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 あんなにも近寄りたくないと思っていたゆう兄ちゃんの部屋にも、雅美がいれば入る事が出来た。


 ここでの思い出は本当に特別だ。その後のつらかった出来事も優しく包み込んでくれるようだ。


 雅美は窓からの景色を眺め、床に座り込むと、昔自分が喜びの表現として転がっていた床を懐かしそうにそっとなでていた。

 この部屋はそんなに変わってはいない。でも、ここを転がっていた雅美は、もう同じ事をする事は無い。私はこの部屋の中で初めて時の流れを実感した。


「楽しかったよね」私は雅美に声をかけた。


「うん」


 あんなに饒舌になっていた雅美だが、この部屋では黙って床をなでていた。あの時の私のように、時を遡っているのかもしれない。


 棚にかけてある布をめくると、雅美は自分がおもちゃにしようとした車のプラモデルに気がついた。


「これ、憶えてる?」雅美に聞くと、


「うん。これ、欲しかったから」そういいながら雅美はプラモデルを手にする。


「女の子なのにこんな物が欲しかったの?」


「違うよ。こんな車で海に行きたかった」


 海。そう言われて思い出した。あの頃家族でよく海水浴に行っていた。電車に乗れば乗り換えなしで江ノ島の海水浴場まで三十分ほどで着けたから。


 雅美は泳げないながらも海が好きで、もっと行きたがったのだが、それなりに準備をして電車の中でぐずってしまう雅美を連れて行くのは、親にとっては結構大変だったらしい。


「車でもあればもっと頻繁に連れて行ってやれるが」父はよくそんな事を言っていた。


 雅美は母にべったりの子供だったが、それでも当時はまだ、父に脅えることは無かったし、時には甘えてさえいた。


 車で家族と大好きな海へ行く。それがあの頃の雅美のささやかな願いだったのか。


 雅美がこの車で遊びたがるのにそんな意味があったなんて、今まで知らなかった。


 いや、あの頃の私はここで甘えているだけで、一緒に過ごした誰の心も知ろうとはしなかった。恵次も、雅美も、祥子ちゃんも、そして、ゆう兄ちゃんの事も。


「ごめんね。気がつかなかった。今度、海を見に行こうか?」


「いい。お姉ちゃん、海は苦手でしょ?」


 私も泳ぎは不得手で、あの頃は別のところに行きたがっていた。


「泳がなければ平気よ。お母さんも誘って一緒に海辺を散策しよう」


「そうだね」


 雅美は少し戸惑った表情を見せた。忙しい母を気遣ったのかもしれない。


 あの頃雅美の望んだ願いとは違ってしまうが、それでも海を眺めるのも悪くない。私は何となくそう思っていた。



 その後、おばさんと共に三人で夕食の支度をした。夕食といっても簡単な鍋物で、それでも女三人で台所に立ち、鍋の準備をしながらかしましく騒ぐのはなんだか楽しかった。


 夕食の席で、アルコールが苦手な雅美は勿論呑まないが、恵次もビールさえ手を付けなかった。車で送ってくれると言う。


「電車で帰れるんだからいいのに」と、私は言ったが、


「雅ちゃんがいるから特別だ。昔から雅ちゃんはこの家ではお姫様だったんだから」と笑う。


 せっかくなのでお言葉に甘えて送ってもらう。私は結構なほろ酔い加減で、後部座席に雅美と一緒に座り、懸命に話す雅美の話を聞いている。ふと思いついて、母と海に行く話を再び雅美にしてみたが、


「お母さん、帰りが遅いから」と、雅美はあまり乗り気ではなさそうだった。


「忙しそうね。身体、壊さなきゃいいけど」私は何気なくそう言ったのだが、


「違うの。あのね」


 雅美の声が囁き声に変わる。声量が調節できない雅美は、大きな声で話せなければ声を殺して囁いてしまうしかない。私は耳を傾けた。


「お母さん、酒井のおじさんが、好きみたい」


 私は驚いた。酒井、酒井……。酔った頭で懸命に記憶をたどる。


 そうだ。思い出した。雅美がらみで近所とトラブルになりかけた時、雅美をかばって解決に力を貸してくれた人だ。母の勤め先の下請けをしている人。確か母達の近くに住んでいたはず。


 目の前で運転している恵次が気になる。雅美のささやき声は恵次にまで聞こえていただろうか?


 雅美は舌の回りが少し悪いので、はっきりものを言うために口を大きく動かさなければならない。しかも元の声が大きいから、声を殺しても囁く音もそれなりの音が出てしまう。


 でも短い言葉だし、運転席とは少し距離があるし。私は気をもんだ。恵次の耳が余計に気になる。


「そう、その話は後でお母さんに聞くね」


 そう言うと雅美は黙ってうなずいた。雅美なりにかなり気を使ったのだろう。


 逆に言えば雅美の言った「好き」とは、雅美でさえも気を使ってしまうような意味のある「好き」という事になる。雅美に本を渡しに行った時は特に変わった様子は無かったけれど。


 でも、その事が引っかかっていて、母は岩淵家に足を運ぶ事をためらったのかもしれない。おばさんは雅美と私のために父と別れないようにと、母を説得した人だったのだから。



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