16
その日、夕食の後のお茶の席で、私は父に再婚する気はないのかと聞いた。勿論頭の中には母の事があった。
妙に思われはしないかとは思ったが、母に恋人がいる以上、父にもそういう事があってもおかしくはない。それこそ、母以上に私に遠慮があるのかも知れないし。私は気になった。
「今更俺のところに来る物好きなんていない。いい年になるってのに借金を返したばかりで貯金もないし、趣味もない。楽しみといえば酒ぐらいなもんだ。こんな男のところに苦労しに来る女性はいない」
父は特に勘ぐる事もなく、なめらかに答えた。
「私みたいなめんどくさそうな娘もいるしね」
「そういう心配をするなら、お前、そろそろ考えてくれ。こっちもだんだん不安になってきた」
普通の愚痴になってしまった。藪蛇だったみたい。
「そのうち考えるわよ。お父さん、お母さんの事で懲りちゃったの?」
私は半分、はぐらかしたい気持ちでそう言った。しかしそれは、父から意外な言葉を引きだした。
「懲りたのはお母さんの方だろう。俺はお母さんを裏切ったから」
「裏切ったって、雅美の事で?」
父は一時の間をおいた。少しお茶をすすって湯飲みを置く。
「いや……。あの時お母さんと別れたのは雅美のせいじゃない。その事も原因の一つだが、それだけじゃなかった。いい機会だ、お前に謝っておきたい。あの離婚はお父さんのせいなんだ」
私の息が詰まった。このいい方で裏切ったって事は……。
「お父さん、浮気でもしてたの?」
父は無言だったが、頷いたも同然な表情をした。
「あの頃、お母さんは本当に雅美の事で手いっぱいになっていた。男親の俺は、雅美のような子をどう接すればいいのか分からなくて戸惑うばかりだった。当時は俺の勤め先もかなり苦しい時だったんだ。今の不況と比べるとどうか分からないが、嵐のような円高が何度も襲いかかって来て、小さな工場には厳しい状態だった。お母さんは仕事を変えるように言ったが、俺は社長に恩があるし、不器用だから雅美を抱えて他の仕事を探す勇気も持てなかった。何とかあの場を凌ぐ事しか考えていなかったんだ。俺は雅美の事から逃げ出したし、お母さんに手を差し伸べることはできなかった。自然とお母さんの心が離れてしまったんだ」
「雅美が倒れる前から、二人とも難しくなっていたの?」
「そうだ。それに俺は雅美に無理を押しつけた。あの時俺自身が、情に頼って生きた結果、どうにも身動きの取れない状態になっていた。世間の冷たさを感じている時だった。雅美に何かがあって放りだされても生きて行く強さを身につけてほしかったのは本当だ。あんなに幼い娘に、俺は強引に自分には無い人生を歩ませたいと願った。おかげで自分の娘を死なせかけたんだ」
父もあの時は苦悩していた。でも、母はそれをなじり続けていたのを私も見ている。
「あの時お母さんがなじり続けたのもあたりまえだ。その時お父さんは、自分を慰めてくれる女性に逃げ込んだんだから。結局はそれが決定打になったんだ。お母さんは悪くない」
決定打。母もその事を知ったと言う事だ。よりによってあんな時に……母はどれだけ絶望しただろう?
「そんな……あの時、お母さん、本当に必死だったのに」
「分かっている。あまりに必死過ぎて、俺も一家心中でもしようかとさえ思った。俺は稼ぐ事でしか家族を支える事を知らないのに、一時は給料さえ滞っていたんだ。そんな事をするぐらいならと、ヤケになって浮気に走った部分もある。家族が壊れるのを承知で。父親失格だ」
「相手の女性は?」
「すぐに別れた。とても続けられるものじゃない。だから女性はもう、こりごりだ」
「だから、結局仕事も変えて、雅美の治療費も借金する必要があったの? それで、雅美にかかった分はすべてお父さんが被る事になったの?」
「そうさ。家族全員を傷つけた俺が、雅美にしてやれるのはそれしかなかった。雅美がなつかなくて当然だろう。俺はあまりに弱過ぎた」
しばらくは言葉が出なかった。だから、雅美が倒れた後、二人は共に立ち向かうのではなく、別れる道を選ばざるを得なかったんだ。父が家族を放棄してしまったから。
そりゃあ、私の事を避け続けたはずだわ。これじゃ、父が私から家族を奪ったも同然だもの。
ショックですぐには感情が湧かない。恨む気持ちさえ起らない。
「あの頃のお前にこの事を知られる訳にはいかなかった。俺と暮らすのが一層つらくなっただろうから。お母さんにお前と暮らす余裕はなかったし、実際何も知らなくてもお前は十分つらそうだった。ずっと謝りたいと思い続けて来たんだ。すまなかった」
父は深々と頭を下げた。
それから数日、私は父と目を合わせる事が出来ないまま過ごしていた。家族を奪われたのは悔しいが、こんなに古い話で今の父が憎いのかどうかも分からない。母を裏切ったことを許せるかどうか自信もないが、肝心の二人はすでに清算してしまっている。でも衝撃は強くて、父と向かい合う事が出来ない。すべては終わってしまっているのに、突然私の心だけが取り残されたように感じてしまう。
何だか私は無性に祥子ちゃんに会いたくなってきた。思い出の波に飲み込まれ、溺れそうな日々を過ごす中で、ゆう兄ちゃんとの純愛を貫いていた彼女の存在は光り輝いているように思える。まるで嵐の中の灯台のようだ。ただ、祥子ちゃんの顔が見たかった。
祥子ちゃんが結婚してからは、電話ではたまに話す事もあったが、直接会う事はめったになくなっていた。週末に少し顔を出したいと言うと、祥子ちゃんは楽しみに待っていると言ってくれた。ご主人のたまの休みの団欒を奪うようで気は引けるが、どうしても会いたいような気がした。