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出社すると、フロアの空気は昨日までとまた違っていた。
ざわついている。
小声が多い。
視線が泳いでいる。
誰かが席を立つたび、何となく皆がそちらを見る。
分かりやすい。
組織の上の方で何かが崩れるときの空気だ。
恒一が席に着いて三分後、篠崎からチャットが飛んできた。
来た?
来ました
今日たぶん動く
堂本ですか
それも。あと会社側も
恒一は画面を見つめた。
動く。
堂本だけじゃない。
会社側も。
つまり、切り捨てか、囲い込みか、どちらかだ。
何が起きてます?
朝から役員会議室つかってる
人事、法務、経営企画、堂本
へぇ
へぇ、で済む顔してないでしょ
見透かされている。
いや、この人はだいたい見透かしてくる。
恒一は深呼吸した。
PCを立ち上げる。
業務用フォルダを整理する。
私的にメモしていた退職準備ファイルは、既に全部外へ逃がしてある。
クラウド。
私用メール。
USB。
この前、異界接続のきっかけになった古いUSBメモリではなく、新しく買った安物だ。
さすがにあれは縁起が変な方向に強すぎる。
午前十時前。
堂本がフロアに現れた。
だが、以前のような堂々とした歩き方ではない。
早い。
落ち着かない。
目が合う人間を避けているようで、同時に誰かに見られていることを意識しすぎている歩き方。
終わっている人間の歩き方だった。
しかも、その五分後には、また会議室へ呼び戻されていく。
「……露骨だな」
『排除前の隔離に見えます』
ルイゼが言う。
「その表現やめろよ。宇宙っぽすぎる」
『人間社会でも似たようなものでしょう』
「否定できないのが嫌だな……」
十一時過ぎ、人事から面談依頼。
今度は退職条件の確認ではなく、業務引き継ぎ方針の話だった。
会議室。
村瀬。
法務担当。
チームリーダーの三島。
三島は、堂本の下で中間管理職をやっていた男だ。
三十代後半。
気弱そうに見えて、実際かなり気弱。
だが、その分、露骨な悪意は少ないタイプ。
「相馬さん」
村瀬が言う。
「退職に向けて、引き継ぎ範囲を整理したいと思います」
「はい」
「まず、健康面や職場状況を踏まえ、堂本部長との接触は退職日まで継続して制限します」
「分かりました」
「また、引き継ぎ対象案件は限定します。現在担当中の全件ではなく、主要三件のみ」
「……かなり絞りますね」
「必要以上の負荷を避けるためです」
「そうですか」
本音は違うだろう。
余計な会話を増やしたくない。
堂本案件の接点を減らしたい。
そのあたりだ。
だが、こちらに不利ではない。
だから乗る。
法務担当が紙を差し出す。
「未払い残業の申告分についても確認を進めています。全額ではない可能性がありますが、一定の調整提案は出せる見込みです」
「一定、ですか」
「現時点ではそうとしか言えません」
「分かりました。提案書面を確認してから判断します」
あくまでそれだけ返す。
そこで妥協しない。
でも、今ここで喧嘩もしない。
会議の最後、三島が小さく口を開いた。
「……相馬」
「はい」
「引き継ぎ、できるだけ俺が受けるようにするから」
「ありがとうございます」
「……その、悪かった」
驚いた。
「何がですか」
「前から、見えてたのに、何も言えなかった」
会議室の空気が少し止まる。
三島は目を伏せたままだ。
格好悪い謝罪。
でも、その格好悪さが逆に本物だった。
恒一は数秒迷ってから、短く答えた。
「そうですか」
「……うん」
「じゃあ、今からでも手伝ってください」
「分かった」
それでよかった。
許すとか許さないとか、そういう高い位置の話ではない。
何もしなかった人間が、今から何をするか。
それだけだ。




