#1 お姫様の悩み事
海が広がる。目の前に海が広がる。
海はいい。
何がいいって、うん……とにかくイイ。
まず第一に、海では釣りができる。
これ大事。オレにとっては、これ以上ないくらい大事。
いや、釣りは海じゃなくてもできるな。
白状すれば、海じゃなくても、川でも池でも、湖でもいい。釣りさえできるのならば。
釣りさえ思う存分できればオレの人生、他に何も必要ない。オレにとって釣り以外のことはすべて派生物、オプション、もしくはオマケ。以上三つにすら該当しないものはもはやゴミといっていい。
特に理由はない。釣りが好きであることに理由などいらない。
そこに山があるから登るという登山家と同様、そこに魚がいるなら、オレは釣る。
六歳で初めて釣竿を握って以来、休みの日が来れば釣り。夏休みの家族旅行の目的も釣り。なにがなんでも釣り。
それがこのオレ、和泉克之だ。文句があるか。
以前、今のセリフを真顔で父さんに言ったら、文句は言われなかったが黙って頭をグーで殴られた。
それはさておき、海のいいところ二つ目。
今、海にいるってことは、少なくともココは学校じゃないってコトだ。紛うべきなき真の命題。
まあ当たり前のことなんだが、当たり前のことほど大事だって、小学校の時に校長先生も全校集会で言ってたしな。
実はオレ、中学生になった今でも学校が嫌いだ。ていうか、中学生になって学校嫌いがさらに加速した。
勉強は別に嫌いじゃない。苦手でもない。むしろ得意。
オレが学校を嫌う理由は、勉強ではなく人間関係。と言っても、特定の苦手なヤツがいるとか、クラスでハブられているとかではない。そういうコトでは全然ない。
オレが抱える人間関係のストレスはもっと根本的で、その要因は人類のほぼ半数を占める存在、異性。つまり女性だ。
……そう言って気がついたケド、人類の半分がストレスの要因って厄介だよな。一人二人苦手なヤツがいるくらいの方がずっとマシじゃないか。
思考回路の構造の差か、はたまた感性の違いなのか、オレには女の子の気持ちというものがまったく読めない。分からない。理解できない。
「女の子はどんなことに喜ぶのか。何を言われたら怒り出すのか」
そういった問題に対するオレの予想と現実の彼女達の反応には、昔からいつでも多かれ少なかれ何らかのギャップがあった。
幼稚園のころ、同じひまわり組だったミホちゃんがオレの似顔絵を描いてくれた時、そのお返しにとあげたヒラタクワガタに絶叫された経験から始まり、その後もオレの意図や好意が女の子にそのまま伝わった記憶はついぞない。
人間、誰しもそうなのかは知らないが、少なくともオレという人間は、理解できない物や予想がつかない物に対しては次第に恐れを募らせていく性分らしい。
そんなわけで、いつのころからかオレは女の子との接触をみずから避けるようになった。
だって仕方ないだろ、コワイんだもん。何が飛び出すか分からないビックリ箱をわざわざ開けたりしないって。
オマケにこちらからのコミュニケーション不全の反動なのか、オレ自身も小学校の時から特別な興味を女子から向けられた記憶がない。プラス方向でもマイナス方向でも。
特別嫌われてもいないかわりに、好かれてもいない。早い話が、女子視点では「いてもいなくてもいいヤツ」ということ。
さらに言っておけば、オレっていう人間はスポーツも容姿もごく平均的。部活にも入っていないせいで、そちら方面でも女子の注目を浴びる可能性は万に一つもない。ただ一つだけ勉強だけは学年でもトップクラスだが、中学生くらいの女の子って、基本的には勉強の成績を基準にして男子に興味を持つような生き物じゃないしね。テスト前を除いては。
そんなオレにとって、女子と一定の関わりを強要される学校という場所で過ごす時間は、苦役以外のなにものでもない、というわけ。
ああ、できることなら一生女の子と関わりを持たず、ただ静かに釣りを楽しんで生きて行きたい。
オレにとっては人生=釣り、すなわち釣り=人生。
なのに、どうやら神様はそれを許してくれないらしい。釣りも人生も、どちらも兎角ままならない。
千葉県富津の海は穏やかに波立って、その小刻みに陽光を反射する水面に垂らされた釣り糸が、潮の流れによってわずかに傾いた角度で揺れている。
何日ぶりだろう、この風景。
先月はここ富津に遠征して来るどころか、近所の川でのコイ釣りすらできなかった。
この四月に中学に上がってからというもの、小学校とはガラッと様変わりした授業の内容や、悪意の介在を疑いたくなるほど莫大な量の宿題がオレの日々の時間を容赦なく食い潰してきた。何しろ予習、復習、宿題だけで、毎日ニ時間近くが費やされるんだから。
それだけならまだしも、中学では中間、期末と定期テストがニ回も実施される。
定期テストなんぞをニ回もやらなきゃいけない理由って一体何なんなの? ファミレスなんかの「ご注文繰り返します」的なアレなの?
週末も、日曜日は通い始めた学習塾で潰れて思うように時間が取れない上に、多少はホッとできるかと期待していた夏休みさえ、各教科の一学期最後の授業ごとに降り積もっていく宿題の山と、前・後期あわせて十二日間にもわたる塾の夏期講習によって塗りつぶされてしまった。
こうして思うように釣りに行けない理由を並べ立てていると、文科省と塾を地球上から消し去ろうと企てた中学生が過去にただの一人も存在しなかったという事が心底信じられない気分になって来る。
そんなこんなで、夏休みも終わりまで残すところ四日と迫った今日が、まことに不本意ながら中学最初の夏休みにおける一回目の釣行だった。中学校入学以降で数えてもまだたったの三回目。
……三回目!!!?
あらためて数えてみて愕然とする。
小学校五年の時には、実に七十一回の年間釣行回数を記録したほどの釣りバカのオレが、中一になってからまだ三回目だと!?
大体、あんな企業の年度末会計業務みたいな莫大な量の宿題を夏休みに出すことがそもそもの間違いで、教師達が各々みんな好き勝手に……。
頭の中で現代日本の教育制度に対する不平不満をつらつら並べ立てていると、突如として「宿題」というキーワードがオレの頭の中にある連想を促す。しかも悪い予感を伴って。
……何だっけ。オレ、何か忘れている。
「何か」どころじゃない。かなり、相当……、いや、これ以上ないほど重要なことを忘れている気がする。できればずっと忘れていたいような気までするんだけど……。
数学のノートを閉じながら「やっと終わったあぁぁぁ」と安堵のため息を漏らしたのが先週火曜の夕方。
「終わった」は夏休みの宿題が終わった、で間違いないな、うん。
だが待て。その時、何か条件がついていなかっただろうか?「〇〇を除いて」という条件が。
記憶の糸をそこまでたどって来たところで、いやな汗が背中に滲んできはじめた。この汗は、ジリジリと照りつけるこの真夏の太陽のせいじゃない。
記憶のピースが頭の中でカチャカチャと音を立てながら組み合わさっていき、しだいに形を成して来る。
うっすら思い出して来た。
何らか他の課題と違う特殊な性質のために、一番後回しにしていた「〇〇」が、未だ手付かずのまま放置されている……。
ここに至ってようやく最後のピースが頭の中でカチリとはまり「〇〇」に当てはまる単語がピコーンと浮かび上がる。ホントに「ピコーン」って自分の頭から音がしたんじゃないかと思うくらい唐突、かつ明瞭に。
自・由・研・究……。
……あああ、理科の自由研究、まだやってねぇぇぇぇぇ!!!
忘却という名の美酒は、覚めた後の反動がものすごく怖い。
よりにもよって、一番手間も時間もかかる自由研究を忘れていたなんて、ホントに泣き出したい気分だ。
ていうか、もう目尻に涙が滲んでる。
違うな。「手間と時間がかかる」っていう理で、自由研究を一番後回しにしたってのが正解だな。後回しにした挙げ句、その存在自体忘れてりゃ世話ないケド。
ああ、もうすぐオレの故郷、シンガポール行きの船が出る時間だ。そろそろ船に乗り込まないと…。
あまりにも深刻な精神的ダメージにガックリとうなだれて、海風に首筋をなぶられつつ現実逃避していると、突然背中をトンッ、とつつかれた。
「克之、どうした? 釣れないのか」
父さんだ。
久しぶりに大好きな釣りに連れてきた息子がこの様子じゃあ、まあそう訊くよな。
確かにここ小一時間くらい、潮の流れが変わったせいかアタリすらまったく来ていないが、今深刻なのはそこじゃない。
「……理科の自由研究のこと、すっかり忘れてた」
うなだれた姿勢のまま掠れ声でそう答えると、ふむ、と小さな呟きが背中の方から聞こえた。
ポンッ、と今度は軽く尻を蹴られる感触がある。
ノロノロとゾンビのように立ち上がると、父さんはオレが椅子代わりにしていたクーラーボックスの蓋を開けて麦茶のペットボトルを取り出した。
「まだ4日あるだろ?」
水滴だらけのペットボトルから麦茶をぐびぐびとあおりながら、我が父はかく宣う。片手には9フィートのシーバスロッド。
このオレの父親である和泉武司は、まだ幼稚園の頃からオレのじーちゃんに連れられ、日曜日ごと釣りに明け暮れていたという栄誉ある(※個人の感想です)和泉家初代釣りバカだ。
じーちゃんに魚の釣り方を一から教わり(※効果には個人差があります)、中学生の頃まで暇さえあれば海に川に湖に、魚を求めて奔走していたと言う。
じーちゃんの証言によれば、当時の父さんときたら、ついにはそこいらの水溜まりにさえ釣り糸を垂らしかねない程の勢いだったそうな。
高校以降は釣り空白期だったらしいが、二十八才の時に生まれたオレが小学校一年の春で釣りデビューを飾ったのをきっかけに、昔の釣り熱がぶり返したと聞いた。
現在はルアーによるブラックバス捕獲を専らにしているが、まだまだ色んなジャンルの釣りをやってみたいオレを伴って出かける時は、こちらの希望に合わせて下さるよき親父様だ。
本日もすでに、ルアーにて「シーバス」ことスズキをニ匹捕獲済みである。
ちなみにオレのじーちゃん、和泉好博は「釣りバカ」というほどには釣りにモチベーションがある人種じゃない。
ガキンチョだった父さんを毎週のように釣りに連れて行ってたのは、九割がた父さん本人の希望によるものだったそうだ。
とは言ってもそこは初代釣りバカ親父に釣りを伝授した男。七十歳を越えた今でもちょくちょくオレや父さんと一緒に釣りに出掛けるし、いざ竿を握らせれば昔取った杵柄、その日の和泉家ビッグサイズ・レコードはじーちゃんだったなんてことがよくある。
閑話休題。
自由研究の未済という深刻極まる懸案に対して、父さんのリアクションがあまりにも軽い調子だったことにちょっと不満を覚えたオレは思わず異を唱えた。
「そんなコト言ってもさ、テーマを決めて、実験して検証もして、レポート書いて……。四日じゃ正直キツいよ」
まあ、原因を遡れば完全にオレの自業自得なんだけど。
「お前って、年のわりにスレてて大人びた口きくくせに、そういうトコは要領悪いのな」
眉根を寄せてジロリとオレを睨みながら、溜め息まじりに呆れた様子で父さんが言う。
息子に期待するポイントが少しズレているような気がするが、今はまあよしとしよう。あんまりその点突っ込むと、話がこの件のそもそもの原因まで遡りそうだし。
「じゃあ、要領のいい方法ってのを教えてよ」
「実験と検証の必要がないテーマを選べばいいんだ。正確に言うと、実験と検証が済んでいるテーマだな」
ふてくされて言い返すオレに、父さんはピッ、と人差し指を立てる仕草とともにドヤ顔で答える。
「実験と検証が済んでいるテーマぁ?」
聞き返すオレの声も思わず裏返りそうになる。
そんな都合のいいテーマがそうそう見つかるもんなら、夏休みに自由研究に悩む中学生はおろか、卒論に苦労する大学生だっていやしない。
「趣味と実益を兼ねてな」
……ああ、なるほど。ピンときた。
傾きかけた夏の太陽を背に、父さんは得意げなポーズでじっと立ち尽くす。
もういいよ、父さん。言いたいことは十分に分かった。
何らかのリアクションを期待しているらしい父さんのことは一旦放置し、オレは今の提案の実効性について頭の中で検討した。
うん、悪くない。ていうか、それしかない。
解決は絶望的と思われたこの懸案事項に希望の光が差し込んだことに気を良くし、オレは心の中で父さんの提案に対する決裁印をバンッと押した。
“企画採用”
夏休みの余韻があらかた消えかけた九月上旬の教室、オレは自分の席でぼーっと頬杖をつきながら三限目の授業が始まるのを待っていた。
ニ学期に入っても暑さはいっこうに収まらず、秋の気配はまだ感じられない。開け放たれた窓からはセミ達の鳴き声が入り込んで来て、教室の中に反響している。セミの鳴き声って、聞くだけで体感気温が五%増しだよな。
実感として夏がまだ終わらないのに、夏休みだけは容赦なく終わるこの理不尽な現実。責任者、出てきて謝れ。
二学期初日に約一月半ぶりに登校した時は、制服を着崩し始めたり、髪の色が少し明るくなったりした奴らが数人いて、そいつらが生活指導の教師とやり合うのを見て内心面白がっていた。だがそんな些細な変化にもニ、三日で飽きてしまい、今は一学期と変わらない平凡で退屈な日々に戻りつつある。
すべて世はこともなし、だ。
ただ一つの、ごく小さな変化を除いては。
一昨日の朝、ホームルームが始まる直前のこと。どうやら寝坊でもしたらしい大嫌いな先輩が、全速力で校庭をつっきって行くのをオレは窓から眺めてニヤニヤしていた。
いつも陸上県大会三位の成績を鼻にかけてるあの先輩も、遅刻せずに教室にたどり着くには二十秒くらい不足だな。そんなことを頭の中で考えていた時、今までになかったあるちょっとした違和感を感じた。
右隣の席からの視線。
視界の右端に映る人影が、何やらこちら側を窺っている気配がある。
じーっと見ている感じじゃない。時おり顔を僅かに傾け、こちらの方をチラチラと覗き見ている印象だ。
大方の人にとっては、それぐらい取り立てて気にするような事じゃないだろうが、オレにとってみればコレはちょっとした事件だった。
オレが通っているこの市立三好台中学校は、基本的に縦の男女各一列を黒板に向かって左側男子、右側女子という位置関係で一組とし、その各組の間を通路とする教室レイアウトだ。
したがって、謎の視線の発信元とおぼしきオレの右隣の席に座っているのは、当たり前のことながら女子。
だがその当たり前のコトこそが実は問題だった。やっぱり小学校の校長先生、正しいコトを言ってた。
十三年かけて培われた、和泉克之の自己に対する普遍的認識の第一。
「自分は女子の注目を浴びない」
ちなみに第二は「釣りの日だけは早起きできる」だ。
小学校以来ずっと女子から空気扱いされてきたこのオレが、執拗な女子の視線を浴びるなどということがあり得るだろうか。いや、あり得ない。(反語)
うん、気のせいだ。間違いなく気のせい。
気のせいであれば無視するのが唯一の対処法。
オレはその時迷わずこの合理的判断に従った。
経験上こういう時に振り向くと、微妙に角度がズレた相手の目線とぶつかって「何? あんたのコト見てたワケじゃないんだけど」と目で語られることになる。そんなトラウマのタネにわざわざ自分から手を出してたまるか。
ところが何とも困ったことに、その不可思議な気配は一回きりでは終わらなかった。休み時間、給食の時、果ては授業中まで、このニ日というもの、何度となくオレの右側でこの密やかな動きが繰り返されている。
オレの左側で何か変わったコトでも起きているのかと目を向けても、特にいつもと違う様子など感じられない。
一体何だっていうんだ?
そしてこの異変が起きてから三日目に入った今日、実を言えばオレは少々辟易し始めていた。
自分のコトを見ているというのが気のせいだとしても、この密やかな印象の不穏な気配は、オレの神経をまるで安っぽい割り箸みたいにささくれ立たせる。何よりもまず、気配を感じた時の首筋がムズムズするような気分が気持ち悪い。
よし、覚悟を決めよう。一体何をコソコソ窺っているのか、今日こそはっきり確認してやる。
そう決意したオレは、目線を正面に保ちつつタイミングをそっと窺った。頬杖をついた姿勢はそのままに、気だるげな雰囲気を装う擬態も完璧だ。
来た、あの気配。
オレはごくさりげなく、かつ素早く目線だけを右にスライドさせてチラリと確認する。
モロに視線がかち合った。さながら見通しの悪い交差点での衝突事故みたいに。シートベルト着用義務を怠っていたオレの心臓が、ショックで喉元までせり上がる。
オレの右隣に座るその女の子は、互いの視線がぶつかった瞬間パッと目を伏せ、居心地悪そうにモジモジと姿勢を正した。
相手のその動作のあまりの素早さに、思わずこちらも反射的に目を逸らす。
か、勘違いじゃないよな? 確かに今、オレを見てたよな?
しかも目が合った時の反応がこれまたあまりに意外。
イメージからしたら、てっきり威圧的に睨まれるか、冷たい目つきで射竦められると思ったのに。
オレは跳ね回る心臓をなんとかなだめつつ、もう一度隣の席をチラリと盗み見た。
俯きながらスカートの裾を指先で弄り、頬をほんのりと上気させているその女の子の姿からは威圧感など微塵も感じられない。それどころか、これはまるで……。
次の瞬間、目だけをこちらにチラッと向けた相手と再び視線がぶつかった。
オレも向こうも、まるで同極の磁石みたいにバッと互いの目を反対に向ける。
何だよ、この絵に描いたようなラブコメ♡シチュエーション……。
もし隣に座っているのが他の女子だったらホントに勘違いしかねないレベルだ。
そう。川原瑞季以外の女子だったら。
オレの隣が他ならぬこの川原の座席であること。オレがあの気配を気のせいと判断した二つ目の理由がそれだった。
一言で言うなら、川原瑞季はクラスの中で浮いていた。
それはもう、海に投げ捨てられた空のペットボトルもかくやというくらい見事に。
女子からはほとんど路傍の石扱いされているオレでも、同性である男子の間ではそれなり、最低限のコミュニケーションネットワークは構築している。クラスの内外含めて四、五人はかなり親しい奴らがいるし、特に隣のニ組にいる池中優とは幼稚園時代から続く親友同志だ。
だが川原の周辺には、その最低限の同性ネットワークすら存在していなかった。男子のみならず、女子の中にも川原と親しくする者は皆無だ。
原因は単純。
川原自身が周囲に対して、絶大なる威力の「近づくな」オーラを展開しているからに他ならない。
その威力たるや、まさに絶対障壁。クラスの誰もが川原を腫れ物のように扱い、遠巻きにして関わろうとしなかった。
四月の入学直後、まだ席替え前で廊下側の前からニ番目だった川原の席の周りには、数日ほどの間ちょっとした人だかりができていた。しかもその性別構成比はほぼ半数づつ。
川原の外見的特徴は、「色の白い、小柄で細身の美少女」という表現に集約できる。百五十センチそこそこの身長に、未だ誰にも踏み荒らされていない降り積もった雪のような白い肌と、引き締まってほっそりとしたシルエット。
唯一の欠点をあえて挙げるとすれば、男子の立場からは本来適度に張り出していてほしい部分まで引き締まっていることくらいか。
オシャレにはあまり興味がないのか、髪は茶色のヘアゴムで無造作にまとめただけのポニテだが、これがクリッとした瞳の大きな目と、あどけない顔立ちに組み合わさると不思議なことに魅力的な要素になる。
この一見すると白い仔猫のような印象を与える川原の外見に、女子達は羨望と興味を、男子達は期待と野望を抱いて群がったわけだ。結果はまあ推して知るべし。
オレが少し離れた自分の席から時おり様子を窺っていた限り、川原も話しかけてくる相手を最初から無視していたわけではなかった。質問にも必要最小限とは言え返事はしていたようだし、会話の中で相槌も打っていた。
だが積極的に自分からは話しかけないことで、相手と一定の距離を保ちたいという意思を滲ませているのは端から見ているだけのオレにも分かった。
その後次第に、川原の意思をいち早く察知した者は自ら去り、察知できなかった者は自分のアクションに対する無反応という洗礼を受けるようになって行く。
こうして川原の席を囲む人だかりは、一人減り二人減りと日々その規模を縮小していったが、最後まで残っていた男子数人に対しては川原もいよいよ露骨に拒絶の意思を示すようになった。
眉根を寄せた不機嫌な目と完全な無言。なまじ外見が端正なだけに、その威圧感たるやハンパない。
これには最後まで残っていた諦めの悪い男子達も、スゴスゴと退散する以外なかった。
そんな経過をたどって、川原席周辺の人だかりは席替えが行われる頃には完全に消滅していた。
女子から気に掛けられない自覚があったオレは、最初からその人だかりに加わらなかったのはもちろん、席替えで隣同志になって以降も川原とは事務的な会話の他はほとんど話をしなかった。その「事務的な会話」でさえ、一学期の間にニ、三回あったかどうか、というところ。
まあこれまでの経緯を見ていたら、オレじゃなくたってそういう対応になると思うよ。
言うなれば“孤高の女王”
いや、外見的イメージからすると“孤高のお姫様”か。
現在の川原は単に敬遠されているという印象だけで、積極的な悪意を向けられたりということはないようだが、オレは彼女を巡る今のこの環境が、非常に危ういバランスの上に成り立っている気がしていた。
クラスの中でそんな立ち位置の川原が、ただでさえ女子から透明人間として扱われているオレに興味を持つ。
これがどんなに無茶な仮説か、説明の必要がまったく感じられない。
そりゃ、気のせいだと思うだろ? 普通。
もちろんドッキリの可能性も考えないワケじゃなかったけれど、ああいうのは数人が示し合わせてやるのが普通だ。
自主的ぼっちの川原がそんなことを仕掛けたり、あまつさえ他のグループに加担したりするなんてことがあるとは思えなかった。
オレはもう一度、そっと右隣に座るクラス一の異端児の様子を窺う。
川原は膝の上に置いた両手の上に視線を落とし、じっと俯いていた。本来着ているブラウスより白いはずの首筋が、ほんのり桜色に染まっている。
何だコレ。どうすればイイの? こういう時の対処スキルなんて持ってないよ? オレ。
この人生で初めて遭遇する事態の中、オレは心の中で川原の不可思議なアクションに対する決裁印をバンッと押した。
“対応保留”
結局この日、あれからもニ度ほど川原がこちらを窺う気配があったが、それ以上のアプローチはついになかった。ましてやこちらから話しかける勇気などあるはずがない。
もし話しかけて「…あそこのチャック、開いてるんだけど」とか、消え入りそうな声で言われでもしたらどうすんだよ。しかも一昨日の朝からずっとかよ。真っ白な灰になっちゃうよ、オレ。
とにかく、この件に関しては川原からの明確な意思表示がない限りは放置、という方針を自分の中で固めた。
よく考えてみれば、別にオレの方から川原の用件を探りに行かねばならない義理は何一つない。
ホームルームが終わるやいなや、川原は慌ただしくカバンを手にして教室から出て行く。
あんなイベントの後じゃ気恥ずかしいのは分かるけど、挨拶くらいして行けよ。よく考えたらいつも挨拶されてないけどな。
オレも教科書とノートをカバンに詰め込み、教室を出た。
部活に向かう生徒たちや廊下の端でおしゃべりに興じる女子グループの間をすり抜け、下駄箱で靴を履き替えて校舎の外に出る。
もう二週間もすれば秋分の日、かなり日没の時間が早まってきている。まだ時刻は四時を少し回ったくらいなのに、太陽の位置がかなり低い。
釣りをしていると、こういう季節の移ろいや天候にすごく敏感になる。学校生活では、天候なんて台風や大雪で休校の可能性がある時くらいしか気にしないが、釣りにおいて気象は、絶対に無視できない最も重要な要素だからだ。
釣りでは季節によって釣れる魚の種類が変わるのはもちろん、一日の中でも時間帯によって立て続けに釣れる時間帯、逆にまったく釣れない時間帯がある。この時間帯が、また季節によって変わるのだ。
その日その日の天候についても然り。釣りをしない人たちには、抜けるような青空が広がる日なんか「今日は絶好の釣り日和ですね」とかよく言われるけど、実はうちの父さんなんかはピーカンの天気があまり好きじゃない。
現在の父さんのメインターゲットであるブラックバスは、曇りや雨の日の方がよく釣れることを経験で知っているからだ。
校門へと続く道の傍らに等間隔に植えられたイチョウの木を見ながら、寒くなったらこのイチョウ並木も綺麗になるんだろうな、なんてことを考えつつテクテク歩いていく。
すると、一本のイチョウの陰からスカートの裾が見え隠れしているのに気がついた。うちの制服のスカートだ。
他のクラスの友達でも待ってるのか? とそちらを気にしながら歩いて行くと、次第にスカートの主の全身が視界に入って来る。
「「あ……」」
木の陰に立っているのが川原だと気づいたオレと、オレの姿を認めた川原が、同じタイミングで同じ声を出す。
時間が止まった。
気まずい。ものすごく気まずい。
ついさっき、川原の不可解な態度への対応保留という方針を固めたばかりなのに、この状況では今さら無視して歩き去るという選択肢は採れない。オレの心臓はそんなに強く出来ちゃいない。
だってここから無視するって、もうシャイとか人見知りってレベルじゃなく、ただのヤなヤツだろうよ。しかも、更にまずいことには思わず立ち止まっちゃってるし。
それにしても、何でこいつ真っ先に教室から出て行ったくせにまだこんなところをウロウロしてんの?
雰囲気から察するに誰かを待っている感じだったが、その仮定は“孤高のお姫様”川原瑞季のイメージにまったくそぐわない。
百歩譲って、もし本当に川原が誰かを待っていたとしたら、教室での出来事からの流れ上、その「誰か」はオレということになりそうだが、それこそこの世界で決して起こってはならないコトのような気がする。
とにかく、この状況を打開するためにはもはや何らかのアクションが必要不可欠と判断したオレは、なるべく簡潔、かつ当たり障りのない言葉を川原に掛けることにした。
「よう……」
なんでたった二文字発音するのに、こんなドキドキしなきゃならないんだよ。まったく、人生って理不尽なことこの上ない。
「あ、うん……」
川原もオレの呼びかけに一瞬ぱっと顔を上げ、すぐに自分の足元に視線を落としながらもじょもじょと返事を返して来る。
なんかコレ、端から見てたら付き合い始めの初々しいカップルみたいだろ。ほんと、恥ずかしいし居たたまれないしで、早く解放してほしい。
オレはそのまましばらく相手の様子を見守っていたが、川原はじっと俯いたまま何も喋らない。
ああ、コレはきっと例のあれだ。
女の子の行動や心理が、まったくオレの予想とかけ離れているいつものパターン。
過去の経験からしても、こういう場面でうっかり生半可な判断で対応したら、さぞかし痛い目を見るに違いない。
「まさかオレのこと待ってたの?」なんて間違って口にしようものなら「は? ちょっとキモい勘違いやめてくれない?」とか冷たく切り返されて、ショックと羞恥で三日三晩寝込む羽目になるんだぜ、きっと。
とにかく、川原が話を切り出さないのなら、こちらの次のアクションプランは「さりげなく立ち去る」の一択だ。
もし本当に川原がオレ以外の誰かを待ってるんだとしたら、オレがずっとここにいるのはありがたくないだろうしな。
「……また明日な」
そう言って歩き出した瞬間、背後から切迫した様子で声を掛けられた。
「ねえ!」
その言葉のあまりに意外な調子に、思わず振り返る。
言葉の調子も意外だったが、振り返った先にある川原の顔に浮かんだ表情はさらに意外だった。
川原はまるですがるような目で、首だけ振り返った姿勢のオレを見つめていた。
常にほとんど無表情、冷徹なオーラで周囲を拒絶する川原があんな顔を見せるとは。しかも普段女子からまったく注意を払われないこのオレにだ。
いやいや、それ以前に川原が本当にオレに用があって待ち構えていたらしいこと自体、驚天動地の大異変と言っていい。
横を通り過ぎて行った二人の女子が、こちらを振り返りながら何やらヒソヒソ話している。
あの顔、たしか隣のニ組の女子達だ。二人とも目を見開き、驚きの表情を浮かべている。
ああ、なるほど。
オレと川原の様子は一見、思春期まっただ中の甘酸っぱいシーンに見えるだろう。
それだけならまだしも、胸に手を当て、思い詰めたような表情でオレを見る川原と、振り返る姿勢で見返すオレという構図は、まるで「川原がオレにコクっている」ように見えるわけだ。
オレと川原の立ち場が逆ならいざ知らず、これは確かにビックリするよね。
オレはこの状況が長引くのは得策じゃない、と判断した。オレにとっても川原にとっても。
早いとこ川原の真意を確認して、話を切り上げよう。
「な、何か用あんの?」
オレの問いかけにも、川原はもじもじと身じろぎするばかりで何も答えない。
もう、ホント勘弁してくれ。
これ以上、この状況で衆目に晒されるのは耐えられない。何の罰ゲームだ、コレ?
用が無いなら、もう行くぞ、と喉まで出かけたところで、やっと川原が口を開く。
「あ、あのさ」
「うん……?」
「……」
もうちょっと処理速度上がんないかな~? メモリが不足してんのかな?
けれど次の瞬間、消え入りそうなか細い声で、意外な質問が川原から発せられた。
「和泉ってさ、釣りすんの?」
一瞬、思考が止まった。それほどオレにとって意外な質問だった。
オレは中学に入学以後、誰にも釣りの話をした記憶がない。理由は周りが興味を示さなくなったから。
小学校低学年くらいまではまだしも、高学年になって以後は休日の話題などで釣りの話をしても、周りのクラスメート達はだれも興味を示さなくなった。
友人達の話題はパソコンやゲームなどに関するものが大半を占めるようになり、オレも必然、彼らの前では釣りの話はしなくなって行った。
なのに今、あろうことかあの川原から釣りに関する質問が発せられている。
周囲との交流を必要最低限まで断ち、クラスメイトの情報など、入手の必要性自体まったく感じてなさそうなあの川原から。
「な、何で?」
動揺が声に表れないよう努力しながら、やっとそれだけ聞き返す。
「い、いいから答えなさいよ」
ボソリと不機嫌そうに応じる川原。
ちょっと待てよ。何で自分から声掛けてきて命令口調?
思わずムッとしたオレの顔をチラリと見た川原が、決まり悪そうに目を伏せた。
気まずい沈黙が立ち込める中、このままでは埒が明かないと思ったのか、シブシブといった様子で川原が先に口を開く。
「……私、夏休みにさ……」
「ああいや、そうじゃなくて……」
言いにくそうにぽしょぽしょと話し始めた川原の言葉を慌てて遮った。
川原はなぜ話を遮られたのか分からないらしく、キョトンとした表情で少し首をかしげる。
おい、知ってるか? お前、すげー可愛いぞ。……見てくれだけはな。
質問の理由を聞かれたと川原は思ったらしいが、オレとしてはそのずっと前段階が気になっていた。
「お前、何でオレが釣りすること知ってんの?」
「え?だって……」
オレの再度の質問に、川原はさっきとは反対側に首を傾ける。
だからよ、可愛いんだよお前。少しは愛想よくしてろよ、普段。
「自由研究……」
その川原の言葉を聞いた瞬間、納得がいった。またしても、「ピコーン」って音が自分の頭から聞こえた気がした。
それから十数分後、オレと川原は学校近くの公園でベンチに並んで座っていた。
公園のベンチに、女子と並んで座る。
こうして言葉にするといかにもな光景を思い浮かべそうになるが、実際はそんな甘い雰囲気では全然ない。実際、オレと川原の間にはたっぷり二人は座れるだけのスペースが空いていた。
オレの手には缶コーヒー。川原はミルクティーにちびりちびりと口をつけている。
話が長くなりそうだと踏んだオレは場所の移動を提案し、二人でこの通学路から少し奥まった公園までやって来ていた。
あのまま学校の敷地内で話を続けていたら、明日は男子からの質問攻めを受けることは確実だ。ホオジロザメがいる海に落ちたら助からないのと同じくらい確実。
このオレが女子と二人きりで会話をしていたというだけでも相当なニュースバリューだろうに、その相手があの外見的魅力充分、ただしコミュニケーション絶対拒否政策実施中の川原だなんてコトになったら、一体どんな騒ぎになるか。
ことによると、普段オレに興味を示さない女子までもが事情聴取に加わる可能性すら否定できない。
その場合、即刻刑事告訴の上、罪状認否の手順は速やかにすっ飛ばされることだろう。
この静かな住宅街にある小さな公園なら、学校よりはまだしも落ち着いて話ができる。あくまでまだしも、だけど。
「あれを見たのか」
オレは公園前の通りにキョロキョロ目を配りながら、ほとんど独り言のように口にする。
「うん」
あれ、とは現在教室後方の壁に掲示されている理科の自由研究のことだ。全員分ではなく、理科の担当教師によって選ばれた八名分が貼り出されている。
選抜基準は不明だが、その中にはオレのものも含まれていた。
ただ、自分のものが貼り出された理由に「こんな手の抜きかたもあるんだね。盲点だったよ♡」という、教師によるある種吊るし上げ的な意味合いが含まれているような気がしたのは、後ろめたさによる錯覚だろうか。
オレの提出した自由研究の内容は「雅川における魚類の生態」だった。
雅川は東京湾に流れ込む小規模な河川で、源流から河口まではせいぜい三十数キロしかない。
住んでいる家からチャリンコで十数分というごく近隣を流れ、また記念すべき自分の釣りデビューの場所でもあることから、オレが最も足しげく通う釣り場だ。
さらには遡ること三十数年前、父さんも他ならぬこの雅川で釣りデビューしていることから、和泉家にとっても特別な場所だった。
その規模のわりに魚種は豊富で、フナ、コイ、モロコ、タナゴ、ウナギ、ナマズ、マルタ、ニゴイといった淡水魚のほか、東京湾に流れ込んでいることから、ハゼやシーバスといった海の魚の姿も見られる。
一時期は家庭排水で汚染されたが、環境整備で水質が改善された現在は鮎の稚魚の遡上も確認されているらしい。
夏休みに父さんからもらった「実験と検証が済んでいるテーマを採用する」というヒントを元に、オレは雅川の魚達の生態と分布を題材に選んだ。
何しろ、七年にわたる実釣データと、魚が釣れるたび父さんが撮ってくれた写真という画像資料まで豊富に揃ってる。あとは構成を考え、考察を加えればいいだけだった。
こうしてたったニ日で作成した自由研究が教室の後方に貼り出され、何かの拍子に川原の目に留まったということらしい。
唐突に川原がプッと吹き出す気配を感じて、オレはそちらを見やった。
何だよ。いきなり思い出し笑いか? 変なヤツ。
川原もオレの視線を感じたのか、チラリとこちらを見る。顔は可笑しそうに笑ったまま。
「和泉ってさ、子供の頃は可愛かったんだね」
ギョッとしたが、川原が何を言っているのかはすぐ分かった。自由研究に使った小学生時代の写真のことを言っているのだ。たしか一年かニ年生の時の写真もあったはずだ。
まさか自分の提出物が貼り出されるとは思ってもいなかったから、すっかり油断していた。
自分の自由研究が貼り出されているのを発見した日は、あまりの恥ずかしさに家に帰って一人身悶えた。他人に小さいころの写真を見られるのが、こんなにも恥ずかしいことだとは思わなかった。
まして普段めったに会話すらしない女子にあらためて指摘されると、これはもう自殺を前向きに検討するレベル。
ていうか川原、子供の頃「は」って何だ。「は」って。
「さっき、話ぶった切っちまって悪かったな」
あまりの照れくささに、オレは即刻話を逸らしにかかった。もしこの話題をこれ以上引っ張られたら、恥ずかしさのあまり悶死する。
オレの謝罪に、川原はフルフルと首を横に振った。
「それで? 釣りがどうしたんだって?」
さっきはオレが釣りをするという情報の入手経路に気を取られたが、よくよく考えると川原が釣りに関する情報に興味を持つこと自体も意外だ。
まさか川原、実は凄腕釣り師で、オレに勝負を申し込むつもりとか?「私が勝ったら、先生に頼んで別の席に移ってくんない?」とか真顔で言い出しそうだ。
川原は一度大きく深呼吸をすると、こちらに上半身を向けて話し始めた。
オレに話しかけるという最初のハードルをすでに飛び越えているせいか、先ほどよりはスラスラと言葉を紡ぐ。
「えっと、私さ、この夏休み家族で旅行に行ったのね。群馬の方とか……」
「へえ……」
群馬っていうチョイスが、すでにもうかなりシブいな。サファリパークにでも行ったのかな。それともストレートに温泉目当てとか?
そんなどうでもいい思索に耽っていると、川原の低い声にハッとさせられる。
「何、その気の無さそうな返事?」
いちいち突っかかって来ますね。だいたいそっちから話持ちかけて来て、相槌に文句つけられてもなぁ。
「何だよ。ちゃんと聞いてるって」
オレが不服そうに反論すると、川原が不信げな目つきのまま話を続ける。
「……それで、弟がたまたま車で通り掛かった釣り堀の看板見て、やってみたいって言い出したの。しょうがないな、って思ったけど、せっかくの夏休みの旅行だし、滅多にある機会じゃないから一時間だけやらせたんだ」
確かに、北関東や東北みたいな山あいの地方に行くと、ニジマスなんかの釣り堀が数多くある。
しかも良心的な釣り堀では、わざと一~ニ日エサを与えないでおいたハラペコのマスを日に数回定期的に放流してくれる。そのため小さな子供や釣りをしたことのない人でも比較的簡単に釣れて、それなりに楽しむことが出来るのだ。
それにしても、なかなかいいお姉ちゃんしてるようじゃないですか、川原さん。学校でも、少し周りに優しくしたらどうですかね?
「そしたら、偶然なのか九匹も釣れちゃって」
なぜか困ったような声色で川原は言葉を続ける。オレは川原の様子に違和感を抱きながらも相槌を打った。
「そりゃあ、よかったじゃないか」
きっと良心的な釣り堀に当たって、放流直後のいい時間帯に入ったんだろうが、それにしても九匹とはなかなか見込みがあるぞ、弟クン。
「それ自体はよかったんだけどさ……」
「何か問題が?」
川原はミルクティーをもう一口ちびりと飲むと、ふぅっと溜め息をついた。
「弟のヤツ、その時よっぽど楽しかったのか、旅行から帰って来てからもずっと『また釣りしたい!』って言ってばっかなの。もう困っちゃって……。 お母さんなんか、困ってるって言うよりも何か機嫌悪くなっちゃうし」
なるほどね。弟クン、デビュー戦の好成績に気をよくしてハマっちゃった訳か。
気になるのは、川原は今の弟クンの状況に否定的なスタンスらしいということ。
お母さんに至っては、更に機嫌を損ねているということだが、まあ女の人って、あまり釣りっていうモノに理解ないからね、一般的に。
でも釣りバカであるオレ的には、共感も好意も抱ける話だ。心情的に弟クンに味方したくなる。
「もう一度訊くけど、何が問題なんだ? 家に籠りきりで、パソコンやゲームのディスプレイの前から動かないってのよりずっと健康的だろ?」
「私だってそう思うけど……」
川原は言葉を切って、手の中のミルクティーの缶に視線を落とす。
「いくら弟に駄々こねられても、うちに釣りの道具なんてないし。それに、私も母さんも釣りなんてしたことないから……」
そうか。お母さんはともかく、川原自身は弟クンが釣りをすること自体に反対なわけじゃないらしい。問題は弟クンに釣りをさせる環境が整わないこと、というわけだ。
だがそうなると、当然沸き上がる疑問が一つ。
「そういう時は、父親の出番なんじゃないの? 普通」
オレがそう言った瞬間、川原の肩がピクン、と跳ねた。気のせいじゃない。
触っちゃいけない物に触ってしまったのが何となく分かった。話の流れ上、それが何なのかもおおよそ見当がつく。
「…………うち……お父さん、いないから……」
俯きながら、一言づつ絞り出すように川原が答える。
予想通りだ。
迂闊だった。それくらい察してやるべきだった。
あの川原が、オレなんかに相談を持ちかけるという選択をせざるを得ないという時点で、それくらいの推察は出来たはずだったのに。
「わりぃ……」
後悔と罪悪感とで、思わず謝罪の言葉が口をつく。
すると、川原は驚いたような表情ではっと顔を上げた。
何? 何でそんな意外そうなの? オレってそんなに無神経そうに見えんの? ちょっと傷ついちゃったよ?
多分傷ついた気持ちが顔にまで出ていたんだろう。オレの顔を見た川原はふっと表情を和らげ、クスクス笑いながら答えた。
「別にいいよ。相談してんの、私の方なんだし」
おそらく初めて目にする川原の柔らかい表情に、思わずドキッとさせられる。
こいつ、こんな顔もできるんだ。
「それで? オレにどんな用だったんだ?」
ここまでの話を聞く限りでは、川原の相談の内容は二通り予想できる。弟クンに釣りを諦めさせる方向の相談か、それとも……。
「うん。で、今弟がそんな感じだからさ……」
そこで一旦言葉を切り、川原はもう一度大きく深呼吸をする。そして、意を決したようにオレの目をまっすぐ見据えて、はっきりとした口調で言った。
「釣りのこと、教えてもらえないかなって。道具とか、近くで釣りができそうな釣り場とか」
さっきのお返しってワケじゃないが、今度はオレが思わず吹き出した。
「な、何よ!?」
川原が顔を赤くして食って掛かって来る。
「何でもねえよ」
そう言いながらも、さっきの川原の言葉がヘンなツボに入ったオレは込み上げて来る笑いが抑えられない。笑っちゃいけないと思ってる時に限って笑いが止まらないあの現象だ。
「ちょっと……」
川原の顔は既に真っ赤。恥ずかしいとかじゃなくて、スゲー怒ってるんだろうな。
「……バカにしてるわけ?」
「だってさ……」
何とか笑いの第ニ波を飲み込めた。アブねー。これ以上笑ったら命に関わりそうな雰囲気だ。
「……『釣りができ』る場所を『釣り場』って言うんじゃねえの?」
そう言われた川原がうっと言葉に詰まる。
「まあ気持ちは分かるケドな。『動く歩道』を『歩く歩道』って言っちゃうアレだ」
こんなちょっとした重複言い間違いの揚げ足を取るオレも意地が悪い。少し反省。
「う……」
見るからに悔しそうな顔で川原が呻いた。
「……うっさい!バーカ、バーカ!!!」
歳上の子にからかわれた幼稚園児か、お前は。
それにしてもコイツ、やっぱりいいお姉ちゃんだった。弟クンが望んでいる以上は、なるべく希望に添ってやりたいというところか。
なぜだろう。そのことにちょっとホッとしているオレがいる。
さて、事情は分かった。
弟クンに対する川原の思いやりに、思わず少し感心しさえした。
だがその理解と感心が、すぐにこの川原の依頼に対する承諾に繋がるかと言えば、それはまた別問題だ。
まず最初に、相談して来た相手が女子だという部分がオレを躊躇わせる。
これが男子だったら、一も二もなく引き受けるところだ。むしろ弟クンのみならず、本人にも布教して釣り仲間を増やそうと躍起にすらなるかも知れない。
だが女子とのコミュニケーションに対する拒絶反応はオレの深層意識にまで刻み込まれているようで、考えただけでもう理屈抜きに憂鬱な気分が沸き上がる。
さらにオレを尻込みさせるのは、相手がよりによって女子の中でも最大の難物、あの川原だということだ。
今の会話の中で意外な面をいくつか見られたと言っても、川原のイメージはそう簡単には変わらない。依然として川原は、オレの中で"排他的で愛想の悪いヤツ" だった。
いや、そんなカワイイもんじゃない。
あらゆる干渉を受け付けない難攻不落の要塞。鉄壁の防御を誇る不沈空母。
もしこの依頼を受けた場合、今後のやり取りでどんな精神的ダメージを被るか。
自分から依頼した事案だけに本人に悪意はないとしても、オレとしては川原の対人スキルに全幅の信頼を置く気には到底なれなかった。
正直、あまり関わりたくない。断りたい。
心の中の天秤が、限りなく「断る」側に傾いたその瞬間。
なぜか突然、さっき父親がいない境遇を口にした時の川原の顔が頭に浮かんだ。
胸の中にそっとしまっておいた、触れるだけで、ちょっと動かしただけで激しい痛みを伴う何か。それを自ら無理矢理えぐり出すようなあの顔。
脳裏に浮かんだその悲痛とも言える表情が、謝絶の言葉を発しようと開きかけたオレの口を再び閉じさせた。
本当に断っていいのか?
ただでさえ周囲との交渉を望まない川原が、あんな依頼をするのには相当な勇気が必要だったんじゃないか?いくつかの物を手放す覚悟さえ必要だったんじゃないのか?
川原の視線を感じ始めたのが一昨日だったことを考えても、今日イチョウ並木のところでオレに声をかけてくるまで、きっとこいつは丸ニ日悩み続けたんだろう。
それでも川原は決断した。踏み出した。
弟クンのために、どんな理由でかあえて構築した周囲との隔絶を壊してでも。オレなんかに家庭の事情を告白するという屈辱に耐えてでも。
だったらこの依頼、そう簡単に断るわけにはいかないだろう。川原が犠牲を払ってまで乞うた物を、オレは持っているんだから。
しかも、女子と関わるストレスや、川原からの扱いに対する不安というベールを一枚めくれば、ごくささやかながらプラスの感情が自分の心に隠れていることも認めない訳にはいかない。
今まで誰にも価値を認められなかった「釣り」という要素にスポットが当たったのもちょっと嬉しかったし、女子に頼られるという、わりとストレートな自尊心みたいな物もあった。
でも何より、あんなすがるような目でかけられた期待を、この場で即裏切るのは心が痛む。
だが一方、逆にこの場で川原の依頼を安易に受けることも、やはり出来ない相談だった。
誰かが釣りを始めるサポートをするということは、思ったよりずっと大変なことだ。少なくとも、川原が想像しているよりはずっと。
川原は道具と場所について教えて欲しいと言ったが、道具は狙う魚の種類や釣り方によって多種多様だし、場所だって知ってさえいれば着いてすぐ釣り始められるってもんじゃない。
もし依頼を受けるのだとしても、この件は和泉家初代釣りバカの助言を乞う必要がある。
ダメだ。受けるにしろ断るにしろ、どっちにしてももう少し時間が欲しい。
「返事、明日でもいいか?」
「うん。いいよ」
そう答えながらも、川原はこちらを見もせず、表情も少し固い。オレが躊躇っているのを見て取って、期待うすと感じているのかも知れない。
「あと、弟の年は?」
大事なコトを忘れてた。
この情報なしには、父さんに相談のしようもない。
「十歳。今、五年生」
今度はきちんとオレの方を向いて、川原がそう答えた。
しかもその顔には微笑が浮かんでいる。春先に綻ぶ花の蕾のような微笑。
ええ、川原さん。真剣に検討はしてますよ?あくまで今は検討段階ですけど。
ちくしょう、それにしてもこの笑顔。マジでカワイイよな、こいつ。
「でもさ、少し意外だった」
ベンチから立ち上がり、スカートをはたきながら川原が言う。
「何が?」
「和泉、案外話しやすいね。もっとムッツリした、ヤなヤツかと思ってた」
前言撤回、即時撤回。ていうか、よりによってお前がそれを言うのか?
ちょっとでもコイツのことをカワイイと思った自分自身にまで腹が立つ。
やっぱり断ってやろうかな、この話。
心の中でそんな不満と反論を一時脇に押しやって、オレは川原の依頼に対する心の決裁印をバンッと押した。
“継続審議”