18
夕方、恒一は退職届を提出した。
相手は村瀬。
人事の会議室。
封筒を机の上に置く。
たったそれだけの動作なのに、心臓がひどくうるさい。
「……正式な意思ですか」
村瀬が訊く。
「はい」
「慰留の余地は」
「ありません」
「理由は」
「複数ありますが、一番大きいのは、信頼関係の破綻です」
「……」
村瀬は、ものすごく嫌そうな顔をした。
だが、受け取るしかない。
今の状況で無理に引き留めれば、それ自体が火種になる。
「退職日は?」
「有休消化含めて、可能な限り早くお願いします」
「引き継ぎは」
「文書で整理します」
「分かりました」
あまりにも、あっさりしていた。
少しだけ拍子抜けする。
だが同時に、分かる。
会社にとって今の恒一は、戻したい戦力ではなく、慎重に扱うべきリスクなのだ。
それでいい。
むしろ、その方がいい。
会議室を出る。
廊下の空気が少し冷たい。
「……終わった」
『一段落です』
ルイゼの声が静かに返る。
『どう感じますか』
「軽い」
『はい』
「でも、怖い」
『はい』
「あと、少しだけ、笑いそう」
『それも良い兆候です』
恒一はエレベーター前で立ち止まり、壁に頭を預けた。
終わった。
正確には、終わり始めた。
ブラック企業で殴られ、怒鳴られ、使い潰される側の人生が、ようやく切れ目を作った。
その切れ目の先に何があるかは、まだ分からない。
金も不安だ。
技術の偽装も、事業化も、現実的な壁だらけだろう。
それでも。
それでも、こっちだと思った。
下へ沈む流れではなく、前へ進む方だと。
『相馬恒一』
「ん?」
『おめでとうございます』
「……何に対して」
『あなたの人生を、あなたが一つ奪い返したことに対して』
その言葉は、妙に静かだった。
だからこそ、深く刺さった。
恒一は目を閉じて、小さく笑った。
「ありがとう、艦長」
『どういたしまして、退職者』
「言い方!」
思わず吹く。
その笑いが、予想以上に自然に出たことに、自分で少し驚いた。




