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 やはり雅美にとって岩淵家のある街はすでに見知らぬ街だった。あまりにも彼女は当時幼すぎた。


 駅を降りても岩淵家への道も特別に感情をかきたてられる物ではないようだ。


 私達が住んでいた家のあったところへ行けば違う感慨もあるのかもしれないが、すでに家は無くなっているし、私にとっては良い思い出も悪い思い出も詰まった場所だが、幼かった雅美にとってはもしかしたら辛いだけの記憶しかないかもしれない。そういう場所に雅美を連れて行こうとは思わなかった。


 私が懐かしいと思ったあの公園の砂場も雅美の心を動かすものではなく、私には少しさみしかった。


 わざわざ連れて来る事もなかったかもしれない。私はそう思いはじめていたが、岩淵家の前に着くと雅美の表情が変わった。この家の姿を見てやっと思い出したようだ。


 玄関は様変わりしているが、石の門柱、手前に植えられた沈丁花や、ちょっと奥にあるツツジは昔のまま。何より家の形は変わっていないのだ。


 呼び鈴を押すとおばさんが真っ先に出迎えてくれた。雅美は当時おばさんにもよくお世話になった。


 ここに来るまでに転んでけがをして、傷の手当てをしてもらったり、トイレを失敗して恵次の服を着させてもらい、汚れた服は洗濯までしてくれた。


 二階に飲みものを持ってきてくれた時は必ず、


「雅ちゃんがこぼさないように、気を付けてあげて」と、一言私達に注意してくれた。


 そのおばさんはすっかり大人の姿になった雅美を、あの頃と変わらず「雅ちゃん」と呼んで、あの頃と同じように家の中に招き入れてくれた。雅美もホッとした様だ。


 恵次は私に「よう、来たか」と気楽に声をかけ、おじさんは「雅ちゃん、大人になったなあ」と声を上げた。



 私と三つ違いの雅美は今、二十五歳。見た目も、感情のありようも、すでに大人になっている。ただ出来る範囲の事が小学校低学年程度というだけのことだ。


 おじさんとおばさんが懐かしそうに昔話を始めると、雅美の記憶もゆっくりと当時に戻って行くらしい。


 私は思い出が多く残っていたから一気に心が昔へと戻って行ったが、雅美はおじさんとおばさんの会話から少しずつ記憶を手繰り寄せているらしかった。


 縄跳びでうまく入っていけない雅美が半べそをかきながらも毎日ゆう兄ちゃん達に付き合ってもらい、飛べるようになった事や、落書き帳がいっぱいになってしまい、おばさんにノートをねだったこと、この家の少し急な階段から雅美が転げ落ちてしまい、おばさんが慌てて病院に連れて言った事などを話していると、雅美は「うん、うん」とうなずいたり、「ああ、あの時は」と、大声で話しかけたりする。


 雅美はいまだに声のコントロールがうまくいかないので、話すときは息を切らしながら大声になってしまう。それでも岩淵家の人たちは雅美の話を邪魔しないように、根気よく耳を傾けてくれた。


 おかげで周りへの遠慮から日ごろ饒舌ではない雅美も、今日は良くしゃべる事が出来た。軽く興奮しているのかもしれない。


 私は嬉しかった。雅美が屈託なく過ごせるところがこれでまた一つ増えた。常に我慢と遠慮がついて回る雅美の生活に、こういう場所を得られるのは大きな喜びになるはずだ。


 離れて暮らしている私が雅美にしてやれることはこんなことくらい。日常を共にしている母は周りへの遠慮が先に立ってしまい、どうしても雅美を目の届くところに置いておこうとしてしまう。そこから一歩出て、外の世界を広げてやるのは私が出来るせめてものことかもしれない。


 ううん。それも関係ないわ。私も雅美が楽しそうにしてくれるのが、ただ、嬉しいのだから。


 雅美が強いられる遠慮は本当なら些細なことのはずなのに、常識はそれを許してはくれない。ちょっとした事への判断の遅さ、コントロールの悪さ。それが出来て当たり前と言うだけで雅美は多くの事をこらえ、我慢しなくてはいけなくなる。社会に受け入れられて生きるためとはいえ、普通の人にだって、出来ないことはたくさんあるのに。


 現に今の私だって、理不尽な感情に振り回されている。常識で考えたら人を見た目だけで、もしかしたら性的な感覚だけで、とらえていいはずなんてない。


 そう、今この時だって私は恵次の耳元を意識していた。恵次その人ではなく、ゆう兄ちゃんと同じあの耳元を。その事を私は自らの心に認めざるを得なくなっていた。


 直接会っていればどうしてもあの耳元が視界の淵に入る。目をそらせば気持ちが余計に意識する。恵次をあの耳を持つ人として意識してしまう。ついにはなまめかしくさえ思えて来る。 しかもそれには、後ろ暗さが付きまとう。


 先日の電話から、私には暗い期待が心に浮かんでいる。あの耳を持つ人を奪われずに済む。ひょっとしたら私の思うがままに出来るかもと。それは自分でもぎょっとするほど、思いやりや愛情とは無縁な、過去への執着心のようなものから生まれる欲望だった。常識どころか道徳心さえ、おぼつかない。


自己制御が効かなくなる事への不安。意のままにならない感情。


 それを抑え込む事の苦しさ。平静を取り繕う緊張感。感情か、行動かの違いはあるけれども、雅美はきっと、こんな苦しさをずっと味わい続けている。


 今なら私も雅美の心を少しは知る事が出来るのだろうか? それとも雅美の心には、私のこんな黒くて後ろ暗い感情なんて及びもつかない、別の苦しみがあるのだろうか?


 そんな事を考えがちな今の私にとって、雅美の喜びを心から自分の喜びに出来る状況は、自分の心が汚いだけではない事を確認できて、とても安堵する事が出来た。



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