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夕方、恒一は退職届を提出した。


 相手は村瀬。

 人事の会議室。


 封筒を机の上に置く。

 たったそれだけの動作なのに、心臓がひどくうるさい。


「……正式な意思ですか」

 村瀬が訊く。


「はい」

「慰留の余地は」

「ありません」

「理由は」

「複数ありますが、一番大きいのは、信頼関係の破綻です」

「……」


 村瀬は、ものすごく嫌そうな顔をした。

 だが、受け取るしかない。

 今の状況で無理に引き留めれば、それ自体が火種になる。


「退職日は?」

「有休消化含めて、可能な限り早くお願いします」

「引き継ぎは」

「文書で整理します」

「分かりました」


 あまりにも、あっさりしていた。


 少しだけ拍子抜けする。

 だが同時に、分かる。

 会社にとって今の恒一は、戻したい戦力ではなく、慎重に扱うべきリスクなのだ。


 それでいい。


 むしろ、その方がいい。


 会議室を出る。

 廊下の空気が少し冷たい。


「……終わった」

『一段落です』

 ルイゼの声が静かに返る。

『どう感じますか』

「軽い」

『はい』

「でも、怖い」

『はい』

「あと、少しだけ、笑いそう」

『それも良い兆候です』


 恒一はエレベーター前で立ち止まり、壁に頭を預けた。


 終わった。


 正確には、終わり始めた。


 ブラック企業で殴られ、怒鳴られ、使い潰される側の人生が、ようやく切れ目を作った。


 その切れ目の先に何があるかは、まだ分からない。

 金も不安だ。

 技術の偽装も、事業化も、現実的な壁だらけだろう。


 それでも。


 それでも、こっちだと思った。


 下へ沈む流れではなく、前へ進む方だと。


『相馬恒一』

「ん?」

『おめでとうございます』

「……何に対して」

『あなたの人生を、あなたが一つ奪い返したことに対して』


 その言葉は、妙に静かだった。


 だからこそ、深く刺さった。


 恒一は目を閉じて、小さく笑った。


「ありがとう、艦長」

『どういたしまして、退職者』

「言い方!」


 思わず吹く。


 その笑いが、予想以上に自然に出たことに、自分で少し驚いた。


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