートバッグから取り出したバスケットケースを置く。

「姉ちゃん、今日、四時起きでこれ作ったんスよ。『和泉食べられない物とかあんのかなぁ。聞き忘れた~』とかぶつぶつ言いながら」

 智也がそう言った瞬間、川原の足が智也の向こうずねにヒットする。

 目にも留まらぬ、閃光のようなローだ。川原、世界を狙え。

 足を抱えて呻く智也をよそに、川原はバスケットを開いた。

 細長いホイルの包みが三つ、それと大きな透明なフタのランチボックス。

 ランチボックスの中には、卵焼きに唐揚げ、ミートボールもある。小さな仕切りにはプチトマトとレタス。

 おお、本格的。

 川原は三つのうち、長くて太いホイルの包みをオレと智也に渡す。開いてみると、大きなオニギリが三つ入っている。

「端の三角形のやつがコンブの佃煮、真ん中が梅干し、もう一つがタラコだよ」

 川原は自分の包みを開きながら説明した。川原自身の包みには小さなオニギリがニつ。

 生まれて初めて手にする、女子の手作り弁当。多分、今オレの手は、さっきコイを釣り上げた時の智也以上に震えている。

「いただきます」

 オレはコンブの佃煮が入ったオニギリを手に取った。

 川原が緊張の面持ちでオレを見ているのに気づいて、思わず口に運ぶ手が止まる。

 やめろ、こっちまで緊張するし、ある意味不安になるだろ。

「大丈夫っす。まだ川原家で食中毒で死んだ奴いないっす」

 智也の言葉に、今度は右のローが飛ぶ。智也の苦悶の表情に、タオルの投入もやむなしと思えた。

 智也が再起不能になる前にと、オレはオニギリを一口頬張り、噛み締める。


 うまい。


 絶妙の塩加減といい、固すぎず脆すぎないギリギリの握り具合といい、文句のつけようがない。

 もう一口頬張ると、今度はコンブの佃煮の山椒が利いたいい香りが加わる。

「……うまいな」

 そんな言葉しか出てこない。

 だが、川原のホッとしたような、嬉しそうな、そんな顔を見ると、伝えるべきことは伝わったと思えた。

「普段、家でも料理してるのか?」

 卵焼きを口に入れながら尋ねる。ふむ。いい甘さ加減。

「うん。うち、お母さん仕事で夜いないこと多いから」

「どうりでな。うちの父さんも、お前のことしっかりしてそうな子だって言ってたぞ」

 川原は、その言葉に照れたように笑いながら言う。

「そうなの? 和泉のお父さん、参観日に朝のホームルームから来てたよね」

 オレはドキリとして言い返した。

「待て。何であれがうちの父さんだって分かった?」

「そりゃ分かるよ。顔そっくりじゃん」

 そんなとりとめのない会話をしていると、目の前にいるのが本当に学校で隣の席に座っている女の子と同一人物なのか自信が無くなってくる。

 まあ川原があんなに楽しそうな顔を見せるのなら、この依頼を受けたのは正解だったと素直に思えた。

 だが夏の夕刻に晴れ渡った空が見る間に黒い雲に覆われるが如く、悲劇というものは時として何の前触れもなく襲いかかるものだ。

 このホノボノとした雰囲気の食事が地獄絵図に暗転したのは、三つ目のオニギリを口に入れた瞬間だった。

 美味な食事に全く警戒を解いていたオレの舌は、突如感知した未知の味覚の世界に反応しきれなかった。

「!!!!!」

 舌が異変を感知した瞬間、オレは思わず口を押さえて目を見開く。

「ど、どうしたの!?」

 オレの様子の変化に気づいた川原が慌てて尋ねるが、オレは返事をすることすらままならない。何せオニギリを口一杯に頬張っちゃってるし。

「あ、あま……」

「……え?」

 まるで死に瀕した人の最期の言葉を聞き取ろうとでもするかのように、深刻な顔で川原が聞き返して来た。

「ご、…………ごのおにぎり、あ、あまい……」

 やっとそれだけの言葉を絞り出す。

「えええ!!!?」

 川原がおろおろしながら叫ぶ間にも、オレの口の中では甘い米粒と塩辛いタラコが地獄のハーモニーを奏でていた。

 だめだ。作った本人の前で吐き出すワケにはいかない。何とかしてこの口の中のモノをしかるべき場所へ送り込まなければ。

 まあ、人類の消化器官がこの場合の「しかるべき場所」に該当するかどうかははなはだ疑問だとしてもだ。

「な、何で? だってちゃんと…………あぁ!!?」

 狼狽うろたえながら独り言を呟いていた川原が、突然大きな声を上げる。何か思い当たる事があったらしい。

「お、オニギリ最後の一種類作る前に卵焼き焼いたから、その時使ったお砂糖を……塩と、間違っ……たの…………かな?」

 語尾に向かって音量が段々と下がって行く。

 ちょっと川原さん、何でわざわざそんな複雑な作業フロー組んだんですか?

 だが今はそんな疑問より、この瞬間自分に課されている使命をまず果たさなければならない。

 オトコには時として、命に代えてでもやらねばならぬコトがある。

 ……まあ、疑問を口にしようにも口の中が一杯で無理だしな。

「和泉さん、吐き出して下さい! もうイイっす! 充分っす!! こんなトコロで命まで懸けることないじゃないすか!!!」

 智也が放った叫びは、頭上の高速道路を走る車の騒音をも圧倒し、その目にはうっすらと涙まで浮かんでいる。

 神様、川原が握り締めた拳をプルプルと震わせているのがオレの目の錯覚でありますように。

 ああそうか。きっと智也も、かつて同じような地獄をくぐり抜けたことがあるんだ。

 言葉にならない男の絆を感じたオレは智也に目で語り掛ける。

 ~ なあ智也、オレをあまり見くびるなよ。これからお前にオレの生き様ってヤツを見せてやるぜ ~

 ワナワナと唇を震わせる智也が見守る中、意を決したオレは口の中のモノをごくりと飲み下した。


 ああ、食べ掛けのオニギリの向こうに一面のお花畑が見える。


 生まれて初めて女子の手作り弁当を口にするという、それだけで一生涯忘れがたい思い出になったはずの中学生活四回目の釣行。そこにさらに付け加えられた甘くも苦い、いや、苦くも甘い、一生涯忘れがたい教訓。

 川原は、悪意が無くても、マジ危険。

 ……字余り。

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