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終業前。


 フロアの空気は、奇妙なくらい静かだった。


 堂本がいないだけでこうも違うのか、という静けさ。

 怒鳴り声のない職場。

 誰かの顔色を全員でうかがわなくていい数時間。


 それは、まともな会社なら当たり前のはずだ。

 なのに、この場所では異常事態みたいに感じる。


 三島が席へ来て、小さく言った。


「今日、もう上がっていいぞ」

「え」

「引き継ぎ資料、ここまでで十分」

「でも定時までまだ」

「いい。今日は帰れ」


 その“帰れ”は、今までの命令とは全然違って聞こえた。

 追い出しではなく、解放に近い。


「……分かりました」

「あと」

「はい」

「堂本の件、お前のせいじゃないからな」

「……」


 返事が一瞬遅れた。


 そう言われるのが、思ったより効いたからだ。


「知ってます」

 少しだけ強がって返す。

 三島は苦く笑った。


「ならいい」


 それだけ言って去っていく。


 知っている。

 理屈では。

 でも、人は何度も言われないと、変な罪悪感を完全には追い出せない。


 恒一はPCを落とし、席を立った。


 会社の出口までの廊下が、やけに長く感じる。

 でも重くはなかった。


 エレベーター。

 一階。

 自動ドア。

 外の空気。


 冷たい。

 少し曇っている。

 人は多い。

 車も走っている。


 世界は何も知らない顔をして、普通に回っている。


「……終わったな、一つ」

『はい』

 ルイゼの声。

『あなたを直接痛めつけていた個体は、少なくとも現場から外れました』

「言い方」

『事実です』

「まあ、そうだけど」


 駅へ向かう足が、少し軽い。


 堂本はまだ完全に終わったわけではないだろう。

 処分も確定ではない。

 会社がどこまで綺麗に切るかも分からない。

 でも、現場の支配は終わった。

 それだけで十分大きい。


「……殴られてた側が、こうなるんだな」

『はい』

「証拠ってすげぇな」

『文明を問わず、記録は強いです』

「宇宙でもそうなんだ」

『はい。証言は揺れますが、記録は交渉の重力になります』

「……いい言い方するな、お前」

『今のは少し気に入りました』

「自分で言うか?」


 向こうから、微かな笑いの気配。


 その気配を感じながら、恒一はふと思った。


 最初は、ただ生き延びるためだった。

 殴られないため。

 潰されないため。

 それだけだった。


 なのに今、自分は一つの支配を終わらせた。

 会社全体を変えたわけじゃない。

 社会を救ったわけでもない。

 でも、あの閉じたフロアの空気を、一つ壊した。


 それはたぶん、小さい。

 でも、ゼロじゃない。


 そしてゼロじゃないことは、人生を変える。

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