25
週明け。
恒一は、正式な退職日と有休消化スケジュールが確定した状態で出社した。
残り出社日は、あと六日。
六日。
たったそれだけ。
それだけなのに、六日もあるとも思った。
人が嫌な場所にいる時間は、少ないほど長い。
だが、以前と決定的に違うことが一つある。
もう、終わる日付が見えている。
その違いは大きかった。
堂本は来ていない。
“体調不良”は継続中。
フロアでは誰も名前を大きく出さないが、皆知っている顔をしている。
三島が前に立って短い朝会を回す。
ぎこちない。
でも、少なくとも怒鳴らない。
それだけで文明度が上がったみたいに感じるのが悲しい。
朝会のあと、恒一は自席で社外向けの短い文面を打っていた。
営業文面だ。
短い自己紹介。
退職予定であること。
小規模な業務整理や資料構成支援を個人で受け始めること。
もし困りごとがあれば相談ベースで対応可能であること。
何度も書き直す。
押し売りっぽい。
卑屈すぎる。
曖昧すぎる。
また書き直す。
「……無理だろこれ」
『営業としては弱いですね』
ルイゼが言う。
「分かってるよ」
『遠慮が強い』
「押しつけがましいの嫌なんだよ」
『その気質は分かります。ですが、今は伝わることが優先です』
「だよなぁ……」
恒一は画面を見つめながら、もう一度文章を組み替えた。
“もしお困りごとがあれば”
をやめる。
“現在、小規模事業者向けに、業務整理・資料整備・軽い自動化支援を試験的に受けています”
に変える。
ぼやけたお願いではなく、何をやるのかを先に置く。
『改善しました』
「珍しく褒めるな」
『本当に改善したので』
「なら受け取っとく」
送る相手は三人に絞った。
一人は、前職で関わった小さな製造業の担当者。
もう一人は、大学時代に少しだけ繋がっていた先輩で、今は個人事業主をしている男。
最後の一人は、昔のバイト先つながりで、小規模ECを回している女。
三人だけ。
情けないくらい少ない。
だが、今の恒一にはそれが現実だ。
送信。
その瞬間、妙に手が汗ばんだ。
「……うわ」
『今、かなり緊張しましたね』
「見れば分かるだろ」
『見ていません。輪郭です』
「便利すぎるんだよそれ」
でも、送った。
それだけで十分だ。
最初の一歩は、だいたい格好悪い。
でも、格好悪くても踏んだ方が前だ。
◇
午前中は引き継ぎ資料作成。
どの案件がどこで詰まりやすいか。
誰に何を確認すべきか。
顧客の癖。
社内のボトルネック。
そして、堂本を経由しない方が早いルート。
「最後のやつ、書いていいのか……?」
『事実なら』
ルイゼが言う。
「地味に煽ってるよな、それ」
『事実は時に煽りになります』
こいつ、本当に最近ちょっと楽しんでるだろう。
でも、言っていることは正しい。
恒一は文面を調整しつつ、丁寧に書いた。
“承認遅延を避けるため、関係部署へ直接確認の上、チームリーダーへ共有する運用が望ましい場合あり”
だいぶ丸めた。
だが意味は通る。
昼前、三島がその資料を見て、少しだけ笑った。
「……お前、やっぱ仕事できるよな」
「どういう文脈ですか、それ」
「いや、普通に」
「今さらですね」
「それはそう」
軽い会話。
でも、その軽さが奇妙だった。
この会社で、仕事の話を殴られずにできることが、こんなに異常な回復に感じるなんて。
そこへ、スマホが震えた。
私用の通知。
送った営業メッセージのうち、一件に返信。
相手は、大学時代の先輩だった。
ちょうど今、事務処理まわりが破綻気味。
何できるか一回話す?
「……」
恒一は画面を二度見した。
「返ってきた」
『良かったですね』
「いや、ちょっと待て」
『何を』
「本当に?」
『返信は現実です』
「分かってるよ! でも心の準備が」
『それは送る前にやるべきでした』
「うるさい!」
それでも、口元が勝手に緩む。
最初の一件かもしれない。
まだ確定じゃない。
話すだけだ。
それでも大きい。
「……なんて返す」
『自然に』
「それが難しいんだよ」
『では、事実整理します』
「頼む」
『相手は“話す?”と言っている。つまり、現時点では見積もりではなく相談段階』
「うん」
『なので、いきなり盛るな。できる範囲と確認したいことを簡潔に返す』
「……そのままだな」
『はい。あなたは余計な色をつけると失敗しやすいので』
「地味に刺すなぁお前」
恒一は深呼吸して返信を書く。
ありがとう。
まず状況を聞かせてもらえたら、整理や資料整備、作業フロー見直しあたりで手伝えるか見ます。
今日か明日の夜なら少し時間取れます。
送信。
今度は少し、前より素直に送れた。
『良いです』
「ほんとか?」
『盛っていない。卑屈すぎない。範囲も明示した。十分です』
「……ならいいか」
数分後、日程が返ってくる。
今夜二十一時、オンライン。
「決まった」
『最初の接触ですね』
「うわ、そう言うと急に緊張する」
『もう緊張しています』
「やめろ!」




