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雅美に「鎌倉に行ってみない?」と声をかけてみると、思った以上に雅美は喜んでくれた。
そんなに遠い場所でもないのに、雅美は長い事海を見る機会がなかったから。
母を交えずに私と出かける事はこれまでもあったが、一泊の旅行をした事なんてない。戸惑うかと思ったのだが、意外と雅美はすんなりと受け入れた。
「海の見える所に泊ってみたい」それが雅美の希望だった。
何だか私は張りきった。是非、雅美に海を見せてやりたい。二人とも泳ぎは苦手なのだから、純粋に景色を楽しめればいい。とにかく宿だけ抑えてしまおう。
雅美には障害者手帳を提示すれば、少し割り引いてくれるところもあるはずだが、それにはこだわらず、とにかく雅美の都合のいい日にホテルと、帰りの観光向け特急列車を予約してしまう。これで雅美とゆっくり話す事も出来るだろう。
その話の中に、父の雅美に対する後悔も混ぜる事が出来るといい。雅美が嫌がらなければの話だけれど。雅美にもう少しだけ、今の父の事を知っていてほしいと思う。
そのためにも雅美のささやかな望みは一つでも叶えておきたい。私は迷いながらも恵次に鎌倉行きの事を知らせる事にした。出来れば行きは雅美を車に乗せてもらいたかったのだ。
言いだしっぺは恵次の方だが、私はあの時に断っているし、寂しさを紛らわせようとする恵次の気持ちを利用するようで、気が引ける。それでも雅美を喜ばせるために恵次に甘えさせてもらいたい。一日中観光をするのに人目の多い交通機関ばかりでは、雅美には結構な負担になることは確かだから。
電話をしてみると、やはり恵次は「雅ちゃんは特別」と言ってあっさりと承諾してくれた。
私は一応雅美と行きたい所を話し合ったが、雅美の一番の希望は海を見る事だったし、雅美を連れ歩く以上は、あまり静寂な寺院仏閣は訪れにくい。だからと言って賑やかな所も長居するのは大変だ。見て回れるところなんて、自然と決まってしまう。欲張らずに海辺を散歩するぐらいの気持ちでちょうどいいだろう。
後は雅美の様子を見ながら行動すればいい。こんなおおざっぱな予定に付き合ってもらえるのは恵次ぐらいなもの。正直助かった。
「いいんだよ。言ったじゃないか、両手に花だって」
当日、公団の前で待っていた私達を車で迎えに来た恵次は、そう言って笑った。母は心配半分な表情で
「雅美をよろしくね」と、恵次に告げ、それでも雅美に向かっては
「楽しんでらっしゃい」と言って、笑顔で送り出した。
「なんなら帰りも送って行くのに」と恵次は言ってくれたが、
「せっかくだから旅行らしくしようと思って。雅美、あんまり遠出する事がないんだし」と、断った。
「そうか。これからはたまに遠出もすればいいよ。大抵のことは慣れれば何とかなるものだし、雅ちゃんだって自信がつくだろう?」
「そうね。少しづつ、ゆっくりね」
肝心の雅美は、朝が早かったので少し眠たそうな目で、車窓を見ているけど。
それでも雅美も有名な観光地の駐車場に着くと、あちこち見渡しながら歩き始めた。物珍しさが先立ってしまい、周りの視線もそんなに気にならずにいるようだ。
適度な人混みは人の関心を和らげてくれて、逆に人目を避ける事が出来る。その日はちょうどそんな混み具合で、雅美もかなり気が楽だったようだ。
人の列に混じって、古い神社の建物を皆と一緒に眺めていれば、私達もただの観光客。たまたま行われていた結婚式の花嫁の姿に歓声を上げようとも、誰も振り返ったりなんてしない。雅美の楽しげな姿に私もホッとする。
時間を気にする事もないので、ゆっくりと観光を楽しむ。通りで買い食いしながら歩いたり、お土産物の彫刻を冷やかしたりもしてみる。
早めの昼食に、何故か土地とは関係のない、北海道産を売りにしているそばを食べ、のんびりと駐車場に戻って行く。
私は途中で恵次に持たせるために、酒屋で地ビールを買った。車では一杯飲む事さえできないのだから、おじさん、おばさんへのお土産もかねて、帰ったら飲むようにと渡す。
「気を使うことないのに。俺達はこの辺じゃ、地元と変わらないんだから」
「でも、いつも来たり、買ったりする訳じゃないでしょ?」
「お前こそ飲めばいいのに」
私は恵次に近づいて声を落とす。
「雅美がいるのにそうもいかないわ。ちゃんと様子を見ていないと」
雅美だって自分の事で私達が気を使っているような言葉を、聞きたくなんかないだろう。コソコソと話していること自体が後ろめたくもあるのだけど。
しかもこんなしぐさは私も恵次のあの、耳元を意識してしまって、落ち着かない。つい、不自然なくらいにパッと離れてしまう。恵次は少し表情を変えた気がしたが、何も言わなかった。
車で移動すると、小さな浜辺に降り立った。雅美の念願だった海だ。
車窓で眺めていた時から、「海だ、海だ」と言っていた雅美に、靴を脱いで素足で少し歩こうと言ってみた。三人で人の少ない河口口付近の浜辺で、私達は波と戯れる。
潮風を浴び、素足に砂と波の感触を味わいながら、ゆっくりと歩く。目の前に広がる海を眺めていると、心がのびのびと広がって行くようで気持ちがいい。雅美も気持ちよさげに波を楽しんでいる。時に、大きな声もあげているが、誰もたいして気にする風はない。来てよかった。
大仏像の裏では沢山のリスが寄って来た。観光客が差しだすお菓子が目当てなのだろう。よいのかどうかも分からないが、雅美は自分の持っていたスナック菓子を与えていた。可愛らしいしぐさに、目を細めて楽しんでいる。どうか仏罰が当たりませんように。
雅美は本当にはしゃいでしまい、休みもせずに次の場所へ行くのをねだった。高台の寺へと小走りするように進んでいく。
「少しはしゃがせ過ぎね。落ち着かせないと」私は心配したが、
「旅行中は誰でも気が浮き立つよ。雅ちゃんはめったにこんな風に楽しむ機会もないんだし。いいじゃないか少しくらい」と、恵次はたいして気にとめない。
「その分、疲れが出るんじゃないかと思って。こんなに興奮する事もないんだから身体に悪いかも」
恵次は忘れているだろうけれど、私は雅美が気持ちのありように体調が左右されやすい事を知っている。しかも雅美の身体は決して丈夫とは言い難い。
「そうか。じゃあ、売店のあるところで休むか」
私達は海の見下ろせる高台に着くと、お堂の見学は後回しにして雅美を休ませた。ここは四季折々の花やアジサイ、この場所から見下ろす美しい海の姿が有名で、黙って座っているだけでも景色を楽しむ事が出来る。
今は花の季節には少しずれているが、それでも遠くにきらめく青い海や入り江、街の様子が広く見渡せる景色は見に来るだけの価値があった。
でも海の見えるベンチは人が多く、雅美を座らせるので精いっぱい。私達はそこから離れたベンチに腰掛けて雅美を見守った。