31
退職前日。
会社のPCを閉じる前、恒一は最後の引き継ぎ資料を三島へ送った。
件名は普通。
本文も普通。
余計な感情は入れない。
だが、送信後に三島からすぐ返事が来た。
助かった。
ちゃんと使う。
次はもっと早く言えるようにする。
短い。
でも十分だった。
恒一はその文を読んで、少しだけ息を吐いた。
全部が綺麗には終わらない。
会社も変わりきらないだろう。
でも、無意味でもなかった。
それでよかった。
終業後、篠崎がエレベーター前で待っていた。
「明日で最後だっけ」
「はい」
「お疲れさま」
「……ありがとうございます」
「で、次は?」
「小さい受託からです」
「そう」
「まだ全然、安定とかは無理ですけど」
「最初はみんなそう」
篠崎はそこで少しだけ笑った。
「あなた、最初に見た時よりだいぶましな顔してる」
「ひどい言い方ですね」
「事実」
「……否定はしません」
「でしょうね」
数秒の沈黙。
「一応言っとくけど」
篠崎が言う。
「今回、あなたのやり方は正しかったと思う」
「……」
「感情で全部ぶち壊さなかった。そこは本当に良かった」
「そうですか」
「うん。ただし」
「ただし?」
「今後うまくいき始めたら、今度は調子に乗らないように」
きつい。
だが、ありがたい。
「肝に銘じます」
「ならいい」
そして、篠崎は最後に言った。
「もし本当に事務整理とか仕組み化やるなら、そのうち経理の知り合い一人繋げるかも」
「え」
「うまく回るなら、ね」
「……ありがとうございます」
「まだ早い。まず今の一件ちゃんと回して」
それだけ言って、エレベーターへ乗っていった。
扉が閉まる。
恒一はしばらく、その場で動けなかった。
繋がる。
次に。
少しずつ。
派手じゃない。
でも、それでいい。
◇
退職当日の夜。
部屋に戻った恒一は、スーツを脱いで床に置いた。
ネクタイを外す。
ワイシャツのボタンを外す。
静かだ。
いつもと同じ部屋。
同じ安アパート。
同じ天井。
でも、今日は少し違う。
もう会社員ではない。
その事実が、妙に現実感を持って迫ってくる。
嬉しい。
怖い。
空っぽ。
少しだけ高揚。
全部混ざっていた。
「……終わったな」
『はい』
ルイゼの声。
『今日から、別の段階です』
「無職だよ」
『違います』
「え?」
『個人事業準備中です』
「その言い方、都合いいな」
『地球では大事でしょう』
「……まあ、そうかも」
恒一は床に座り込んで、しばらく黙っていた。
何か言うべき気がした。
でも、ちょうどいい言葉が出ない。
その沈黙を、ルイゼは待っていた。
『今、何を感じていますか』
「……空いた感じ」
『空白』
「うん」
『良くないですか』
「いや」
「悪くはない」
「たぶん、初めて、自分の時間が自分に返ってきた感じがする」
言葉にした瞬間、少しだけ目頭が熱くなった。
疲労で泣くのではない。
怒りでもない。
ただ、返ってきた、という感覚。
失ったもの全部が戻るわけじゃない。
傷も残っている。
でも、少なくとも、これからの時間は少し違うかもしれない。
『……それは、良いことです』
ルイゼの声が、少しだけ柔らかい。
「お前がいなかったら、たぶんここまで来れてない」
『それは過大評価です』
「いや、本当に」
『……』
「助かった」
『……はい』
向こうが、少しだけ黙る。
その沈黙の形が、妙に綺麗だった。
照れ、と言うには静かすぎる。
でも、何かがちゃんと届いた感じがある。
「じゃあ、次だな」
『はい』
「次は、ちゃんと食っていける形にする」
『はい』
「小さい仕事を増やす」
『はい』
「その上で、睡眠補助とか整理支援とか、形にしていく」
『はい』
「あと」
『あと?』
「お前のことも、もう少し知る」
『……』
「目的以外のところからでいい」
『交渉条件ですね』
「そういうこと」
『分かりました、地上の個人事業準備中』
「その呼び方、微妙に長くなってるんだよ!」
笑う。
向こうも少し笑う。
そのやりとりのあと、恒一はノートPCを開いた。
ソウマ・ワークスのページ。
仮プロフィール。
実績欄。
そこに、最初の一件を打ち込む。
業務整理支援:小規模EC事業者向け 在庫・問い合わせ・発送管理の初期改善案作成
たった一行。
でも、その一行は、これまでのどの会社の肩書きより、少しだけ自分のものに見えた。




