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 それでもついに雅美が本を読み終わると、恵次に連絡を取らない訳にはいかない。雅美を岩淵家に連れて行く日を決めなくてはいけなかった。


 恵次に連絡を入れると、雅美を連れて行くのはいつでもかまわないと恵次は快く言ってくれた。


 恵次やおじさんがいるのは週末に限られるが、雅美が会いたいであろうおばさんは、いつでも来てくれてかまわないと言っているそうだ。


 それでもせっかくだからと、私は週末に雅美を連れて行くことにした。私にも仕事があるし平日の夕方ではあわただしい。雅美はずっと岩淵家の人々とは会っていないのだから、どうせなら皆が集まっている時の方がいいと思った。


 それに、恵次がいない時に岩淵家を訪ねるのは、何となくコソコソと恵次を避けているようで気持ち悪かった。これは私が一方的に意識しているだけの事なのだけど。



「恵次、いつの週末なら空けられる? 雅美の作業所の休みと合わせなくちゃ」


 雅美の作業所は納入先の都合に合わせるため、土曜も作業する事があった。


「いつでもかまわないよ。仕事も今落ち着いているし、雅ちゃんに合わせる」


「じゃあ、この週末でもかまわないの? 雅美、土日とも休めるんだけど」


「それでいい」

 と、意外にあっさり承諾した恵次の態度が引っ掛って、私は思い切って聞いてみた。


「プライベートな用事は無いの? この間の娘とまた会ったりするんじゃないの?」


 余計なお世話だろうとは思うが、聞かずにはいられなかった。


「この間会ったばかりだから。まだいいんだ。雅ちゃんを優先するよ」


 なんとなく声のトーンが違うような気がする。デートでヘマでもしたの? と聞こうかと思ったが、そんな冗談を言っていい雰囲気じゃない。気にはなるけど、追求できない。


「そう? なら、土曜に雅美と二人で押しかけるわね」


「土曜か。母さんが喜ぶな。この間は久美、夕食も食べずに帰ったから。今度は雅ちゃんも一緒だし、ゆっくりしていくんだろ?」


「そちらがお邪魔でなければ」


「いつでも歓迎するよ。なんなら姉妹で兄貴の部屋に泊って行くか?」


「それだけはご勘弁だわ」


 冗談抜きにそう思った。出来れば今、あの部屋にあまり近づきたくないとさえ思う。


「だろうなあ。雅ちゃんはともかく、久美には部屋で泣き明かされそうだ」


 恵次はいつもの調子で冗談をいい、私は乗る電車の時間を伝えて、雅美に連絡すると言って電話を切った。複雑な気持ちが残る。


 余計な事を考えない内にすぐに雅美に連絡を取り、二人で岩淵家を訪ねる事を決めた。



 母と雅美が暮らす公団は、私と父が暮らすアパートより岩淵家に近い。電車で行くにも一度乗り換えるだけなので、一時間ほどしかかからない。私は雅美と雅美が暮らす街の駅で待ち合わせた。


 雅美も子供の頃だったら駅で待ち合わせどころか、電車に一時間も黙って乗っているのが難しかったものだが、今では一人で出歩く行動範囲も随分広がっている。


 ちょっとした買い物や映画などには一人で都心に出る事も出来るようになっているが、岩淵家の最寄り駅は雅美が使う事のない路線なので、普段行くことのない街を訪ねる事になる。


 彼女にとってはつらい思い出の多い街なので動揺がないかと心配したが、行く先が岩淵家という事で、それほどの負担は無いようだ。


 何より雅美にとっても二十年の月日は長かったのだろう。まして彼女は本当に幼かったし。よく、ゆう兄ちゃんの事を覚えていたものだ。


「あの頃が、一番楽しかったから」

 雅美も私と同じ感想を持っていた。


 雅美にとっても、あの街を離れた後の生活は、決して楽しいとは言い難いものだった。


 家族が壊れて病気になったのが一番つらかったのではあろうが、その後の生活だって、良いとは言えなかったようだ。


 私と離れた事はどの程度影響したかは分からないが、父と離れた生活は雅美を精神的には落ち着かせてくれた。しかし、経済的にはやはり厳しく、雅美を部屋に残して母は常に仕事に出かけなければならなかった。


 当然目も届きにくくなるし、雅美もどうしてもトラブルが多くなる。


 大体、雅美の様子から勝手に誤解されているのがほとんどで、雅美は決められたことには結構神経質だ。難しい事を要求されなければ人様に迷惑をかける子じゃない。いや、かけようもないのだ。



 ちょっとした買い物でもレジを通したかどうかと問い詰められれば、とっさには答えられない。大抵ポケットにレシートが残っているからその場で見せれば問題ないのだが、そこへ頭が回らないのだ。


 スーパーのかごを勝手に持ち帰っただの、人の庭に勝手に入って洗濯物を汚しただのと、頻繁に苦情がきては母が確認して回り、事情を説明する。かごは雅美が持ち出した物は元の場所に戻さないと気が済まないため、店を大回りして返したのを誤解されたようだし、気の小さい雅美が知らない家の敷地になんて入りこむはずもなく、猫か何かが汚した物を、たまたまぼんやりと立っていた雅美のせいにされてしまっただけらしい。


 きちんと確認を取らなければ偏見ともいい難いし、偏見であったとしてもそれにいちいち対応してばかりいては心身共に持たなくなる。噛みつくのは簡単だが、雅美を社会になじませる事が出来なければ困るのは雅美の方だ。それでもこんな事が頻繁に起きているとやはり母には苦痛だったろうし、その姿を雅美はたった一人で受け止めて来たのだ。


 雅美はどうしても家に閉じこもりがちになり、一層、気が小さくなっていく。


 それでも本人の努力もあってか、雅美は自分の名前や住所を漢字で書く事や、最低限の足し算、引き算ぐらいは出来るようになった。ゆっくり、ゆっくりではあるが成長をして来た。


 そのおかげで中学の卒業後に食品加工の単純作業の仕事についたが、その小さな工場は二ヶ月後あっけなく倒産し、他の仕事は肉体的にきつい物ばかり。一度大病を患った雅美には難しい。


 結果、雅美は自信を失ってしまったまま部屋にこもっていたのだが、社会性を失う事を心配した母が役所の福祉課に相談して、どうにか現在の作業所に身を置けるようにしたのだ。


 雅美と母がそういう苦悩の真っ只中にいる時に、バカ娘の私は友人宅を転々としたり、こんな大変な母の元に、一晩泊めてくれと懇願してきていたのだから、全くどうしようもない。勿論母が私には甘くなりがちな事を承知の上で頼んでいたのだ。


 けれども私はそんな機会を使って雅美を外へと連れ出した。動物園、遊園地、映画、イベント、コンサート。自分の憂さ晴らしが主な目的だったのだが、それとは別に小さな世界から飛び出しさえすれば、世の中には楽しい事がいっぱいあるんだという事を伝えたかった。


 それが功を奏したかどうかは分からないが、雅美も今では一人で電車に乗って、自分の行きたい所に行く楽しみは持てるようになっている。今回の岩淵家への訪問で、雅美もそのつもりになれば岩淵のおばさんを自分で訪ねに行く事が出来るようになるに違いなかった。


 だから、私は恵次の事が引っ掛りながらも、雅美を是非、岩淵家に連れて行きたかったのだ。



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