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父と母が別れた時、借金だけ被らされるようだとか、まるで雅美を追い出すようで世間体がどうだとか、親戚たちが色々言っていたらしいのを私も小耳にはさんでいた。
雅美が引きこもったり、私が家出騒動を起こしたりするたびに「それみたことか」とも言われていた。
父が若い時に家を飛び出していた事もあってか、私達は身内から見ると「厄介者」扱いされてきた経緯がある。父の親が亡くなった時も、父が心労をかけたと陰で言われていた。すべてが悪感情ではないし、協力もあった。雅美の事は同情さえされていたが、そういう一面があった事も確かだ。
皆、個人では思いやりもあり暖かな心づかいもある人たちだ。それでも身内という一生続く関係の中で、生活という現実が重なって来ると一筋縄ではいかないらしい。一時の同情では済まないのだから。
「本当なら私達は誰とも関わるつもりはなかったの。でも、酒井さんがそれでも私を支えてくれるのなら、雅美を独立させるまで私が全力を注げるように力づけてもらえるなら、そのあいだだけ寄り添ってもらおうと思ったのよ。それ以上でもそれ以下でもないの」
これはいかにも母らしい言葉だ。状況が難しくなるほどあきらめ難くなり、かと言ってその状況を単純には受け入れない。母は今までそうやって、雅美を守りつつ生きて来た。
寄りかかれない不安。寄りかかるつらさ。どっちにしても母は苦しみを背負う事になる。
母は守ろうとしている。酒井さんも、雅美も。自分が酒井さんに寄りかかる事で二人に振りかかる問題を考えているのだろう。そのために多少の不安は自分で背負う道を選んだのだろう。
そんな母が選んだ人生の答えに、私は納得するしかない。
「そう。お母さんがそう決めたのなら、それでいいのね。ごめんなさい。余計な事を聞きに来て」
「いいのよ。きっと聞きに来ると思っていたから。久美も結婚は急ぐこと無いわ。夢のない事言って悪かったけど、私の二の舞を踏むこと、無いんだから」
「お母さん、今、幸せ?」私は聞いてみた。
「そうね。幸せね。これからも、たぶん幸せ」
それが聞ければ十分だ。私は心からそう思った。刹那的かもしれないが、先の事なんて誰にも分からない。今、精いっぱい幸せになれるのなら、きっと、それでいい。何だか母が少し遠くなったようで寂しくはあるけれど、不安があっても、つらくても、人は幸せになれる。母の生き方は、そう言う事を私に教えてくれる。
母と別れると、私はぼんやりとしてしまった。時計を見るとまだ昼前。うす曇りの日曜日、父には簡単な昼食の用意はしてきてある。この後特に予定はない。
私は恵次に電話をかけてみた。昨夜は気まずいまま別れてしまったし、母の事も気になっているかもしれない。
恵次はすぐに出た。自宅にいるようだ。
「昨夜、悪い事を言ったから、あらためて謝るわ。ごめんね」
「いや、先に他人の家の事に口を出したのは俺の方だから」
「その、お母さんに今、会って来たところなの。再婚の意思はないみたい」
恵次はちょっと間を開けた。立ち上がるような気配がする。近くにおばさんでもいるのかもしれない。
「電話でする話じゃないな。久美、これから予定があるか?」
「ないわ。どうしようかなって、思ってたところ」
「俺、そっちに行くよ。おばさんちの近くだろ?」
「いいわよ、わざわざ」
「たいしてかからない。一時間くらいだ」
「なら、真ん中あたりで落ち合わない? 最初に会ったあの店は?」
「ああ、あそこか。急行か準急一本で済むな。分かった、そこでいい」
それでも恵次の方が私より時間がかかる。私は街中を少しぶらぶらして時間を調整しようとした。
しかしそれは失敗だった。何か目的があって歩くのと違って、こういう歩き方はしなくてもいい考え事をしてしまう。
昨夜恵次に言ってしまった言葉が、頭の中で繰り返される。
そうするうちに、昨夜浮かんだ恵次への底意地の悪い感情がどこからくるものなのか、私は気付いてしまった。
私は恵次の気づかいに、甘えようとしているのだ。だから見た事もない娘に嫉妬し、あんな些細な言葉に重さを感じてしまった。恵次への感情が恋なのかどうかの自信さえないと言うのに。
ただ、そんな甘えに気付かない程、私ももう幼くは無くなったのだろう。
雅美の言葉を気にして、意識してしまった恵次の耳元。暗い期待が叶えられそうだという、後ろ暗さの混じる喜び。母の覚悟を聞いた後だけに、それは見事に対照的だ。
私は駅に取って返し、暗い考えを追い出した。すぐに電車に乗ってしまう。
電車の中で雅美に海に連れて行くと言った事を思い出す。母の事はその流れで知った。
海か、もうずっと見てないな。都心の海じゃつまらないしどうせ行くなら海だけでなく、少し観光ができるところがいい。近くだったら、鎌倉あたり。江ノ電に乗れば海岸は近いし、確か高台の有名なお寺から、遠くにきれいな海を眺められたはず。
日帰りか、一泊ぐらいの小旅行。楽しいかも。雅美も喜んでくれそう。
私は待ち合わせの店に向かう途中で書店に寄り、鎌倉の観光ガイドブックを買った。