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まさかここで、こんな事を聞かれるとは思わなかったので、すぐには頭が働かなかった。
一瞬の間をおいて押し込めたものが再び湧きあがって来る。私、本当にこれでいいの?
私の望み? 望みってなんだろう? 恵次の事は嫌いじゃない。いい訳だろうがなんだろうが、いい所を沢山知る事が出来た。感謝もしている。頼もしくも思う。
鼓動はこんなにも早く打っている。恵次が誘った娘への嫉妬心は本物だ。あの、私の好きな耳元が目の前にある。そこにたった今、唇を押しあててしまいたいほど、いとおしい。でも。
ああ、ゆう兄ちゃん。これはゆう兄ちゃんと同じ耳だ。下から見上げた時のあの形、内緒話を聞いてくれる優しいしぐさ。
どうしてもまとわり付くゆう兄ちゃんの面影。恵次だけを見つめられない戸惑い。
私は今、恵次を望んではいない。
それはとてもはっきりしていた。残酷なくらい。私は首を横に振るしかなかった。
恵次が腕を緩め、私は恵次から離れた。
「ごめんなさい……」私は謝った。他に言葉が見つからない。
「俺、こういう事が下手だな。久美が兄貴の部屋にいると、気が弱くなるのを利用しようと思ったのに」
「そんなことない。それを言ったら私だって、恵次が寂しい時を利用したもの」
「お互い様か」
恵次はそう言ったが、それは違う。恵次は私の迷いに気がついた。私に応えようとして、こんなギリギリのところに来ても、私の心を何より尊重してくれた。ここまで私の心を想いやってくれる人なんていないだろう。そういう人を、今、私は傷つけたんだ。
焼け付くような胸の痛みと同時に、安堵が広がる。それでいて罪悪感はぬぐう事が出来ない。ただ、それでも心は納得していた。こんなに混乱した頭のままでは、どっちにしても互いの幸福感は得られなかったはず。何より私は自分の心に嘘をつかずに済んだ。私は恵次の思いやりというか、冷静さに救われたんだわ。
「久美、本当に兄貴の事、慕ってたんだな」恵次が私を見てしみじみといった。
そう、私はゆう兄ちゃんが大好きだった。幼かった分、なんの迷いもなく、ただ、好きだった。けれど。
「それだけじゃないわ。ゆう兄ちゃん達と一緒に過ごした、あの時間が大好きだったのよ」
あの時のあの部屋で、なにも知らずに大人たちに守られて、祥子ちゃんと雅美が一緒に幸せそうにしていたから、私はゆう兄ちゃんが好きだった。あの時間を思い出せばその後のつらささえ和らげる事が出来る、長い間私にとって、心の逃げ場だったから。
優しい思い出は、優し過ぎるからこそ、溺れてしまうのだろう。
「すまなかった、大事な思い出、利用したりして」
恵次の目がスッと暗くなった。こんな目をされるとは思わなかった。
「違うの。私が思い出にこだわり過ぎてた。かえって自分で思い出を傷つけたの」
私は慌てて反論したのだが、恵次は首を振った。
「自分を傷つけるようなことは言わない方がいい。俺、ずるいやり方をしておいて今更だけど、本当に久美が好きだよ。今日一緒にいてそう思った。だから苦しまないでくれ」
恵次が初めて私に「好きだ」と言ってくれた。なのに、私はその答えさえ、持っていなかった。
恵次が部屋の戸を開けた。
「俺は下で母さんの連絡待つけど、久美はどうする?」
「雅美のそばにいる。目が醒めた時不安になるといけないから」
「そうだな。ゆっくり休んでくれ。おやすみ」
「おやすみなさい」
恵次は階段を下りて行き、私はゆう兄ちゃんの部屋に戻って雅美のそばに身体を横たえた。
下からしばらくは小さくテレビの音が聞こえていたが、その音が止まると、玄関を出て行く気配がした。おばさんを迎えに言ったのだろう。その物音に雅美がまた、目を覚ました。
「気分はどう?」
「うん。もう大丈夫」
受け答える声もしっかりしていた。熱も完全に下がっている。明日にはすっかり良くなるだろう。
「明日、すぐに帰るから、ゆっくり寝ておいて。恵次が車で送ってくれるって」
「うん」
雅美はそう言って目を閉じる。でもすぐ目を開いてしまった。
「お母さん、心配してるね」雅美がそう、聞いてきた。
「そうね。だから明日は早く帰ろう」
「お父さんは? お姉ちゃんいなくて、寂しいかな?」
雅美から父の話が出るとは思わなかった。身体がこんな時だからだろうか?
「お父さんは慣れてるから。私より、雅美に会えなくて、寂しがってるよ」
「お父さんが?」雅美の目が丸くなる。
「うん、この間も言ってた。雅美がなつかなくて当然だって。本当は寂しいのよ。雅美にいっぱい謝りたいんだと思う。お父さんだって、雅美とお母さんには幸せになってもらいたいんだから。今度、電話でもかけてあげて。きっと喜ぶから」
「でも、なに話していいか、分からない」
「お父さんの話、聞いてあげるだけでいいよ。気が向いたらかけてあげて」
「……うん」
雅美はためらいながらもうなずいた。そしてまた眠りに入って行く。私も布団に入ると人気のない静けさに、意外なほどすんなりと眠ってしまった。