7
「声、かけてくれればいいのに」そういう言葉も涙声になっている。
「今戻ったところだよ。そうだよな。久美はこの部屋、十九年ぶりだもんな。悪かったな」
「全然悪くないよ。悲しくなったんじゃないの。楽しかった事を思い出して、思わず」
私がハンカチを目に当てながらそう言うと、
「おいおい、それじゃ、アルバムなんか見せたら号泣ものじゃないか」と、恵次が笑う。
「大丈夫よ。でも、アルバムは下でおばさん達と見ましょう。せっかくだから」
「そうだな。リビングに戻るか」
そういいながら恵次は、ゆう兄ちゃんの本を二冊手に取った。
「その前に、洗面所、貸して。お化粧、崩れたかも」
「おお、早くしっかり直してこい。その顔じゃ父さんも母さんもビックリする」
恵次が憎まれ口をたたく。
「いやね。そこまでひどくないでしょ?」
私はそういいながら、新しくなった洗面所を案内してもらった。
それからリビングで四人でアルバムを見た。昔、ゆう兄ちゃんに見せてもらったゆう兄ちゃんの小さい時の写真や祥子ちゃんの写真があった。やがて恵次の写真が出てきて、私達姉妹の姿は私が小学生の時から現れた。ほとんどがこの家と、その近所の写真だ。
「私、小学生になってからここに来るようになったのね。もっと昔からだった気がしたのに」
「そうよ。雅ちゃんが久美ちゃんについて歩くようになってからだから」おばさんが言う。
言われてみるとその通りだ。では、私達がこの家を訪ねていたのはわずか三年ほどの事だったのか。でもそれはとても大切な三年間だった。
私達はアルバムを見ながら、また笑顔で話を弾ませる事が出来た。さっきの感情はやはり、あの部屋の空気がもたらしたものだったらしい。写真の中のゆう兄ちゃんは懐かしくはあるが、あんな風に心をかきたてるような笑顔ではなかった。写真はあくまでも写真。心の中の情景とは違う。
「さっき、あの本のあとがきだけ読んだんだけど、あれはおばさんが書いたの?」
あの文章は女性が書いたように思われる文体だったので、私は聞いて見た。
「そう。でもお父さんや恵次とも話し合って書いたの。だって二人とも書かない癖に横やりだけは多くて仕方なかったんだもの。しょっちゅう話も脱線して全然進まなかったのよ」
「おばさん、文才があるんですね。ゆう兄ちゃんがお話を書いたりしたのは、おばさんの才能を貰ったんですね」
私はそう言ったのだが、
「ダメダメ、お世辞言っちゃ。私も雄太も文才なんてないわ。本来こんな文章、人に見せるものじゃなかったんだから」
そう言って苦笑いをする。おじさんと恵次も目を合わせて笑っていた。
そのゆう兄ちゃんの本は雅美の分と二冊、私の父と一緒に食べるようにとおばさんが用意してくれたお土産の菓子と一緒に小さな紙袋に入れられ、私に手渡された。
夕食を食べていくようにと言われたが遅くなるからと私は断り、念のためにと恵次が駅まで送ってくれることになった。
ソファの私の隣に座っていた恵次が先に立ち上がり、私も席を立とうとして下から恵次の姿を見上げる格好になる。その瞬間、私は驚いた。
恵次の姿が、ゆう兄ちゃんにそっくりだったのだ。
この兄弟は年が離れているせいばかりでなく、色々と正反対であまり似ていないと子供の頃から思っていた。色白のゆう兄ちゃん。少し色黒で血色のいい恵次。落ち着いた目をしていたゆう兄ちゃんに対して、少し大きめで活発な目の色をしている恵次。ゆう兄ちゃんの口元はおばさんに似ているが、恵次の薄い口はおじさんによく似ていた。ひょろりとしたゆう兄ちゃんと、今では細身ながらもしっかりとしている恵次の体格。
ところが、今恵次を下から見上げた時、耳から首元にかけてのラインが、それはそれはゆう兄ちゃんによく似ているのだ。特に耳は瓜二つなほどだった。
私があまりにあっけに取られているので、恵次が怪訝そうに聞いた。
「どうした?」
「恵次、耳がゆう兄ちゃんに似ているって、言われたことない?」私は聞いた。
「あら、久美ちゃん、よく気がついたわね。そうなの。二人とも似てない兄弟だってよく言われたけど、耳だけは恵次が小さい時からそっくりだったの。そこまで気づく人ってめったにいないのよ」
おばさんが嬉しそうに言った。私は動悸がおさまらない程驚いている。
「私、いつもゆう兄ちゃんをこの角度で見上げていたから。いま恵次が立ち上がるまで、全然分かんなかったわ」
「子供の頃は久美の方が背が高かったしな。耳なんていちいち見てなかっただろうし。俺も親とじいちゃん意外に言われたの、初めてかも」
恵次は照れ臭そうに言った。
「血が繋がってる証拠よね」
私は笑いながら言った。
「本当だ。しっかし、久美、結構目ざといんだな。祥子ちゃんにも言われたこと無かった」
「祥子ちゃんなら気づいていたかもね。いちいち言わなかっただけで」
「そうかもしれないなあ」
そんなやり取りの後、私は今度雅美も連れて来るようにとおじさん、おばさんに言われ、約束をかわして岩淵家を後にした。私を送るために恵次は隣を歩いて行く。
平気な顔を装ってはいたが実は私の動揺は収まっていなかった。耳だけではない。意識して見てみるとアゴや首、肩へと続くラインが私の大好きなゆう兄ちゃんを見上げた時のあの姿そのままだ。
やっぱり今日の私は普通じゃなくなっている。人の耳なんて、そう意識するものじゃないのに。どうしてもあれから恵次の耳元が気になって仕方がない。
この人はゆう兄ちゃんじゃない。恵次だ。心の中で自分に言い聞かせる。そして思い出した。恵次には彼女にしたいと思っている娘がいるはずだ。
「ね、例のちょっとしたお礼を渡した娘。どうなった? 受取ってもらえた?」
何気ないように聞いて見る。
「ああ、あのアドバイスは助かった。その娘の携帯や、普段使っている小物と同じ感じの色のハンカチを贈ったんだ。喜んで受け取ってもらえた」
「そう。よかったじゃない」
「うん。今度、本当に食事に誘って見ようかな」
「誘っちゃえ、誘っちゃえ。こういう事は勢いを使わないと」
けしかける半面、すでに胸の奥が痛む。耳の事に気付いたのは、ついさっきの事だと言うのに。
行きと違って帰りの道は駅まであっという間だった。当然だ。今度は完全に上の空で歩いていたのだから。
「そうだ、久美、きっと兄貴の本を読んだら吹きだすぞ」別れ際に恵次が言った。
「え? なんでよ?」
「読めば分かるよ。まあ兄貴だって十八だったんだもんな。読み終えたら感想でも聞かせてくれ。電話でもメールでもかまわないから」そう言って笑っている。
「分かった。読んだら電話するわ。じゃあ」
「うん。気を付けて」
こうして私は懐かしい街を後にした。