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翌朝。
恒一は出社前の三十分を、会社のためではなく、自分のために使っていた。
ノートPC。
メモ帳。
昨夜送られてきた先輩の業務情報。
現状の在庫表。
問い合わせ履歴の抜粋。
発送ステータス管理のスクリーンショット。
部屋はまだ少し暗い。
カーテンの隙間から薄い朝の光。
机の端には飲みかけの水。
安いインスタントコーヒーの匂い。
久しぶりだった。
朝に、自分の仕事のことを考えるのが。
会社に出す修正資料ではない。
上司の機嫌を損ねない言い回しでもない。
炎上案件の延命でもない。
今見ているのは、自分が受けた、最初の案件だ。
「……なんか、変な感じだな」
口に出す。
『良い意味で?』
ルイゼの声。
「半分くらいは」
『残り半分は』
「怖さ」
『妥当です』
「そこは即答なんだな」
『初案件は失敗確率も学習量も高いです』
「夢がねぇ」
『ですが、今のあなたにはちょうどいい』
それは、たぶん本当にそうだった。
大きすぎる案件なら潰れる。
小さすぎると、経験にならない。
今回の三万円は、怖いが、現実的だ。
失敗しても即死ではない。
成功すれば、十分に意味がある。
恒一は送られてきたスプレッドシートの在庫管理表を眺めた。
列が多い。
重複が多い。
更新ルールが曖昧。
色分けが人によって違う。
メモ欄に命が預けられている。
「うわぁ……」
率直な感想が漏れた。
『かなり混線していますね』
「在庫数、ECサイト側と手打ち側でズレてる」
『はい』
「問い合わせテンプレも統一されてない」
『はい』
「発送ステータスの切り替え条件も人によって違う」
『はい』
「終わってるだろこれ」
『だから依頼が来たのです』
その通りだった。
問題があるから、仕事になる。
問題が見えるから、整理できる。
そう考えれば、むしろやりやすい。
ただし。
「……俺、ちゃんとできるか?」
『現時点の判定ですか』
「うん」
『一部はできます』
「一部かよ」
『全部とは言っていません』
「まあそうだけど」
『ただし、“全部を一気に解決しようとしない”なら成功率は高いです』
「……」
『今のあなたは、少し張り切りすぎています』
「バレるか」
『かなり』
恒一は小さく息を吐いた。
そうだ。
全部直したくなっていた。
初案件だからこそ、格好よく決めたい。
高く評価されたい。
次に繋げたい。
その欲が、ちょっと強い。
『切り分けましょう』
ルイゼが言う。
『今回の仕事は何ですか』
「在庫、問い合わせ、発送管理の整理案」
『それ以上は?』
「……本当は、運用改善の実装まで行きたい」
『それは次段階です』
「だよな」
『今回は、現状把握、問題点の可視化、ルール統一案、最低限の運用テンプレまで』
「うん」
『そこまでなら、あなたでも十分に届きます』
「“あなたでも”って何だよ」
『等身大評価です』
「雑に刺すのうまくなってきたな、お前……」
だが、助かった。
やることの線を引いてもらうだけで、頭が少し静かになる。
◇
会社では、堂本不在の二日目が始まっていた。
フロアは驚くほど平和だ。
朝会は短い。
怒鳴り声がない。
誰かの責任を見せしめにする空気がない。
雑談すら少しだけ増えた気がする。
「……ほんとにあいつ一人で空気悪くしてたんだな」
『観測上はそう見えます』
ルイゼが言う。
「観測上って」
『個体差を社会構造の全てに還元するのは危険です』
「……」
『ただし、明確な悪化要因の一つだったのは事実でしょう』
「なるほどな」
その言い方はよかった。
堂本一人を消せば全部解決、ではない。
そんな簡単な話ではない。
でも、少なくとも分かりやすい悪化要因の一つではあった。
午前中、恒一は引き継ぎ資料をまとめながら、空き時間にこっそり案件の構成案を作っていた。
現状整理。
問題点の分類。
改善方針。
最低限のテンプレ案。
会社のPCではやらない。
私物のメモ帳に、手書きで骨組みだけ作る。
その行為自体が少しだけスリリングで、少しだけ誇らしい。
昼休み。
篠崎が通りがかりざまに言った。
「顔つき変わったね」
「そうですか」
「辞める人の顔になってきた」
「褒めてます?」
「半分は」
言い方が似てきたな、と思ったが口には出さない。
「堂本さん、どうなりそうですか」
恒一が小さく訊く。
篠崎は周囲を見てから、声を落とした。
「現時点では、不明」
「はい」
「ただし、外注まわりはたぶん一発で済まない」
「……」
「単純なミスならもう少し静かに片づく。今の動きはそうじゃない」
それは、つまり。
「懲戒レベルですか」
「推測としては、ありえる」
断定はしない。
でも、かなり濃い。
篠崎はそこで少しだけ目を細めた。
「あなた、もう深追いしない方がいい」
「分かってます」
「本当に?」
「……一応」
「顔が若干、まだ悔しがってる」
ぎくりとした。
図星だった。
堂本が完全に落ちるところまで見たい気持ちはある。
自分を殴った男が、自滅するところを最後まで確認したい気持ちは、普通にある。
だが、それはもう別の欲だ。
復讐に近い。
今優先すべきは、そこではない。
「……退職の方を優先します」
「ならいい」
篠崎はそこで少しだけ柔らかい顔をした。
「あと、最初の案件、取れたんでしょ」
「え」
「吉崎が言ってた」
「情報回るの早くないですか?」
「狭い会社だし」
それはそうだ。
「小さいの一件です」
「最初はそれで十分」
「そういうもんですか」
「そういうもん。大きい話から入ると大抵こける」
やっぱりこの人は現実的だった。
「三万」
恒一が言う。
「安いか高いかよく分かんないです」
「最初なら悪くない」
「ほんとですか」
「ただし、時給換算したら泣くかもね」
「うわ」
「うわ、で済むうちに学んどきな」
それだけ言って去っていく。
きつい。
でも、そのきつさが、今はありがたい。
変に持ち上げられるより、よほどいい。




