#9 王と太公望
ついにやって来た新海さんとの勝負の当日。
もちろん昨夜は一睡もしていない。
川原の運命を自分の手で左右する日を前にして、グッスリ熟睡できる程のデッカイ肝っ玉の持ち合わせはオレには無い。
たった一月と少し前、何ということもなく平凡にオレのニ学期はスタートした。なのに今日、オレはどんな因果か自分以外の人間の運命を左右する勝負をしようとしている。
おまけに、掛かっているのは生まれて初めて出来た自分の彼女の運命で、勝負の相手はそのコの父親ときてる。
日数にしたら、たった三十数日。
このごく短期間でオレの身の上に起きた目まぐるしい変化ときたら、もう考えただけで頭痛がする。
しかも納得がいかないのは、勝負の場に向かうこの車の後部座席で、当の川原がまるで他人事のように呑気な顔で窓の外を見つめている事だ。
オレが日本海溝の底にいるが如きプレッシャーを感じているというのに、運命の掛かった当人である川原はいたって平静そのもの。
まあ今日の勝負の仕掛人であるオレにプレッシャーを感じる義務があるのは当然としても、何かこの不公平感は釈然としない。
そんな川原の隣には、その弟の智也がまるでサッカー観戦にでも行くみたいにワクワクしながら座っていた。
そのこともまたオレに掛かるプレッシャーのもう一つの原因になっている。
オレは後部座席を振り返って、何やらオレの知らない歌を口ずさむ川原を軽く睨んだ。
だがほんの一週間前にオレの彼女になったその女の子は、オレの視線に気づくなりはぐらかすような笑顔で小首をかしげて見せる。
おい川原、何で智也まで今日の勝負に連れて来た? 智也はあの人が自分の父親だってことを知らないのに。
もちろん、今ハンドルを握っているオレの父さんや川原のお父さんは、大人の判断でそのあたりはきっと上手くやってくれることだろう。
だがオレにしてみれば、智也の前で下手なことが言えないというプレッシャーで気が気でない。
もともと智也に釣りを教えるという目的がきっかけで始まったオレと川原の関係を考えると、川原だけを釣りに連れて行くのが智也の目からは不自然だというのは分かるが、この選択はあまりと言えばリスキーだ。
午前六時三十分、車が約束の場所に到着した。
道端のスペースに黒いSUV車が停まっている。ナンバーを確認すると、事前に電話で教えてもらっていた新海さんの車のものだった。
父さんが新海さんの車の隣に並べて駐車すると、オレ達はそれぞれ車から降りた。
もう太陽は顔を出しているとはいえ、十月の朝の空気はひんやりと冷たい。
オレはすでに組んであるニ本のタックルを手に堤防を下る。
川辺には既に人影が一つ。その人はオレ達の姿を認めると、こちらに向かって手を振って来た。
細身の長身をグレーのウィンドブレーカーに包んだ姿。
川原と智也のお父さん、新海秀和さん。
オレは小走りに新海さんに走り寄り、他の三人が追い付いて来るまでのわずかな時間に彼に耳打ちした。
「おはようございます、新海さん。今日、智也君も来てますけど、彼はあなたのことにまだ気づいてませんので……」
彼は微笑みながらオレの言葉に黙って頷く。
やや遅れてオレに追いついてきた川原が、オレの後ろ脇に立つ気配がした。
「おはようございます」
川原が新海さんに向かって言う。新海さんも笑顔のまま挨拶を返した。
「ああ、おはよう」
オレは黙ってニ人の様子を窺う。
今視線を交わし会うこのニ人は血を分けた実の親子であって、そして互いがそれに気づいてもいる。なのに今は、親子としての会話は二人の間には許されていない。そしてその状況は、オレが今日の勝負に勝たない限りは永遠に変わらないのだ。
さらに遅れて智也と父さんも追いつき、それぞれ新海さんに挨拶した。
「今日は息子がお世話になります」
父さんがキャップを取って新海さんに頭を下げる。
「とんでもない。こちらこそ大人気のないことで」
新海さんもキャップを脱いで応じた。
何とも、このニ人のやり取りを聞いてるとあらためて自分が青コーナーだって思い知らされる。まあ、最初から分かってたコトだけど。
大体新海さん、お姫様の父親じゃあ王様ってことじゃん。
王様に挑む一般庶民。それが今日のオレ。
「さて、じゃあルールを確認しておこう」
新海さんがオレに向き直って言った。
「釣り仲間から聞いたんだけど、ここはオオクチだけじゃなく、コクチも釣れるらしいよ。せっかくだから、対象はオオクチ、コクチ両方を含めよう」
「コクチ?」
川原がオレに小声で尋ねる。
「ブラックバスの一種だ」
オレは肩越しに川原に囁いた。
コクチバス。正式にはスモールマウスバス。
普通ブラックバスと言うと、オオクチバスと呼ばれるラージマウスバスのことを指すが、日本には限られた場所にスモールマウスバスという別の種類が生息している。
オレもまだ図鑑でしか見たことはないが、緑がかった体色に側線部を走る黒い一本線模様を持ったオオクチに対し、コクチの体色は赤茶色で、数本の縦縞模様が特徴だ。
その外見から、一部のバサーからは「トラ」とか「コトラ」なんて呼ばれているらしい。
ちなみに現在、オオクチもコクチも「特定外来生物」に指定されているので、生きたまま持ち帰ったり、別の場所に放流したりすると犯罪になるので注意な。
「リミットは三本、重量で勝負だ。キミ、量りは持ってる?」
新海さんの質問に、オレは首を横に振る。
「じゃあ、はい、これ」
オレは新海さんの手から、円筒形をした金属製の量りを受け取った。
「リミットって?」
またしても肩越しの川原の質問。あーもう。
「リミットっていうのは匹数の上限。『リミット三』だと、釣った三匹の魚の合計重量が多い方が勝ちってこと」
オレは川原の方に向き直って説明する。
「じゃあ、ニ人とも三匹釣れたらそこで終わり?」
川原は瞳をキラキラ輝かせてオレの顔を覗き込みながら言った。
それにしても川原さん、顔が近過ぎですよ。
「いや。時間内だったら、四匹目がその前の三匹のどれかより重ければ入れ換えて行って構わない」
「まあ今日の場合は、釣れた魚は計量したらその都度リリースして行って、時間内にそれぞれが釣った魚のトップ三の合計を計算すればいい」
新海さんが優しくオレの説明を補足する。
川原はオレから新海さんに視線を移し、ふーん、と呟く。
「もし、時間内に三匹釣れなかった時はどうなるんですか?」
新海さんは、川原の質問に頷きながら答えた。
「三匹釣れなくても、それで負けになるわけじゃないんだ。千六百グラムの魚が一匹だけ釣れたとしても、相手の結果が五百グラムの魚を三匹なら、合計重量が多いその人の方の勝ちだ」
川原は新海さんの説明に、はーっと感心げな様子だ。
「時間は何時までにしますか?」
オレは新海さんに確認を取った。
「七時から始めて、十時までの三時間でどうだろう?」
黙って頷く。異論はない。
「場所は、十時にここに戻って来られるならどこまで行っても構わない。公平に、移動は徒歩に限ることにしよう」
「分かりました」
文句のない条件だ。どこまでも合理的で、どこまでも公平。
「ところでこれだけギャラリーもいることだし、互いの途中経過を連絡しあえるように一人ずつリポーターをつけないか?」
突然おどけたような口調になって、新海さんがそう言った。
それを聞いた智也が、例のからかう時の調子で川原に言う。
「じゃあ、姉ちゃんはもちろん和泉さんについてくよね~」
それに対する川原の反応は、いつものテンパったあわあわトークでも、世界を震撼させかねないあの右ローでもなく、冷静、かつ明確な一言だった。
「当たり前でしょ? 自分の彼氏なんだから」
ぎいやゃああああぁぁぁぁぁぁーーー!!!!!
か、かぁわぁはぁらあああぁぁぁぁぁ!!!
……お、お前、よりにもよって双方の父親が揃ってる前で何てコトをぉぉぉぉぉ!!!!!
オレは思わず、捻挫する程の勢いで首をグリンと川の向こう岸方向へ背けた。
だが感じる。痛いほどに感じる。
三組、六つの目がオレの背中に向けられているのを。
あまりの恐ろしさに、とてもじゃないが振り向く勇気がない。
「お……、お兄さん?」
智也の戸惑っているとも、オレの様子を気遣っているとも取れる調子の声が背後から聞こえた。
やめろおぉぉぉ! 智也ぁ、オレをそんな風に呼ぶなぁぁぁ!!!
「か、克之君、大丈夫かい? 落ち着いた?」
心配そうな新海さんの言葉に、オレはコクリと魂のないカラクリ人形のような動きで頷いた。
まさか大事な勝負の前に、他ならぬ自分の彼女からこんな精神的揺さぶりを受けるとは。
新海さんはオレの様子を心配しつつもやはり複雑そうな顔をしているし、父さんは見慣れたあのニヤニヤ顔、智也はワクワク、興味津々の体でオレを見ている。
おい、川原。お前一体どっちの味方だ?
結局オレの方には川原がつき、新海さんには智也と父さんがついて、川原と智也の携帯で連絡を取りあって途中経過の情報交換をする段取りとなった。
現在、六時五十四分。あと六分で勝負開始だ。オレは隣に立つ川原の表情をそっと窺った。
川原はまったく緊張の見えないリラックスした面持ちで茜色の空を見上げている。そしてオレの視線に気づくと、こちらを向いてニコッと笑った。
その唇だけがゆっくりと動き、声に出さずに言葉を紡ぐ。
し、ん、じ、て、る……。
いや川原、だったらさっきみたいなドッキリはやめてくれ。あれで精神力六十パーセントくらい削られたよ?
「さあ、準備はいいかい?」
新海さんの声がかかる。
携帯のディスプレイ、六十時五十九分。
オレは頷きながら右手のニ本のロッドを握り直す。
智也が自分の腕時計を見ながら一歩進み出た。
「スタート!!!」
智也の号令の元、ついにオレの戦いの幕が上がった。