24
目が醒めるとすでに朝だった。恵次やおばさんが帰ってきた気配にも気がつかなかった。ぐっすり眠り込んでいたらしい。夢さえも見なかった。
ベッドを見ると雅美はまだ眠っていて、隣あっている恵次の部屋からの物音も聞こえてこない。
まだカーテンも開けていないにもかかわらず、この部屋はかなり明るくなっていた。東側の窓から強い朝日が差し込んでいるのだろう。
ゆう兄ちゃんはこんな朝日を浴びながら目を覚ましていたのかと、ちょっとだけ考えた。
あんな事があった直後だし、恵次が言ったように泣き明かす事はないにせよ、この部屋で眠る事が出来るのだろうかと心配だったのだが、案外あっさりと眠ってしまったようだ。
部屋の中を見渡す。本が詰められ、所々に車のプラモデルが置かれた濃い、こげ茶色の大きな棚。同じ色合いの机。クリーム色の壁と天井に、木目模様の物入れの引き戸。そんなゆう兄ちゃんの部屋にカーテン越しの朝日が差し込んでいる。
私はこの部屋に午後や夕方のイメージを強く持っていたので、こんな朝の部屋の雰囲気は、ちょっと新鮮に映る。まるで部屋が目覚めの時を待っているようだ。
私はここ最近なかったほど、心が穏やかだった。
昨夜眠りこむ前に、ほんの少しだけ恵次のぬくもりを思い出した。あの時は考える事が多すぎて余裕が無くなっていたけれど、本当に優しいぬくもりだった。
それはきっと、恵次が私の思い出にこだわってしまう心まで包み込んでくれたからだろう。その安心感が私を夢も見ない程の眠りに連れて行ってくれた。
今だってここは思い出に満ちている。ゆう兄ちゃんの笑顔も思い出すし、雅美や祥子ちゃんの姿も思い出す事が出来る。
けれどあの、時を遡って行くような感覚はもうない。自分の心をしっかりと今に残したまま、思い出を懐かしんでいる私がいる。
きっと恵次のおかげだわ。思い出に逃げ込む私に、恵次は昨夜、現実の中にやすらぎがある事を示してくれた。私はそれを自分で壊してしまったけど、それでも私は恵次の手で、ようやく長かった初恋を卒業できたのかもしれない。
私は強く、そう思った。
おばさんに軽い朝食をとらせてもらい、荷物をまとめると私達は早速恵次の車に乗り込んだ。
お世話になった事へのお詫びとお礼を言う私におばさんは、
「だって、私何にも世話なんてしていないもの。ごめんなさいね、お構いもしないで。今度は二人ともゆっくり泊りに来て頂戴。いつでも歓迎するから」
と言って、見送ってくれた。
「おばさん、病院に送ってあげてからで良かったのに」
私は雅美と座った後部座席から運転する恵次に声をかけた。昨夜おばさんの知人は予定よりはだいぶ早かったが無事に出産して、面会時間にあらためて顔を出すつもりだとおばさんが言っていたのだ。
「日中なんだから自分でバスにでも乗るよ。昼前には父さんも戻るし。それより雅ちゃんを早く休ませないと。大体生まれてから他人が頻繁に顔なんか出してどうするんだ。今日は向こうの親も午後にはこっちに着くって言っていたから、絶対、お喋り目当てだ。そこまで付き合ってられるか」
相変わらずの憎まれ口。恵次だっておばさんのお節介は結構気に入ってるはず。半分は自慢も同然なんだろう。
「病人をいきなり家に連れてきちゃう人が、おばさんの事、言えないでしょ? でも本当に助かったわ。ありがとう、恵次」
「俺も連れ回したからなあ。責任あったし。雅ちゃん、これに懲りずに海が見たくなったらいつでもおいで。海辺の宿もいいだろうけど、ウチもなかなか居心地良かっただろ?」
「うん。あの部屋、昔と変わってないしね。また、泊りたいな」雅美が機嫌よく言う。
「そうね。私もまた、泊りたい」私も同意した。
「おや? 久美はあの部屋で、懐かしさのあまり号泣でもしてたんじゃないのか」
恵次はそう茶化して聞いてきた。
「残念でした。ぐっすり眠れたわ。またいつか二人で押しかけるかもしれないわ」
「本当に?」恵次は意外そうな声を出した。
「うん、本当に」恵次のおかげでね。心の中で、そうつけ足した。
「お姫様二人、いつでも来るのを待ってるよ」
恵次もそう言って笑う気配がした。
団地の前に来ると母と酒井さんが雅美を迎えに来ていた。
「熱は下がったって言うけど、大丈夫なの?」母が雅美を気遣った。
「うん、大丈夫。何ともない」
「でもすぐ休ませた方がいい。安心して、また熱が出るかもしれないから」
そういいながら雅美の荷物を持ったのは酒井さんだった。心配する母のそばについていたに違いない。
「雅美ちゃん、今日は部屋でおとなしくできるね?」酒井さんが雅美に声をかける。雅美もうなずく。
そこには形はどうあれ、新しく出来つつある、家族の姿がある。私とは別の家族が。
「酒井さん」
私は車から声をかけたが、次の言葉が見つからない。母が緊張した顔で振り返るのが目に入る。私は言葉に詰まる。
言いたい事が沢山あるような、今更何もないような……。
「よろしくお願いします」母の事も、雅美の事も。そんな気持ちでそれだけを言った。
酒井さんは頭を深く下げた。
「じゃ、行くよ」そう言って恵次は車を発進させた。