四巡目
○登場人物
古武雅治・ふるたけまさはる(29歳、女性に対してコンプレックスのかたまり)
野倉智枝美・のくらちえみ(29歳、良い女だけど男性に不信感を持っている)
桑畠潤蔵・くわばたじゅんぞう(29歳、社会適応力が少なく会社を転々してる)
浜森信枝・はまもりのぶえ(29歳、フリーターで将来への希望も特にない)
千代原靖司・ちよはらやすじ(27歳、過去の恋愛の傷を振りきれられない)
柳舘修子・やなぎだてしゅうこ(27歳、過去の恋愛の傷を引きずっている)
7月24日の夕、古武雅治の頭。
天国なう。
ツィッターとか興味本位で一回やってみただけだけど今はこの言葉にかぎる。たまん
ねぇぜ、このやろう。
今日も家から市橋塾までの死のロードをなんとかクリアした。着いてしまえばあとは
冷房があたたかく迎えてくれる。んっ、変な表現。まっ、いいか。
今日の授業は2年のBクラス。学力は名のとおりにまぁまぁ。Aクラスほど勤勉じゃ
ないし、Cクラスよりは集中力はある。一応やっとくってぐらいのかげん。
今日は事前に予告しておいたように小テスト。授業をしなくていいんで講師には楽っ
ちゃあ楽。問題を作るのとか含めるとさほど変わりはないんだけど。
しかし、教室も冷房がきいててくれてなんとも気持ちいい。仕事場が気持ちいいって
のもおかしなもんだけど。外での暑さを頑張ればむくわれる感覚、学生のころのテスト
や文化祭のときの感じ。他の人なら恋愛もくわえるところなんだろうだけど俺には該当
しない。年齢イコール彼女いない歴の俺に青春の素敵な恋愛エピソードなんかありゃし
ない。
学生のときの俺といったらみじめなもんだった。有名学校の進路のように人生なんて
エスカレーター式に進んでいくもんだろうと漠然とした考えでいて、恋愛もその中の一
つだと思っていた。青春にさしかかれば彼女ができて、3度目のデートでキスをして、
よきタイミングでエッチをして、20代で結婚して、息子と娘が生まれて幸せな家庭を
築いてくんだろう。そんなあまりにもぼんやりとした未来を描いていた。今、あのころ
の俺に「人生、そんな甘くない」と言ってやりたくてたまらない。
中学に入ると少しずつ周りに彼女ができはじめていく。そのときはまだからかいなが
らうらやむ余裕があった。自分にもそのうち、そんな確信もない期待が。
高校に入るとだいたいのやつに彼女ができていく。中学のころはイケメンと美人だけ
が付き合えるとされていたものがさほど格好よくない男子にもさほどかわいくない女子
が横についていく。多分、恋愛というものへの憧れが強くなって理想より現実を見るん
だろう。付き合ってみたい、一緒に登下校してみたい、デートしてみたい、手をつない
でみたい、キスしてみたい、エッチしてみたい。そんな欲望が爆発して。
高校も終盤になってくると付き合ったことのないやつの方が珍しくなる。中学のとき
は付き合ってるやつがからかわれてたのが、逆に付き合ったことのないやつがからかわ
れてくる。周りから自らの武勇伝とともになぐさめられるのは見下されてるようで実に
悔しいものだった。
こうなると確信もない期待なんて打ちひしがれている。俺ってまずいんじゃないか、
その不安で苦しめられていく。だって、周りで誰とも付き合ったことのないやつなんて
ブサイクかデブか陰気な男子ぐらいだし。もはや、欲望を満たしたいというよりもこの
不安を消したいって思いの方が強くなっていく。でも、周りの目や自分のプライドもあ
るから誰でもいいなんてブサイクかデブか陰気な女子に妥協することはできない。イケ
メンと美人が結ばれ、さほど格好よくない男子とさほどかわいくない女子が結ばれてる
んだからイケてない俺はイケてない女子にいくべきだと悟ればよかったのにこのときは
それをできなかった。今になれば後悔でしかない。
大学に入ると軽い奇人扱いになる。珍種を見るような目をされ、逆に丁重にもてはや
されてしまう。実に低調な丁重だけど。「そこまでいったんだから簡単にそこらの女に
くれてやるなよ」とあがめられたけど、こっちとしてはそこらの女でもいいからという
気持ちにすでになっている。
ここまでになるとさすがにそこらの女でも難しい。もうブサイクやデブや陰気な男子
でも彼女がいるやつはいくらでもいるから何か欠陥があるんじゃないかとまず思われて
しまう。知り合った女子にも相手にされることはない。どんなに頑張ろうと最高で友達
までだ。
顔はよくないし、性格はネガティブ、放っているオーラも陰なものだろう。それによ
って人生うまくいってないことでそれらは年々強調されている。女性を惹きつけるもの
なんて何もない。自分でもよく分かってる。
それどころか就活もうまくいかず、全てに敗れた。これという手ごたえも全くなかっ
たし、面接官には滅多打ちにされた。社会ってものが怖くてたまらなくなった。こんな
男がいいというやつがいるならぜひ教えてほしい。
もはや、三十路前になると諦めもついてくる。この年にもなればたいがいの人間には
一連の経験はある。年をかさねるごとに社会で経験を積み、外見よりも性格が大事だと
悟ったイケてない男女が自己改革に成功して努力の末に相手を見つける。こうなると、
社会にも出ていない俺は完全に波に乗りおくれる。自己改革なんて先の先、ネガティブ
まっしぐらだ。
俺はこのまま何も知らずに死んでいくんだろうか。女性の手の安心感、唇の味、胸の
柔らかさ、絶頂の快感。周りのやつらの話している気持ちいいことの何も。嫌だぁ、そ
んなの生きてる意味あんのかよ。俺だって、あんなこともそんなこともやってみたい
んだよ。
そのとき、逃避行していた思考が現実にリンクする。目の前ではBクラスの小テスト
がまだ続いている。じゃあ、この気にさわってくる声は何だ。隣だ。隣のCクラスから
の男女の声だ。あそこのクラスには周りのことはおかまいなしに授業中でもイチャつく
カップルがいる。勉強もせず、講師の言うことも聞かないその姿にはいつもムカついて
いる。
ただ、今にかぎっては自分の思いにかさなって大きな嫉妬へと結びついた。怒りに火
がつき、自分自身の許容範囲をこえてしまった。隣の教室へ直結している扉へ一直線し、
勢いよく開けると憤りをぶちまけた。
「お前ら、ごたごた喋ってんじゃねぇぞ」
7月24日の夕から夜、野倉智枝美の頭。
「お前ら、ごたごた喋ってんじゃねぇぞ」
ビビった。マジでビビった。
一体、誰が怒鳴りこんできたんだと思ったら古武先生だった。意外だった。古武先生
がこんなふうにするのは初めてだったから。怒鳴られた生徒だけじゃなく、教室全体が
沈んだように静まりかえっている。
古武先生はその言葉だけで隣の教室へ直結している扉を強く閉めていった。教室には
変な余韻がただよっている。シーンとお通夜みたいに静まったまま、授業ごと止まって
しまっている。
「ハイっ、みんな集中してね」
講師らしく張った声で気をまとまらせる。私だって何がどうなってこうなったのかは
よく分かんないけど、この状態をなんとかしなきゃいけないのはまちがいなく私なわけ
だから。
授業を再開させるとリズムが戻ったのか生徒たちも話しはじめていく。また怒られな
いように小声になっている。話してる内容は耳に入るかぎりでは古武先生がなんでいき
なり怒ったのか、ムカつくとか。自分たちが悪いのに完全に古武先生を悪者扱いにして
る。まっ、生徒なんてそんなもんだけど。その無理やりな矢の的にならないようにヘタ
に感情を出しすぎないのが講師の心得の一つでもあるわけだから。だからこそ、なんで
それを知ってるはずの古武先生があんなふうにしたのかが気にかかった。
「すいませんでした。私が注意してないせいで」
授業終わり、講師用の控え室にもどるとすぐに古武先生に謝った。私がやる気のない
Cクラスだからと私語を容認するように野放しにしていたのが原因であって責任なのは
確かだろう。
古武先生は許してくれたというか、逆に怒鳴ったことを申し訳なさそうに恐縮してい
た。よかった。あのまんまの怒りで説教されたらどうしようと思ってたから。失敗して
人は成長するとかいうけれど、出来ることならいい大人になって怒られたくはない。し
かも、こんな講師や生徒にも見えるところで。
一安心してデスクワークをこなし、市橋塾を後にしていく。仕事からの解放感を味わ
いながら近場のスーパーに寄る。ここは値段が良心的だからよく帰りぎわに利用させて
もらってる。
冷房に涼みながら歩いていくと違和感をすぐに瞳にキャッチした。一足先に帰ってい
った古武先生がアルコール飲料の売り場の前にいた。私も目的の場所だったけど、さっ
きのことがあったから若干の気まずさがあって距離を置いて様子見をする。
周りの人に不信感をもたれないぐらいにさりげなく視線を向けていると古武先生は私
が愛飲してるのと同じ缶ビールを数本カゴに入れていった。おぉ、一緒じゃん。なんと
なしの親近感がわいてきて、そのまま後をバレないようにつけていく。すると、古武先
生は魚のコーナーでほたてのお刺身、おつまみのコーナーでビーフジャーキーを選んで
いった。何、それ。本気で私と一緒じゃん。
「家呑みですか」
趣味の一致を眼前で見たことが気まずさを取りはらっていた。この一方通行の嬉しさ
を伝えたくてたまらなくて後ろから声をかけていた。
「っていうか、私と同じなんですけど」
顔をほころばせながら伝えても古武先生は意味が分からない様子だった。急に私に声
をかけられたことの驚きの方が大きいみたい。確かに仕事仲間に仕事場以外で会うのは
変な感じになる。
「私もいっつもこれと同じビールとおつまみなんですよ」
「はぁ」
古武先生は明らかに私のはるか下のテンションにいた。それがいじらしい。せっかく
の喜びを共有したいのに私だけ勝手に盛りあがっちゃってんじゃん。そんなのズルい。
よしっ、引きずりこんでやる。
「よかったら一緒に呑みに行きませんか」
7月24日の夜、桑畠潤蔵の頭。
これまでなら夜になりかけの良い時間だけどやたら暑い。梅雨が終わってからこんな
状態がずっと続いてる。朝から暑いし、昼はもう日向になんかいらんないし、夜でも寝
つけないほどの辛さ。2日や3日できついのに、これが夏のあいだ続いてくなんてあり
えない。傷口に塩ぬられてる感じ。
退職から一夜明けた今朝は変な感覚だった。決まった時間に起きなくていいわけだか
らとアラームも設定せずに寝てやろうと思ったけど、いつもの起床時間とそう変わらず
に目は覚めてしまった。まぁ、半分はこの暑さで寝てらんないってのがあるんだけど。
それでも、昨日までの生活感を頭でこばんでも体がおぼえてる現実はどうにも嫌なもの
だった。
起きたところで何をすることもない。探せばいくらでもやることはあるけれど、仕事
のように絶対にやらないといけないってことではない。何も拘束のない静けさ、自由っ
て案外さびしいもんだ。
結局、まずは朝食を食べた。残り物のコンビニのサンドイッチとヨーグルトをのんび
り食べながらだらだらテレビを見る。祝日ぐらいしか目にしない久しぶりの朝の番組は
惹かれるものは特になかった。情報番組が多くならんでるけど、主婦目線のものばかり
で個人的にはいらない情報ばかりだった。文句はうかんでこない。きっと俺のようなや
つがこれを見ていることが珍しく、番組の方は俺に見てもらおうだなんて思っちゃいな
いはずだから。
テレビに飽きると掃除をはじめた。あんまりだらけてると精神が萎えてきそうだった
から何かやろうと思って。この機会に本格的な掃除でもやろうかと考えたけど、そこま
で突きつめるほどの根気は今のこの体にはないから却下する。
普通に掃除と洗濯をすると、もうやることがなくなって外に出た。暑いからやめよう
と思ってたけど、このまま家にいてもやることがない。ずっと家にいたら腐ってしまい
そうな危機感におそわれるから腰が重くなる前に外出を決めた。
といったものの、外は半端ない暑さだった。今まで日中は冷房のきいた社内にいたせ
いで昼間の凄まじさを体感するのは初めてだった。容赦のないとてつもなさ。外で仕事
をしてる人たち全員に敬意を表したくてたまらない。
逃げこむようにパチンコ店へと入ると幸せな冷気につつまれた。別にどこに行こうと
いうこともなかったのでなりゆきでパチンコをうつことにした。パチンコはまぁ好きっ
ていうぐらい。やってみれば面白いけど、これといってやろうと思うこともない。休日
の朝に列に並んでまでなんて情熱はなおさら。
実際やってみると結構いいものだった。目の前の台の流れに集中できて、嫌なことも
その時間は忘れられた。気づけば数時間をあっというまに過ごしてしまっていた。前半
は勝ちぎみだったものの後半にダメになり、結果もともなわず。
店の外に出ると違う空間に来たような熱気につつまれた。今からどこかに行くという
ような時間でもないから夕食と明日の朝食だけ買って帰ることにする。まったくもって
堕落した平日の使い方だ。
歩いているとスーツを着た会社帰りのサラリーマンが多く見える。自分も昨日までは
あの中にいたんだなと思うと心がきゅっとすぼんだ。やりきれない思いが波のように押
しよせてくる。
悔しい。たまんねぇ、この気持ち。
敗北感にやられてると携帯の着信で我にかえる。送信者は信枝で、電話にでると帰宅
を命じられた。
7月24日の夜、浜森信枝の頭。
「うっす」
「うっす」
帰宅するように言うと、潤は8分ぐらいで帰って来た。あいかわらず忠実なやつだ。
私の要望には他人のかかわった用事でもないかぎり従ってくれる。優しいというか気が
弱い。
潤の一人暮らし部屋は年季のはいったアパートのワンルーム。大学を卒業するときに
実家を出てから一度も引っ越しはしていない。初めはしばらく働けばもっといいところ
へ移るつもりだったらしいけど、職を転々としている現状ではそんな余裕はない。ここ
にもいつまでいられるかっていう暗心さえある。
家に入るとだいぶキレイに片づいていた。自暴自棄になって何もかもが嫌になるタイ
プもいるだろうけど、潤は良いのか悪いのか真面目なせいでそれは出来ない。しないん
じゃなく出来ない。物を壊したり、人を傷つけたりするのが苦手で、もししようもんな
ら後で後悔にかられるだけだ。
近くのスーパーで買ってきた食材で夕食を作りはじめる。潤は手伝うと言ってきたけ
ど「大丈夫だから」と任せてもらう。
料理をしてる間は何ということもない話を淡々とした。潤は今日は掃除したり、洗濯
したり、パチンコに行ったり、ゆっくりと過ごしていたらしい。それでいい。息抜きは
こういうときに大事だ。
そう話しながら不思議な感覚にもおちいる。こうして、大人の私と潤がここにいるこ
とが。
潤と雅とは実家が近所で同い年だったから昔は常に一緒にいた。母親同士も仲良かっ
たから私の記憶がないような赤ちゃんの頃から遊んでたらしく、物心ついたときには2
人は当たり前にそこにいた。私は結構おてんばでとにかくやりたいようにやって言いた
いように言ってたから、潤も雅も私には頭が上がらないっていう関係に気づけばなって
いた。
雅は強気な私にもちゃんと言いかえしてくるタイプ。よくケンカになってたけど私が
力ずくで泣かせていた。今思えば、女の子だってことで遠慮もしてくれてたからなんだ
ろう。
それに対して、潤は私の言うことはいつも聞くタイプ。不満そうな顔はたまにするけ
ど言いかえしてはこない。口でも力ずくでも私にはかなわないんだから賢明な考えだと
思う。
雅と潤はたまにケンカになっていた。弱い者同士のケンカだから適当にやりたいよう
にやって、私が間にはいって終わってた感じ。勝敗をつけるようなものでもない。私の
もそうだけど子供のケンカなんて実に単純なものだ。
そんなふうにしてた3人が今は大人になってるのがどうにも変な感覚に思うときがあ
る。昔はあのときのままがずっと続くような気がしていたから。自分が大人になること
なんて考えられなかったし、潤と雅が大人になることはもっと考えられなかった。そこ
に永遠はなかった。
今では3人の関係図は大きく変わってしまっている。私は今でも実家住まいで、就職
をあきらめて学生時代から続けてるスーパーのバイトに落ちついている。雅は一人暮ら
しをしてるけど、私と同じく就活で内定をとれずに今は塾の契約社員をしている。ゆく
ゆくは正社員になれればっていうところ。潤は就活で内定をとったけどクビになり、そ
の後も入っては辞めての繰りかえし。ダメダメな3人だけど、この中で一番上にいるの
は明らかに潤。その次が雅、一番下が私。昔の関係は今ではすっかり逆になってしまっ
ている。
それでも潤は昔のままだし、雅も私も同じだ。3人の間にあるものは何も変わってな
い。変わらないことがいいことなのか分からないまま変わってない。何が正解か分かっ
てれば今の状況にはいない。
夕食が完成して2人で食べる。料理といえるか微妙なちゃんこ鍋。まぁ、実家住まい
の女にはこれぐらいが妥当。話は今やってるテレビや昔の思い出。仕事についてはどっ
ちも触れられたくないところだから避けた。
7月24日の夜、千代原靖司の頭。
会社帰り、いつものように仕事終わりの会社員たちが集中する時間帯。電車内はどこ
も混雑し、満員電車の心地悪さを存分に味わわざるをえない。もう慣れたとはいえ、こ
の不快感はどうにもできない。
終点となる乗り換え駅では全員が押しだされるように我先にと前を行く。乗りかえ先
の電車で座ったり、手すりにつかまるために。座れれば寝れるし、手すりにつかまれば
電車が揺れるたびに人の波に揺らされて余計な力を消耗しなくてすむから、ここに勝負
をかけている人も少なくはない。 俺はそこには勝負はかけていないけど、扉付近でぎ
ゅうぎゅうにされるのもきついからそこそこの良い位置はとるつもりでいる。
今日も程よくの流れで乗りかえの移動をしていると、自分のところとはまた別の人の
波の中に修子の姿を見つけた。使ってる電車や乗り降りする駅も違うけど、ここで乗り
かえをするのだけは同じでたまに顔をあわせることがある。
向こうもすぐにこちらに見つけ、このまま知らないふりをするわけにはいかなくなっ
たので流れを共にはずれる。
「おっす」
「おっす」
ひどくたどたどしい調子になっていた。急な展開と今の2人の微妙な関係性がそうさ
せた。
「今、帰り?」
「うん。そっちも?」
「あぁ」
会話は形式的なものだけで止まってしまった。もっと何でもいいから話せばいいんだ
けどいきなりの対面でうまく言葉が出てこない。せわしく流れていく人の中でここにだ
けは点になった時間が流れている。
「どう? 元気にしてる?」
「うん。まぁ」
「そうか・・・・・・よかった」
これが今できうる最大限の会話だった。
結局、ほとんど中味のないやりとりだけでこっちから離れていってしまった。言いた
いことはあるはずなのに口をつくことができない。
なんてふがいない男だ、そう息をつく。
あんな突発的な状況だったから、そう自分で自分をなぐさめた。
7月24日の夜、柳舘修子の頭。
乗りかえをした後の電車は人も比較的少なめで大概は座ることができる。いつもなら
そのまま寝てしまうんだけど、今日はそうはいかなかった。またあのもやもやが頭に出
てきてしまったから。
さっきの乗りかえの駅での靖司とのやりとりを思いだす。あまりのつたなさに自分で
浮かべておきながらすぐに消したくなる。自分のふがいなさに我ながらほとほと愛想を
つかす。
不意をつかれたのはもちろんだったけど、それでもそれはいいわけにしかならない。
というか、いいわけにはしたくない。あれは明らかに私がダメなだけだった。そう自ら
をいましめたい。
言いたいことはあったのに。昨日の夜もあんなに考えてたのに。電話で言うなら、メ
ールで送るなら、直接伝えるなら、いろんなシュミレーションもした。街中で急に会っ
たら、それもその中にはあった。なのに、私は・・・・・・。
昔はこんなんじゃなかった。もっと近い距離にいれたのに。少なくとも、こんな後悔
に苦しめられることになるなんて思いもしなかった。あの純白な世界がずっと続くんだ
と信じてやまなかった。
出会いは中学生のときだった。中1のときに靖司は父親の転勤で私のいた中学に転校
してきた。ほぼ一目惚れだった。靖司は気さくですぐにクラスの輪に入れたし、集中力
もあったから勉強も運動もそつなくこなしたし、顔もいい方だから寄りつく人は多かっ
た。男子には人望があったし、女子には人気があった。アニメやドラマの主人公のよう
に誰もがうらやむようなほどじゃないけれど、どれを取っても上中下の上のランクには
いた。私の知るかぎりでも数人は好意をもってたし、私もその中の一人だった。
初めは淡い片思いだった。恋っていうのをどこから正確なものとして区切っていいの
か分からないけど、あれがきっと初恋なんだと思う。幼稚園や小学校のときにも好意を
もってた男子はいたけれど、思春期というか男性として強く意識したってことでは意味
が違う。
毎日ドキドキしてた。授業中、教室の少し離れたところから後ろ姿を見てるだけなの
に気持ちが高ぶっていた。嬉しくて、たまに胸がキュッとなった。学校に行くことが楽
しくてしょうがなかった。
でも、その思いは表には出さずに胸にしまっていた。気持ちを素直に出すなんて初恋
のときにそんな器用にできるわけないし、告白なんてもってのほか。なにより、そっと
温めていくことが心地よかった。
ただ、幸いそのまま近くから眺めてるだけで卒業を迎えるってことはなかった。私も
タイプ的には靖司に似ていたから、私のいる女子グループと向こうのいる男子グループ
は接することが多かった。輪になって話したり、行動を共にしたり。集団で話してると
きにたまに靖司と会話になることもあったり、集団で移動してるときにたまに靖司と隣
で歩くこともあったりして、そんな日にはもう家に帰ってからも頭の中で何回も思いだ
しながらにやけてた。2人になることはなく、グループとしてだけど充分すぎる日々だ
った。
2年と3年ではクラスが別々になったけど、通学や校舎内で会ったときには気さくに
「おっす」と挨拶をしていた。物足りなさはあったけれど、もともと見ているだけで幸
せだったわけだから我慢の範疇だった。結ばれたらとはいくらでも考えたけど、今の状
態が続いてくれれば私は満足だった。
けど、そうもいかない状況が迫ってくる。3年も半ばになってくると高校受験が現実
味をおびてくる。どうしよう、どうしよう。自分の進路と同じぐらいに靖司のことが頭
の中を占めていた。
私の片思いを知ってる友達にさりげなく靖司の受ける高校とその中の本命をさぐって
もらった。靖司の本命は私のレベルよりワンランク上だった。自分の現実との距離を感
じずにはいられなかった。
でも、悩んでるヒマなんてない。私はそれまでの人生で経験のないぐらい勉強へ情熱
を燃やし、靖司の本命校を受験校の一つに入れた。周りには挑戦のつもりで受けるって
言ってたけど私は本命として受けた。
本命校の受験を終え、結果が出るまでのあいだにバレンタインデーがあった。1年と
2年のときは渡したいとは思ったけど自分の思いが伝わってしまうのをおそれてやめて
いた。私はこのままでいいと思ってたからヘタにがんばって関係がぎこちなくなるのは
嫌だったから。
ただ、このときは意味合いが違っていた。私が本命校を落ちた場合、春から靖司と離
ればなれになってしまう。今の関係はおそらく薄れてしまう。それはなにより嫌だ。な
んとかしないといけない。そして、それを後押ししてくれるのにはもってこいのバレン
タインだった。
正直、私自身は心がすくんでいた。自分の思いが向こうに伝わっちゃう、これまでの
関係でいられなくなる、どうせなら卒業式でもいいんじゃないか、そうありとあらゆる
逃げ腰な言葉を並べていた。それを友達が強めにはげましてくれた。伝えなきゃこのま
ま終わるんだよ、受験がダメだったらどのみち今の関係がなくなるんだよ、ここで逃げ
たら卒業式でも同じことになるよ、そう背中を押してくれた。
私は靖司に告白することを決めた。受験勉強もあるのに友達が作戦会議をしてくれて、
それを元に動くことにした。当日、「渡したいものがある」ってメールを送信。普通に
考えて、この日に渡すものなんてバカでも分かる。これを送信した時点でこっちの思い
の半分以上は伝わってるも同然。後は最後の勇気を振りしぼるのみ。待ち合わせ場所で
立っているあいだも完全に心ここにあらずになっている。昨日の会議で決めたシナリオ
をひたすら頭にリピートしていく。シナリオといってもごく普通の展開。なのに、そん
なことすらどっかに飛んでってしまいそうなくらいのド緊張。靖司が着くと、「勉強中
にごめんね」と言いそえる。「これっ」とチョコを渡すと、靖司は察しがついてたよう
で「あぁ・・・・・・ありがとう」とそこまでの驚きは見せなかった。靖司はチョコの
包みを開けようとしない。自然な流れはそこで途切れる。ここで余裕があるなら立ち話、
ないなら撤収っていうシナリオ。自分の余裕、なし。撤収。そこから二言三言を言いそ
えて、その場を後にしていく。同行してくれてた友達の待つファミレスに駆けこみ、よ
うやく緊張の糸が切れた。
結局、私も靖司も本命校に合格していた。険しかった道が開けてホッとする。よかっ
た、あと3年は一緒にいられる。
同時によくないかもしれないことが一つ。自分の気持ちはもう向こうに伝わってしま
っている。ここまではいいとしても、こっからどうすればいいんだ。私はすでに告白の
ゾーンに足を踏みいれてしまっているわけで。でも、これからのことを考えると答えを
聞くのは怖い。
登校日には目も合わせられず、そのまま卒業式を迎えた。友達とまた前もって作戦会
議があり、当日のシナリオをくんでもらった。私が事前準備がないと何もできない緊張
しいであるのは露呈されていたから。そこで決められたのは無理をしないこと。バレン
タインのときとは状況も変わったので、ここでフラれて高校生活に支障をきたさないよ
うにするのが第一になった。
式が終わってホームルームになるまでのあいだに靖司をメールで呼びだし、校舎裏に
スタンバイしてるとまたガチガチになってしまっていた。というより、式の途中からも
うなっていた。靖司が着くと、制服の第二ボタンをおねだりする。今日は答えを聞くん
じゃなくボタンをもらう名目、それでなんとか気を保てた。ただ、その後の展開が待っ
ていた。ボタンをもらってその場を去ろうとすると声をかけられる。「答えは言わない
で」と心でとなえると、言われたのは「今度、どっか行かない?」だった。その後どん
な言葉を言ったかは覚えてない。足が地についてない状態。心に花が咲いている状態。
簡単にいえば、訳がわからない状態。
それからは順調な関係が続いていった。学校では恥ずかしさもあって近づきすぎなか
ったけど、それでも周りのみんなが認識しているカップルだった。休日にはデートをし
て、そこでは少しずつ距離を近づけていった。こんな幸せがずっとこの先もあることを
うたがわなかった。
なのに、その思いは打ちくだかれた。同じ大学にもがんばって入れたけど学部は違う
ので、それまでよりも近くにいられる時間は減っていた。それでもなるべく機会は見つ
けて順調に付き合っていたつもりだった。
その中で、次第に靖司の感じが変わっていった。外から見てとれるものじゃなく、内
から来るもの。靖司から私に来る思いが薄くなっていってる気がした。でも、それを口
にはしなかった。口にすることで2人の間にそれが明確な意識とされてしまうのが怖か
ったから。
重なるようにして靖司に他の女性の影が立つようになった。靖司と同じ学部の子で、
私も目にしたことがある。そのときは数人の仲のいいグループの一人っていう様子だっ
たけど、友達から靖司がその子と一緒にカップルみたいに楽しげにしてたって報告をさ
れて頭の中が白くなった。よくよく考えると、その少し前あたりから会う回数が減って
いたし、こっちから誘ってもこばまれることもあった。今日中にレポートをやらないと
なんない、友達と遊びに行く約束をしちゃった、そういうしかたない理由だったから納
得していたのに。経験したことのない怒りと不安の織りまざった感情がふつふつと上が
ってきた。
私は靖司に直接問いつめた。このまま抱えこんでたら身がもたない。こんな心配した
ことがなかったし、することもないと思ってたから心構えがなかった。私と靖司のあい
だにはこれまでの絆があると信じてたから。もう、靖司のことをうたがってる自分でさ
え卑しい人間に思えてきて嫌になった。我慢は無理だった。だから、ちゃんと向かい合
ってたずねた。恋人に浮気の疑いをかけてる時点で2人の信頼関係は元にはなれないっ
ていう覚悟も決めて。それだけの強い気持ちで向かったせいで私は途中から涙を流して
いた。この状況の何もかもが嫌で。すると、最初は否定していた靖司の言葉が止まった。
やがて、「ごめん」と頭を下げられた。今まで築きあげられたものが音をたてて崩れて
いった。信じられなかったわけじゃなかったけど、目の前で起こっていることがなにか
自分に対して起こっているものじゃないようにぼんやりした感覚だった。裏切られた、
そう感じた。出来心でやってしまったこと、今とてつもなく後悔してること、私のこと
を好きな気持ちは変わらないこと、もう二度としないと誓うから許してほしいこと、靖
司がいくらでもと謝っている言葉の全てが私の中をふんわりとただよってポツポツと出
ていった。
私に靖司の謝罪を受けいれる余裕なんてなかった。中1で片思いして以来、私の初恋
だったし、私の青春だったし、私がしたたった一つの恋だったのに。そこを崩されて、
私に寄りかかるところなんてなかった。好きだから、離れたくないから泣く泣く許すな
んて選択肢はなかった。あるだけのわずかな力で「別れましょう」と言い去るのが精一
杯だった。
その後、靖司は大手商社に就職し、私はごく平凡な一般企業に就職した。向こうの情
報は学生時代の友達を通してたまに伝わってくる。順調に仕事してるらしく、いくつか
恋愛もしてるようだ。私も普通に仕事してるし、いくつか恋愛もした。ただ、どれも相
手から求められたもの。正直、こっちにそれほどの熱はない。
いや、そんな表現じゃ違う。熱が出ないのはこっちの心持ちのせいでしかない。まだ
この心の中に靖司への思いがある。振りほどこうと何度も思ったけれどうまくいってく
れない。一度の過ちを許せなかった自分さえ責めている。未練が続いている。確かなこ
とは靖司が好きだということ。
だとしても、関係を修復する術が見当たらない。あれから月日が経ちすぎてるし、浮
気をされた側から持ちかけるのは違うだろうし、裏切られた傷は今もまだこの胸の中に
あるから。
なら、このままでいいのか。それは嫌だ。あのなんてことない輝いた日々が忘れられ
ない。あのときに戻りたい。靖司と戻りたい。あそこが私にとって一番心地いい場所な
はずだから。
全六話、本に換算すると85ページになる量です。




