表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

5/18

5

翌朝。


 目覚めは、昨日よりましだった。


 劇的、とまでは言わない。

 リング――小型生体負荷緩和端末の効果が永続するわけではないらしく、身体の芯には相変わらず重さが残っている。だが、あの泥みたいな倦怠感が、少しだけ薄い。


 少しだけ。


 その少しが、今の恒一には異様に大きかった。


 天井を見上げる。


 灰色。

 薄い染み。

 安アパートの、見慣れた天井。


 昨夜のことを思い出す。

 宇宙船。

 ルイゼ。

 《巡界避難艦アウルム》。

 逆位相投射。

 そして、ベッドの上に現れた三種類の道具。


「……夢じゃ、ないんだよな」


 確認するまでもない。


 机の上には、透明なカード片が二枚。

 黒い豆粒みたいな小球が三つ。

 リングは、今は外して枕元に置いてある。


 恒一は起き上がり、洗面所へ向かった。

 鏡の中の自分は、相変わらずひどい。

 だが昨日ほどではない。


 ほんの少し、目の濁りが薄い。


 それだけで、今日は妙にむかついた。


 こんな程度のことで、まだ戦える気になってしまう自分に。


「……チョロいな、俺」


 そう呟いてから、首を振る。


 違う。

 チョロいんじゃない。

 ただ、ずっとゼロ以下だっただけだ。

 そこに少しでも回復が入れば、人間は簡単に“まだいけるかもしれない”と錯覚する。


 その錯覚を利用されてきた。


 会社にも。

 社会にも。

 たぶん、自分自身にも。


 朝食は食わなかった。

 食欲がない。

 代わりに水を飲む。


 スーツを着る。

 ネクタイを締める。

 靴を履く。


 そこで、机の上の透明なカード片を見た。


「……これか」


 局所空間偏向膜。


 一定方向からの運動エネルギーを受け流す。

 人前での常用は非推奨。

 使用回数制限あり。


 完全に物騒だ。


 だが、必要だった。


 恒一は片方をそっと持ち上げた。

 ガラスみたいに見えるのに、軽い。

 薄い。

 そして、存在感が妙に希薄だ。

 見ていると輪郭がずれる感じがする。


 触れた瞬間、また意味が頭に落ちてきた。


 ――装着位置、胸部推奨。

 ――衣服内固定可能。

 ――有効角度、前方六十度。

 ――作動回数、三。

 ――強衝撃時、視認微光あり。


「相変わらず説明が直で来るな……」


 誰もいない部屋でぼやく。


 シャツの内側、胸ポケットの裏に差し込んでみる。

 すると、カード片は勝手に布地に沿って密着し、見えなくなった。

 手で触れると、そこにあるのは分かる。

 だが、鏡で見ても目立たない。


「すげぇ」


 率直に感心した。

 この時点で、地球の技術じゃないと分かる。

 少なくとも、恒一の知っている社会人向け量販品では絶対にない。


 次に、黒い豆粒みたいな小球を一つ摘まむ。


 受動記録子。


 視聴覚・一部環境データを記録。

 文明水準で復元可能な形式に変換済み。


「これが一番やばいだろ……」


 こっちはこっちで危険だ。

 もし本当に高性能なら、証拠としては強い。

 だが、逆に言えばバレたときに言い逃れしづらい。


 少し迷ってから、恒一は一つをワイシャツの襟裏に仕込んだ。


 ぴたり、と貼りつく。


 頭の中に意味。


 ――記録開始。

 ――自律保持。

 ――回収優先。

 ――外部視認性、低。


「便利すぎるだろ」


 便利すぎるものは、たいていろくでもない。

 だが、ろくでもない状況を相手にするには、ろくでもないくらい便利なものが必要なときもある。


 問題は、これを使う覚悟があるかだった。


 恒一は黙って鏡を見た。


 くたびれた男。

 どこにでもいる、くたびれた会社員。

 顔色の悪さと隈で、毎日が死にかけなのが分かる。


 こんなやつが、異星技術を仕込んで出社する。


 滑稽だった。


 滑稽すぎて、逆に笑えない。


 そのとき、スマホが震えた。


おはようございます。

生体状態、昨日よりわずかに改善。

ただし、緊張が強いですね。

——ルイゼ


「朝から読んでくるなよ……」


あなたが今、偏向膜と記録子を持った時点で、推測は容易です。

——ルイゼ


「……まあ、そうか」


使用目的。暴力防御。証拠確保。

かなり明瞭でした。

——ルイゼ


「こっちにもプライバシーってもんが」


あります。

だから全部は読んでいません。

ですが、今のあなたは“決めた直後の人間”なので、輪郭が強いです。

——ルイゼ


 その表現に、恒一は少しだけ黙った。


 決めた直後の人間。


 確かにそうだった。


 昨日までの自分は、ずっと沈んでいた。

 抵抗したいと思っても、どうせ無理だと先回りして潰していた。

 でも今は違う。

 少なくとも、今日は一つ、やることがある。


 防ぐ。

 残す。

 黙って殴られない。


 それだけだ。


「……もし失敗したら?」


記録は残るでしょう。

偏向膜も、一定の保険になります。

ただし、万能ではありません。

——ルイゼ


「だろうな」


そして、もう一つ。

——ルイゼ


あなたは、完全な無力ではありません。

昨日までそれを証明する手段が少なかっただけです。

——ルイゼ


 まただ。


 こういうことを、さらっと言う。


 気休めでも、慰めでもなく。

 評価として言う。

 その感じが、妙に胸に残る。


 恒一はしばらく画面を見て、やがて短く打った。


「行ってくる」


 返信はすぐ来た。


行ってらっしゃい。

できれば、生きて帰ってください。

——ルイゼ


「縁起でもないな」


 だが、少しだけ笑えた。


     ◇


 会社は、今日も会社だった。


 ロビー。

 ガラス扉。

 受付前の観葉植物。

 出社してくる社員たちの、眠そうな顔。

 誰も彼も、そこそこに疲れていて、そこそこに慣れている。


 異常は、慣れると背景になる。


 レグナント・ソリューションズは、そういう会社だった。


 席に着く。


 PCを立ち上げる。

 メールを開く。


 案の定、堂本から深夜に追加の差し戻しが来ていた。

 件名は「至急」。

 本文は短い。

 “朝イチで説明しろ”

 以上。


 説明しろ、じゃない。

 吊し上げる、だ。


「……はいはい」


 乾いた声で言いながら、恒一は周囲を見た。


 隣の島の先輩社員がコーヒーを啜っている。

 後ろでは、同期入社だったはずの男が、もう管理職候補みたいな顔をして会話している。

 誰もこっちを見ない。


 別にそれでいい。

 今さら仲良くしたいわけでもない。


 十時前。

 堂本が現れた。


 靴音で分かる。

 歩き方が偉そうだから。

 無駄に踵が強い。


「相馬、会議室」


 短い。


 だが、それだけで胃が縮む。

 嫌な条件反射だ。


「はい」


 立ち上がる。


 胸の内側に偏向膜。

 襟裏に受動記録子。

 スマホはポケット。

 心拍はうるさい。


 会議室のドアが閉まる。


 音が一つ遮断されるだけで、世界は一気に狭くなる。


 堂本は机に資料を置くと、椅子にも座らず、腕を組んだ。


「で?」

「昨夜ご指摘いただいた箇所ですが、再集計して――」

「違う違う違う」


 堂本が手を振る。


「俺が聞きたいのは、なんで昨日みたいな舐めた態度取ったのかってこと」


 来た。


 仕事の話ではない。

 支配の話だ。


「……舐めたつもりはありません」

「は?」

「叩かれたので、確認しただけです」

「確認?」


 堂本が笑う。

 口の端だけで。

 あれは笑いではない。

 威嚇だ。


「お前さ、自分の立場分かってる?」

「……」

「分かってないから、あんなこと言えるんだよな」


 恒一は何も言わなかった。


 言い返したい言葉はある。

 だが今は違う。

 今日の目的は勝つことじゃない。

 残すことだ。


 堂本はそれを、怯えと取ったらしい。

 目つきが少し変わる。

 楽になった目だ。

 相手が黙ると、こいつは楽になる。


「俺はな、お前のために言ってやってんだよ」

「……」

「社会ってのは、もっと理不尽なんだわ。ここで矯正されといた方が、お前のためになるの。分かる?」

「……」

「返事」


 喉が乾く。


「……はい」

「聞こえねぇな」

「はい」

「それで?」

「ご指摘の意図は理解しました」

「はぁ?」


 堂本が眉をひそめた。


 恒一は、自分でも少し驚いていた。

 今の言い方は、半分は本音だった。

 こいつが何をしたいのかは、理解している。

 矯正じゃない。

 服従確認だ。


「ただ」

「ただ?」

「今後、身体に接触する形の指導はやめていただきたいです」


 空気が、凍った。


 堂本の顔から表情が消える。

 そのあと、ゆっくり、怒りが戻る。


「お前」


 低い声。


「マジで喧嘩売ってんの?」

「お願いしています」

「お願いぃ?」


 机を回り込んでくる。


 近い。

 臭い。

 圧がある。


 だが、昨日までほどではなかった。

 たぶん、胸の下に一枚、理不尽に対抗できる何かがあるからだ。


「録音でもしてんの?」

「していません」

「証拠でも集めるつもり?」

「必要なら考えます」


 言ってから、少しだけ冷や汗が出た。

 挑発気味すぎたかもしれない。


 案の定、堂本の目が剥けた。


「は、必要なら?」

「……」

「誰に向かって口利いてんだよ!」


 腕が上がる。


 昨日のファイルじゃない。

 今度は、手そのもの。

 平手か、それとも胸倉か。

 とにかく前方からの接触。


 恒一は反射的に目を細めた。


 その瞬間。


 胸の内側で、かすかな熱。


 淡い光。


 空気が、ずれた。


 ぱしっ、という打撃音は鳴らなかった。

 代わりに、ざり、と紙を擦るみたいな妙な音がした。


 堂本の手が、恒一の肩に届く寸前で、外へ流れた。


「……は?」


 堂本が固まる。


 何が起きたか分からない顔。

 当然だ。


 本人には、手元が急に滑ったようにしか感じなかっただろう。


 恒一の心臓が一気に跳ね上がる。


 効いた。


 本当に。


「今の……」


 堂本が自分の手を見る。

 恒一を見る。

 もう一度、手を伸ばしかける。


 やめろ、と心の中で叫ぶ。

 偏向膜の回数制限は三。

 無駄撃ちはしたくない。


 だが、堂本は二撃目の前に別の方向へ切り替えた。


 胸倉を掴もうとしたのだろう。

 しかし、その動きも半端に鈍り、布を引っかけるだけで終わる。


「お前、なにした?」

「何もしてません」

「ふざけんなよ!」


 机を蹴る。

 音が響く。


 その音で、会議室の外の誰かが一瞬足を止めた気配がした。

 だが、入ってはこない。


 分かっていた。

 他人は、閉じたドアの向こうの面倒ごとには関わらない。


 堂本は呼吸を荒くしながら恒一を睨んだ。

 そして、吐き捨てるように言った。


「お前、最近おかしいんだよ」

「……」

「なんか変な入れ知恵されたか?」

「されてません」

「だったら何だ。調子乗る理由でもできたか?」

「……それを、考えないといけないのは、たぶん俺じゃなくてあなたの方です」


 言った。


 言えてしまった。


 自分でも驚くくらい、静かな声だった。


 堂本の顔が真っ赤になる。


「この――」


 だが、その瞬間だった。


 会議室のモニターに、ぽん、と通知が出る。


 社内チャット。

 送信者は、経理部。


 堂本のPCと会議室モニターが連携されっぱなしだったらしい。

 本人が切っていなかったのだろう。


 表示されたメッセージは短い。


先月分の外注費精算、堂本部長確認分で再差異あり。至急ご確認ください。


 堂本の動きが、一瞬だけ止まる。


 恒一は、そのわずかな反応を見逃さなかった。


 再差異。


 外注費。

 確認分。


「……何見てんだよ」


 堂本が低く言う。


「いえ」

「今の忘れろ」

「業務連絡ですよね」

「相馬」


 声がさらに低くなる。

 危ない。


「余計なこと考えるなよ」

「……」


 その沈黙が、逆に肯定みたいになったのかもしれない。


 堂本は乱暴に椅子を引き、PCを閉じた。


「出てけ」

「資料の説明は」

「いいから出てけ!」


 怒鳴り声。


 恒一は一礼もしなかった。

 そのままドアへ向かう。


 手をかける直前、背中に声が飛んだ。


「相馬。お前、勘違いすんなよ」


 振り向かない。


「会社に守られる側の人間が、会社に楯突いて勝てると思うな」


 守られる側。


 どの口が言う。


 恒一はドアを開けた。

 外の空気が流れ込む。

 会議室の狭い圧が、少しだけ薄まる。


 そのまま席へ戻る。


 足は震えていた。

 手も。

 冷や汗もすごい。


 勝ったわけじゃない。

 何も解決していない。

 でも、殴られなかった。

 少なくとも今日は。


 席に座ると同時に、スマホが震えた。


偏向膜、一回作動。

かなり危なかったですね。

——ルイゼ


「見てたのか……」


直接視覚共有はしていません。

ただ、あなたの神経反応が急上昇しました。

そして今、あなたは少し震えています。

——ルイゼ


「バレるか」


明白です。

——ルイゼ


 数秒、間が空く。


ですが、防ぎました。

それは事実です。

——ルイゼ


 その一文に、恒一は小さく息を吐いた。


 防いだ。


 たしかに、防いだ。

 奇跡みたいな技術に頼ったのは事実だ。

 でも、使うと決めたのは自分だ。


 そのとき、不意に、もう一つの記憶が頭を掠めた。


 経理部のメッセージ。

 外注費精算。

 再差異。


 堂本の反応は、明らかにおかしかった。


「……まさか」


 独り言が漏れる。


 その瞬間、襟裏の受動記録子が微かに熱を持った。

 意味が頭に落ちる。


 ――重要反応記録済み。

 ――対象表情変化、音声保存。


「うわ」


 本当に、表情まで拾っているらしい。


 便利すぎる。

 そして物騒すぎる。


 恒一はPCの画面を開きながら、慎重に考えた。


 堂本は暴力だけの男ではない。

 暴力は、たぶん表に出ている分かりやすい症状だ。

 本体は別にある。


 数字。

 責任転嫁。

 見えないところの操作。


 そういうタイプの嫌な勘がした。


 昼休み。

 恒一は社内システムの閲覧権限の範囲で、過去の案件データを漁り始めた。


 外注費。

 再委託。

 検収。

 請求番号。

 修正履歴。


 別に、経理の不正調査をする権限なんてない。

 そんなものはない。

 だが、業務上見られる範囲のログはある。

 誰が、どのファイルを、いつ更新したか。

 どの申請が、誰の承認で止まっているか。

 数字の詳細までは見えなくても、流れは見える。


「……あ」


 見つけた。


 堂本が担当していた大型案件の一つ。

 外注先の名称が、三か月前から微妙に変わっている。

 社名の表記揺れ?

 いや、違う。

 取引先コードは別だ。

 なのに、住所の一部が一致している。

 請求タイミングも不自然に細かい。


「なんだこれ……」


 もっと見たい。

 だが、見える範囲には限界がある。


 そのとき、頭の奥に、微かなざらつき。


 ルイゼだ。


『今、強い関心対象がありますね』

「うわっ」

『驚かせましたか』

「急に来るなよ……」

『あなたの注意が極端に集中したので、輪郭を拾いました』

「便利だなお前」

『褒め言葉として受け取っておきます』


 恒一は画面を見たまま、小さく息を吐く。


「堂本、たぶん何かやってる」

『金銭に関する不整合?』

「たぶん」

『確証は』

「ない」

『なら、まだ仮説です』

「分かってる」


 きっぱり返す。


 そこは大事だった。

 嫌いだから黒だ、と決めつけるのは違う。

 それをやったら、向こうと同じになる。


 今あるのは、違和感。

 行動の不自然さ。

 反応の過剰さ。

 そして、残せた音声と表情。


 事実ではある。

 だが、結論はまだ出せない。


『良い切り分けです』

「……いちいち採点するな」

『必要ならやめます』

「いや……まあ、別に」


 少しだけ恥ずかしくなって、恒一はモニターを睨む。

 ルイゼはルイゼで、何か感じ取ったらしい。


『あなたは今、照れましたね』

「うるさい」

『記録しますか』

「するな!」


 そのやりとりの直後。


「相馬くん」


 後ろから声がした。


 振り返る。


 経理部の女が立っていた。

 年上。

 三十代前半くらい。

 切れ長の目。

 淡々とした顔。

 たしか名前は、篠崎。


「ちょっといい?」

「……はい」


 篠崎は周囲を一度見てから、声を落とした。


「さっき、会議室で何かあった?」

「……何か、とは」

「音、結構してたから」


 恒一は一瞬迷う。


 ここで全部言うか。

 濁すか。

 相手がどこまで信用できるかは不明だ。


 不明なものは、不明として扱う。

 最近、自分の中でそこだけは妙に明確だった。


「少し、言い合いになりました」

「堂本さんと?」

「はい」

「そう」


 篠崎は大して驚かなかった。

 つまり、堂本がそういう人間だと知っているのだろう。


「一つだけ、確認」

「はい」

「あなた、あの人に何か握られてる?」

「……特には」


 篠崎は数秒、恒一の顔を見る。

 値踏みというより、確認だ。


「ならいい。変なことに巻き込まれたくなかったら、今日のうちにメールのバックアップ取っときな」

「え」


「念のため」


 それだけ言って、篠崎は去った。


 恒一は固まった。


 念のため。

 その言い方は、ただの親切ではない。

 何か知っている人間の言い方だった。


『新要素ですか』

「篠崎さんが、バックアップ取っとけって」

『内部で異常の兆候を把握している個体かもしれませんね』

「個体って言うな」

『失礼。人員』

「そこじゃない」


 でも、言いたいことは分かる。


 堂本の周辺で、何かが動いている。

 それはたぶん、恒一が思っていたより前から。


 昼休みが終わる。


 午後の進捗会議。

 堂本はいつも通り偉そうだった。

 だが、時折スマホを確認し、明らかに機嫌が悪い。

 経理からの連絡が尾を引いているのか、それとも別件か。


 会議中、恒一は極力視線を上げなかった。

 だが、受動記録子は淡々と仕事をしているらしい。

 襟裏で小さく熱が揺れるたび、妙な安心感と恐怖が同時にあった。


 夕方。


 事件は、思ったより雑に起きた。


 堂本がフロア中央で、若手の営業を怒鳴りつけ始めたのだ。


「だからなんで先方確認取ってねぇんだよ!」

「い、いや、堂本部長からはそのまま出していいと――」

「俺のせいにすんの?」

「ちが、そういう意味じゃ」

「じゃあどういう意味だよ!」


 皆が息を潜める。


 また始まった。

 そういう空気。


 恒一は画面を見たまま耳だけを向ける。

 すると、その若手が震える声で言った。


「でも、外注の件も、部長が……」


 堂本の顔色が変わった。


 一瞬で。


 まずい。

 誰もがそう思った顔だった。


「お前、今なんて言った?」

「……」

「言ってみろよ」

「……」

「言えって!」


 机を叩く。

 若手がびくっと縮こまる。


 そのときだ。


 篠崎が席を立った。


「そこまでにしてください」


 通る声だった。

 低すぎず、高すぎず。

 だが、よく通る。


 堂本が振り返る。

 明らかに苛立っている。


「経理に口出しされる筋合いあります?」

「あります。少なくとも、精算と承認の整合性については」

「今その話してないですよね」

「でも、その話でしょう?」


 空気が張る。


 篠崎は一歩も引かない。

 むしろ、静かに資料を掲げた。


「再差異、三件。説明いただけますか」

「後で行くって言ってるだろ」

「今日中です」

「命令?」

「業務です」


 強い。


 恒一は内心で息を呑んだ。

 こういう人がいるのか、この会社にも。


 堂本は笑った。

 だが目が笑っていない。


「へぇ。じゃあ相馬にも聞いてみます? こいつ、最近いろいろ熱心なんで」

「相馬さんに?」

「ええ。余計なもの見てるみたいなんでね」


 視線が刺さる。


 フロア中の何人かが、初めてはっきり恒一を見た。


 最悪だ。


 堂本は、自分だけが疑われる形を嫌う。

 だから、道連れを作る。

 巻き込む。

 話を濁らせる。


 篠崎が恒一を見る。


 その目は、助けを求めても、沈黙を責めてもいなかった。

 ただ、選べ、と言っている目だった。


 ここで黙るか。


 それとも。


 恒一は喉を湿らせるために、無意味に唾を飲み込んだ。


「……見ていました」


 自分の声が、妙に遠く聞こえた。


 堂本の目が細まる。


「は?」

「さっき会議室で、部長が経理からの連絡を見て、かなり動揺していたのは見ました」

「お前――」

「あと」


 言う。

 もう止まらない。


「今日、若手への指示の出し方も、少し不自然です。誰がどの承認をしたか、話がずれているように見えます」


 断定ではない。

 見えます、だ。

 事実と推測を分ける。


 そこだけは、崩したくなかった。


 堂本が一歩踏み出す。


「ふざけんなよ、相馬」

「ふざけてません」

「お前、俺を疑ってんのか?」

「疑うというより、確認が必要だと思っています」

「誰の立場で言ってんだよ!」


 怒号。


 その瞬間、襟裏の記録子が熱を帯びる。

 記録している。

 全部。


 篠崎が前に出た。


「その続きは会議室で。正式に」

「は?」

「人事も呼びます」

「……お前ら、分かってんのか」

「はい。だからこそです」


 堂本の顔が崩れる。


 怒り。

 焦り。

 そして、隠しきれない種類の怯え。


 その顔を見た瞬間、恒一の中で、仮説の重みが一段増した。


 まだ黒とは言えない。

 だが、白とも到底思えない。


 堂本はしばらく全員を睨んでいたが、やがて吐き捨てるように言った。


「……いいよ。やりゃいいじゃん」


 踵を返す。

 そのまま自席へ戻る。


 フロアの空気がざわついた。

 皆、何も言わない。

 だが、確実に見ていた。


 いつもと違う。

 堂本が、一方的に押し切れなかった。


 それだけで、空気は変わる。


『流れが変化しましたね』

 頭の奥で、ルイゼの声。


「……まだ分からない」

『はい。ですが、均衡は崩れました』

「それは、そうかもな」


 恒一は椅子に座った。

 足が少し震えている。


 怖い。

 当然だ。

 このあと何が起こるか分からない。

 報復もあるかもしれない。

 人事がまともに機能しない可能性も高い。


 でも、今日はもう昨日じゃない。


 殴られるだけの日じゃない。

 見て見ぬふりだけの日でもない。


 少なくとも、証拠がある。

 少なくとも、見ている人間が増えた。


 それだけで十分とは言わない。

 だが、ゼロではない。


 ゼロではないということが、こんなにもでかい。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ