23
終業前。
フロアの空気は、奇妙なくらい静かだった。
堂本がいないだけでこうも違うのか、という静けさ。
怒鳴り声のない職場。
誰かの顔色を全員でうかがわなくていい数時間。
それは、まともな会社なら当たり前のはずだ。
なのに、この場所では異常事態みたいに感じる。
三島が席へ来て、小さく言った。
「今日、もう上がっていいぞ」
「え」
「引き継ぎ資料、ここまでで十分」
「でも定時までまだ」
「いい。今日は帰れ」
その“帰れ”は、今までの命令とは全然違って聞こえた。
追い出しではなく、解放に近い。
「……分かりました」
「あと」
「はい」
「堂本の件、お前のせいじゃないからな」
「……」
返事が一瞬遅れた。
そう言われるのが、思ったより効いたからだ。
「知ってます」
少しだけ強がって返す。
三島は苦く笑った。
「ならいい」
それだけ言って去っていく。
知っている。
理屈では。
でも、人は何度も言われないと、変な罪悪感を完全には追い出せない。
恒一はPCを落とし、席を立った。
会社の出口までの廊下が、やけに長く感じる。
でも重くはなかった。
エレベーター。
一階。
自動ドア。
外の空気。
冷たい。
少し曇っている。
人は多い。
車も走っている。
世界は何も知らない顔をして、普通に回っている。
「……終わったな、一つ」
『はい』
ルイゼの声。
『あなたを直接痛めつけていた個体は、少なくとも現場から外れました』
「言い方」
『事実です』
「まあ、そうだけど」
駅へ向かう足が、少し軽い。
堂本はまだ完全に終わったわけではないだろう。
処分も確定ではない。
会社がどこまで綺麗に切るかも分からない。
でも、現場の支配は終わった。
それだけで十分大きい。
「……殴られてた側が、こうなるんだな」
『はい』
「証拠ってすげぇな」
『文明を問わず、記録は強いです』
「宇宙でもそうなんだ」
『はい。証言は揺れますが、記録は交渉の重力になります』
「……いい言い方するな、お前」
『今のは少し気に入りました』
「自分で言うか?」
向こうから、微かな笑いの気配。
その気配を感じながら、恒一はふと思った。
最初は、ただ生き延びるためだった。
殴られないため。
潰されないため。
それだけだった。
なのに今、自分は一つの支配を終わらせた。
会社全体を変えたわけじゃない。
社会を救ったわけでもない。
でも、あの閉じたフロアの空気を、一つ壊した。
それはたぶん、小さい。
でも、ゼロじゃない。
そしてゼロじゃないことは、人生を変える。




