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会社を辞めて三日目の朝。
恒一は、アラームより先に目が覚めた。
習慣の残骸みたいなものだった。
七時前。
薄い朝の光。
静かな部屋。
天井の染み。
冷蔵庫の低い音。
違うのは、そのあとだ。
飛び起きなくていい。
ネクタイを締めなくていい。
満員電車と、堂本と、終わらない修正依頼を想像して、胃を先に壊さなくていい。
代わりに、今日やることを、自分で決める。
「……まだ慣れねぇな」
ベッドの上で呟く。
『生体状態は安定しています』
ルイゼの声。
「朝イチで医療機器みたいなこと言うな」
『観測結果です』
「便利だな」
『はい』
「最近そこ、否定しないよな」
『否定する必要がないので』
あっさりしている。
だが、そのあっさりした感じが、妙に今朝は心地よかった。
恒一は起き上がり、カーテンを少し開けた。
曇り空。
隣の建物の壁。
電線。
普通の朝。
なのに、自分だけが少しズレた場所にいる気がする。
会社員ではない。
完全な成功者でもない。
まだ事業と呼ぶには心もとない、半端な個人。
宙ぶらりん。
でも、沈んではいない。
机に向かう。
ノートPCを開く。
ソウマ・ワークスの簡易ページ。
昨日整えたプロフィール。
初案件の実績一行。
その下に、今朝、新しい通知が二件並んでいた。
一件は、例の先輩からの追加相談。
改善案を試し始めたところ、在庫ズレの発生箇所がさらに絞れそうだから、継続で見てほしい、というもの。
もう一件は、篠崎が言っていた“知り合い”らしい。
小規模な会計事務所の補助スタッフから。
事務フローの整理ができる人を探しています。
紹介で連絡しました。
一度、話せますか。
「……え」
思わず声が出た。
『追加接触ですね』
ルイゼが言う。
「追加接触って言い方やめろ」
『問い合わせです』
「そっちだ」
でも、驚きは本物だった。
もう来た。
次が。
まだ、たった一件やっただけなのに。
「早くないか?」
『紹介経路があるなら不自然ではありません』
「いや、でも」
『あなたは今、“こんなに早く来るのはおかしい”と思っていますね』
「……思ってる」
『それは成功に慣れていない人間の反応です』
「刺すなぁ……」
『事実確認です』
恒一は顔をしかめながら、通知をもう一度見た。
怖い。
正直、かなり。
一件だけなら偶然かもしれない。
でも二件目が来ると、“本当にこれでやっていく流れかもしれない”という現実味が急に増す。
その現実味が、少し怖い。
『判定しますか』
ルイゼが言う。
「何を」
『今の状況について』
「……してくれ」
『妥当な点。初案件が実用評価を得て、紹介経路が動いた』
「うん」
『不確実な点。この流れが継続するかはまだ不明』
「そうだな」
『不明な点。あなた一人で複数案件を安定処理できるか』
「うっ」
痛いところをきっちり言ってくる。
『したがって、結論は“兆しはあるが、まだ再現性は未証明”です』
「……綺麗にまとめるな」
『役に立ちますか』
「めちゃくちゃ役に立つ」
だから困る。
この艦長、たまにこっちの欲しい整理を先に置いてくる。
反則だと思う。
「じゃあ、今やることは」
『先輩案件は、継続範囲を小さく定義する』
「うん」
『新規紹介案件は、まずヒアリングだけ。安請け合いしない』
「はい」
『そして、あなたの稼働上限を仮置きする』
「……」
『今のあなたは、調子に乗ると全部受けます』
「……否定できねぇ」
完璧に見抜かれている。
◇
午前中。
恒一は先輩案件の追加対応を、小さな継続契約として切り出し直した。
在庫ズレ原因の追跡補助。
問い合わせテンプレ運用の微修正。
発送ステータス定義の定着確認。
全部ひっくるめて、二週間の軽い伴走支援。
金額は二万円。
送る前に、三回迷った。
「……高いか?」
『安すぎます』
ルイゼが即答する。
「うそだろ」
『前回の改善案が実用評価され、継続依頼が来ている』
「うん」
『なら、“その後の定着支援”に価値はあります』
「でも知り合いだし」
『知り合いだから曖昧にすると、後で壊れます』
「……」
正しい。
嫌なくらい正しい。
『事実誤認ではなく、前提不足の修正です』
「お前、その言い回しちょいちょい気に入ってるだろ」
『便利です』
「やっぱりか……」
恒一は小さく息を吐き、文面を調整した。
知り合い価格で過剰に安売りしない。
でも偉そうにはしない。
結果、こうなった。
前回の初期整理を踏まえて、
次の2週間は「定着確認と軽微修正」に絞って見られます。
範囲は在庫ズレ原因の追跡、問い合わせテンプレ修正、発送管理運用の確認まで。
この範囲なら2万円で受けられます。
送信。
五分後、返事。
OK、それで頼む。
逆に安い気もするけど助かる。
「……」
『ほら』
ルイゼの声がする。
「お前さ、そういう“ほら”やめろよ」
『正しかったので』
「腹立つけど助かるんだよな……」
継続確定。
初案件が単発で終わらなかった。
それだけで、大きかった。
そして、もう一件。
会計事務所補助スタッフとのヒアリングは、その日の夜に決まった。




