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第一章

 あと一人この剣舞決定戦で倒せば、今度こそ武ノ里(ぶのさと)の人間として認められると思った。

 木刀を握り直し、ジンは鍛錬場の土を蹴った。目の前の相手である幼なじみのユウと既に三十は打ち合っただろうか。

 鍛錬場の上空で、鳶が独特な鳴き声をあげ悠々と旋回している。風に芽吹いたばかりの若葉が薫り、春の到来を告げていた。いつもならそれを喜ぶところだが、今はどうやってユウを倒すかで頭がいっぱいだった。

 間合いを取り、太ももで汗を拭った。麻でできた下衣(かい)のそこだけが、何度も拭ったせいで異様にしっとりしていた。何度も手を拭う間、相手はゆっくり呼吸を繰り返していた。何だか余裕そうに見え、焦りが募る一方だった。

 唇をぐっと噛み、手のひらをぎゅうと握り締める。五歳の時から鍛錬を始めて十年、そこはまめだらけだった。

 そうだ、手のひらがこんなになるまで誰よりも鍛錬を積んできたではないか。里の合同鍛錬の時だって、ユウと手合わせするたびいつもジンが勝ってきた。今日だってきっと勝つ。いや、勝たねばならないのだ。

 頬に張り付く髪を払い、木刀を目の高さで構える。体の内から湧き上がる衝動に従って駆け出し、木刀を振り下ろした。カン、と乾いた音を立て、渾身の攻撃はまたしてもユウに受け止められた。柄を握る手に衝撃が走り、疲労が溜まった腕が鈍く軋む。それでも、振り下ろす腕を緩めず、波状攻撃を浴びせた。

 あと一勝すれば、一月後に行われる成人の儀で一人だけ剣舞を披露することが許される。里の人間、それも若者にとって一生に一度あるかないかの名誉な座を賭け、ジンは追撃を強めた。ユウの口から呻きがこぼれ、じりじりと後退し始めた。

 その足めがけて手首を翻したが、あと一歩のところでかわされ、逆に頭頂部めがけ木刀が振り下ろされた。鋭い風切り音が耳元を過ぎり、木刀が地面をえぐった。背筋がぞくりとした。まともに受けていたら、脳天をかち割られていたかもしれない。

 ユウは、こちらの態勢が崩れたところを見逃さず、突きで攻めてきた。寸前でかわし続けるも、どんどん息が上がっていく。切磋琢磨してきた幼なじみの成長に、焦燥感がより一層強くなった。

 柄を握り直し、なんとか突きの連打から逃れ間合いを取った。背中に次々流れ落ちる汗が上衣(じょうい)に染みてなんだか重い。ユウと違って身軽さが売りのジンにとって、汗の重ささえ大敵だ。

(大丈夫、焦るな、今までの鍛錬を信じろ! 鍛錬は嘘をつかない! 俺だけが持っている武器は何だ、確認しろ!)

 再度目の高さで木刀を構え、大きく息を吸った。

 ジンが持っていてユウに勝るもの、それは打ち込みの速さと身軽さ、そして間合いに入り込む素早さだ。先ほどユウを追い詰めた時もこれが効いていた。力で劣る以上、戦が長引けば不利になるのはこちらだ。決めるなら今しかない。

 ジンは体を低く屈め、ユウに向かって突進した。正面に構えたユウの刀が、ジンめがけて振り下ろされた。頭を割られるかもしれない恐怖を、さらに加速することで振り切り、懐にもぐり込んだ。下から上へと手を翻すも、鼻先でかわされた。だが、ユウの上体がぐらりと揺れたのをジンは見逃さなかった。

 ありったけの力を注いで素早く打ち込み、相手の反撃を許さなかった。ユウの口からまた呻き声が漏れ、ついに膝をついた。

 それでも、ユウは闘志を失っていなかった。細い瞳をめいいっぱい開き、長い腕でジンの足を狙った。それを後方へ一回転してかわし、着地してすぐに一歩踏み込んで手首を翻した。ユウの手から木刀が宙を舞い、弧を描いて地面に落ちた。

 なおも体を起こしかけた好敵手の喉元に剣先を突き付け、見下ろす。互いのぜえぜえという荒い呼吸音だけが耳に届いた。

「そこまで。勝者、ジン。よって、今年の舞手は、ジンに決定とする!」

 立会人の鋭い声に、鍛錬場を囲う柵の向こうから里人たちが歓声を上げた。

「すごい決闘だったな!」

「ほら、俺が言った通り、ジンが勝っただろ?」

「かーっ! 俺はユウがいくと思ったんだけどなー!」

 口々に感想を述べ合う里人の声を聞きながら、ジンは頬を拭った。その手に汗まじりの血がついた。よけたつもりだったが、木刀がかすめたらしい。意外にも深く、じくりと鋭い痛みが顔面に広がった。

 地面でうなだれたままのユウに目を向ける。幼い頃はずっと一緒だったが、置かれた立場の違いで次第に口をきかなくなった。でも、打ち合い稽古の相手を決める時、いつも真っ先に探したのはユウだった。それは、ユウも同じだった。

「二人とも、ちゃんと挨拶するんだ」

 立会人に促され、二人は痣だらけの体をひきずり向かい合った。

「……かなり危なかったぜ」

 自然と出た言葉に、ユウはむっとして顔をそらした。

「よく言う。お前の方が大局を見据えていた。くやしいが、完敗だ」

 思わぬ言葉に目をしばたかせ、鼻の下をこすった。余裕がなかったのはこちらも同じだが、好敵手と思っている相手からの誉め言葉は素直に嬉しかった。

 健闘をたたえ合うため、木刀の先端を三度合わせた。甲高い音が里に響き、続いて盛大な拍手が鍛錬場を包み込んだ。全身で賛美を受け、ジンは肺の空気をすべて入れ替えるように深く息を吐いた。これで剣舞を舞うことができる。もう誰もジンを『よそ者』と言わないはずだ。

「ジンを舞手にすること、まかりならん」

 ところが、胸に広がりかけた期待を打ち砕く声が柵の向こうからあがった。里人たちの間からあがった歓声が一斉に消えていく。

 冷徹な声をあげたのは、サダという翁だった。杖を片手に慇懃無礼な態度で鍛錬場に入ってきた翁を見て、ユウが慌てて首を垂れた。ジンはそれに倣わず、軽く会釈するに留めた。サダは白い眉を寄せ、嫌悪感を露にしたままジンを睨んだ。

「お前はこの里の生まれではない。そんな『よそ者』に、里の名誉を任せることなど許さぬ」

「し、しかし、彼は決定戦で勝ち残りました。舞手の条件を満たしています」

 立会人が、少し緊張した面持ちで答える。後ろに回した手首を反対側の手で握り締め、手のひらを忙しなく開閉させていた。

「よそ者が、勝手に決定戦に交じっただけのことであろう?」

 翁は少し胸をそらし、胸元まで伸びた白髭を撫でつけた。

「まあ、決定戦に出て勝ったところまでは大目に見てやろう。我が一派のユウが負けたのは、こやつの腕がまだまだっただけのことだからな」

 ユウは頭を下げたまま唇を震わせていた。

「だが、勝者に与えられる名誉を受け取ることは、断じて許さん。里の生まれではない時点で、お前はその資格を有しておらぬ」

「しかし翁、それでは一体誰に名誉を授けると……」

「ユウがおるではないか」

 思わぬ言葉に、ジンは目を見開いた。里の掟に従い勝者になったのに、『よそ者』という理由で、また希望を打ち砕かれようとしていた。血反吐を吐く思いで鍛錬を積み上げてきたのに、それさえ意味がなかったというのだろうか。

(俺がどれだけ努力したって、結局は関係ねえんだ……)

 奥爪が食い込むくらい拳を握り、体の底から次々と湧き立つ熱の塊を押さえつけたが、ぐつぐつと煮立つはらわたはそれだけでは収まりそうになかった。

「これは異なことをおっしゃる」

 その時、里の隅々まで通る声が辺りに響き渡った。

「里長!」

 里人たちが一斉に頭を下げた。唯一、サダだけが真正面からヨシを睨めつけていた。

「これはこれは里長殿、異論がおありか?」

「ええ、大いに」

 ヨシは形のよい唇に優美な笑みを浮かべると、ゆっくりと立ち上がった。ひとつに束ねられた絹のような黒髪と、長が公の場で纏う深藍の羽織が風に揺れる。衿(えり)に金糸で施された剣と風を表す紋様の刺繍が、陽光を受け小麦色の肌を煌めかせていた。

 代々の長に合わせて仕立てられたその羽織は、本来女性には大きすぎるものだ。しかし、居並ぶ屈強な男たちと同じ長身のヨシはそれを難なく着こなし、歴代の長たちが築き上げた威厳をさらに高めていた。 

「ジンは、まごうことなき決定戦の勝者だ。名誉は、最も強き者に与えられてこそ価値を示す。武を極めし我ら武ノ里が、力こそ最も公平で正大な掟と信じているのであればだがな」

「それはっ……」 

 ヨシの、淡々と、けれど反論を許さぬ口調に、翁は反論しようとして口をむっと曲げた。

「力より血を信ずるというのなら、はじめから決定戦に参加させなければよかったのだ。これは力によって決めるためのものにあらず、里の血を引く者のみ参加できるとな。サダ翁、これでも異論がおありか?」

 引き締まった小麦色の腕を腰に当て、翁を真正面から見据えた。翁は何か反論しようと乾いた唇を動かしたが、やがて苛立たしげに杖をつきながら足早に立ち去っていった。ユウと一派の者たちがそれに続く。ジンは、背中を丸め去っていくユウを、視界から消えるまで見つめ続けた。

「ジン、やったじゃないか」

 背中が、何か固いものにぶち当たったような衝撃が起きた。ヨシに、思い切り背中を叩かれたのだ。

「って! 痛えよ、義母さん。相変わらず莫迦力だな」

「この羽織を纏っている間は、里長と呼べと言っているだろう」

 苦言を呈したが、その口元はいつになくほころんでいた。ジンが剣舞決定戦にかけていたことを知っているからこその笑顔であった。

 ただ、ジンは手放しで喜べなかった。舞手になれたらよそ者と言われなくなると思ったのに、初っ端から打ち砕かれてしまった。里の名誉である剣舞でこれなのだ。今後も、あらゆることで力より血が大切という基準がジンの前に立ち塞がるだろう。それは、ジンがこの里にいる限り、永遠に『よそ者』扱いされることを示唆している。ジンの心が途端重石を持ったように沈んだ。

「何度も言っているだろう。サダ翁が気に食わないのはお前じゃない、お前を拾ったわたしの父とわたしだ」

 落ち込むジンに気付き、ヨシが再び背を叩いた。今度は軽く当てる程度だったが、背中に広がる痛みは強くなる一方だった。ひょお、と鳶の気の抜けた鳴き声が心に虚しく響いた。

 決定戦の翌日から、ジンはいつもの鍛錬に加え、剣舞の練習も行うことになった。型だけは儀の半年前から少しずつ教わるため、このひと月ほどで行うのは舞の総仕上げであった。

 練習は、本番さながら舞のための舞台で行われる。里近くの森を切り開いたそこに円形の盛り土で作られた舞台には、地上との境目に稲わらを編んで作った俵が円形に張り巡らされている。いわば結界である。ここは、舞手と舞手だった者のみ立ち入りが許されていて、ゆえに舞手は里人にとって名誉なのであった。

「ジン、まずは舞手おめでとう!」

 レイが、甲高い声で弾むように言った。レイは三つ年上の幼なじみで、三年前に剣舞を舞ったことがある経験者だ。基本的には里長であるヨシが指南役を務めるが、一週間ほど官吏の護衛任務で留守のため、代わりにレイが練習を見てくれることになっていた。

「まずは、どれくらい舞えるか確認したいから通しで舞ってみて」

 小柄な体を翻し、舞台から降りて仁王立ちになった。ジンより頭一つ小さく、幼い顔立ちのためよく未成年と間違われるが、剣の腕は確かで、三年前の決定戦では一度も負けることなく舞手になったほどだ。本人いわく弓の方が得意で、鍛錬場での射詰めでは一度も勝ったことはなかった。

 ジンは場の中央へ進み、木刀を構えた。新しい型を教わるたび、剣舞を舞って『よそ者』と言わせないために必死に体に叩き込んできた。自信はある。あとは、完璧に舞い切って認めさせるだけだ。

 息を吐き、その場で飛んだ。砂利の音が静寂な場に三度響き、剣先を天に向けまま腰をぐっと屈めた。溜めを作り、上体をぶらさないよう慎重に腰を戻して剣先を前方へ突き出し、無限を表す印を描いた。次第に手首を翻す速度を上げる。ここは、いかに速く描けるかが見せ場だ。レイも、先達の舞手たちもここまで速く描いてはいなかったはずだ。さすがのサダも、無視はできないだろう。

 描いた印を囲うように腕を前に回し、天に押し上げ大地を蹴った。鍛えてきた体幹を遺憾なく発揮し、高く、そして速く体を翻すことを意識した。

 舞を始めた最初の場所に戻り、大地に膝をついた。教わった通りの型は完璧に舞えた。先日のサダによる全否定を打ち消すような舞が舞えた満足感に、ジンは久々に心が晴れる思いだった。

 だが、舞台の下でレイは渋い表情を浮かべていた。なぜそんな表情をしているのかといぶかしく思っていると、視線に気付いたレイが自分を納得させるように数回頷いた。

「……うん、まあ、型が完璧なのはいいと思うわ」

 てっきり最高だったと言ってもらえると思っていたので、肩透かしを食らった気分だった。だが、型は完璧だったと言われたのは嬉しかった。ここまで必死に覚えてきた甲斐があるというものだ。本番まではまだ時間がある。もっと完璧に仕上げ、お前が舞手でよかったと言わせてやるのだと改めて誓った。

 しかし、ジンの期待とは裏腹に、一週間過ぎてもレイの表情はずっと冴えないままだった。それどころか、ジンが完璧にこなすほど表情は険しくなっていった。

「なあ、俺の舞のどこがおかしいんだ?」

 レイの曇った表情に、焦りばかりが募っていく。そんな様子に気付いたのだろう、レイは少し考えてから慎重に言葉を選ぶように言った。

「あのね、ジンの舞ってただこなしてるだけに見えるの」

 ジンは、思わず目をしばたかせた。

「型は完璧、それは確かよ。でも、それだけ。見ていて何も感じない。多分、こなしてるだけだから何も伝わってこないんだと思う」

「でも、俺は型通りに舞えてるんだろ? それの何が悪いんだよッ」

 ジンは積もったものを吐き出すように叫んだ。声に驚いた野鳥が、慌ただしい羽音を立て飛んで行った。

「だから、こなすだけじゃ意味がないって言ってるの。うまく言えないけど、剣舞ってこんなものじゃない。もっと、色んな想いが詰まったものなの。ただ型をこなすだけじゃ、意味がないわ」

 舞手だった彼女の言葉が、ジンの心に突き刺さった。

 型は完璧と言われたのに、何かが違うと、またしても否定されてしまった。一体何をどうしたら打開できるのだろう。ジンはもう何も分からなくなってしまった。

「どうしたんだい、大きな声をあげて」

 そこへ、巡検から戻って来たヨシがゆったりとした動作で現れた。

「ヨシ様!」

 レイは目を輝かせ、今にも抱きつかんばかりの勢いで駆け寄り頭を下げた。

「お帰りなさいませっ。任務よりご無事のお戻り、何よりですっ」

「ああ。レイも息災で何よりだ。それと、舞の指南役、御苦労だった。里長として、義息子の義母として礼を言うよ」

「もったいないお言葉です、ヨシ様……!」

 ほう、と嘆息し、ヨシをじっと見つめた。レイは、女性でありながら里長にまで上り詰めたヨシに強い憧れを抱いているのだ。ジンにとってはがさつな母親でしかないので、レイの気持ちはいまだに理解できないでいた。

「ところで、ジンの剣舞はどんな感じなんだい?」

「それが……」

 熱っぽい表情が一転、レイは眉を寄せ視線を落とした。それを見たヨシは顎に手を当て、ジンに舞ってみなと告げた。

「今のお前が信じていることをやってごらん。話はそれからだ」

 優しい口調ながら、黒曜石のように深い漆黒の双眸からは有無を言わさぬ圧を感じ、ジンは小さく頷くしかなかった。

 ジンは、今までと同じように教わった通りの型を披露した。レイの表情が険しくなる一方で、ヨシは腕を組んだまま終始無表情であった。

「……なるほどね」

 舞い終わると、ヨシは腕組みをほどいた。

「レイの言う通り、確かに型は完璧だね。申し分ないよ」

「っ、じゃあ……!」

「けど、それだけだ。何も伝わってこない」

 まただ。また、同じことを否定された。型は完璧にできているのに、否定されてしまった。

「ジン、お前は何のために舞うんだい?」

 落ち込むジンに、ヨシは思わぬことを告げた。

「え、何のためって……」

「決定戦、見事な戦いっぷりだったよ。舞手は渡さないって思いがひしひしと伝わってきた」

「確かに。あの時のジンは、鬼気迫るものがありました」

 レイが、眉毛で揃えた前髪が跳ねるほど大きく頷いた。

「お前は、あの決定戦に賭けていた。それは、見ている者に伝わったほどだ。その気持ちが、なぜ舞に乗っていない? お前は、何がしたくて舞手になったんだい?」

「それは……」

 答えようとして、言えなかった。サダに二度と『よそ者』と言わせないために舞う、それだけが舞手になった理由だったからだ。そして、そのためには完璧に型をなぞることが必要と思っていたのだ。

 だが、実際舞ってみれば、ジンが考えていたことだけでは足りないと指摘された。何が足りないのかは分からない。ただ、ジンの胸に二人の指摘は妙に突き刺さった。

 答えられず俯いていると、「レイの舞を覚えているかい?」とヨシが言った。

「ああ、覚えてる。剣さばきとか動きが滑らかで、さすがだなって思ったから」

 だから、ジンも型を完璧に覚えればいいと感じたのだ。

 けれど、今思い出せるのは、どれだけ型を完璧に舞っていたかではなく、レイが舞を舞える喜びを全身で表していたことばかりだった。

 満月が煌々と輝く中、レイは天高く燃え盛る薪を前に小さな体でめいいっぱい舞台を舞った。レイが剣を振るたび空気が踊り出し、炎も一緒になって燃え上がったように見えた。

 彼女が通り過ぎるたび、きらきらとした光が軌跡となって見え、見るのが楽しくて仕方がなかった。伸びやかな舞は一緒に舞おうと誘ってくれているようで、ジンは前のめりになって見つめていたのを今でもはっきり覚えていた。

「つまりは、そういうことさ」

 自分の舞を褒められ照れくさそうにもじもじしているレイに苦笑しつつ、ヨシが微笑んだ。

「心が震えれば、人はいつまでも覚えているもんだ。そして、舞には舞手の思いを伝える力がある。お前の舞には、まだそれがないんだよ」

 なんとなく、ヨシたちが伝えたかったことが分かった気がする。とはいえ、何を足せば心に残る舞になるのだろう。

「それは、お前自身で探すしかないのさ」

「ええ!? 肝心なところが分かんねえままじゃん!」

「大丈夫、まだ二週間ある。探すには十分さ」

 腕組をしたままジンに近づくと、背中を思い切り叩いた。

「ってえ!」

「分からないからこそ、舞を舞うんだ。舞う中で分かることもあるからねさ」

「分かることがあるって言われても……」

 なおも納得がいかず口をもごもご動かしていると、ヨシは大股で踊り場の中央に歩み寄り、ジンに下がるよう促した。

「今のお前には、まだしっくり来ないだろうね。まあ、見てな」

 そう言って、深く呼吸をした。

 たったひとつの呼吸が、その場の空気を凛としたものに変えた。びりびりと伝わるそれに、ジンの肌はぞくぞくと粟立った。レイも同じだったらしく、目を見開いたまま動かなくなった。

 ヨシはゆっくり目を開け、その場で軽やかに飛んだ。着地の音がほとんどしないほど軽やかだったのに、ヨシの足が大地に触れるたび大地が湧き立つように震えた。

 流れるような動作で鞘から剣を抜くと、ヨシはジンめがけて剣を振り下ろした。風切り音が辺りの空気を割き、ジンは自分の体が真っ二つになったのではと思わず身構えたほど鋭かった。

 無限の印は、腕と剣が一体となっているかのように滑らかで、先ほどまでの強烈な圧と打って変わり、静かで柔和な空気が踊り場全体を包み込んだ。

 何かを願うように天に両手を差し出すと、ヨシは祈るように目を閉じたのち、長い手足を使って舞台中を悠々と舞った。ヨシとともに風が踊り、まわりを囲う木々が喜びの歌を歌う。木々の間からこぼれる光がヨシの長い髪を輝かせ、まるで女神(にょしん)がそこに降臨したような錯覚さえ覚えた。

 ジンは、息をするのも忘れヨシを見つめた。胸の奥から慈愛に満ちた温かな気持ちが湧き上がり、気付けば目が潤んでいた。

「……どうだったかい?」

 呆然と立ち尽くしていると、ヨシがいつの間にか目の前に立っていた。あれだけ激しく舞ったのに、息はほとんど乱れていなかった。

「今、お前に見て欲しいと願って舞ったんだが、伝わったかい?」

 ジンは慌てて目元を拭い、鼻息を荒くした。

「伝わった、めちゃくちゃ伝わってきた! 見てて胸が熱くなったし、なんか分かんねえけど感動した! な、レイ!」

 隣でレイも、頬を紅潮させ感涙にむせびながら何度も首を振った。

 「そういうことさ」

 形の良い唇をしならせ、ヨシは腕を組んだ。

「お前にも、きっとあるはずだよ。内から溢れる、譲れないものがね。……さあ、今のを踏まえて日没まで練習再開だ」

 そう言うと、いつもの余裕そうな笑みを浮かべ手を叩いた。

 ヨシに言われた通り、ジンは毎日何か掴めないかと祈る思いで舞い続けた。けれど、こういうものは急に降って湧くものではないらしい。どれだけ舞っても、腑に落ちる理由は思い浮かばなかった。

「あーあ、今日も結局分からずじまいか……」

 家の床板に敷きっぱなしの筵にごろりと横になり、ため息をついた。里の中央では、成人の儀に向けて里の氣を浄化するため薪が熾されていた。大人十人ほどが輪になっても届かないくらい巨大なそれは、上弦の月の日から本番である満月の日まで夜通し焚き続けるため、男たちが交代で火番を務めることになっている。ジンも例外ではなかった。

 起き上がり、戸口にかかる簾越しに炎を見つめる。火が踊る様がまるでヨシの剣舞に見え、またため息が口をついて出た。

 気持ちが伝わることは分かったものの、では一体どんな気持ちで舞えばいいのだろう。ジンは、解決の糸口となる己の気持ちさえいまだに分からないままだ。

(だって、俺は特別枠だから)

 胸に、暗いものが過ぎった。

 ジンは、赤子の時にヨシの父親に拾われた。その父親が病で他界したため、当時成人したばかりのヨシが自分の養子として育てると言い、今日まで彼女の養子として育てられた。

 里の者は、ジンをヨシの子どもとして敬いつつ、時に叱ったりと自分の子どものように接してくれた。

 だが、中にはよそ者を嫌う一派が存在していた。サダたちである。里がまだひとつの独立集落だった頃、里の外から来た者に騙される形でこの那国(なこく)に併合されてしまった。そのため、サダ一派は今でも『よそ者』を嫌っているのだ。

 里の生まれではないジンに、サダたちはいつも冷たかった。一派に近い者やその家族も、ジンと距離を置いていた。

「気にしなくていい。古老衆は、お前じゃなくお前を拾った父やおわたしが気に入らないのさ。しかも、そのわたしが今や里長だ。歯がゆくて仕方がないんだよ」

 落ち込むジンの肩を、義母はことあるごとに抱き締めて慰めてくれた。けれど、冷遇されている現実は十五の今も変わらない。『よそ者』扱いされ続ける以上、ジンの心が晴れることは決してなかった。

 こんな心持ちだから、必死に自分の中を探っても浮かんでくるのはサダたちのことばかりだ。

(義母さんは舞ううちに分かることもあるって言ってたけど……)

 正直、舞えば舞うほど何のために舞うのか分からなくなっていて、今のジンにとって剣舞は煩わしいだけの存在になりつつあった。

「浮かない顔だね」

 ヨシの声で我に返る。いつの間にか、目の前に義母が立っていた。政務が立て込んでいるが、今晩は久々に一緒に夕餉を取ろうと言ってたことを思い出した。

 炉に手早く火を熾すと、ヨシが水瓶に貯めていた水の中に粟を放り込んだ。剣舞の繊細さとは打って変わって豪快で粗雑な手つきだった。

 ぐつぐつと煮立つ蓋を真剣な眼差しで見つめるヨシの隣で、かぶの塩漬けを切り、たけのこを塩ゆでしたものを慣れた手つきで皿に乗せていった。

「……よし、完璧だ」

 一人ほくそ笑むと、ヨシは椀に湯でかさ増しした粟粥をたっぷり注ぎ、ジンに差し出された。塩ゆでした粟の優しい香りに、腹の虫がぐうと鳴いた。

「久々だな、義母さんのこれ食うの」

「かわいい一人義息子のために作った手料理だ、ありがたく食うんだね」

 へいへいと顎をしゃくり、ジンは手を合わせ粥に息を吹きかけた。手先からじんわりと温もりが全身に広がっていく。春を迎え日中はずいぶん温かくなったが、日が落ちると冬の名残がそこかしこにあり、暖が取れる粟はある意味貴重だった。

「前から疑問だったんだけどさ、このかさ増し粟は手料理なのか?」

「わたしの手(・)で作ったんだ、立派な手料理だろう?」

 ヨシはかぶの塩漬けを口に放り込んだ。小屋の外から男たちがどっと盛り上がる声が風に乗って聞こえてきた。どうやら、浄化の炎のまわりで酒盛りを始めたらしい。

「止めなくていいのか、あれ。浄化どころか酒池肉林だろ」

「酒は百薬の長と言ってね、中から浄化してくれるんだよ」

 そう言って片膝を立て、酒が入った杯をあおった。

「屁理屈だな」

「お前も飲めるようになったら分かるよ」

 黒曜石のような美しい双眸に、ほんのわずか闇が差す。里長として様々な重責や苦労を背負っているヨシにこそ、酒は最高の薬なのだろう。

 彼女が抱える苦労の中に、自分がいるのではと常々感じていた。サダ一派が、ことあるごとにヨシに反発していると聞いているからだ。彼らが反発するのは、ジンという『よそ者』を拾い育てたことは明白で、だからこそ思ってしまうのだ。『よそ者』の自分がいなければ、ヨシは余計な苦労を背負わずに済んだかもしれない、と。

 落ち込む気持ちをごまかすように粟を口に含んだ。塩を少しだけ効かせた質素な味付けだが、ジンはこの味が大好きだった。

「今日も、絶妙なかさ増し具合だな。これだけ増してたら、腹持ちがよさそうだ」

「いかに食った感が出るかを考えて作っているからね」

「気持ちは伝わるってやつな」

「そうさ。そして、粟をかさ増す腕なら誰にも負けないよ」

 いつもよりご機嫌な声をあげ胸を張る義母に、思わず吹き出した。

 「そんな腕ばっか磨くから、三十路なのに独り身なんだよ」

「何か言ったかい?」

「なーんも言ってないでーす」

 ふざけてみせたが、器量よしな義母が独身なのは自分がいるからということをジンはよく分かっていた。

 胸に渦巻く気持ちを流し込もうと、残りの粟をすすった。あやうく気道に入りそうになり、胸を叩いた。何やってんだいと呆れ背中をさする手は、今日も温かかった。

 翌日はヨシ、レイともに手が取れず、ジンは一人で練習に励んだ。しかし、やはり心に浮かぶのはサダたちの顔ばかり。彼らに見せるために舞うわけでもないのに、どうしてこんなにも心が囚われているのだろう。

「あ~、めんどくせえ~」

 舞台の中央にしゃがみ、特大のため息をもらした。誰にも気を遣うことなく、誰の顔色も気にせずついたそれがほんの少しだけジンの心を慰めてくれた。

 ふいに、首筋にひやりとした空気が流れるのを感じた。辺りを見渡すと、森の中に霧が発生しているのが見えた。この時期にしては珍しい光景だ。ジンはこちらに近づいて来る白い煙を木刀で切ったり、攪拌してみた。不思議なことに、霧はジンが木刀を振り回せば振り回すほどジンのまわりに集まってきた。

「何だこれ、おもしれえ~」

「……何してるんだ」

 背後で上がった声に、ジンは危うく木刀を落としかけた。恐る恐る振り向けば、そこに眉をしかめたユウが仁王立ちをしていた。

「な、なんだ、ユウか。今は休憩してただけだ。それより、何しに来たんだよ」

「里長様から、お前を呼んでくるよう仰せつかった。だから、来た」

「お、おう、分かった」

 ごまかすように何度も頷き、渋い表情を浮かべるユウの隣を小走りで駆け抜けようとした時だった。

「……何なんだよ、さっきの舞は」

 鼓膜を捉えた言葉に肩を震わせる。肩越しに後ろに視線を送れば、目の前の唇がいびつに曲がっていた。

「遊んでる場合かよ。本番まで、あと二週間もないんだぞ」

 胸の奥が目の前の唇のように歪み、隙間から長年押し込めていたものがじわりと滲み出るのを感じた。

「お前、型はできてたはずだろ。どうしてあんなに乱れてるんだよ。どうしたんだよ、今さら」

 言われなくても分かっている。今までは、何も考えずとも自然と体から型が出た。寝ていても所作が出るほど体の一部になっていた。だが、今は舞えば舞うほど体から舞が抜けていく。今まで培ったものだけでは意味がなかったのだと、自分が信じたものが根本から崩れ去っていた。

「今まで、このためにやってきたんじゃないのかよっ。決定戦勝ち抜いてまでやりたかったことなんじゃないのかよっ」

 やりたかった、それは確かだった。けれど、舞いたかったからではない。舞が好きだったからではない。ただ、『よそ者』と呼ばせないための手段でしかなかった。自分を守るための盾としか考えていなかった。名誉とか、誇りとか、そんなもののためではなかった。

「お前の本気はこの程度なのかよ……。だったら、こんなやつに負けた俺がみじめじゃないか……!」

 上擦ったか細い声が森にこだまする。反響は消えても、それはいつまでも耳鳴りのように鼓膜にこびりついて離れず、ジンの心をひどく揺さぶった。

「……だったら、お前がやりゃいいじゃねえか」

 歪みから黒い泥濘が言葉となって溢れ出た。長年堰き止めてきたものが一気に流出するのを感じたが、止める術はもうなかった。

「ああそうだ、お前がやればいいんだよ。だったら、みんな納得するだろ? 生まれた時から里の人間でさ、腕も立つ。何より、よそ者(・・・)の俺と違ってサダ翁のお気に入りだ。明日も里の人間として当たり前に暮らしていける、そういうやつが舞手になりゃよかったんだよ!」

 やめろ、ユウは何も悪くない、止まれ——!

 もう一人の自分が頭の中で叫ぶ。ただの八つ当たりであることは分かっていたが、一度溢れ出た本音は濁流となって目の前のものを飲み尽くそうと暴れた。

「わざわざ決定戦なんかせず、最初からお前を指名すりゃよかったんだ。なのに、何で希望を持たすようなことするんだ。その年で最も強いやつが舞手になる? 『よそ者』以外の中での間違いだろ。生まれが武ノ里じゃねえってだけで弾かれるんだったら、いくら努力したって無駄ってことじゃねえか!」

「……何?」

 分厚い瞼がぴくりと動き、声が一段低くなった。

「俺がうまく舞えなくても誰も文句言わねえよ。だって、俺は『よそ者』だからな」

「ふざけるな!」

 分厚い瞼をかっ開き、ユウはジンの胸倉を掴んだ。奥歯を噛み締める音がはっきりと聞こえるくらい顔を密着させ、ユウは鼻息荒くこう続けた。

「ふざけるな! 今のお前は、うまくできなくて単に拗ねてるだけだ! できない自分を置いて、まわりが悪いって言い訳してるだけだ! 努力することから逃げて楽しようとしてる餓鬼なんだよ!」

「あぁ!? 誰が努力してないだと!? もういっぺん言ってみろ!」

 ジンも負けじとユウの裾を掴む。麻のざらついた感触が、湿気で少ししっとりしている気がした。

「言い訳なんかしてねえ! 俺は、ずっと努力してきたんだよ!」

 豪雨で全身びしょ濡れになる時も、積雪で足の感覚がなくなっても、風邪で熱を出しても、決して鍛錬を怠ったりしなかった。

「それなのに、全部『よそ者』の一言で片づけられる俺の気持ちがお前に分かるのかよ!?」

「分かんねえよ!」

「だったら、口出しすんな! 舞を踊る権利のないやつが、外から好き勝手抜かしてんじゃねえ!!」

 吐き捨てた瞬間、頬に衝撃が走った。一瞬目の前がちかりと光り、体がよろめいた。口の中に広がる血の味に、殴られたのだと分かった。

「……上等だ」

 ぺ、とつばを吐き、ジンも拳を見舞った。それを合図に、取っ組み合いの喧嘩となった。互いの拳が頬にめり込み、蹴りが腹を抉った。体格差で劣るジンが次第に劣勢になっていく中、見張り台にいたレイが騒ぎに気付き、屈強な男たちが慌てて駆け付けてきた。羽交い絞めにされ強引に引き剝がされてもまだいがみ合っていたせいで、互いにげんこつを喰らってしまった。

 そして、里に戻ってからは、ヨシが冷酷な眼差しを向ける中、どうして喧嘩になったかを地面に正座した状態で問いただされた。小石が肌にめり込み、今すぐにでも立ち上がりたかった。

 ヨシは剣舞が原因で殴り合いになったことを知ると、少し目を伏せ「心から舞いたくなるまで舞の練習は禁止だ」と思わぬことを告げた。静かに去り行く背中を慌てて追いかけようとしたが、足がしびれて無様に転んでしまった。その間に、ヨシは政務小屋へと引っ込んでしまったのだった。

 森に現れた霧は、その後里全体を白く包んだ。日が差している間は手を伸ばした先くらいまでは何とか見えたが、日が沈んでからはいっそう濃くなった。今では自分の手のひらさえ見えづらかった。

「……くそっ、何で舞の練習禁止なんだよッ」

 うっすらとしか見えない灯明(とうみょう)を睨みつけ、ジンは家の筵(むしろ)に体を投げた。ユウに殴られた右頬がずきんと痛む。取っ組み合いの喧嘩など子どもの時以来だ。その相手のせいで舞の練習ができなくなったかと思うと、 はらわたが煮えくり返る思いがした。

「こんなやつに負けた俺がみじめ、か……」

 ユウが絞り出した最後の言葉は、今も胸に突き刺さったまま取れそうにない。さっさと忘れて今夜の見張りに備えたいのに、耳の奥に刻まれた声が何度も繰り返し聞こえ、そのたびユウの真っ赤な顔が頭を過ぎった。襟元を掴む手がわずかに震えていた気がする。

(だから何だって言うんだよッ。あいつさえ邪魔しなけりゃッ……)

 舌打ちを打とうとして、頬にちりっと痛みが走った。再び血の味がじわりと口内に広がる。唾液が染みるたび、その傷がじわじわ広がっていっている気がする。唾液がこんなに染みるようでは、夕餉を飲み込むのも一苦労かもしれない。唯一の楽しみである夕餉が試練になるなんて踏んだり蹴ったりだ。心の中で盛大に舌打ちした。

 少し離れたところにある長屋から楽し気な親子の会話が聞こえてくる。ユウも、今頃両親に叱られながら笑っているのだろうか。

 この家にヨシが戻ってくるのは多くて週に二日。それ以外は基本政務小屋にこもりっぱなしだ。ヨシが里長になった際にあてがわれたこの家は、ヨシが里長になる前に住んでいた長屋とさして広さは変わらないのに、今の方がよほど広く感じた。

 戸口に立って霧の向こうの景色を眺める。里の中央では、この霧の中で変わらず浄化の薪が熾されている。炎の赤々とした揺らめきが宙に浮いているように見え、何だか不気味に感じてジンは両腕をさすった。

 頬に響かないよう再び手足を伸ばす。あくびが出たが、口を大きく開けないせいで思うようにできず、全然すっきりしなかった。そのせいか、頭が急激にぼんやりし始めた。

 ヨシは今夜も政務小屋にこもると言っていた。手元もまともに見えない中では書面も読めないだろうに、里長ともなればそうも言っていられないのかもしれない。

 足先を冷たい風が駆け抜け、戸口に吊るしている簾が音を立てて揺れた。今夜は冬の名残がいっそう強いらしい。ぶるりと身を震わせ、木製の箱にしまった厚手の上衣を引っ張り出した。

 両腕を広げ、大気を抱くように柔らかく腕を動かす。少しだけヨシのような動きができた気がして、もう一度、もう一度と繰り返した。

「あー……、舞の練習、禁止されてたんだった」

 灯明が風に揺れるのを何とはなしに見つめ、ジンは深くため息をついた。霧は吐息を嫌がるように広がったが、すぐに元の形に戻った。

 舞の練習ができないのなら、やることなど何もない。当番まで横になろうと寝転んだ途端、背中がずきりと痛んだ。ユウに蹴られたところが当たったらしい。舌打ちし、ゆっくり起き上がった。

 霧はますます濃くなる一方で、まとわりつくそれに肌がぶるりと震えた。木箱から厚手の衣を取り出そうと床を這う途中、突然視界がぐらりと揺れた。何が起きたのか分からず、必死に床に爪を立てたが、襲い来る暗闇に抗えず、落ちるようにして意識を手放した。

「……ん」

 体がぶるりと震える感覚で目を覚ました。今まで感じたことがないくらい空気が冷えていて、耳や鼻がキンと痛んだ。吐き出した息は白い空間に消え、喉を凍てつかせた。

「霧、晴れたんだな……」

 目をこすった時、辺りが妙に明るいことに気が付いた。よく見れば、手の輪郭や色もはっきり見える。飛び起き、ユウに蹴られたところを押さえながら戸口に立った。目をこすっても、霧の隙間から地面や長屋がくっきりと見えた。愕然とした。どうして誰も起こしにきてくれなかったのだろう。

 舌打ちし、辺りを睨めつけた時、鼻に違和感を覚えた。薪が焦げるにおいがまったくしなかったのだ。火は絶対絶やしてはいけないと掟で決まっている。なのに、何度嗅いでも湿った大地のにおいしかしなかった。まさか、火番に何かあったのだろうか。

 ジンは懐に刀があることを確認し、霧の中を手探りで里の中央へ向かった。砂利を踏む音が静まり返った里に大きく響く。背中をひやりと撫でる空気をかきわけながら、慎重な足取りで進んだ。

 少し辺りを見渡そうと立ち止まったその時、突如ジンの右手に鋭い痛みが走った。

「いッ、いてぇッ! な、何だ……ッ⁉」

 まるで火ごてで肌を焼かれたような激痛に呻き、膝をついた。脂汗が急激に浮かび、息が苦しくなった。助けを呼ぼうにもうめき声しか出てこなかった。

 永遠に痛みが続くのではと思っていた頃、ようやく激痛が収まった。何度も口呼吸を繰り返すうち、甲に何かが浮かび上がっていることに気付いた。

 それは、野(の)茨(いばら)をかたどった痣であった。手元がまだはっきり見えないのに、禍々しいまでに青く光り存在を主張していた。

 「な、何だ、これ……」

『ミツケタ』

 刹那、背筋が凍るような声に全身が粟立ち、ジンは弾かれたように振り向いた。だが、そこには何も存在しなかった。なのに、肌が粟立ったままなかなか戻らなかった。

「何なんだよ、何が起こってるんだよッ……、くそ、また痛えっ!」

「ジン? そこにいるのは、ジンかい?」

「義母さん……? 義母さんッ」

 霧の向こう、聞き慣れた声にジンは思わず声を張り上げた。

「やっぱり、ジンだね。無事だったかい?」

「ああ。さっきの声、義母さんだったかよ。変な声出すなって」

 手を前に突き出し、声がした方へできるだけ早歩きで進む。ようやく人影が見え、囁くように義母さんと呼べば、向こうから引き締まった手が伸びてきた。温かいそれを、ジンは誰よりも知っていた。

「義母さん、見つけた!」

「ッ⁉ うッ……」

 痣の妖しい光が浮かび上がらせた義母の顔が、なぜかとても苦し気に歪んでいた。掴んだ手から次第に力が抜け、ヨシはその場に崩れ落ちた。

「義母さん? 義母さん!」

 手探りで母の体を抱き起し、顔を覗く。次第に薄くなっていく霧の先、空が白み始めているのが見えた。

「義母さん、義母さん! しっかりしろよ、義母さん!」

「グッ、あッ…ああっ……!」

 ヨシは、抱き締めるほど苦し気に呻いた。ジンはどうしていいか分からず、母の体を何度も揺さぶった。そのたびヨシの顔から血色が失われ、腹の底が急激に冷えていった。

「こいつは、ちょっと、厄介だね……」

「義母さんッ、しっかりしろよ、義母さんッ」

「こいつに頼る日が来るとはね……」

 血の気が失せた唇で独り言ちると、ヨシは震える手で懐から何かを取り出した。

「ジン……、ッ……、これから、現れる男を、頼り、な……」

「え? 何て言ったんだよ、もう一回言ってくれよッ」

 質問には答えず、ヨシは取り出したそれにかすかに唇を付けた。それはヨシの手をするりと抜け出すと、驚くほどの速さで宙を舞い、どこかへと消えた。

 それを見届けると、義母はそっと目を閉じた。一人取り残されたジンは、ただ喚くことしかできなかった。

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