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3

退勤したのは、日付が変わる直前だった。


 終電には間に合った。

 だから何だ。


 吊り革につかまる手が震えていた。

 疲労だけじゃない。

 怒りと、情けなさと、言い返せなかった自分への嫌悪で、腹の底がぐちゃぐちゃだった。


 駅からの帰り道。


 コンビニで一番安い弁当を買った。

 温めますか、と聞かれて、お願いしますと答えた。

 店員は無表情だった。

 それが少し救いだった。

 余計な優しさも、余計な興味も、今は要らない。


 部屋に戻る。


 暗い。


 狭い。


 静かだ。


 靴を脱ぐ。

 鞄を投げる。

 ネクタイを外す。

 弁当は机に置いたまま。

 食欲がなかった。


 そのままベッドに倒れ込む。


 スプリングが軋む。


「……はは」


 笑ったつもりはなかった。

 けれど、喉から変な音が出た。


「……ふざけんなよ」


 天井は何も言わない。


「ふざけんなよ……」


 目頭が熱くなった。

 泣くのか。

 この歳で。

 殴られて、怒鳴られて、何も言い返せなくて、今さら一人で泣くのか。


 最悪だ。


 でも、涙は勝手に出た。


「……くそ……」


 スマホを取る。


 現実逃避だった。

 いつもの。

 何も考えたくないときに、画面を眺める。

 動画。

 ニュース。

 どうでもいい炎上。

 誰かの飯。

 誰かの旅行。

 誰かの成功。

 誰かの幸福。


 世界には、自分以外の人間が、ちゃんと生きている。


 それが今日は、やたら残酷に見えた。


 画面を親指で流す。


 流す。

 流す。

 流す。


 途中、よく分からない広告。

 副業。

 投資。

 筋トレ。

 英語学習。

 陰謀論。

 開運。


 そして、その中に、妙な投稿が混ざっていた。


異界と繋がる簡易チャネリング法


深夜一時から三時の間に実施推奨


必要なもの

・静かな部屋

・水

・金属片

・「相手の存在を受け入れる」意志


成功すると“向こう側”から応答があるかも

※自己責任

※防護手順あり


「……なんだこれ」


 胡散臭い。


 オカルト。

 いや、オカルトですらない。

 雑な釣り投稿にしか見えない。


 アカウント名も意味不明だった。

 数字と記号の羅列。

 アイコンは白い円。

 フォロワーは少ないのに、なぜかこの投稿だけ妙に流れている。


 コメント欄には、

 “やってみたけど何も起きませんでした”

 “頭痛がした”

 “これガチ?”

 “防護手順って何”

 みたいな反応が並んでいた。


 しょうもない。


 そう思う。

 普通なら、ここで閉じる。


 だが、今日は違った。


 どうせ何も変わらない。


 その感覚が、ひどく強かった。


 何をやっても変わらない。

 黙っていても地獄。

 抵抗しても地獄。

 なら、せめて、くだらないことでもして気を紛らわせたかった。


「……は」


 笑う。


「異界、ね」


 水ならある。

 ペットボトルの残り。

 金属片?

 机の引き出しを漁る。

 古いUSBメモリ。

 これでいいか。


 投稿には、簡単な手順が書いてあった。


 照明を落とす。

 水を左に置く。

 金属片を右手に持つ。

 目を閉じる。

 呼吸を整える。

 心の中で、受信を許可します、と三回唱える。

 そのあと、最初に浮かんだ“誰か”を拒絶しない。


「……アホくさ」


 口に出しながら、恒一は部屋の照明を落とした。


 暗い。


 静かだ。


 冷蔵庫の低い駆動音だけが聞こえる。


 ベッドの上に座る。

 ペットボトルを左へ。

 USBメモリを右手へ。

 目を閉じる。


 呼吸。


 一回。

 二回。

 三回。


「受信を許可します」


 自分の声が妙に小さく聞こえた。


「受信を許可します」

「受信を許可します」


 その直後だった。


 耳鳴り。


 高い。

 細い。

 だが、ただの耳鳴りじゃない。

 頭蓋の内側を擦られるような、気色の悪い感覚。


「っ」


 目を開けようとして、できなかった。


 瞼が重い。

 というより、瞼という感覚が遠い。


 足元が消える。


 ベッドの感触が薄れる。


 冷蔵庫の音が伸びて、伸びて、伸びて――


 切れた。


 無音。


 真っ暗。


 いや、違う。


 暗闇じゃない。

 膨大な空間だった。

 黒ではなく、深い藍。

 その奥に、光の筋。

 星。

 点。

 無数。

 遠すぎるのに、近い。


「……は?」


 声が、どこにも反響しない。


 体はあるようで、ない。

 浮いているようで、落ちている。

 上下も分からない。


 そして、見えた。


 巨大な構造体。


 あまりにも大きい。

 島どころじゃない。

 都市を細長く引き延ばして、さらに装甲で包んだみたいな、異様な物体。

 表面に走る淡い光。

 幾何学的な線。

 閉じた花弁みたいな外殻。


 宇宙船。


 頭が勝手にそう認識した。


「……な、んだよ、これ」


 夢か。

 幻覚か。

 寝落ちか。

 過労か。


 だが、そんな自己弁護を全部吹き飛ばすほど、生々しかった。


 次の瞬間。


 “視線”を感じた。


 見られている。


 巨大な船そのものではなく、その内部の、どこか深い場所から。


 ぞわりと背筋が粟立つ。


 逃げろ、と本能が叫んだ。

 関わるな。

 拒絶しろ。

 切れ。

 戻れ。


 だが、その叫びと同時に、別の感覚が流れ込んでくる。


 熱ではない。

 言葉でもない。

 認識そのもの。


 ――受信確認。

 ――低強度同調反応。

 ――異質。

 ――近傍文明個体。

 ――損傷傾向。

 ――許可領域、開放済み。


「っ、あ、あああっ!?」


 頭の中を、誰かの手が滑っていく。


 記憶に触れられた。


 通勤電車。

 会議室。

 殴られた瞬間。

 母親の声。

 中学の卒業式。

 大学の内定通知。

 ひとりで食ったコンビニおでん。

 深夜二時の修正依頼。

 ふざけんな、と言えなかった喉。

 全部。


「やめろっ……!」


 叫ぶ。

 だが完全には拒めない。


 その代わり、分かった。


 何を見られているかが、なんとなく分かる。


 今、相手は会社を見た。

 今、相手は怒りを拾った。

 今、相手は孤独を知った。

 今、相手は――恥ずかしい失恋の記憶まで拾いかけた。


「うわああああやめろ!! そこはやめろ!!」


 その瞬間。


 くす、と。


 声がした。


 いや、声ではない。

 音ではなく、意味が直接、笑った。


 目の前の空間が淡くひらく。


 光の粒子が集まり、一人の少女の輪郭を描いた。


 長い銀白の髪。

 やや青みのある瞳。

 軍服にもドレスにも見える、奇妙に整った衣装。

 年齢だけ見れば十代後半。

 だが、その目の奥には、軽さのない長い責任が沈んでいた。


 美しい。


 最初に浮かんだのは、その感想だった。


 次に浮かんだのは、なんで美少女型なんだよ、という最悪の感想だった。


 そして、その最悪の感想まで、即座に相手へ伝わったらしい。


 少女は片眉を上げた。


『……今、あなた、かなり失礼なことを思考しましたね』


 日本語じゃない。


 それなのに、意味だけがそのまま頭に入ってくる。


 恒一は硬直した。


『まず確認します。あなたは、接続を許可しましたか』

「……は」

『はい、か、いいえ』


 妙に事務的だ。


「……はい」

『では、こちらの走査に一定の正当性があります』

「あるかよ!」

『ただし、拒絶権はあります』

「先に言えよ!」


 少女は数秒、沈黙した。


『……それは、そうですね。申し訳ありません』


 謝った。


 あっさり。


 そのせいで、逆に恒一は戸惑った。


「いや……え?」

『私はルイゼ・エル=アステラ。《巡界避難艦アウルム》の艦長権限保持者です』

「かんちょう」

『はい』

「宇宙船の?」

『はい』

「……宇宙船」


 少女――ルイゼは、ほんのわずかに首を傾けた。


『あなたの文明圏の語彙では、だいたいそれで合っています』

「……夢じゃなくて?」

『それを証明する簡便な方法は、現状、少ないですね』

「夢じゃないのかよ」

『少なくとも、私にとっては現実です』


 さらりと言う。


 その間にも、じわじわと流れ込んでくる感覚がある。


 冷たい金属の廊下。

 重力制御の癖。

 透明な表示板。

 何層にも分かれた艦内区画。

 人影。

 いや、人ではないのかもしれない、彼女に近い誰かたち。

 規律。

 張り詰めた空気。

 疲労。

 焦燥。

 沈黙。


 恒一は息を呑んだ。


「……なに、これ」

『同調です。簡易的ですが』

「簡易でこれ?」

『ええ。深層接続はもっと激しいので、通常は推奨されません』

「やらねぇよ!」


 ルイゼの口元が、わずかに緩んだ。


 笑った。

 たぶん。


 その事実だけで、少しだけ現実味が壊れる。

 だって、こんな状況で、相手が微妙に面白がっているのが分かってしまうから。


『あなたの反応は、予測より豊かです』

「知らねぇよ……」

『それと』

「まだなんかあるのか」

『あなたは自分を、かなり低く評価していますね』

「……」

『読み取りやすいです』

「やめてくれ」

『分かりました。では、そこは閉じます』


 ふっと圧が軽くなる。


 本当に閉じたらしい。


 しかし、全部ではない。

 輪郭だけ残る。

 互いの文明の断片。

 感情の温度。

 何を隠したいかの気配。


 奇妙だった。


 言葉を交わすより先に、沈黙の中身が伝わる。


「……本当に、宇宙人なのか」

『あなたの定義では、おそらく』

「なんで俺と繋がった」

『それを説明する前に、一つ確認を』

「何」

『あなたは、現在、非常に追い詰められていますね』

「……は?」

『身体疲労、継続。精神損耗、中度を超過。外傷痕あり。社会的孤立傾向。自己保存意欲、揺らぎ』


 やめろ。


 その分析が、機械みたいに正確で、妙に優しかったから、余計にやめてほしかった。


『接触継続に際し、最低限の安定化支援を推奨します』

「なんだそれ」

『あなたが倒れると、対話効率が低下します』

「効率かよ」

『……それだけではありません』


 ほんの一瞬。


 ルイゼの内側から、別の温度が漏れた。


 心配。

 に近い何か。


 それを拾ってしまって、恒一は言葉を失う。


 ルイゼも、拾われたことに気づいたらしい。

 少しだけ視線を逸らした。


『まずは、交渉を提案します』

「交渉」

『ええ。あなたは地球社会の基礎情報を持っている。私は相応の対価を支払える』

「対価って」

『小規模な技術提供』

「は?」

『物質投射、あるいは設計補助』

「待て待て待て」

『難しいですか』

「難しいとかじゃない。急に話がデカい」

『私たちにとっては、かなり小さい話です』

「こっちにとっては全然小さくない!」


 恒一の叫びを受けて、星の海みたいな空間がわずかに揺れた。


 ルイゼは数秒黙る。

 そして、きわめて真面目な顔で言った。


『では、あなたの文明感覚に合わせて表現を修正します』

「……おう」

『便利な道具を渡すので、情報をください』

「雑!」


 だが、その雑さの方が、よほど理解できた。


 便利な道具。

 情報。

 取引。


 それだけなら、話としては単純だ。


「……ちなみに、どんな道具だ」

『あなたの状態から推定すると、まずは疲労緩和、簡易防護、記録補助あたりが有効です』

「記録補助?」

『証拠化、とも言えます』

「……」


 堂本の顔が脳裏に浮かぶ。


 ファイル。

 怒鳴り声。

 暴力。

 見て見ぬふりのオフィス。


 ルイゼは、そこまで見たのだろう。


『必要ですか』

「……必要かどうかで言えば」

『はい』

「必要だ」


 即答だった。


 その即答の奥にある感情も、たぶん相手に伝わっている。

 屈辱。

 怒り。

 それでも生き延びたい執着。


 ルイゼは静かにうなずいた。


『了解しました。では、初回支援品を送ります』

「送る?」

『はい。逆位相投射で』

「いや、だから雑に言うなって」

『分かりやすさを優先しました』

「ほんとかよ」


 ルイゼは右手を持ち上げた。


 指先に、幾何学的な光が集まる。

 円。

 線。

 層。

 まるで空中に薄い設計図を描いているみたいだった。


『小型生体負荷緩和端末、一基』

『局所空間偏向膜、二枚』

『受動記録子、三基』

『あなたの環境に合わせて、安全域へ変換』

『――投射』


 その瞬間、恒一の右手に持っていたUSBメモリが熱を持った。


「っ!?」


 視界が白く反転する。


 落下感。

 引き戻される。

 ベッド。

 部屋。

 暗い天井。

 冷蔵庫の音。

 自分の荒い呼吸。


 戻った。


「はっ……はっ……!」


 夢じゃない。


 そう理解したのは、ベッドの上に、見覚えのない物体が三種類、整然と置かれていたからだ。


 ひとつは、銀色の薄いリング。

 指輪に見えるが、継ぎ目がない。

 ひとつは、透明なカード片みたいな板が二枚。

 そしてもうひとつは、黒い豆粒みたいな小球が三つ。


 スマホの画面が勝手に点いた。


 見たことのない記号列が流れ、数秒後、日本語に変換される。


初回支援品の簡易説明を送付します。

落ち着いて読んでください。

なお、あなたの「うわ本当に来た」という反応は把握しています。

——ルイゼ


「……は?」


 数拍置いて、恒一はようやく理解した。


 向こうも、こっちの“うわ本当に来た”を把握していた。


「おい!!」


 誰もいない部屋で叫ぶ。


 返事はない。


 ただ、スマホの画面の端で、小さな光点が一度だけ明滅した。


 まるで、笑ったみたいに。


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