15
私が席について間もなく、恵次も店に入ってきた。結局ちょうどいい時間だった。
私は食事をしながら、酒井さんという人物についてや、母に再婚の意思がない事、母が雅美と酒井さんを守ろうとしている覚悟などを話して聞かせた。決して食欲の進む話とは言い難かったが、仕方がない。
「そうか。おばさん、強いな。母親だからかな?」
「そう言うと思った。でも、違うと思う」
「違うか?」
「うん。お母さんは強くも弱くも無いんだと思うの。ただ、幸せを見つける方法を知っているのよ。その時、その場で最も幸せになれる方法。ただ、幸せを待つんじゃなく、強引につかもうとするんでもなくね」
「そうだなあ。人生経験が違うもんなあ」
「私みたいにちょっとした事で動揺したりしないのね」
「そういう人の方が珍しいんだよ、きっと。普通何かに戸惑ったり、翻弄されたりしているもんさ。だから昨夜みたいに聞かなくてもいい事も聞いてしまう。久美が動揺しているのは分かっていたのに、なんであんな事聞いたんだか」
「心配してくれたのよ。ありがとう。私こそ悪かったわ」
私は、さっきの考えを顔に出さないようにしながら、謝った。
「傷口に塩を塗ってか? 気にすることないぞ。残念ながら傷は浅いんだ。付き合う前に相性の違いが分かったんだから、ありがたいくらいだ」
「恵次も十分強いじゃない」
「口先程度は。そのくらいの意地はあるさ」
「ううん。子供の頃も恵次は強かった。みんな、ゆう兄ちゃんに気を取られて、恵次の寂しさにまで気が回ってなかったでしょうに。それでも恵次は元気いっぱいだった。カラ元気だったとしても」
「そうでもないさ。そのおかげで結構わがままも通ったからな。今でも母さんに言われる。すぐ、人に頼ろうとする甘ったれたところがあるって」
「次男坊だもの。そんなものでしょ?」
「割り切ってるなあ。久美だってあの頃から辛抱強かった。自分の行動範囲を広げたくなる年頃だったのに、いつも雅ちゃんに付き合ってた。お前、兄貴の部屋しか居場所が作れなかったんだな」
「そうでもないわよ。あの頃は雅美が邪魔で仕方なかったし、お目当てはゆう兄ちゃんだったし」
「それでも結局はいつも一緒にいたじゃないか。だからお前の家出騒動を聞いた時も、実はウチじゃ、久美が我慢できずにいるくらいだから、よっぽど辛かったんだろうって、同情してたんだ」
「いやだ。そんなことないのに」
「そう思わせるものがあるんだよ、久美には。母さんがよく言ってる。雅ちゃんばかりにかまっていないで、久美にももっと目をかけてやればよかったって。久美は俺とは逆に甘えるのがうまくないからって」
おばさんが。こんなに長い年月の間、私の事をそんな風に見ていてくれていたなんて。父も、母も、ちゃんと私の事は気にかけていてくれているのに、さらに、親のように見守ってくれていた人がいたんだ。
おばさんだって、ゆう兄ちゃんの事で大変だったはずなのに。他人の優しさが骨身にしみる。
「祥子ちゃんも、おばさんには良くしてもらったんでしょうね」
私にさえも気をまわしてくれたおばさんなら、祥子ちゃんは格別の思い入れがあっただろう。
「いや、むしろウチの家族は祥子ちゃんに甘えてたんだ。勿論父さんや母さんも祥子ちゃんに頼ってた」
「祥子ちゃんに?」
「身内だとどうしても、その場の苦痛を取り除く事や、命をとどめることばっかりに終始して上からの目線になる。同じ目の高さで歩むって事が出来にくくなるんだ。それを祥子ちゃんはやってくれた。思春期の、女の子にとって大事な時間を兄貴のために多く割いてくれた。彼女は我が家にとって恩人なんだ」
「恩人……」
確かにゆう兄ちゃんの本の中でも、彼女への感謝は繰り返し述べられていたっけ。
「だから祥子ちゃんが結婚した時は本当に嬉しかった。やっと彼女を解き放ってやれたって。母さんなんて泣いて喜んでたよ。たぶん、俺が式を挙げても泣かないぞ」
恵次はまた憎まれ口を叩いていたが、私は後ろ暗さが増してしまった。
おばさんはそんな風に私を気にかけ、祥子ちゃんはゆう兄ちゃんや、おばさんを支えていた。なのに今の私はそんなに大事にされてきた兄弟の面影を重ねて、楽しんでいる。
自分の心の汚さで、胸が苦しいくらいだ。
食事を終えて席を立とうとして恵次は、私がガイドブックを持っている事に気がついた。
「なんだ?鎌倉に行くのか?」
「分かんない。出来たら雅美と行こうかと思って」
「ウチからなら近いんだけどな」
「そうね。子供の頃私達も江ノ島によく行ったもの」
「車で連れてってやろうか? 日帰りでも行ける」
「私達には小旅行よ。それに、どうせ行くなら一泊したいなと思って。そうすればお母さんも、酒井さんとゆっくりする時間が持てるでしょう?」
「ウチを宿がわりにすればいいよ。兄貴の部屋に泊れとは言わないから」
「どうせなら海辺のホテルに泊るわよ。ご心配なく」
私は笑って答える余裕があった。雅美とあの部屋で過ごし、時の流れを感じてからは、ゆう兄ちゃんの部屋に対する特別なこだわりは、もうかなり薄まっていた。
「そうか? 気が変わったら遠慮なく声をかけろよ。俺も両手に花で憂さ晴らしが出来てちょうどいいんだから」
「傷は浅いって言ったくせに」
「口先程度だともいったぞ。じゃあ、ホントにまた、雅ちゃんと一緒に遊びに来いよ。暇な時でかまわないから」
親切で遠慮がない。雅美に気を使っておきながら、私のお菓子をもぎ取って行った子供の頃と変わらない屈託のなさ。恵次のこういうところが好きになれるんなら、こんな思いはせずに済んだのに。
今の恵次のいい所もだんだん見えて来た。気にかけて心配してくれる素直さ。何かあればすぐ駆けつけてくれようとするフットワークの良さ。憎まれ口の中に、気を引き立てようとする優しさがこもっている。
失恋直後の寂しさもあるのだろうけど、そして、恵次はきっと寂しさには敏感なところがあるのだろうけれど、それだけではない、生まれついての人の良さがにじんでいる。これは岩淵家の人達に共通している良いところ。さすがにあのおじさんとおばさんに育てられただけのことはあるわ。
それが見えていながら、どうしても耳元や首筋に意識が行ってしまう。なるべくそれを見ないように気を使うほど心がそこに惹かれて行く。それはもう、ぞっとするほどに。その後ろ暗さで、眼を見る事さえ苦しくなる。
会えば楽しい。そして、苦しい。私はいつまで、気さくな幼なじみを演じ続けていられるだろう?
不安を抱えながら恵次と別れ、私は家路についた。