#12 勝負、決着
さすがはじーちゃん、初代和泉家釣りバカに釣りを仕込んだ男。
「根掛かりも何もしない所で魚が釣れるのか?」
じーちゃんはオレにそう言った。それはオレが釣りを始めたころから、父さんに繰り返し繰り返し言われて来たこととまったく同じだ。
釣りを始めたばかりの小学生のころ、父さんに「よく釣れる」と言われて入った釣り座は、確かに魚もよく釣れたが、またそれと同じくらい頻繁に根掛かりした。
「パパ、ここ引っ掛かってばっかりだよ」
そう不服を漏らすオレに父さんはよく言っていたものだ。
「魚っていうのはな、克之、敵に襲われた時の用心や獲物から姿を隠したりするために、いつも物陰に隠れてるものなんだ。根掛かりもしないような所に、魚なんかいない」
さっき最初に入った消波テトラ帯で、根掛かりが外れた直後に魚が喰って来た理由もまさにそれだ。
そしてこのことが、父さんが言っていた「巻きモノのもう一つの利点」にきっと繋がっている。
オレは携帯を取り出してディスプレイを確認する。
九時二十一分。ギリギリ何とかなる。
「川原、移動だ」
言い終わるより早く、オレは下流に向かって走り始めていた。
「どこに行くの!?」
川原がオレの後を追いながら尋ねて来る。
「最初の場所だ!」
首だけで振り返って、オレは叫ぶ。
今は一分一秒でも惜しい。
オレは全速力で最初に入った消波テトラが積まれた場所を目指して走った。
目的の場所に着くと、オレは腰のポーチからルアーケースを取りだして再度ルアーを交換する。他の三人はオレに振り切られてまだ追いついて来ていない。
オレが最後の望みを託すルアーは「ディープクランク」。
さっきまさにこの場所でコクチをバラした時に使っていたルアーと同じタイプだが、一つだけ違う部分があった。
それは水流を受ける役割をする「リップ」という部分。このリップがさっき使っていた物より長くなっている。
これによって潜航深度が数十センチだったさっきのルアーに対し、このディープクランクは一メートルほどの深さまで潜るのだ。
そしてこのルアーを採用した本当の目的は、魚を釣ること自体とはまた別にある。
オレは頭の中で残り時間を必死に割り振った。「サーチ」に使える時間は五分だ。それ以上の時間をかける余裕はない。
オレがキャストを始めるのと同時に、川原とユウが追いついて来た。高齢のじーちゃんはさすがにゆっくり歩いて来ている。
オレは飛距離の許す限り、あらゆる方向にルアーを投げまくった。
先程のものより深く潜るこのルアーは、リールを巻き始めるとあっという間に川底まで達して、ありとあらゆるものに次々とコンタクトして行く。
固い感触の石、柔らかい泥底、そこに半ば埋もれているらしい木の枝。
それらにルアーが触れるたび、ラインを通してその感触が手に伝わって来る。
秋のバスがいくら頻繁に泳ぎ回っているといっても、ただ闇雲に泳いでいるわけではない。きっと身を隠せる障害物を何ヵ所か経由しながら、それらを線で結ぶように目的の場所まで移動しているのだろう。
父さんは、今日の勝負の舞台がオレにとって初めての場所であるこの小貝川と聞いた時「巻きモノのもう一つの利点が効く」、と言っていた。
普段通い慣れた釣り場なら、どこに魚の潜む障害物が沈んでいるか経験で分かっているが、初めての釣り場となるとまったくその情報がない。しかし巻きモノを使えば、初めての場所でもそれをごく短時間で調べることができるのだ。
それこそが、父さんの言っていた巻きモノのもう一つの利点。
頻繁に泳ぎ回るバスに効率良く出会えることに加えて、バスが身を隠す障害物の場所を短時間で探り出せる。
ルアーがさっき根掛かりした大きな石に触れる。オレの左前方、六メートルほど先だ。それにほぼ正面、五メートル先に大きな木の枝らしき物が沈んでいる。さらに右側、対岸に生えるニ本の大木と自分を結ぶ線上にもう一つ大きな石があるみたいだ。
オレは五分間かけてルアーの届く範囲を一通り探り終え、この三つのスポットに狙いを絞った。
携帯のディスプレイは九時三十六分。
後は運を天に任せる。
オレはディープクランクを回収するとスピニングタックルに持ち変え、ワームの先にシンカーを取り付けた。なるべく川底を探れる時間を長くするためだ。
まず左側の石を狙ってワームを打ち込む。
オレの背後では、川原とユウが固唾を飲んでオレの様子を見守っていた。じーちゃんもやっと追いついて来て、二人の隣に並ぶ。
ラインの動きがワームの着底を知らせる。オレはゆっくりロッドを煽って、川底を引きずるようにワームを動かして行った。
数十センチほど引き寄せたところで、ワームが石に触れるのを感じる。
オレはワームを引く動作を止め、そのまま十数秒間待った。もしこの石にバスが付いていれば、この十数秒が魚の警戒を解いてくれるはずだ。
そっとロッドティップをニ回小刻みにしゃくり、ワームに動きを与える。
反応なし。
オレは急いでリールを巻き、ワームを回収した。狙いはあくまで三箇所の障害物のみだ。そこで反応がなければ、足元までダラダラ探って来ている時間はない。
次は右側の石。
着水音をなるべく小さく抑えるため、サイドハンドで水面ギリギリの軌道にワームをキャストする。まるで水切りの石のように水面を数回跳ねてから、ワームが水中に消えて行った。
着底直後、何かがワームの上にズンッと乗ったような感触が伝わって来る。水流に乗って石の間にでも挟まったか?
オレはそっとラインを張り、感触を確かめた。
その奇妙な手応えに思わず首を捻る。この柔らかい感触は石に挟まったような印象じゃない。
オレはそのまま数秒待ったが、ラインの先の物体は一向に動く気配を見せない。
もし根掛かりだった場合フックが障害物に深く食い込む危険があるが、そのリスクを承知でオレはロッドを強めに煽ってみた。
重い。やっぱり根掛かりなのか?
だが奇妙なことにその物体は、オレが引っ張るのに応じて僅かづつだがこちらに寄って来ている。手に伝わって来る感触がその時オレの頭に呼び起こしたイメージは「水がいっぱいに詰まったスーパーのレジ袋」だった。
次の瞬間、ズズン、という手応えと共にロッドティップが大きく引き込まれる。
「レジ袋」が、突然オレの引っ張る力に逆らって沖に走り始めた。
「な…………!?」
思わず間抜けな声が口から漏れる。
慌ててロッドを支えると、リールのドラグが悲鳴を上げてラインを送り出し始めた。
リールにはラインに急激な力がかかった時、衝撃で切れないよう少しづつ送り出すための「ドラグ」という機構が備わっている。
オレは普段からドラグの設定をかなりキツめにしているため、ちょっとくらい大きめの魚がかかっても、ラインが引っ張り出されるなどということは滅多にない。なのに今、オレのリールのドラグが噛み合わせの悪いファスナーを無理やり閉じる時のような音を立ててラインを送り出している。
いやはや、これはちょっとした事件だ。
今このラインの先にいるのは、間違いなくオレがまだ見たこともないような大物。まさかバスじゃなくて、ライギョかなんかじゃないだろうな?
「和泉!?」
「ユキ!」
オレの後ろで川原とユウが同時に声を上げる。
わりい。今返事をする余裕がない。
ラインは相変わらず引き出されて行く一方だ。
けれど今リールに巻かれているラインは八ポンド。普段使っているナイロンラインではなく、父さんが今日の勝負のために奮発してフロロカーボンラインに巻き変えてくれているとは言え、これ以上ドラグをキツくしたら間違いなく切れる。
普通なら持久戦で魚が疲れるのをじっくり待つところだが、今日は時間の制約があった。
「川原!時間は!?」
振り向くことすらままならないオレは、大声で川原に尋ねる。
「九時四十九分!!!」
時刻を告げる川原の声にもまったく余裕がない。甲子園の決勝戦でベンチから声援を送る野球部のマネージャーみたいな声色だ。
「お兄さん!!!?」
おい智也! その呼び方はやめろって!!! ていうか、何でお前がここにいる?
オレは必死にロッドを操りながら何とか振り返る。
そこには智也だけでなく、新海さんと父さんの姿もあった。ニ人とも目を丸くしてオレのファイトに見入っている。
ああそうか、もうすぐ十時だからね。早めに切り上げて、スタート地点のここに戻って来たワケか。
これだけ役者が揃ったら、無様なトコは見せられない。
ダイヤルでドラグをこれ以上締め付けたらラインがもたない。そう判断したオレは、左の手をスプールに当ててドラグの効きをコントロールし始めた。魚の引きに合わせて、スプールの回転に掌との摩擦で微妙な加減を与える。
まあ、この方法でも力加減をちょっと間違えたら終わりだけど。
下流に向かおうとする魚の動きに合わせ、自分も少しづつ下流に移動しながら僅かづつでもラインを巻き取って行く。
ふと気づけば、誰かがオレに合わせて後ろをついて来る気配があった。
振り向くと、組み立てたランディングネットを握りしめた川原が青醒めた顔をして立っている。
おい川原、なんて顔してんだ。そんな今にも泣き出しそうな顔してないで、自分の彼氏を信じろ。
まさに一進一退。五十センチ巻き取れば、六十センチ引き出される。また六十センチ巻き取り、五十センチ出ていく。
魚とオレの距離は一向に縮まらない。
「川原?」
たったそれだけの呼びかけに、オレの要求を正確に把握した川原が打てば響くように応じる。
「九時五十ニ分!」
おいおい。以心伝心だな?
その時点でオレの心の中には、わずかだが勝算のようなものが芽生え始めていた。少し前から、魚の抵抗が心なしか鈍くなって来ている気がする。
オレは危険を覚悟で、少し大きめにロッドを煽った。魚は抵抗の意思を見せつつも、ゆっくりこちらに寄って来る。
思った通りだ。この長期戦で、魚の方もそれなりにヘタッてきているのだ。
オレはその機を逃さず、立て続けにポンピングを入れた。
「五十四分!!! あと六分!」
川原はもはや、オレの指示を待たずにカウントダウンを開始している。
ていうか川原、オレ二桁の引き算くらいは暗算できるからな!?
魚の姿が初めて見えた。今や三メートル程の距離まで寄って来ている。
水中に踊るその影は赤茶色。だが色より先にオレの目を奪ったのはそのサイズだった。
コイじゃないのか?
一瞬本気でそう信じて、思わず絶望しかけたほどだ。
だが次第に近づいて来るにつれ、黒の縦縞模様まではっきり確認できるようになる。
オレは腰を落としてランディングの体制に入った。
「川原、ネット」
オレは自分の背後に立った川原に声をかける。川原は黙って頷くと、オレの傍らに駆け寄って来た。
ところが川原は予想に反して、オレにネットを手渡す代わりに自ら水中の魚に向かって身構える。
おい川原さん。まさか自分で捕獲するつもりなの?
だがもとはと言えば、この勝負に懸かっているのは他ならぬ川原の運命だ。その決着を彼女自身の手でつけるのは当然のことか。
分かった川原、決着はお前に任せる!
いや、だけど……。
だけどそれにしても、この川原の手つき、あまりにも危なっかし過ぎる!
何とか逃れようともがく魚の動きに、川原の手が追いついて行かない。
オレは思わず川原の手に自分の手を重ねてネットの動きを修正した。川原が戸惑ったような顔をしているが、今はそれどころじゃない。
バスの頭がスポリとネットに収まる。
「上げるぞ」
オレの言葉を合図に、ニ人でネットを引き上げた。
したたる滴が陽を浴びて輝く。
「きゃ!?」
手元にかかる予想外の重量に川原が小さな悲鳴を上げた。
確かにこの重さは半端ない。二人掛かりでネットを支えているというのに、相当な手応えだ。
これはひょっとするとひょっとするカモ。
「やった……」
川原が息を弾ませながら、肩越しにオレを振り返って呟く。もうここまで来ると、オレも黙って頷き返す事しか出来ない。
互いの目が合った瞬間、川原が慌てたようにパッと視線を逸らした。
おい川原ヤメロ、顔を赤くするんじゃない。こっちまで恥ずかしくなるだろうが。
オレと川原の人生初の共同作業は、ケーキ入刀ならぬバスのランディングだった。
時刻、九時五十七分。ギリギリ間に合った。ネットの中のバスを下アゴをつかんで持ち上げる。見事なサイズのコクチだ。
そこに居合わせた誰もがオレの手につかまれたバスを見て目を見張っている。
ただ一人、川原だけはオレのウェストポーチからメジャーと量りを取り出そうとゴソゴソやっていた。だからね川原さん、くすぐったいから手早くやって下さいよ。
やっとのことで取り出されたメジャーで、まずは長さを計測する。
「四十九センチ」
川原が読み上げた数字に、意外な印象を受けた。見た目と手に持った時の感触では、軽く五十を超えていると思ったのに。
そしていよいよ勝負の対象となる重さの計量だ。
バスを量りに吊るし、バネの揺れが静止するのを待つ。
次第に動きを止めて行く赤い小さな楔形の目印に、全員の視線が集中する。
「千五百六十グラム。克之君の勝ちだ」
そう宣言したのは、他ならぬ新海さんその人だった。
やった。信じられない。
奇跡が、起きた。
その実感が頭に染み込んだ瞬間、肺の中に溜まっていた空気が一気に漏れ出し、同時に両脚がガクガクと震え出した。
やった。
川原、やったぞ。
お前が心から望んだ物を、その掌の上に乗せてやることができた。
「お疲れ様」
新海さんが大きな手をオレに差し出しながらにっこりと笑う。屈託も何もない、ただただ純粋な澄み切った笑顔だ。
「約束は守るよ、克之君」
深みのある優しい声で、新海さんがそっと囁く。
オレは何も言葉を返せないまま、差し出された新海さんの手をおずおずと握り返した。がっしりとした大きな、そして温かい手だ。
よかったな川原、智也。きっとお前達、この手に優しく抱き締めてもらえるぞ。
「克之君、本当にありがとう」
その言葉にハッと顔を上げたたオレは、新海さんの目にうっすらと涙が浮かんでいるのに気がついた。
その言葉が何に向けられたものなのか、はっきりとは理解できないままにオレはコクリと頷く。そしてなぜか、自分の目にもじわりと涙が滲んで来るのを感じた。
まったく、中学生にもなって一日に何回泣くんだろうね、オレ。
「ユキ! やったね!」
ユウが嬉しそうにオレに駆け寄って腕をつかんで来た。
その様子を見た智也が、オレに不審そうな目を向ける。
「お兄さん、そちらの方は?」
智也。だからやめろよ、その呼び方。
「同じ学校の池中優。幼稚園の頃から友達なんだ」
「川原さんの弟クン? 池中です。初めまして」
オレの説明に、ユウもにこやかに自己紹介する。
「は、初めまして……」
智也はなぜか敵愾心のようなものを含んだ目でユウを見ながら、しぶしぶといった様子の挨拶を返す。そしてオレの腕をつかむと、ユウから引き離してそっと小声で言った。
「お兄さん。姉ちゃんというものがありながら、幼なじみまで加えてハーレム構築する気なんですか?」
その言葉を聞いて、オレはまったく驚きもしなかった。かつて幾度、初めてユウに会った人々がこの罠にハマったことか。
体のラインにぴったりのスウェットパーカーとスキニージーンズを身にまとったユウは、ボーイッシュな美少女と言われたら確かに誰も疑わない。
ああ、智也。やはりお前も騙されたんだな。
あと、お兄さんじゃねえ。
「智也。ユウは男だ」
簡潔に事実のみを智也に告げる。
目を丸くした智也はオレ達ニ人を不思議そうに見ているユウを見やり、再びオレに向き直った。
オレは智也に厳かな顔で頷いて見せる。
「ええええええぇぇぇぇぇぇーーーーーーー!!!!!?」
十月の澄み渡った秋空に、智也の絶叫が響き渡った。