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出社後、最初に届いたのは人事からの文書だった。
アサイン変更について確認した結果、業務負荷の偏りが認められたため、一部見直しを行います。
勝った。
いや、違う。
まだ勝ちではない。
だが、少なくとも一つは通った。
メールを開く。
変更後の担当一覧。
炎上寸前の案件が二つ外れ、代わりに通常案件が戻る。
さらに、業務指示は原則チームリーダー経由に統一、と書いてある。
「……へぇ」
堂本を完全に切ったわけではない。
だが、直接にも間接にも触れづらくした。
それは分かる。
数分後、フロアの空気がざわついた。
また堂本の機嫌が悪いのだろう。
向こうの島から、机に物を置く強い音がする。
『文書上は一歩前進です』
ルイゼが言う。
「だな」
『それでも辞めますか』
「……」
『迷っていますね』
「少しだけな」
本当は、答えはかなり出ている。
ただ、人間は答えが出ていても一度は迷う。
とくに、自分で切るときは。
そこへ、追加の通知。
差出人は法務。
件名は“追加ヒアリングのお願い”。
本文は簡潔だった。
堂本案件について、実務フローの確認をしたい。
可能なら本日中。
「早いな」
会社が本気なのか、火消しの一環なのか。
まだ分からない。
だが、少なくとも黙殺コースではなくなった。
昼前、法務との面談。
今度は村瀬もいない。
法務担当の男と、経理の篠崎だけ。
それだけで空気が全然違った。
「率直に聞きます」
法務担当が言う。
「堂本部長が、外注関連で実態の薄い発注を通していた可能性があります。実務担当として見覚えは?」
恒一は一拍置く。
ここで言うべきことと、言い過ぎないことを分ける。
「事実として言えるのは三つです」
「どうぞ」
「一つ、成果物の中身が薄いのに請求だけ通っているように見える案件がありました」
「はい」
「二つ、担当実態が不明確な外注先がありました」
「はい」
「三つ、堂本部長が承認を急がせる一方、説明を嫌う傾向がありました」
「……なるほど」
篠崎が補足する。
「経理側でも、取引先コードの分割と金額分散の痕跡が見えてる。まだ確定ではないけど、見え方はかなり悪い」
見え方。
その言葉が、妙に皮肉だった。
でも事実だ。
今あるのは、まだ“疑義”だ。
断定はできない。
そこを飛ばすと、あとで必ず足を引かれる。
「相馬さん」
法務担当が言う。
「率直に、あなたはどうしたいですか」
唐突な質問だった。
「どうしたい、とは」
「会社に残って改善を見届けたいのか。それとも、身を引きたいのか」
恒一は黙った。
篠崎も何も言わない。
ただ見ている。
ここで取り繕っても意味はない気がした。
「……正直に言えば」
「はい」
「もう、この会社に期待はしていません」
「……」
「今動いているのも、証拠が出たからであって、最初から人が守られる仕組みがあったわけじゃない」
「そうですね」
篠崎が先に言った。
「だから、残って戦うつもりは薄いです」
恒一は続ける。
「ただ、辞めるにしても、自分に不利な形にはしたくない」
「当然です」
法務担当がうなずく。
「退職条件の整理は必要でしょう」
その一言で、恒一はようやく理解した。
向こうも分かっている。
もう“元通りに働いてもらう”フェーズではない。
これは、どう軟着陸させるかの話に入りつつある。
「未払い残業、パワハラ対応、引き継ぎ、守秘義務、そのあたりを文書化します」
法務担当が言う。
「堂本部長案件とは切り分けて進める必要がありますが」
「分かっています」
「よろしい。では、こちらから案を出します」
面談が終わったあと、恒一は廊下の窓際に立った。
ビル群。
曇り空。
遠くを走る車。
世界は普通だ。
いつも通りだ。
なのに、自分の足元だけが少しずつずれていく。
「……本当に辞める流れになってきたな」
『はい』
ルイゼの返答は短い。
『怖いですか』
「怖い」
『でも、やめませんね』
「……たぶんな」
口にした瞬間、腹が決まる。
怖くてもやる。
それだけだ。
『では、一つ提案があります』
「何だ」
『退職と同時に、小規模な受託口を作りましょう』
「受託口?」
『窓口です。個人でもいい。簡易な屋号でもいい』
「……」
『仕事を辞めるのではなく、“次の仕事へ移る”形に見える方が、あなたの精神には良い』
「なんで分かる」
『あなたは“辞める”より“移る”の方が耐えられる人です』
「……」
『期待を裏切る感覚を少し減らせる』
正確だった。
腹が立つくらいに。
「……屋号、ね」
『考えておいてください』
「センスないんだよな、俺」
『そこは期待していません』
「お前ほんとさぁ……」
でも、その提案は良かった。
辞める、だけでは空白ができる。
空白は怖い。
だが、移る、なら少し違う。
その違いは大きい。




