30
初案件の報酬が振り込まれたのは、二日後の昼だった。
会社のトイレ個室。
スマホの通知。
入金。
金額、三万円。
「……入った」
小さく呟く。
画面には無機質な数字。
でも、その数字が、今まで見てきた給料明細とはまるで違って見えた。
月給の一部じゃない。
組織の仕組みの中で雑に算出されたものでもない。
自分で取って、自分で作って、自分で届かせた結果だ。
『おめでとうございます』
ルイゼの声。
「ありがとう」
『声が少し震えています』
「そりゃな……」
『分かります』
便座に座ったまま、恒一はしばらく画面を見ていた。
情けない場所だ。
でも、それでいいと思った。
人生の手応えは、わりとこういう場所に突然落ちてくる。
会社に戻る。
モニターを見る。
引き継ぎを進める。
表面上は何も変わらない。
でも内側では、もうかなり違った。
自分はこの会社を離れても、完全なゼロではない。
そう思えるだけで、空気がまるで違う。
「……もう戻れないな」
『はい』
「前みたいには」
『はい』
戻れない。
その感覚は、怖いより先に、少し気持ちよかった。
◇
退職日まで、あと三日。
会社では堂本の話題がほぼ禁句になっていた。
だが、禁句になる時点で、皆知っている。
正式な処分内容はまだ出ていない。
でも、もう現場には戻らないだろう。
そういう空気だった。
恒一は深追いしなかった。
決めた通りだ。
代わりに、夜の時間を全部、自分の側へ寄せ始める。
初案件の簡易フォロー。
次の営業文面の修正。
屋号の仮ページ作成。
プロフィール文。
事業内容の説明。
その中で、ルイゼから新しい提案が出た。
『情報整理支援を、もっと形式化できます』
「形式化?」
『はい。人間向けに言えば、入力された情報を優先度・締切・種類ごとに並べ替え、見落としを減らす仕組み』
「タスク整理ツールみたいな?」
『近いです』
「それ、ありふれてないか」
『ありふれています。だからこそ、自然に見せやすい』
「……」
なるほど、と思った。
派手なものは危険だ。
だが、既にある分野を、少しだけ異様に使いやすくする。
それなら目立ちすぎない。
『あなたの文明には、やるべきことが多すぎて、しかも整理が下手な人間が多い』
「最後刺すなぁ……」
『市場があります』
「言い方!」
だが、本質は分かる。
疲れている人間。
雑務に追われる小規模事業者。
整理したいのに、整理の仕組みを考える余裕がない人間。
そこに入る。
それはかなり現実的だ。
「でも、ツール開発って俺には重いぞ」
『全部作る必要はありません』
「?」
『まずは、手動支援で勝ち筋を掴む』
「うん」
『そこで出た共通課題を、少しずつ仕組み化する』
「……それなら」
『できます』
「うん、たぶんそれなら」
急がない。
いきなり世界を変えない。
小さな仕事から、共通部分を抜き出す。
それは今の恒一に合っていた。




