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その後、私は母と雅美が暮らす部屋を訪ね、雅美にと、ゆう兄ちゃんの思い出の本を手渡した。
雅美もゆう兄ちゃんの事は憶えていて、岩淵家を訪ねに行くまでには本を読み切ると言っていた。雅美にとって本を一冊読むのは容易なことではないはずだが、雅美に優しかったゆう兄ちゃんや、祥子ちゃんのことは、幼かった彼女にも大切な思い出のようだ。
母が読んであげると言ったにもかかわらず、自分で読みたいと断った。読み終わったら私と岩淵家を訪ねる事も約束させられた。
雅美以上に喜んだのは母だった。岩淵のおばさんの様子が知る事が出来たからだ。
母にとって岩淵のおばさんは、私や雅美の面倒を見てくれた人でもあり、年は上でも同い年の子供を持つ母親同士の友人でもあったから。あの頃は母と、父の姉である祥子ちゃんちのおばさんと、岩淵のおばさんは、互いにお茶を飲んではおしゃべりに興じていたものだった。
母にも一緒に行かないかと誘ったのだが、「忙しい」の一言で片づけられてしまう。
きっと本当は母も岩淵家に行きたいのだろうが、母は岩淵のおばさんや祥子ちゃんちのおばさんの説得を振り切って父と別れている。顔を合わせにくい気持ちもあるのだろう。
それでも雅美が岩淵家を訪ねれば、それをきっかけにして昔の交友が戻るかもしれない。岩淵のおばさんの気の良さを憶えている私はそう考えて、無理強いはしない事にする。
私は恵次に本を読んだ事を伝える電話を先延ばしにしていた。気づいたらすでに週末になっていた。
手紙をもらった時は迷いながらも懐かしさに後押しされて、簡単にかける事が出来たのに。なんていう違いなんだろう。あれからそんなに経っていないのに。
本を雅美に渡した事もまだ伝えていない。仕方なく私は今夜のうちに恵次に電話をかける事にする。
それでもつい、ためらった。食後の食器をまとめながら、これを片づけてからにしよう。先にお風呂を済ませよう。そんな調子でずるずると引き延ばす。
そんな事をしているうち、結構遅い時間になってしまった。なおさらかけにくかったがいい加減あきらめて思い切って通話ボタンを押す。恵次はすぐに出た。
「もしもし」
「もしもし? 久美です」
「ああ、久美か。読んだか? 吹きだしただろう? お前も」
かけてしまえばなんてことは無かった。恵次の声を聞いてしまえば、さっきまでの戸惑いは消えてしまった。
「うん、吹いた。ゆう兄ちゃんには悪いけど、何度も笑っちゃった。ほほえましくて」
「だよなあ。あれだったら、今の俺でも書ける」
「あら。あんなに可愛らしく書けたら、褒めてあげる。あれはあの時のゆう兄ちゃんでなきゃ書けないわよ」
「分かった、分かった。兄貴に関しちゃ、俺はうかつなことは言わない。似たようなことを祥子ちゃんにも言われたよ」
「その、祥子ちゃんにも電話したわ。恵次がよくこの話の原稿を見つけてくれたって、感謝していたわ。ごめんね、連絡が遅れて」
「かまわないよ。俺の方もここのところ落ち着かなかったし」
「仕事、忙しいの?」
「いや、プライベート。この間のハンカチの娘、どうにか誘おうと思ってさ」
急に息が詰まる。声の調子が変わらないようにと、気を使う。
「思うだけじゃ駄目でしょ? 誘ったの?」
「まあ、なんとか。実は明日食事に行くんだ。なんだか落ち着かなくてさ」
「なんだー。悪い時に電話したわね。仕度して早く寝なさいよ」
「子供みたいだな、俺。出かけるのはどうせ午後からだから」
「落ち着かないんでしょ? そんな事言ってて寝不足になっても知らないから。そうそう、あの本、雅美にも渡したの。読み終えたら雅美もおばさん達に会いたいって。そのうち連れて行くわ」
私は話の流れを要件に戻した。必要な事だけ伝えて、早く終わらせたい。
「雅ちゃん自分で読んでるのか。こりゃ、余計下手な事は言わない方が良さそうだ。雅ちゃんにまで怒られそうだ」
「そうよ。じゃあ、雅美が読み終えたらまた連絡するわ。デート、頑張って」
恵次が「ハハッ」と軽く笑うのが聞こえる。私は大事な事を言い忘れているのに気がついた。
「それから恵次、ゆう兄ちゃんの本、作ってくれてありがとう。とっても嬉しい。大事にするわ」
「どういたしまして。じゃあ、おやすみ」
「おやすみなさい」
電話を終えると何だかぼうっとしてしまった。途中からの緊張に、解放された安堵感が広がる。
恵次が好きな娘を誘ったと聞いても、生々しいほどの感情は無い。相手の顔も名前も知らないし、自分とはまったく接点の無い話に思えた。
そもそも私が恵次を意識したのは、その姿がゆう兄ちゃんを思わせたからで、電話で話す恵次の言葉を、そんなに意識している感じはしないのだ。
私は大人になってからの恵次の事を何にも知らない。恵次の姿にゆう兄ちゃんを見ているだけ。
それなのに恵次が好きな娘を誘った事が、私の心をざわつかせた。
それからしばらく私は恵次に連絡を取ることは無かった。雅美が本を読むのにはそれ相応の時間がかかったし、他に特別用事もなかった。
恵次が誘った娘とどうなったかも、そんなには気にならなかった。
その話はすべて恵次の向こう側の話で、私には何の実感もない。私にとっての恵次は子供の頃の思い出であり、祥子ちゃんの結婚を共に喜びあった人であり、今も子供時代を語り合う事が出来る人。ただそれだけの存在だ。
ゆう兄ちゃんそっくりの、あの耳、あの姿をもっている事を取り除けば。
でも、そのことは強いて心から追い出そうとした。そこに考えを到らせたくない。
祥子ちゃんは、ゆう兄ちゃんの見た目なんかに惹かれていた訳ではなかった。今の私よりもずっと若かったにもかかわらず、きちんとゆう兄ちゃんを理解して、短かった生涯を懸命に励まし続けていた。
それなのに私の持っている感情は、それとは似ても似つかないもの。こんな感覚は初めてだ。
私は恵次にゆう兄ちゃんの耳元の姿を重ねている。恵次自身の事なんて、何にも解ってはいない。
ゆう兄ちゃんのことだって解ってない。私はゆう兄ちゃんがどんなつらい闘病生活を乗り越えて来たのかさえ、気づく事がなかった。
二人の心のありようや、性格、しぐさなんかを重ねているのならまだしも、自分好みの身体の線を重ね合わせて、意識しているだけ。そのくせ恵次を幼い日の、思い出の人の代わりにして、挙句、他の娘を誘っているのが心の奥で気に入らないでいる。私って最低だ。真底自分が嫌になってしまう。
いくら好みがあるとはいえ、たかが身体の線の印象でここまで心が左右されてしまうなんて考えたくもない。このままでは大切にして来た子供時代の思い出さえも、自分自身で汚してしまいそうだ。
だからなるべく恵次のことは、考えないようにしていた。